Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

追憶(3) 秋山真之+α

*****

この話は4回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。

*****


続き。
秋山真之の話は今回で終わり。


5)小柳冨次(42期。同期に有馬馨、加来止男)

○明治44年か明治45(大正元)年

第一艦隊(長官出羽大将)が江田島湾に入港して、秋山参謀長の講和があった。
中学時代から窃かに尊敬していた秋山さんの風貌に接しただけでも非常な感激であったが、
お得意の川中島合戦における甲越両軍の進退掛け引きを興味深く話された後、次の様に訓話された。

「自分は若い時分から軍人として安心立命を得るため、いろいろ宗教や哲学などに没頭したこともあるが、
帰するところは勅諭の五箇条ということになった。
それで余計なことに多大の精力を消耗したことは無駄であったと後悔した。
あの精力を軍務一途に専用したら、専ら大いに啓発するところがあったであろう。
今の私は現在集中主義である。 過去に拘泥せず将来の取り越し苦労をせず、全力を当面する現在に集中する。
 人の一生は現在の集積である。 斯くして一生を終われば、最もよくその一生を充実したことになる」と。


う~ん、これね…
読んだ時に例の宗教関連の話と引っかかるのかと思ったのだけれど。
読むと宗教とだけ言い切るのはちょっと違う気がする。
心の安寧というよりは、どちらかというと軍人の本分、軍人としての心持ちという話かなと。
とはいえ、そういう方面に若い頃から関心はあったんだね。

ちなみに文中の勅諭の五箇条は軍人勅諭の五箇条のことです。

一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすべし


で、小柳の話で面白いなと思ったのは、


この訓話は深く心の琴線に触れるものがあったが、五箇条の聖訓がすべてだとの信念は、
秋山さんがいろいろなものに頭を突っ込んで、さんざん苦労した揚句到達した結論で、
そのような道程を経ず、只天降り式に五箇条だけが将校たるべきものの精神の根源だと押し売りされても肯首できない。
将校として日本海軍の支柱たるべきものには、もっと深いよりどころを持たねばならないと思った。



批判精神が育ってまいりました。笑
ただ小柳は海軍兵学校の詰め込み一途の勉強や上級生の鉄拳制裁等のスパルタ的な空気に非常に懐疑的・批判的であったと告白しているので、余計にそういうことを思う人だったのかもしれない。



批判精神というのではないけれど、そんなこともあったのか~という話。


●戸塚道太郎 (38期。同期に栗田健男)

○大正2(1913)年 笠置乗組み

笠置は当時第3艦隊の旗艦で、司令官は名和又八郎。
笠置の艦長は飯田久恒、副長は匝瑳胤次。

飯田の出現率高すぎる。笑。
匝瑳さんは3回目の旅順港閉塞作戦に参加しています。
読みが難しくて中々覚えられなかったわ~

匝瑳は関東の難読地名の横綱だそうです。
ちなみに関西の横綱は宍粟(しそう)。県民でも覚えるの苦労した(笑)


前の副長は大酒呑みで、酔っぱらってはよく兵隊をつかまえて殴るので、日頃ガンルームでは反感を持っていた。
ガンルームに対しても中々副長の風当たりが強かった。
某夜、若い士官がガンルームで酒を飲んでメートルを揚げているところへ副長が入って着た。
口論が段々激しくなって、ガンルーム士官がみなで副長を殴った。
酒の上とは云い、只事ではすむまいと覚悟していたところへ、其の当夜は北京に主張中の飯田艦長が帰って来た。

早速二、三の次室士官が艦長室に呼ばれて
「何か副長に悪いところがあるか」
問われると
「いや副長は立派な方です。今回のことは全く私共が悪かったのです。まことに申し訳ありません。如何か御処分を願います」
と素直に皆が謝罪した。

その後、この副長は間もなく転任になったそうだ。
たとえ私怨はあっても、公的には決して上の人の悪口を言わぬと云う当時のガンルームの気分が伺われる。
それが買われたか誰も処分は受けなかった。



