Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

シーボルト事件(3)

笑った。
船の座礁、シーボルト事件と全然関係ないやん。

しかも「検証シーボルト事件」(梶輝行)によると、当時のメイラン商館長の日記からは積荷を検査した形跡も見当たらないそうで(記述がない)。
ちょっと。

では何故こんな話が通説になったのか。
論拠はあるらしい。
それが熊本藩の国学者中島広足(橿園)の『樺島浪風記』で、文政11年9月の台風の2日後に長崎を訪れた際の記録があるとのこと。

「検証シーボルト事件」によると、中島は市中の惨状を克明に綴っている。
ここで紹介されている積荷臨検に関する記述は以下。原文ママです。


こたびの大風は、まさしく神風なり…にあひて、
船をふきあげられしかば、
やがてこなたの司人たちゆき見て、
つみ入れたる物どもとりおろし、
とかくせらるゝついでに、さるものどもみなあらはれ出て、…
天保四年正月十五日、橿園あるじ長崎のたびやどりにて、ふたゝ此よしをしるしぬ


は?と思う所ですね。そうですね。
文政11(1828)年やっちゅーてんのに、天保4(1833)年とは何事か。
これ、文政11年台風後の訪問時の記述ではなく、巻末に書かれた天保4年長崎訪問時の伝聞の追記だそうです。

え、まさかのこれが根拠?(真顔)
でも積荷臨検するって言っても


文政11年
9月17日・18日
 暴風雨によりハウトマン号座礁。当時の積荷は銅500ピコルのみ(バラストとして)。
 積込み予定の荷物はまだ出島の倉庫に
 これより以前、既に江戸より高橋とシーボルトの間に不審の筋有りとの知らせが長崎奉行に達する


いや、あの、銅しかない…(笑)


「シーボルト事件」は、日本近世史上あまりにも著名な事件の一つである。
確かに、事件後間もない時期の長崎には、
中島が追記したような風聞も巷には広まっていたことは事実として読み取れるが、

それが後世において実証的な調査研究を経ないまま、
今日まで歴史的な事実として認識されてきたことに、
歴史学研究の陥穽が潜んでいる。 
 
(「検証シーボルト事件」/梶輝行)


当たり前になり過ぎて改めて見直されない事柄、他にも沢山あると思います。
というか、この通説の根拠になっていたのは本当に中島広足の上記引用部分だけなのかと。
当たり前のように言われてきた話の結末がこれって、結構びっくりするんだけど。


事件発覚の抑々は、シーボルトが高橋景保経由で間宮林蔵に小包を送ったからだろと思うのですが(人選の問題。笑)、確かに間宮がそれをお上に届け出なければ、ここまでの大事件になったかなあ…
発覚しなかったかどうかは別として、難しい所だ…
まあ「間宮のせいで」という話ではなくて、間宮は自分の職分に忠実だっただけだと私は思うのですけどね。

当時、高橋と間宮の不仲は有名だったようです。
メイラン商館長も
「シーボルトと交流のある高橋に恨みを抱き、間宮がお上に小包を提出した」
という旨を日記に記している程。
間宮周囲の蘭学関係者などもそう見る向きが強かったようで、
「間宮は上司を売った」
と言われ、間宮が家に来ると書類をさっと隠したり…
怖いよね。自分も密告されるのではないかって思うし。
北方探検で名声のある人だったのに、人が離れて行ってしまった。
色んな人にとって不幸な事件だったと思う。

国外持ち出しが禁止されている品があるとはいえ、実際には結構海外流出はあったようです。シーボルト事件に限らず。
高橋への厳罰は、渡したものもさることながら、その立場でなければ入手し得ない情報を責任者が漏洩したという点が、幕府の逆鱗に触れたのではないかと想像。
見せしめ的な側面もあったのじゃないかなあ。


『ケンペルとシーボルト』(松井洋子/山川出版/2010)で思わず笑ってしまったのが、シーボルトもね、多少性格に難あり、なんですよ。
確かに日本人相手にやっていることを見ても、人の足元を見てあくどいなと思う所が結構ある。

