Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ミリメシ

久々に兵食関係の話。
森鴎外の悪口ではない。笑

図書館の新刊コーナーで秦郁彦の『旧日本陸海軍の生態学』という本を見つけたので借りてみた。
読むと言っても論文の寄せ集め集なので、好きな所だけ捲った感じ。
203高地攻め論争、閔妃殺害事件、ミッドウェー開戦や軍用動物に関する話など、日清戦争以前から大東亜戦争に渡る範囲の話が収録されているので、興味のある方は面白いかも。

私が面白そうと思ったのは「旧日本軍の兵食 - コメはパンに敗れた?」という論文に「嫌われた陸軍のパン食」という節が含まれていたからで、特に脚気論争云々からの興味ではない。
まあ、森鴎外の事績も簡潔にひどく書かれてました。笑
仕方ねえ。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141220.jpg


脚気の話は今まで何度か触れているし、サイトの方でも纏めたものを既に載せているので、そちらをどうぞ。
大体において
・陸軍vs海軍
・森鴎外vs高木兼寛
…という構図になっていく話ですが、ただここに森鴎外を当てはめるのはちょっと気の毒な気がせんでもない。

日清日露戦争時はいずれも上司がいるので、全部森が悪いという訳でもないと思うし。
私としては森も責任を免れるものではないと思うけど、有名人だから名前が挙がっているという点は少なからずあると思う。
まあそれはいいのですが、この本、ちょっと切り口が違ってて面白かったのよ~


日露戦争で陸軍は少なくとも25万人程の脚気患者を出していると考えられています。
(※実数が隠されていて正確な人数が分からない。ちなみに出征数は約100万人)
そして脚気による死者は2万5千人。

麦飯(白米と麦の混合食)に変えりゃ或る程度防げただろうに、陸軍医務局がそれを頑強に拒否した為に起きた悲劇でした。
流石に日露戦争後には改善された…
のかと思いきや、正式に麦飯が採用されたのは大正2(1913)年。

大正2年。


えー…日露戦争から10年近く経ってるんだけどー…


パンも主食として取り入れようという動きも、大正中期にあったそうです。
そうなんだ。
シベリア出兵の時に米飯だと凍ってしまうという問題が起こり、しかも当時米騒動で米価が上昇していたため、当時陸相であった田中義一がパン食を導入してみようとしたらしい。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141220_2.jpg


米飯凍るって…^^;
それ日露戦争の時も全く同じ問題起こってたよね。
森鴎外(当時第2軍の軍医部長)がどうすれば凍結しないおにぎりを作れるかって研究してたよね。
それはどうなったの。

ただ凍結だけでなく、熱帯では米飯は腐りやすいという問題もあったのでパンの代用を考えたそうです。
パン食に慣れさせておこう、というもの。

当時、流石にパンも普及してきていて、米や麦にはかなわないものの嫌悪する人はそんなにはいなかった様子。
そういうこともあって、陸軍省から全師団に対し、毎週少なくとも1食はパンにして、という指令が出ていたそうです。
その流れを受けてシベリア出兵の際は毎日1食は必ずパン食を励行することになった。
野戦パン焼車も配備されていたそうです。

ただ現地では米飯はやっぱり凍結して主食をパンに頼らざるを得ず、従軍兵士には
「ロシアパンのまずいこと天下一品」
「やっぱり日本人は米でなきゃ」
とか言われる始末。笑
めっちゃ不評だった。
日露戦争後に大連で子供時代を過ごした人の回顧だと、
「焼きたてのロシアパンは美味しくて子供心に売りに来るのが楽しみ」
って話だったのに(笑)
時代と年代によるのか。

パンを嫌悪する人はそんなにはいなかったとはいうものの、陸軍で兵士に主食として出すものとしては馴染まなかったのだと思う。
結局パンを主食にという動きは定着せず、昭和8年には兵士が望めばパン0で米麦のみ、その麦も米に変えることができるようになっていたようで、結局元に戻ってしまった。


聞いたことのない言葉がちらほらある。
野戦パン焼車?^^;もう少し名前…


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12200209.jpg


防睡菓子とか航空チョコとか、活性鉄飴とか(笑)
航空元気酒…(いつもながらのこのネーミングセンス。笑)
防睡菓子ってフリスクみたいなもん?
というか、右上の写真に書いてあるサプリメントにはちょっと驚いた。