どっちもどっちっちゅうか。なんちゅうか。
下世話ながら前の副長って誰なのかと思って簡単に調べてみたけど、よく分からなかった。


○大正3(1914)年 笠置乗組み

※第一次世界大戦時、青島陥落後笠置は機関候補生の練習艦に

艦長は古川鈊三郎、副長は島崎保三。
艦長は知らん…(ごめん)
島崎はこの方も旅順港閉塞の勇士です。
日露戦争開戦前から閉塞の計画を立てていた、有馬良橘を中心とした成仁録のメンバーのひとり。
第1次の閉塞作戦に参加。


島崎副長は旅順閉塞の勇士でもあり中々威張っていた。
時々ガンルーム士官を集めて元気がないなどと訓示をしたこともある。
次室士官は少なからずレジスタンスを感じていた。

私は副長付で甲板士官をしていたが、鎮海在泊中に笠置の陸上運動会を催したことがあった。
ガンルームは申し合わせて艦内に居残り、私の外は誰も陸上に行かなかった。

副長はかんかんに怒って帰艦すると、間もなく次室士官を後甲板に集めて
「貴様達ストライキするとは何事だ」
と難詰した。

ケプガンは平気な顔をして、
「前の副長は何時でも私を呼んで通達されましたが、副長から通知がありませんでしたから、
ガンルームは誰も出ませんでした」
と弁明すると

「自分が巡検を終わって、明日の行事を言えば艦内通達だ。今後と雖も一々通知はしない。そう思え」
と厳達された。
中々副長も強気で弱みを見せない。

その後、島崎副長は朝日の副長に栄転されたが、横須賀に入港すると、ガンルーム宛に次のような一通の手紙が副長から来た。

「笠置在艦中、小官は粗笨の質を以って、艦内行政を強施せる嫌あり。これに対する諸官の犯行は、
小官に多大の教訓を与たり、鳴謝に堪えず。就いては一席設けたいから某料亭まで来てくれ」

と痛快な手紙が来た。

我々次室士官は、前副長の好意に甘えて多数参会し、飲むほどに酔うほどに大いに蒸汽があがった処で、
副長は平手で暫くケプガンの頭をたたいて
「貴様はおれに一発喰わしたな」
と笑っていた。
誠に面白い一幕であった。
昔の士官はこのように、まことに淡々たるところがあった。



笠置のガンルームは副長にとって鬼門だったんじゃないのか。
(笑) 

 ※「続き」に拍手のお返事があります
関連記事

追憶(2) 秋山真之

*****

この話は4回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。

*****


需要があるようなので続きます。
ありがとう。
そして青いよ!引用の嵐である^^;


4)清水光美 (36期。同期に南雲忠一、沢本頼雄)

○明治41年 橋立乗組み

橋立の乗組になった。艦長は有名な秋山真之大佐。
橋立は横須賀予備艦隊(司令官野元綱明少将)の旗艦であった。

私は少尉になったばかりで航海士を勤め艦長付きとなり、私用にまで関係するようになった。
艦長は時々上陸されて二、三日帰ってこない時もあったが、艦に泊まられるときなどは艦長室に呼ばれて、
艦長と共にジュータンの上にアグラをかきながら書物の整理を手伝った。

あらゆる方面の書物が雑然と堆く積まれてあって、これを分類して目録を作ったり抜粋するのだが、
その間折りに触れていろいろなことを話された。

「兵学校の卒業者たるものは大尉一杯まで生徒の積りで連続不断に本を読み、話を聞き、勉強しなければならない。
私は尉官時代俸給は殆ど全部読書に宛て、洗濯袋を持って古本を買ってきたものだ」

とも言われた。
また連合艦隊解散の辞について、「どうしてあんな名文が出来たのですか」と無遠慮に御尋ねしたら、

「名句名文など云うものは無造作に出来るものではない。
平素から読書の間に名文句に出会ったときは、これを書き留めて整理していた。
土井晩翠のような詩人でも、昔からの名句をカードに抜粋して引き出しに分類保存してあり、
例えば月夜の景色を詠まんとすれば、その部のカードをペラペラめくっている間にヒントを得るようにしていたそうだよ」

と言われた。



野元綱明は、広瀬武夫がロシアに駐在していた際、上司であった時期があります。
ウマが合わなくてね、広瀬もいろいろ悩んでいたようです。

そして後年、米内光政の上司にもなっててだな~…
米内しゃままで苛めてたらしい。
他にもいくつか芳しからざる話を目にしてます。部下にはちょっと意地悪な人だったみたい。

