Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

真田山陸軍墓地(5)@大阪

*****

この史跡は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

*****


真田山陸軍墓地 in 大阪市天王寺区。
第5回。こんなに引っ張るとは思わなかった。

被葬者の名前を見て大変驚いたお墓。


真田山陸軍墓地


陸軍軍医監従四位勲三等堀内利国墓

いや、本当にびっくりしました…初めて訪れた時は暫し佇んだ。
ただ思うに、堀内利国って言って分かります? 分かる人、多分殆どいないと思う…^^;


堀内利国。
明治期の脚気論争で名前が出てくる方です。
この陸海軍の脚気論争に関しては随分前にサイトにまとめたものがありますので、詳細はそちらをご覧くださいませ~
麦喰!④陸軍平時編>9)

大雑把に書きますと、近代日本の2大国民病であったのが肺結核と脚気になります。
脚気は一種の栄養失調でして、日本の場合、主食である白米が主な原因になっていました。
食べるのが白米でもバランス良く副食が摂れていたら問題なかったんですけどね、過度に白米に偏り過ぎてたんですね。

患者は都会在住若年層男子に多く、特に多かったのが軍隊です。
軍隊はね、徴兵する側からすると基本的に米食わしときゃいいっていう食事の内容軽視の考えがあるのと、徴兵される側からすると軍隊に行けば白米が食べられるという白米信仰があってだな。
これを切り替えるのが中々難しかった。


とはいえ信じられない数の脚気患者が出てまして、そんなことも言っておられず。
海軍では明治10年代中頃、平時の入院患者の4分の3が脚気だったり、軍艦の半分以上とか、3分の1とかが脚気に倒れる。
軍艦乗組みの水兵などが全員脚気に倒れて、艦長までもが罐炊きをしたっていう記録もある。

海軍では高木兼寛(宮崎出身)があれこれ研究・実地実験した末に麦飯(白米と麦の混合食)に辿り着き、明治10年代後半にはほぼ脚気が撲滅されました。
対する陸軍では名前がよく挙げられるのが森鴎外でして、まあ実際には責任の多くを森の上司であった石黒忠悳(ただのり)が負う訳ですが、日清日露戦争で信じられないほどの死者と患者を出すことになった。
ちなみに陸軍的には脚気は伝染病でした(なので食物の改善では防止できないという意見)。


ただ陸軍でも脚気を撲滅すべく奔走した軍医がおりまして、それが堀内利国になります。
本当にね、この方のお陰で一時は陸軍も脚気撲滅状態になったのよ…

堀内は軍医生活を殆ど大阪で過ごしていまして、言ってみれば大阪地生えです。
大阪の人じゃなくて、旧田辺藩士(舞鶴)。
ということは伊東雋吉と同じですな。見れば生年が4つしか違わない…
明治10年代、大阪鎮台の脚気患者数が他と比べてダントツに多かったそうで、その対策に乗り出したのが堀内でした。
当時大阪鎮台(後第4師団)の軍医のトップだった。


調査をしている内にね、堀内はあることに気が付きまして。
それは監獄からは脚気患者が出ないという事実。
明治10年代前半の囚人に与えていたのは白米だったそうです。
しかし白米を食べられない一般庶民もいるというのにどういうこと、と当然ながらなりまして、ある時期に麦飯(白米と麦の混合食)に切り替わりました。
そうしたら脚気患者いなくなった。

これに気が付いて、調査した上でじゃあ同じことをしてみようと大阪鎮台で実験した所、実際に減ったんですね。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


減ったっちゅうか、なくなったっちゅうか。
そうしたらこの結果を見た他の鎮台や部隊が大阪鎮台に倣いまして、明治22年には陸軍の部隊の麦飯普及率100%になった。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519_2.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


その結果がこれ。
問題にならない位の患者数になっていた。


明治20(1887)年、明治天皇が来阪された際、大阪鎮台司令官の高島鞆之助が脚気予防のために麦飯を給与、それが効果を上げている事を上奏しました。
実は明治天皇も脚気に苦しんだ経験をお持ちで、また脚気の蔓延に心を痛めておられていました。
そうしたことがあり高島の報告には非常に満足しより詳細を知りたいということで、堀内が更に報告をした。