日本滞在時のシーボルトは凄く若い。
事件時で32歳。
28歳で鳴滝塾を立ち上げ、日本の優秀な医者・蘭学者からは先生と慕われ。
江戸参府の時もかなり自由な旅行をしていますし、江戸でも普通なら面会できないようなレベルの人から先生と呼ばれ。

出島での立場はあくまでも医者なんですよね。
そらー他は面白くない。
特に商館長は面白くない。
江戸参府終了後には修復不可能な程商館長とシーボルトの関係は悪化しており、バタビアにあったオランダ総督府が心配する程のものだったようです。
参府後、商館長がスチューレルからメイランに替わりますが、そうした内部不和を解決する為だったそうで。


シーボルトは著者のなかで、ステュルレルの非協力や妨害に言及しているが、
参府旅行は本来オランダ商館を代表する商館長の将軍への挨拶が目的である。

すべてを自分中心に考える秀才で傲慢な若い医官が、
あらゆる点で商館長の感情を逆なでしたことは、想像にかたくない。

日本人のあいだでのシーボルトの高い人気もそれに拍車をかけたであろう。
そしてシーボルトは自分の側にも非があるとはまったく思っていなかったようすである。
(『ケンペルとシーボルト』松井洋子/山川出版/2010)


そらムカつくやろ。笑(※太字はヒジハラ)


先日紹介した年表に、シーボルトに地図を返すよう説得しろ的な話が出ていました。
シーボルトは事件発覚後約1年程出島に拘留、長崎奉行所による尋問と家宅捜査を受けています。
返せと説得された翌日に蝦夷地の地図は返しているが、そのほかは中々返さない。
手元に引きとめている間に模写して、海外へ送ってしまった、とされる。

いや…でもさ…
家宅捜索されてんのやろ…?
説得の際も返さなければ押収しますって言われてるし。
なんというか、本当に話が散っているというか。
シーボルト事件って、それ変じゃない?と思う点が凄く多い。
研究は進んでいるのだろうけど、一般書までは中々その情報が下りてきていない感じがする。

昔の通説や間違っていること、新しく分かったことが混じりあってしまって、何が史実で何がそうでないかがよく分からない。

で、つい最近この地図についての話が出てきた。


シーボルト事件で幕府没収、地図の写し? 独の子孫宅に(日経新聞・2016/7/7)

・シーボルト事件で幕府に没収された地図の写しとみられる地図がドイツの子孫宅で見つかる
・シーボルトは事件発覚前に地図を描き写していたと推測され、発見されたのはそれを基に作成された地図
・縮尺やサイズ、表記などから、「カナ書き伊能特別小図」(3図構成)の「西日本」が基になっていると断定


事件発覚前にって、また話変わってくるw

この地図、現在国立歴史民俗博物館で公開中(~9/4まで)。
9月13日からは東京国立博物館で、来年春に長崎で公開。


日程未定ながら大阪にも来るみたいなので楽しみに待ってる!
多分来年の秋冬になるだろうけど(笑)

シーボルト事件(2)

(タイトル変えた^^;)

*シーボルト事件

文政11(1828)年、5年程日本に滞在していたシーボルト(出島、オランダ商館の医師)が帰国する際、その所持品の中に国外持出禁止品があることが判明。
これに関係したオランダ通詞を初めとする日本人多数が処罰され、シーボルト自身は国外追放の上再渡航禁止となった。

******

シーボルト事件で処罰された一番の大物が高橋景保で、処罰の理由は国外持出禁止の品を渡していたため(そのものではなく縮図を写したものだったそうです)。

基本的に東インド会社の社員は出島からは出られない。
しかし、将軍への挨拶の為、当時は4年に1度オランダ商館長が江戸まで行くことになっていた(江戸参府)。
文政9(1826)年にカピタン(商館長)スチューレルが参府していますが、シーボルトはそれに随行しています。
日本人を連れてあちらこちらを調査しながら付いて行った。

シーボルトはこの2年前に出島近郊に鳴滝塾という診療所・塾を開いていました。
各地から鳴滝塾で学んだ門人たちがシーボルトを訪ねてくる。
また江戸でも島津重豪(斉彬の曽祖父)をはじめ、最上徳内など当時最高峰に位置する知識階級の人々とも面会しています。
その中のひとりが高橋景保であり、間宮林蔵でした。

