Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ミリメシ

久々に兵食関係の話。
森鴎外の悪口ではない。笑

図書館の新刊コーナーで秦郁彦の『旧日本陸海軍の生態学』という本を見つけたので借りてみた。
読むと言っても論文の寄せ集め集なので、好きな所だけ捲った感じ。
203高地攻め論争、閔妃殺害事件、ミッドウェー開戦や軍用動物に関する話など、日清戦争以前から大東亜戦争に渡る範囲の話が収録されているので、興味のある方は面白いかも。

私が面白そうと思ったのは「旧日本軍の兵食 - コメはパンに敗れた?」という論文に「嫌われた陸軍のパン食」という節が含まれていたからで、特に脚気論争云々からの興味ではない。
まあ、森鴎外の事績も簡潔にひどく書かれてました。笑
仕方ねえ。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141220.jpg


脚気の話は今まで何度か触れているし、サイトの方でも纏めたものを既に載せているので、そちらをどうぞ。
大体において
・陸軍vs海軍
・森鴎外vs高木兼寛
…という構図になっていく話ですが、ただここに森鴎外を当てはめるのはちょっと気の毒な気がせんでもない。

日清日露戦争時はいずれも上司がいるので、全部森が悪いという訳でもないと思うし。
私としては森も責任を免れるものではないと思うけど、有名人だから名前が挙がっているという点は少なからずあると思う。
まあそれはいいのですが、この本、ちょっと切り口が違ってて面白かったのよ~


日露戦争で陸軍は少なくとも25万人程の脚気患者を出していると考えられています。
(※実数が隠されていて正確な人数が分からない。ちなみに出征数は約100万人)
そして脚気による死者は2万5千人。

麦飯(白米と麦の混合食)に変えりゃ或る程度防げただろうに、陸軍医務局がそれを頑強に拒否した為に起きた悲劇でした。
流石に日露戦争後には改善された…
のかと思いきや、正式に麦飯が採用されたのは大正2(1913)年。

大正2年。


えー…日露戦争から10年近く経ってるんだけどー…


パンも主食として取り入れようという動きも、大正中期にあったそうです。
そうなんだ。
シベリア出兵の時に米飯だと凍ってしまうという問題が起こり、しかも当時米騒動で米価が上昇していたため、当時陸相であった田中義一がパン食を導入してみようとしたらしい。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141220_2.jpg


米飯凍るって…^^;
それ日露戦争の時も全く同じ問題起こってたよね。
森鴎外(当時第2軍の軍医部長)がどうすれば凍結しないおにぎりを作れるかって研究してたよね。
それはどうなったの。

ただ凍結だけでなく、熱帯では米飯は腐りやすいという問題もあったのでパンの代用を考えたそうです。
パン食に慣れさせておこう、というもの。

当時、流石にパンも普及してきていて、米や麦にはかなわないものの嫌悪する人はそんなにはいなかった様子。
そういうこともあって、陸軍省から全師団に対し、毎週少なくとも1食はパンにして、という指令が出ていたそうです。
その流れを受けてシベリア出兵の際は毎日1食は必ずパン食を励行することになった。
野戦パン焼車も配備されていたそうです。

ただ現地では米飯はやっぱり凍結して主食をパンに頼らざるを得ず、従軍兵士には
「ロシアパンのまずいこと天下一品」
「やっぱり日本人は米でなきゃ」
とか言われる始末。笑
めっちゃ不評だった。
日露戦争後に大連で子供時代を過ごした人の回顧だと、
「焼きたてのロシアパンは美味しくて子供心に売りに来るのが楽しみ」
って話だったのに(笑)
時代と年代によるのか。

パンを嫌悪する人はそんなにはいなかったとはいうものの、陸軍で兵士に主食として出すものとしては馴染まなかったのだと思う。
結局パンを主食にという動きは定着せず、昭和8年には兵士が望めばパン0で米麦のみ、その麦も米に変えることができるようになっていたようで、結局元に戻ってしまった。


聞いたことのない言葉がちらほらある。
野戦パン焼車?^^;もう少し名前…


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防睡菓子とか航空チョコとか、活性鉄飴とか(笑)
航空元気酒…(いつもながらのこのネーミングセンス。笑)
防睡菓子ってフリスクみたいなもん?
というか、右上の写真に書いてあるサプリメントにはちょっと驚いた。