同じ論文でへーと思ったのが、明治23年に海軍で食事への不満からサボタージュが起こったという話が載っていたこと。


明治二十三年春、軍艦「海門」で下士官兵の集団サボタージュが起きた。
理由を聞いてみると
「ワシらは白い米の飯が食えるという理由で海軍に入りました。ところが、フネでは飯の代わりに、出るのはオヤツばかり」
の不満からと分かる。
たしかにオヤツ(乾パン)に缶詰か塩漬の肉、乾物野菜の組み合わせでは不満が高じたのもむりはない。
分隊長の坂本一大尉(のち中将)は艦長に
「ひとまず米を食わせて落ち着かせましょう」
と進言したが、規則を重んじる艦長は煮えきらない。
そこで大尉は独断で取り寄せた白米を食わせて「鎮圧」した代りに本人は転勤させられたという。



出典が『海軍逸話集』だったので確認した。
神戸沖での話で、坂本一(7期、同期に加藤友三郎、島村速雄ら)は当時海門の2番分隊長。
兵員の不満の押さえ方がまずかったようで、言う事を聞かない。
坂本は抜刀して2番分隊の名簿を読み上げ上甲板に整列を命じ、

「言う事を聞かなかったら斬り殺す」


……^^; (一件落着したそうです…
ただ上にあるように独断で米を取り寄せたという話はねーなー。
全体的にちょっと話違うし、他に種本ありそう。どこからの話だろう。

てゆうかね、この時の様子、広瀬武夫が見てたんじゃないかと思う。
広瀬は明治23(1890)年3月中旬から海門乗組みの少尉候補生なんですよ。
で、海門で少尉になっている。
秦郁彦は23年春と書いていて、坂本一は23年とあるだけだけど。
アジ歴見てたのだけど、引っかかる書類がないのでちょっとよく分からん。

今年の初めに書いた三笠のストライキにしてもそうだけど、ちょこちょここういう事あったのね。
時期的には同じで、22年、金剛でもちょっとしたことで下士官と水兵がストライキを起こしてる。
これ多分15期の遠洋航海の直前だと思う。
岡田啓介が回顧を残しています。
注目されないから知らないだけで、明治30年ぐらいまでは結構こんなこともあったのかなと思います。


(しかしこの本を読んでいて一番驚いたのは昭和20年3月に至っても日本に騎兵旅団が存在したことだった…)


**


大体想像の範囲だったけど忙しい。
忙しいというよりしんどいorz
まともな更新はあと2回と書いたけれど、これでおしまいだわ~
今日は今から奈良ですよ。休みねえ。 
関連記事

真田山陸軍墓地(5)@大阪

*****

この史跡は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

*****


真田山陸軍墓地 in 大阪市天王寺区。
第5回。こんなに引っ張るとは思わなかった。

被葬者の名前を見て大変驚いたお墓。


真田山陸軍墓地


陸軍軍医監従四位勲三等堀内利国墓

いや、本当にびっくりしました…初めて訪れた時は暫し佇んだ。
ただ思うに、堀内利国って言って分かります? 分かる人、多分殆どいないと思う…^^;


堀内利国。
明治期の脚気論争で名前が出てくる方です。
この陸海軍の脚気論争に関しては随分前にサイトにまとめたものがありますので、詳細はそちらをご覧くださいませ~
麦喰!④陸軍平時編>9)

大雑把に書きますと、近代日本の2大国民病であったのが肺結核と脚気になります。
脚気は一種の栄養失調でして、日本の場合、主食である白米が主な原因になっていました。
食べるのが白米でもバランス良く副食が摂れていたら問題なかったんですけどね、過度に白米に偏り過ぎてたんですね。

患者は都会在住若年層男子に多く、特に多かったのが軍隊です。
軍隊はね、徴兵する側からすると基本的に米食わしときゃいいっていう食事の内容軽視の考えがあるのと、徴兵される側からすると軍隊に行けば白米が食べられるという白米信仰があってだな。
これを切り替えるのが中々難しかった。


とはいえ信じられない数の脚気患者が出てまして、そんなことも言っておられず。
海軍では明治10年代中頃、平時の入院患者の4分の3が脚気だったり、軍艦の半分以上とか、3分の1とかが脚気に倒れる。
軍艦乗組みの水兵などが全員脚気に倒れて、艦長までもが罐炊きをしたっていう記録もある。

海軍では高木兼寛(宮崎出身)があれこれ研究・実地実験した末に麦飯(白米と麦の混合食)に辿り着き、明治10年代後半にはほぼ脚気が撲滅されました。
対する陸軍では名前がよく挙げられるのが森鴎外でして、まあ実際には責任の多くを森の上司であった石黒忠悳(ただのり)が負う訳ですが、日清日露戦争で信じられないほどの死者と患者を出すことになった。
ちなみに陸軍的には脚気は伝染病でした(なので食物の改善では防止できないという意見)。