このシーボルトとの交流の中で高橋はクルーゼンシュテルン『世界周航記』と交換する形で日本地図を渡してしまいます。
それが幕府に露見し、結果として死罪被申付ことになった。


なぜシーボルトの地図所持が露見したのか。

文政11年9月、長崎には超大型の台風が上陸し出島は壊滅。 
出島だけでなく長崎でも家屋は千数百戸倒壊、数百人が命を落とすという大被害が出ています。
当時オランダのハウトマン号という船が出島に繋留されていたのですが、この暴風雨に耐えられず対岸に打ち上げられました。

長崎に外国船が入港する際、積荷の検査が行われます。
これをクリアしてからでないと入港が出来ませんでした。
ハウトマン号も再入港ということで検査が行われたのですが、そうしたら地図や葵の紋付帷子など、国外持ち出し禁止の品が出てくる出てくる…… 

…というのがシーボルト事件の切欠になったというもので、これが長い間の通説でした。
百科事典などでも同様の説明が。笑
私も長いことそうだったと信じていた!
ね!ジゴロウさん!(巻き添え)


で、何年か前にこれが真っ赤な嘘だと知りまして(笑)

これに関して梶輝行氏が通説を覆す発表されているのですが、雑誌『鳴滝』が手に入らん。笑
わざわざ取り寄せる程の興味も…と思っていた所、『歴史読本』(2010.11)に同氏の「検証シーボルト事件」が掲載されていた。
そしてつい最近『シーボルト年表』という本を見る機会もあったのですが、確かにおかしい。


実はこの台風云々の前段階として、こういう話がある。

江戸から出島に帰った後もシーボルトと高橋は文通しており、シーボルトは高橋を介して間宮林蔵に
「蝦夷地の植物標本を譲って欲しい」
という旨の書簡と更紗一反を送っていた。

間宮は外国人とのこうした私的交流は国法に触れるとして、シーボルトからの小包を開封せずに勘定奉行村垣淡路守に提出しています。
小包はそのまま出島に返送された。

では仲介になった間宮の上司・高橋はどうなのかと。
外国人と私的に交流し物品の贈答をし、しかも上司にも報告していない高橋はどないやねんと思われるのは自明の理。
ここから高橋とその周辺への内偵が始まった。

…というもの。

内偵が始まった中でのハウトマン号事件なのかと思いきや。


文政11年(年表は同上書を参考にしました)
5月11日
 高橋景保宅にシーボルト書簡到着、高橋は間宮に同封されていた小包を届ける
 間宮、小包を勘定奉行に提出、幕府が高橋の周辺を探索し始める

9月17日・18日
 暴風雨によりハウトマン号座礁。当時の積荷は銅500ピコルのみ(バラストとして)
 積込み予定の荷物はまだ出島の倉庫に
 これより以前、既に江戸より高橋とシーボルトの間に不審の筋有りとの知らせが長崎奉行に達する

11月16日 高橋捕縛、家宅捜査
11月17日 高橋尋問
 町奉行はシーボルトに渡った日本地図を取戻す為景保に大通詞末永甚左衛門、小通詞助吉雄忠次郎宛の書簡を送らせる
11月19日 高橋宅捜査。クルーゼンシュテルン『世界周航記』4冊他押収


・当時のハウトマン号の積荷は銅500ピコルのみ
・町奉行、シーボルトに渡った日本地図を取戻す為書簡を書かせる

あれ?笑
…話が大分違うんだけど…
シーボルト事件と台風で座礁したハウトマン号は全然関係ないよね。

シーボルト事件

こちらの続き。(続いてたんか

高橋至時(よしとき)は江戸で病死しますが、その原因が先日書いた「ラランデ暦書管見」。
この翻訳は至時の嫡男高橋景保と間重富に引き継がれます。

高橋景保も今まで何度も出ております。
父が亡くなった後、二十歳位で跡目相続、最終的には書物奉行天文方。
『幕府天文方書物奉行 高橋景保一件』という書籍(小説)があるのだけれど、書物”奉行”の方が天文”方”よりも役職は上なので天文方が先に来るのはおかしいですねそうですね。チェックしないのか。