同じ論文でへーと思ったのが、明治23年に海軍で食事への不満からサボタージュが起こったという話が載っていたこと。


明治二十三年春、軍艦「海門」で下士官兵の集団サボタージュが起きた。
理由を聞いてみると
「ワシらは白い米の飯が食えるという理由で海軍に入りました。ところが、フネでは飯の代わりに、出るのはオヤツばかり」
の不満からと分かる。
たしかにオヤツ(乾パン)に缶詰か塩漬の肉、乾物野菜の組み合わせでは不満が高じたのもむりはない。
分隊長の坂本一大尉(のち中将)は艦長に
「ひとまず米を食わせて落ち着かせましょう」
と進言したが、規則を重んじる艦長は煮えきらない。
そこで大尉は独断で取り寄せた白米を食わせて「鎮圧」した代りに本人は転勤させられたという。



出典が『海軍逸話集』だったので確認した。
神戸沖での話で、坂本一(7期、同期に加藤友三郎、島村速雄ら)は当時海門の2番分隊長。
兵員の不満の押さえ方がまずかったようで、言う事を聞かない。
坂本は抜刀して2番分隊の名簿を読み上げ上甲板に整列を命じ、

「言う事を聞かなかったら斬り殺す」


……^^; (一件落着したそうです…
ただ上にあるように独断で米を取り寄せたという話はねーなー。
全体的にちょっと話違うし、他に種本ありそう。どこからの話だろう。

てゆうかね、この時の様子、広瀬武夫が見てたんじゃないかと思う。
広瀬は明治23(1890)年3月中旬から海門乗組みの少尉候補生なんですよ。
で、海門で少尉になっている。
秦郁彦は23年春と書いていて、坂本一は23年とあるだけだけど。
アジ歴見てたのだけど、引っかかる書類がないのでちょっとよく分からん。

今年の初めに書いた三笠のストライキにしてもそうだけど、ちょこちょここういう事あったのね。
時期的には同じで、22年、金剛でもちょっとしたことで下士官と水兵がストライキを起こしてる。
これ多分15期の遠洋航海の直前だと思う。
岡田啓介が回顧を残しています。
注目されないから知らないだけで、明治30年ぐらいまでは結構こんなこともあったのかなと思います。


(しかしこの本を読んでいて一番驚いたのは昭和20年3月に至っても日本に騎兵旅団が存在したことだった…)


**


大体想像の範囲だったけど忙しい。
忙しいというよりしんどいorz
まともな更新はあと2回と書いたけれど、これでおしまいだわ~
今日は今から奈良ですよ。休みねえ。 
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森鴎外の友人(2)

森鴎外の友人、続き。

東大医学部の明治14年卒業生には森鴎外の他、賀古鶴戸、小池正直、山形仲芸といった人がいます、という所まででした。
卒業者名簿を見たらジョン万次郎の長男、中浜東一郎もいたわー
びっくりね。
山形と同窓だったんだと思いましたよ…
実は中浜と山形、そして後ふたりいるんですが、肝臓ジストマ(肝吸虫)という寄生虫を一緒に発見した人たちです。
詳しいことは知らないけど、この一事で医学史に名前が残る人々らしい。


緒方惟準の弟、緒方収二郎が賀古鶴戸と仲が良かったと書きましたが、実はこの人たちと同窓だった。
そうなんだ。
ただ緒方は明治15年の卒業です。卒業の前に病気になり1年遅れた。
卒業試験が受けられなかったんだと思う。
うーん、あんたは森鴎外か、と(笑)

森鴎外も卒業試験前に肋膜炎に罹患しています。
ただ試験は受けた。
受けたのだけど、試験直前に病気になった上に下宿が火事で全焼、それまでの勉強ノートが燃えてしまうという痛恨の出来事が…
結果は散々だった。
東大を1番、2番で卒業したら、国が留学させてくれるんですよ。
鴎外は留学したかったんですけど、それがこれでダメになってしまった。
流石にかわいそう。

それを拾ってくれたのが同窓の小池正直で、小池は東大にいる時分からすでに陸軍の軍医生徒でした。
その小池が優秀だからと鴎外を石黒忠悳に紹介してくれ、陸軍に入ることになったんですね。
なりたくて軍人になった人ではありません。
多分学問を続けたかったんだと思う。

後年、石黒も小池も陸軍軍医総監(陸軍軍医のトップ)、森鴎外の上司になりますが、脚気対策として麦飯を給与することに反対した中心人物になります。
小池はちょっと微妙な所があるけどな。


賀古鶴戸も陸軍の軍医だったのですけど、緒方収二郎は一貫して民間の医師だった。
同窓生で緒方と特に仲が良かったのが賀古鶴戸だそうで、『緒方惟準伝』によると多数の緒方宛賀古書簡が残されているとのこと。
で、その中に緒方収二郎の兄、惟準の脚気論争の相手であった石黒忠悳を酷評している部分があるそうで。