洗濯袋云々については秋山の同期である堀内三郎も話を残しています。
横道に逸れてしまいますが、出典元がちょっと手に入りづらい本だと思うのでこれも引用してみる。


本人から直接聞いた話だが、彼は新聞雑誌を読んでも、また書物を読んでも、
破いても差支のないものは、これはと思ふ様な大事な処を引き裂いて、洗濯袋
…此の頃でも呉れるだらう。あの兵学校で貰ふ洗濯袋だ…の中に入れて置く、

月に二三度は雨や風で何処へも出られず、また友人も来ん、つまらぬ日があるものだ、
さう云ふ時に彼は洗濯袋を引繰り返して整理する。
その中の要らぬものは棄てる。 大切なものはスクラップブックへ貼る。

斯う云ふ風に彼は一面天才でもあつたが、一面に於てはよく知識を集めたものだ。<略>
秋山はそれを少尉の頃からやつて居た。<略>
勉強する時間がないと云ふのは嘘だ。勉強しやうと思えば何時でもできる。
秋山はやつたんだ。
兵学校を出てからもやつたんだ。 <略>

処で、このポケツトに本を入れて置いて、遊んで居る時でも、酒を飲んで居る時でも、
ひよいと出して読むと云ふことは、 秋山の兄もさうらしかつた。

私の従兄に秋山の兄、即好古将軍と親友であり、陸軍大学も同期であつた陸軍士官が居つたが、
「秋山と云ふ男は妙な奴だ。酒を飲んで居てもひよいと本を出して勉強して居る」
と云つて居た。
兄と弟と何方が真似たか知らん。
或は秋山が兄から教へられたのかも知れない。

(※土原註:秋山が亡くなった時)
私は嘸(さぞ)万巻の書が蔵せられて居ることだらうと思つて居た。
処が驚いたことに何もなかつた。
恐らく彼は読んだことは皆頭の中に入れて仕舞つたから、本を残して置く必要はなかつたのだ。
尤も珍籍と云ふ類のものはあつた。


(「秋山将軍の勉強法」 海軍中将堀内三郎談 (『海軍先輩の逸話、訓話集 其の三』/海軍省教育局/S8))


秋山兄弟は揃って大変な勉強家でした…
ってゆーか従兄って誰ー!
陸大同期?陸大1期生って10人しかいないのよ!
堀内、兵庫県出身だそうで、1期生の出身地見てみたら兵庫の人2人いた。
藤井茂太と石橋建三。
どっちかなの?やだ、ホント誰なの。気になるやんか~


○明治41年 橋立乗組み 2

 


私が飯田久恒中将(<略>)からじかに聴いた話だ。

「日露戦争が済んで連合艦隊が伊勢神宮に外線報告参拝をした後、
秋山参謀に「観艦式当日には長官の訓示が要りますね」と云ふと、
うんと軽く頷いておられたが、東京湾に回航すると上陸したきり帰って来ない。
忘れているのではないかと心配になり、四苦八苦して何とか起案してみた。

押し迫ってから漸く秋山参謀は帰艦したが、これを見せると
「アアあれか、あれなら乃公が書いておいた」
と出されたのが、あの有名な連合艦隊解散の辞であった。
私は冷汗をかいた」。


私は冷汗をかいた。

(笑)
淡々と書かれてて笑ってしまう。
いや、なんてーか飯田さんお疲れ様でした…^^;
この話もよく出てるね。
しかしふらっと出て行って帰ってこないってのが多いな(笑)


秋山さんはこの訓示は永く後世に残るものだと重視し、推敲に推敲を重ねたものと思う。
長く艦に帰らなかったのも、上京中知己の学者に図って練りに練っていたのではあるまいか。

秋山さんは不世出の天才であったと同時に非常な努力家で、
自ら習得したものはよく整理して次第に累積長養されたもので、
彼の名戦術も名文章も決して偶然の産物ではなく努力の結晶と思う。

短い期間ではあったが、私は艦長付として秋山さんに仕えたことは、
私の四十年の海軍生活中最大の教訓で今に感銘している。
私は練習艦隊司令官になってからもよく当時のことを思い出して候補生の訓示に引用した。



この清水光美元海軍中将、私は全然知らない方だったけど、小柳資料中秋山について書かれている文章では一番印象に残りました。
勉強家、努力する天才。
言っていることが堀内と同じだな、と思ったのよ。