そういう経緯もあり、高島が麦飯を兵食に採用すべしと堀内を伴って将官会議で建議したものの、肝心の中央(陸軍医務局)には梨の礫でした。
要するに握り潰された。

うん。
地方の部隊が各々の判断で各自麦飯を給与しているだけで、その元締めは麦飯が予防になるということは認めてないんですよ。
だって伝染病なんだもん…
しかしながら、それが後々の大惨事に繋がった。
ここでゴーサインが出ていたら、日露戦争で12個師団分の脚気患者が出るような事態にはならなかっただろう。
陸軍にとっては大きなターニングポイントだったと思うんだけどな…

現地部隊の軍医さんたちは麦飯で脚気患者が減ることを実地で見てきていますから、多くの犠牲者が出ても麦飯を採用しない医務局(石黒忠悳や森鴎外)の頑迷固陋が理解できない。
意見しても聞き容れられず、反駁しても梨の礫。
左遷された人もいますし、辞表を叩きつけた人もいます。


辞表を叩きつけたのは緒方惟準で、以前このブログでも名前が出てきました。
緒方洪庵の嫡子で、襲撃された大村益次郎の治療にあたった人でもある。
つい最近知ったのですが、堀内の奥さんが緒方洪庵の娘で(後離婚)、緒方惟準と堀内は義兄弟やった。
堀内はボードウィンと緒方惟準に師事していたとのことで、大村の治療にも参加していました。


堀内が亡くなったのは明治28年。52歳、肺結核でした。
『緒方惟準伝』によると、当時医学雑誌に載った訃報には

明治十七年以来囂々たる衆議を排し断然麦飯食を主唱して、軍隊兵士の脚気予防上いみじき効を収められたるは、皆人の知るところなり。

とあります。
緒方惟準にしても、この脚気論争で麦飯採用論が排斥されたことに憤って陸軍を辞めた、ということは一般によく知られていたみたい。

石黒忠悳は緒方の同僚です。
石黒は表だって麦飯採用に反対はしなかったけれど、裏でいろいろ手を回していたようでそれに怒りのスイッチが入ったらしい。
ちなみに緒方の息子の名付け親は石黒だった。

更に書くと石黒の娘婿に小野塚喜平次がいます。
東大を明治28年に卒業した二八会のメンバーで、同期に浜口雄幸、幣原喜重郎、勝田主計、市来乙彦、矢作栄蔵らがいます。
特に浜口とは主席争いをした親友だった。
矢作栄蔵が講道館に通っていまして、広瀬武夫と仲が良く、この方を通して広瀬は小野塚と親友になった。

勝田主計は松山出身、秋山真之と仲良しでした。
この方の息子のひとりが龍夫で、原田熊雄(西園寺公望の秘書)の娘婿になっております。
著書に『重臣たちの昭和史』がある。


真田山陸軍墓地
(将官墓碑)


真田山陸軍墓地


さらっと通り過ぎてしまえばそれまでですが、墓標ひとつひとつを見ても色々な歴史が刻まれているものだと思います。
大事にしないとね…

とりあえず陸軍墓地の話はこれでおしまい。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました^^
関連記事

真田山陸軍墓地(4)@大阪

*****

この史跡は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

*****


真田山陸軍墓地 in 大阪市天王寺区。続き。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014515_2.jpg

①日清戦争・台湾領有戦争 軍夫・職人などの墓  ②西南戦争 戦没者・病没者の墓
⑤日清戦争・台湾領有戦争 戦病没した兵士の墓 ⑥日露戦争 戦病没した兵士の墓 
⑦将校 墓


個人墓碑で一番数が多いのは日清戦争時代のものだそうです。
日露戦争の途中からは合葬墓になった。
というのも、日露戦争は以前の戦争に比して死者が多く、個人墓を作る物理的余裕がなくなるだろうと思われた為。
要するに死者が多すぎて個人墓を作る場所がなくなるよねっていう。
これは大阪だけでなく、全国の陸軍墓地の問題であったようです。
日露戦争以後は基本的に戦争・事変ごとに合葬墓を作ることが原則になった。(平時の死者は個人墓)