「[石黒は]いづれ医学ハあんまりやってゐたものでハあるまじ」とか<略>
石黒にかなりの「ほらふき」の人物評があったように(土原註:賀古は)記している。



この書簡には、以下のようなことも記されているとのこと。


収君 尚令兄惟準先生ヲ陸軍カラ追ひ出しタノハボク等が出身後デアッタ。
松本[順]翁ハ一ヶ年中陸軍病院ニ顔ヲ出ス事ハ一両度デ次長が惟準先生と林紀デアッタ、
のち林が長ニナッテ惟準先生ハ近衛師団の軍医部長デアッタ。

其頃、夏デアッタカ。兵士が何歟食あたりで一夜吐瀉シタ、
かねて機会ヲねらってゐた彼石黒ハ朝早くク近衛隊ヲ問フテ、此ノ吐瀉ヲコレラダト大さわぎ立テ
惟準先生ノ出勤が寛怠ダト称シテソレゝゝ手ヲマハシテ遂に隠退サセタト覚えてゐる。

其の頃の者ハ何事も知らぬのう(能)なしで、軍医も学問ハ無し、唯石[黒]のいふまゝニナッテヰタノデある。
ナンデモ我々ハ出仕後余り年ヲ経ぬ頃と思ふ。(中略)

彼[石黒]が毒ニアタッタモノハ少カラス、唯盲従シテゐたものは長ク登用シテヰ

(昭和4年6月7日付賀古書簡)


緒方惟準が陸軍を辞めたのは明治20年の話。
明治14年に卒業で、賀古がすぐに陸軍に入っていたらすでに5・6年は経ってからの話だけど…
惟準の退官にかかる話が以前書いたものとは違っているけれど、石黒が手を回していた、というのは一致してますねえ…
伝記によると、賀古は石黒がまともな医学教育を受けていなかったことを痛罵しており、華族に列せられ、軍医界の長老としてもてはやされていたのが気に食わなかったんじゃないかとのこと。

て、ゆーか、さ、


彼[石黒]が毒ニアタッタモノハ少カラス、唯盲従シテゐたものは長ク登用シテヰ



それはあんたのもうひとりの親友の事か。

って思うんだけど…

緒方収二郎にしても、兄の辞職理由の詳細は知っていたと思うんですよ。
大阪の一般市民でさえ緒方惟準が脚気論争で陸軍を辞めたことを知っていたので。
弟だしさすがに本人から聞いてもいただろうし。
石黒の子分になっている森鴎外についてはどう思ってたのかな、とは思いますねえ。
それは上の手紙の書き方から見て、賀古鶴戸の方に余計に思う訳ですが。


じゃあ緒方収二郎と森鴎外の仲が悪かったのかと言えば、そうでもないらしい、っちゅうのがなんだか不思議である…
明治42(1909)年に緒方惟準・収二郎の父、緒方洪庵に正四位が贈位されるのだけれど、その時に熱心に動いたのは森鴎外で、時の陸相寺内正毅に働きかけたのも、森鴎外だった。

両者とも色々と思う所もあったかもしれないけど、険悪そう?と思うのは後世の人間の勝手な勘ぐりなのか…^^;
学校の時から始まった付き合いで親しかったというから、そもそも仲は良かったんだと思うけど。
辞表云々の話の当事者は緒方惟準と石黒忠悳で、緒方収二郎と森鴎外だと当事者から一歩程離れた所にいるし、明治20年だと賀古の言う通りふたりともまだペーペーだしなあ。

不思議というより、一筋縄ではいかんなあと思う所ではありました… 
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森鴎外の友人

森鴎外でちょっと面白いというか、え、そうなの、という話を見つけてしまった。
面白いというか、森鴎外ちょっと気の毒というか、いや、別に気の毒って訳でもないんだけど(どっち)。
なんとも微妙と言えば微妙。
もっと早くにアップする予定だったのですけど予想外にずれ込んだ。


先月、大阪の史跡の紹介をしていた際に何度か名前を出した緒方惟準(これよし)。
緒方洪庵の嫡子、維新後は陸軍に奉職するも明治20(1887)年に辞表を当局に叩きつけ帰阪。
以後は民間の医者として、大阪の医学を大きく発展させた功労者であります。

新しい伝記が出ておりまして、それが何度か書名を出した『緒方惟準伝 緒方家の人々とその周辺』(中山沃/思文閣出版/2012)になります。
これまた素晴らしく分厚いため(1000P超)、興味があるって言っても読み通すのはとても無理(´Д`)
特に気になる所だけを拾ういわゆる飛ばし読みでござる。