高橋は書物奉行と天文方を兼任していました。
書物奉行は将軍の図書館(御文庫・いわゆる紅葉山文庫です)の管理責任者になります。
ちなみに先日名前を出した近藤重蔵は大坂に来る前書物奉行を勤めていた。

高橋は御禁制の品である伊能図をシーボルトに渡していた廉で検挙され、伝馬町に投獄されそこで病死している。
地図が禁制?と思われるかもしれませんが、軍事上国防上の問題からです。
御文庫にある禁制品をよりにもよってその管理責任者がよりにもよって外国人に渡していたという事実は、幕府にとってはかなりショックであったと思われます。
亡くなった後の処分が滅茶苦茶厳しい。

重罪犯を裁く際、本人が亡くなっていたとしても、判決を下した後にその処分は実行されます。
なんのこっちゃという感じですが、判決が出るまでは遺体は保存、切腹なら遺体を引き出して切腹させ、斬罪なら遺体を引き出して斬罪に処す。

大塩平八郎も似たような感じです。
乱の後、大坂の商家に潜伏していたのが露見した大塩父子は自刃、その場に火を放った為焼け焦げた遺体が現場から引き揚げられている。
で、判決後、塩漬けにされていた真っ黒焦げの遺体は市中引き回しの上飛田刑場で磔にされています。
人相風体が分からない遺体が磔にされるという、本当に異様な光景であったようです。
だから死後何年経っても大塩さんは生きていると大坂では言われていたのですね。


大塩平八郎父子墓所 大塩父子墓所(成正寺)@大阪


高橋景保は斬首を申し渡されております。
奉行まで務めた武士に斬首と言うのはよっぽどで、普通は切腹やで…
それだけ幕府の怒りとショックが大きかったという事か。

で、今回書きたいのは高橋の斬罪の話ではなく、その原因になったシーボルト事件の話。

(…という所で今日の話が終わる。笑)

大阪歴史博物館(2)

大阪歴史博物館のつづき。

この博物館は、先ず10階まで上がって降りて行く形のもの。
古代(10)→中近世(9)→近現代(7)
こんな感じ。

まあ…江戸東京博物館程の規模でもないし、正直あそこまでのときめきも無いけど(笑)
結構面白い博物館だと思う。


大阪歴史博物館


近現代のコーナーは大大坂ということで、昭和初期の心斎橋や道頓堀辺りの様子が再現されている。
レトロで賑やかな街だったんだなと思いますわ。


大阪歴史博物館


上のは道頓堀5座のひとつ、角座。
掲げられていた演目に皇紀2600年とあったので昭和15年のものかと。
ちなみに道頓堀5座のひとつ、弁天座は広瀬武夫の友人尼野源二郎(イケメン)が経営しておりました。
大阪ではホテル業で有名な人物であったそうです。

近代関連は後は戦時中の資料ですね。
防空頭巾だとか空襲に遭った範囲だとか。後は戦後の復興関係。

今回特に見る積りもなかったのですが、8階で行われていた特集展示「蔵出し名品展」が面白かったです。
館内に置いてあるパンフレット見て気になったんさ。


大阪歴史博物館 


こちらの博物館は所蔵物が約10万点。
一般人的にはほぼ見ることができない資料ばかり。
その中から普段は展示する機会のないものを選りすぐって公開。

展示されていたのは23点でしたが、そのうち8点が古文書でした。
いや、ビッグネーム揃いで吃驚したわ。


大阪歴史博物館


お分かり頂けるだろうか
あーしーかーがーたーだーふーゆー!(足利尊氏の庶子。尊氏に嫌われ尊氏弟直義の養子に)
こんなのあるんだ…。
この他に豊臣秀吉朱印状、徳川家康朱印状、伊達政宗起請文、小西行長書状、教如書状、長慶天皇綸旨といった古文書が出ていました。
現在大阪城天守閣で展示されている古文書関係に興味がある方はこちらも面白いかも。
点数は少ないけど。