続く。 
関連記事

石部金吉金兜

 『条約派提督 海軍大将谷口尚真―筆録『鶏肋』に見る生き方

偶然存在を知って借りた。
谷口は割と重要な人物だと思うのだけれど、いかんせんネームバリューがない…
伝記があるようなのだけれど遺族の私費出版で、ちょっと縁遠い。
ようやく手の届く伝記が出たかーと思ったのだけれど、果たして内容は訓示集でございました。ちょっと残念。

谷口尚真(なおみ)は明治3年の生まれ。
海軍兵学校の19期で、15期である広瀬武夫や財部彪らとは年が近い。ふたりは明治元年と慶応3年の生まれ。
海兵では広瀬たちが4号生徒(最終学年)の時に1号生徒として在学しているので、顔位は見知ってたのではなかろうか。
ちなみに19期には百武三郎や飯田久恒がいます。
以前サイトで更新した財部彪の話でも谷口の名前を出したのだけれど、財部とは同僚であったり、上司下僚であったりと職場を共にしていた期間が割りとある。

そういう事もあって、財部の情報を得るのに谷口の本はないのかと思っていた。
財部も纏まった本が全然ない人物だけれど、谷口も同様だった。私家版じゃなあorz
山梨勝之進とか堀悌吉辺りの本で何か情報がないかと思うも…ないですなあ…
手元にある軍事史学の人物文献には谷口の項目さえなかったわー


谷口の名前は、財部の話をサイトで更新する以前に出したことがあります。

http://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0191.gif


広瀬武夫の柔道人脈の件でした。
とはいえ谷口が直枝子さんと結婚したのも広瀬が亡くなってから随分後の話で、今のところ彼と直接的な関連がどうこうというのは分からない。
本当に名前が出ているだけ^^;


谷口は阿川弘之の『米内光政』に出ており、それで印象に残っている所が大きいです。

のちに機と織り物のデザインで名を成す柳悦孝(<略>)が、谷口の義理の甥にあたり、少年時代呉の長官官邸へ伯父を訪ねた時の思い出を、
「箱みたいな四角な頭をしていて、大きな胴体の上に頑丈な箱をのっけたような感じの人でした」
と語っている。


箱みたいな四角い頭かー(笑)

http://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0222.jpg

そ、そうかな?写真と実物は違うのかも…


柳悦孝は上の系図では略してありますが、柳楢悦の孫に当たる人物。
『米内光政』によると、男子が皆海軍とは無縁の道を選んだため、楢悦夫人がせめて悦孝は祖父のあとを継いで欲しいと海軍に入る事を望んだとあります。でも本人は美術に興味があって海軍には入りたくなかったらしい。
しかし世話になってるばー様のいう事なので、とりあえず呉にいる谷口(当時呉鎮の長官)に相談に行った。
そして健康状態のチェックのためか、紹介状を持って呉の海軍病院に行き検査をした所、胸に少し影が出ていて兵学校を受験するのは無理かもと言われ、

「私はすっかり嬉しくなって、伯父に『おかげ様で』と報告しましたら、『何がおかげ様でだ』と叱られましたがね」

何がおかげ様でだ。

この印象が強い(笑)。
『米内光政』にも谷口は「謹厳居士」と書かれているけれど、本当に滅茶苦茶真面目な人だったらしい。
 
 
谷口は聞えた謹厳の士にして見識も高く、典型的な武将である。
今日でも谷口の部下になった事のある者は「立派な提督でした」と欽仰しているほどであるが、何しろ身を持するに余りに謹厳であるということは、それを他人に強要しなくても、部下となればすこぶる窮屈を感ずるものである。
(『一軍人の生涯 提督・米内光政』)


谷口尚真、米内光政、斎藤実 


大正14(1925)年、米内は第2艦隊参謀長として旗艦山城に赴任しますが、その時の司令長官が谷口だった。
米内はちょっと窮屈だったのか、

「河の水魚棲むほどの清さかな」

という句を書いて谷口に渡した。
これはあれか。
「白河の清きに魚も棲みかねて 元の濁りの田沼恋しき」か米内さん(笑)(違う)

これに谷口は「ありがとう」と言って嬉しそうに笑っていたそうです。
(…嬉しそうに…?)


続く

関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)