天王寺にある真田山陸軍墓地を紹介した時、大阪鎮台(のち第4師団)の軍医堀内利国の墓所があることに触れました。
陸軍の軍医であった堀内は監獄の囚人の食事状況から脚気撲滅の足掛かりを得、実際にほぼ消滅させたというのは以前触れた通りです。
大阪鎮台の次に麦飯(麦と白米の混合食)を導入したのが東京の近衛、当時近衛の軍医長は緒方でした。

堀内は緒方の弟子であり、また緒方の義弟であります(緒方妹と明治一桁代で離婚しているけど子供もいるため親族であることに変わりはない)。
大阪鎮台の次に近衛が、というのは、こうした個人的な繋がりがあり情報の伝わりが早かったからだと思う。

明治20年には堀内が明治天皇に麦飯が効果ありということを奏上し、将官会議でも麦飯採用の建議をしたのだけれど、結果は不採用になっています。
一方の緒方の方でも、麦飯採用で白米採用派と論争になった。
近衛なんでね、天皇陛下の兵を実験にするなんてとんでもない!と。
それで麦飯供給に協力した緒方の部下の首が飛んだらしく、よくよく調べてみたら同僚石黒忠悳が裏で動いていたようで、それで怒り爆発。辞表叩きつけ。

ここまでが話の前提。(え)


緒方の弟に収二郎という人物がいるのですが、見れば東大医学部の卒業生で、賀古鶴戸と仲がすごくよかったらしい。
え?と思ってさ。
賀古鶴戸といえば森鴎外の親友である。


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有名な森鴎外の遺書、その口述筆記もしている。
このふたりは現東大医学部を明治14年に卒業した同期でして、他には小池正直、山形忠芸がいます。

山形忠芸は広瀬武夫の親族になります。
広瀬武夫の兄勝比古の妻春江の姉婿。ちょっと遠い。笑。
広瀬よりもやや早い時期にドイツに留学していまして、広瀬がロシアに向かう際に山形の下宿で宿泊した。
明治30年9月22日です。
ちなみにその日の夕食は鰻の蒲焼きでした。広瀬大喜び。
ロシアについてからは味噌や醤油を送ってもらったりしている。
帰国後は活動のホームグランドであった仙台で先進的な病院システムを導入した人物だと、山形の訃報で読んだ(※当時の新聞)。
ちなみに山形の次男は武夫です。広瀬から取ったかどうかは知らん。


ごめん、今日はここまで。
ほぼ話の前提で終わった。笑 
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法性寺(蘭医ボードウィン逗留の寺)@大阪

法性寺_ボードウィン
ボードインゆかりの地(法性寺)


今まで何度か名前が挙がっていますボードウィン所縁の地が大阪にもあります。
大阪にもということは、よそにもあるということですが、多分知らない人はいない。
上野公園です。

正確には上野恩賜公園ですが、当初あそこにできる筈だったのは病院(現東大医学部の附属病院)でした。
戊辰戦争の際、上野は激戦地区(彰義隊の戦い)になっており、戦後焼け野原になった跡地に病院を建てようというのが政府の考えだった。
それに猛反対したのがボードウィンでして、街には緑地が必要だ、残して公園にでもしろと政府に提言したら受け入れられて、現在に至る。
これが我が国の公園の第1号ですな。

そういうこともあり、上野公園にはボードウィンの胸像があります。
上野の方の像にはボードワンとある。
名前の読みがボードウィン、ボードワン、ボードイン、と揺れがありますが、どれがベストなのかイマイチ分からん。

上野の胸像には面白い話がありまして、長らく別人の胸像が建っていました。
別人っちゅうか、ボードウィンの弟だった…
ちょっとどういうこと。笑。
え、これ別人じゃね?ということで、本人に差し替わったのが10年位前のこと。


ボードウィン、オランダの人ですが、幕末に弟が長崎の出島に来ておりまして、その伝手を使って幕府が日本に招聘した。
当時長崎には幕府が海軍伝習所を作っておりました。
その伝習所の生徒たちが、





榎本武揚だったり、沢太郎左衛門だったり、肥田浜五郎であったり、赤松則良であったり。
勝海舟もおるぜよ。

この伝習所の軍医がポンぺで(その弟子が松本良順、伊東玄伯、林研海等)、ポンペの後任がボードウィンだった。
当初長崎で医学を教えていたわけですが、その時の弟子のひとりが緒方惟準です。


上の写真の人々は幕府のオランダ留学生ですが、緒方も幕府の留学生としてオランダに行った。
ボードウィンが幕府に依頼された医学校設立の準備をするために帰国する際、一緒に連れていってもらってます。
ついでに書くと松本良順の息子も一緒だった。
ただその最中に幕府が無くなってしまい緒方は帰国を余儀なくされます。
その後ボードウィンも再来日し、いわゆるお雇い外国人になる。