ただ陸軍でも脚気を撲滅すべく奔走した軍医がおりまして、それが堀内利国になります。
本当にね、この方のお陰で一時は陸軍も脚気撲滅状態になったのよ…

堀内は軍医生活を殆ど大阪で過ごしていまして、言ってみれば大阪地生えです。
大阪の人じゃなくて、旧田辺藩士(舞鶴)。
ということは伊東雋吉と同じですな。見れば生年が4つしか違わない…
明治10年代、大阪鎮台の脚気患者数が他と比べてダントツに多かったそうで、その対策に乗り出したのが堀内でした。
当時大阪鎮台(後第4師団)の軍医のトップだった。


調査をしている内にね、堀内はあることに気が付きまして。
それは監獄からは脚気患者が出ないという事実。
明治10年代前半の囚人に与えていたのは白米だったそうです。
しかし白米を食べられない一般庶民もいるというのにどういうこと、と当然ながらなりまして、ある時期に麦飯(白米と麦の混合食)に切り替わりました。
そうしたら脚気患者いなくなった。

これに気が付いて、調査した上でじゃあ同じことをしてみようと大阪鎮台で実験した所、実際に減ったんですね。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


減ったっちゅうか、なくなったっちゅうか。
そうしたらこの結果を見た他の鎮台や部隊が大阪鎮台に倣いまして、明治22年には陸軍の部隊の麦飯普及率100%になった。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519_2.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


その結果がこれ。
問題にならない位の患者数になっていた。


明治20(1887)年、明治天皇が来阪された際、大阪鎮台司令官の高島鞆之助が脚気予防のために麦飯を給与、それが効果を上げている事を上奏しました。
実は明治天皇も脚気に苦しんだ経験をお持ちで、また脚気の蔓延に心を痛めておられていました。
そうしたことがあり高島の報告には非常に満足しより詳細を知りたいということで、堀内が更に報告をした。

そういう経緯もあり、高島が麦飯を兵食に採用すべしと堀内を伴って将官会議で建議したものの、肝心の中央(陸軍医務局)には梨の礫でした。
要するに握り潰された。

うん。
地方の部隊が各々の判断で各自麦飯を給与しているだけで、その元締めは麦飯が予防になるということは認めてないんですよ。
だって伝染病なんだもん…
しかしながら、それが後々の大惨事に繋がった。
ここでゴーサインが出ていたら、日露戦争で12個師団分の脚気患者が出るような事態にはならなかっただろう。
陸軍にとっては大きなターニングポイントだったと思うんだけどな…

現地部隊の軍医さんたちは麦飯で脚気患者が減ることを実地で見てきていますから、多くの犠牲者が出ても麦飯を採用しない医務局(石黒忠悳や森鴎外)の頑迷固陋が理解できない。
意見しても聞き容れられず、反駁しても梨の礫。
左遷された人もいますし、辞表を叩きつけた人もいます。


辞表を叩きつけたのは緒方惟準で、以前このブログでも名前が出てきました。
緒方洪庵の嫡子で、襲撃された大村益次郎の治療にあたった人でもある。
つい最近知ったのですが、堀内の奥さんが緒方洪庵の娘で(後離婚)、緒方惟準と堀内は義兄弟やった。
堀内はボードウィンと緒方惟準に師事していたとのことで、大村の治療にも参加していました。


堀内が亡くなったのは明治28年。52歳、肺結核でした。
『緒方惟準伝』によると、当時医学雑誌に載った訃報には

明治十七年以来囂々たる衆議を排し断然麦飯食を主唱して、軍隊兵士の脚気予防上いみじき効を収められたるは、皆人の知るところなり。

とあります。
緒方惟準にしても、この脚気論争で麦飯採用論が排斥されたことに憤って陸軍を辞めた、ということは一般によく知られていたみたい。

石黒忠悳は緒方の同僚です。
石黒は表だって麦飯採用に反対はしなかったけれど、裏でいろいろ手を回していたようでそれに怒りのスイッチが入ったらしい。
ちなみに緒方の息子の名付け親は石黒だった。

更に書くと石黒の娘婿に小野塚喜平次がいます。
東大を明治28年に卒業した二八会のメンバーで、同期に浜口雄幸、幣原喜重郎、勝田主計、市来乙彦、矢作栄蔵らがいます。
特に浜口とは主席争いをした親友だった。
矢作栄蔵が講道館に通っていまして、広瀬武夫と仲が良く、この方を通して広瀬は小野塚と親友になった。

勝田主計は松山出身、秋山真之と仲良しでした。
この方の息子のひとりが龍夫で、原田熊雄(西園寺公望の秘書)の娘婿になっております。
著書に『重臣たちの昭和史』がある。


真田山陸軍墓地
(将官墓碑)


真田山陸軍墓地


さらっと通り過ぎてしまえばそれまでですが、墓標ひとつひとつを見ても色々な歴史が刻まれているものだと思います。
大事にしないとね…

とりあえず陸軍墓地の話はこれでおしまい。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました^^
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