2014_05020763_R.jpg
⑥ブロックの写真


墓石の大きさ・形にも規定がありまして、明治7年以降の墓碑は基本的にはてっぺんが角錐の形をしています。
しかしながら、写真前列左の墓碑は頭がかまぼこ型で、これはそれ以前のもの。
古い時代のものは作り直されていたりで、一概には言えないみたいですが、大体そんな感じ。


2014_05020766_R.jpg


こちらはオレンジで囲った所、将校の墓になります。


2014_05020771_R.jpg


この墓地で一番大きいのが今井兼利のお墓。4m。

今井兼利は薩摩出身、天保6(1835)年の生まれというので、井上馨、坂本龍馬、土方歳三らと同い年になります。
維新後陸軍に入り、西南戦争に参加して勲功を認められている。
大阪鎮台は師団制に切り替わった際に第4師団になりますが(明治21年)、その際の職員録を見ていたら、歩兵第7旅団の旅団長でした。
少将で、この墓地では一番ハイランクの被葬者になります。


海軍には水交社という現役士官の親睦団体がありましたが、陸軍にも同様の組織、偕行社がありました。
親睦団体というか、軍事研究なんかもしているので研究団体でもいいのか。互助組織でもある。
この陸軍墓地に関する本を見ている際に知ったのですが、大阪の偕行社は小学校を作っていたそうです。
私これにはびっくりしまして。
そうなんだ。

大阪偕行社附属小学校と言いまして、設立は明治21年、年月日見たら師団ができる直前の話だった。
提唱者は高島鞆之助、薩摩出身の陸軍軍人で、当時の大阪鎮台司令官になります。


高島鞆之助


ちなみにこちらの小学校、現在も追手門学院小学校と名を変えて残っています。
そうだったんだ。

これにもびっくり。大阪では有名な小学校ですな。お金持ち学校…
大学ありきの小学校かと思ってたんだけど違ってたんですね。
同小学校の公式HPに詳しい沿革が出ていました。
それによると、


・高島鞆之助中将、今井兼利少将(大阪偕行社幹事長)等の主唱で、大阪偕行社社員と在阪財界人の支援を得て設立
・西日本最古の私立小学校
・設立当時は軍官高吏の子弟や教育に熱心な有識の家庭の子弟の男子のみ
・「国家有為の人材 育成」を目指し、次世代の国家のリーダー育成が目的だった


要するに陸海軍人の養成を目的にした学校で、昔から名門だったようです。
この偕行社附属小学校、0からのスタートではなく明治9年に当時の大阪鎮台司令官であった三好重臣らが前身になる学舎を作っていたみたい。
追手門学院小学校、伝統のある学校だとは聞いたことがありましたが、そんな昔からある学校だとは思わなかった。笑

小学校創立のひとりである今井少将は明治23(1890)年に亡くなっているため、近代日本が経験した戦争としては西南戦争にしか参加してません。
その西南戦争では田原坂・木葉方面の激戦地区で戦っていたそうです。
8月に宮崎で負傷し後送、療養中に戦争が終わった。
『陸軍墓地がかたる日本の戦争』に載っている経歴を見ると、工兵関係の軍人だった模様。
天保6年生まれで明治23年没だと55歳。
現役のベテランですが、出張時にコレラに罹患しあっけなく亡くなった。
そしてこちらに埋葬されている。

で、この方の次男が今井兼昌といい、海兵7期、海軍さんでした。
加藤友三郎、島村速雄のクラス。
藤井較一、野元綱明(広瀬武夫のロシアでの上司だった)、伊地知彦次郎(日露wの際の三笠艦長)も同期です。
びっくりねー。
日露戦争の際、水雷艇隊の総指揮官として旅順封鎖に参加したってコトバンク(おい…)にはあるんだけど。
そ、そうなの?
持ってる資料幾らか開いてみたけど、そういう記述見当たらない。

今井少将についてはこの真田山陸軍墓地で初めて名前を知った程度で(西南戦争関係で見てる可能性あるけど覚えてない)、墓石の大きさに驚いたという感じだったのですが、実は1基だけ被葬者の名前を見て大変驚いたお墓があります。
先に書いておくと有名人ではない。

続く!
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)