毎日くそ暑いですね(言葉ー)
兵庫の昨日の最高気温は38.5℃だったそうです(@寒くて暑い豊岡)
死ぬわ。
でも家にひとりでいるとつい冷房をつけるのを躊躇ってしまう…
夜が大分涼しいのでまだ凌げる。

水1リットル、塩小さじ2分の1、砂糖大匙3、レモン汁大匙2を混ぜるだけっちゅう、アクエリアスを買う位の値段で簡単にアクエリアス(ちょい薄め)が出来ますので、よろしかったら熱中症対策にどうぞ。
コツは塩と砂糖を先ずお湯で溶かしてから水で薄めること。
ジャグで作るなら八分目位の水の上に、氷を入れたらすぐに冷たいのが飲めます。
冷たい方がおいしいよ。

大阪歴史博物館

大阪歴史博物館も行くのは非常に久しぶり。
実は15年前まではこの…


IMG_2496_Rr.jpg 


第4師団司令部が大阪歴史博物館でした!
くっそー何でその時代に行ったことないんだ私!
知ってたら行ってたわ! orz

引っ越し後の博物館はNHK大阪に隣接している結構大きな建物。
そして館内写真OKなのであーる!(一部三脚・フラッシュ禁止)


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10階、難波宮の高御座(たかみくら/玉座のこと)の周りの様子。
難波宮の大極殿が実物大で復元されている。


大坂城・難波宮 


復元されている階から見下ろす難波宮跡。
阪神高速の向こうに見えているのが大極殿跡。基壇が復元されています。


大阪歴史博物館


こういう解説?は分かり易くてありがたい。
高速道路の手前が内裏、つまり天皇のプライベート空間。
向こう側が大極殿や朝堂院といった政治の場(オフィシャル)だったのですね。


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そして高御座は絵であった…笑
飛鳥板蓋宮(あすか いたぶきのみや)で起こった乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)の後、大化の改新はこちら難波宮(難波長柄豊碕宮/なにわ ながら とよさきのみや)で行われております。


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当時の衣装を着させてくれるコーナーもあるのですが、あれは土日だけだったか?


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そして中・近世コーナー。


大阪歴史博物館 


これは江戸時代の大坂のリバーサイドの賑わいを表す立体展示。
文楽人形が展示案内をしてくれるんですが、アテレコしているのが片岡愛之助やった。笑う。
ここ大分古いよね…
私最後にここに来たの10年ぐらい前だと思うのだけど、全然変わってないし(笑)
というか多分出来た時からとちゃう?

で、目的の「間重富関係史料」は速報展示だったので、数は少なかろうと思っていたのだけれど、9点。
740点あるんだから、も、もう少しサービスして…

資料は本当に断片過ぎて何とも言えない(知識不足…
しかし驚いたのは「ラランデ暦書管見」が出ていたこと。
ぎゃー!びっくりやわ!
高橋至時が翻訳に没頭しすぎて病気になり亡くなったラランデが目の前に。
高橋至時没後は息子の景保と間重富に受け継がれていくという…
これだけでも行って良かった。(8月29日まで展示)

あと面白かったのはやっぱり大塩平八郎だったよ!(子供か
江戸時代で大坂でとなると必ず出てきますね。
その大塩ですが、近藤重蔵と知り合いやった。
そうなんだ。

近藤重蔵、江戸で書物奉行をつとめていたが左遷され大坂の弓奉行に。
展示資料とキャプションを見て驚いたのですが、


近藤にとっては閑職に追いやられたも同然で、「お預かりの弓矢を毎年三度見聞する他には勤めというべきものはない」と愚痴をこぼしたりしている。
このようななか、近藤が接触したのが、当時学者として名を上げつつあった大塩である。
近藤は二回り近く年少の大塩に自分の息子につける鑓の先生を紹介してもらうなど、何かとたよりにした。
大塩の方は亡き父と同世代の近藤を「物堅い人物」(律儀)と評し、近藤の慣れない大坂暮らしを支えた。


そうか。同時代人か(この時代に関してよく持つ感想)
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)