法性寺_ボードウィン


蘭医ボードウィン逗留の寺 

明治元年大阪に行幸された明治天皇は、知事後藤象二郎に病院建設を命じ、大福寺(現天王寺区上本町)に大阪仮病院が設置された。
院長は緒方洪庵の次男惟準で、教師はオランダから招聘された蘭医ボードウィンであった。
惟準はボードウィンの身の回りの世話を「適塾」の門下生で薩摩藩出入御用商人薩摩屋半兵衛広長に頼み、法性寺がその寓居となった。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせもしたが、熱心な法華信仰者の半兵衛の教化を受け、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようになったという。
適塾と大阪仮病院は阪大医学部の前身である。
またボードウィンは日本最初上野恩賜公園生みの親でもある。



次男じゃなくて三男じゃなかったかと思って確かめたら、次男だったorz
勘違いしてました。第三子と勘違いしたか…
ちなみに緒方洪庵の長男は幼少期に亡くなっている。

ボードウィンは明治3年に帰国していまして、日本での滞在時期は短いのですが、まあ何かと名前の出てくる人でもあります。
以前書いたように京都で襲撃された大村益次郎の主治医であったのはこの方です。
もう少し早く判断してくれたら、大村益次郎も死なずに済んだんじゃないかと思うとね…


大阪に滞在していた時に住んでいたのがこちらの法性寺ということで、位置はこんな感じです。





三光神社まで歩いて2・30分じゃないかなあ…
ちなみに大福寺にもボードウィンと緒方惟準の記念碑があります。
大福寺、上本町?
近かったのかなと思って地図を見たら法性寺と真田山の間にあった…
地図真ん中あたり、念仏寺の少し上。
知ってたら寄ってたorz 
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真田山陸軍墓地(5)@大阪

*****

この史跡は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

*****


真田山陸軍墓地 in 大阪市天王寺区。
第5回。こんなに引っ張るとは思わなかった。

被葬者の名前を見て大変驚いたお墓。


真田山陸軍墓地


陸軍軍医監従四位勲三等堀内利国墓

いや、本当にびっくりしました…初めて訪れた時は暫し佇んだ。
ただ思うに、堀内利国って言って分かります? 分かる人、多分殆どいないと思う…^^;


堀内利国。
明治期の脚気論争で名前が出てくる方です。
この陸海軍の脚気論争に関しては随分前にサイトにまとめたものがありますので、詳細はそちらをご覧くださいませ~
麦喰!④陸軍平時編>9)

大雑把に書きますと、近代日本の2大国民病であったのが肺結核と脚気になります。
脚気は一種の栄養失調でして、日本の場合、主食である白米が主な原因になっていました。
食べるのが白米でもバランス良く副食が摂れていたら問題なかったんですけどね、過度に白米に偏り過ぎてたんですね。

患者は都会在住若年層男子に多く、特に多かったのが軍隊です。
軍隊はね、徴兵する側からすると基本的に米食わしときゃいいっていう食事の内容軽視の考えがあるのと、徴兵される側からすると軍隊に行けば白米が食べられるという白米信仰があってだな。
これを切り替えるのが中々難しかった。


とはいえ信じられない数の脚気患者が出てまして、そんなことも言っておられず。
海軍では明治10年代中頃、平時の入院患者の4分の3が脚気だったり、軍艦の半分以上とか、3分の1とかが脚気に倒れる。
軍艦乗組みの水兵などが全員脚気に倒れて、艦長までもが罐炊きをしたっていう記録もある。

海軍では高木兼寛(宮崎出身)があれこれ研究・実地実験した末に麦飯(白米と麦の混合食)に辿り着き、明治10年代後半にはほぼ脚気が撲滅されました。
対する陸軍では名前がよく挙げられるのが森鴎外でして、まあ実際には責任の多くを森の上司であった石黒忠悳(ただのり)が負う訳ですが、日清日露戦争で信じられないほどの死者と患者を出すことになった。
ちなみに陸軍的には脚気は伝染病でした(なので食物の改善では防止できないという意見)。


ただ陸軍でも脚気を撲滅すべく奔走した軍医がおりまして、それが堀内利国になります。
本当にね、この方のお陰で一時は陸軍も脚気撲滅状態になったのよ…

堀内は軍医生活を殆ど大阪で過ごしていまして、言ってみれば大阪地生えです。
大阪の人じゃなくて、旧田辺藩士(舞鶴)。
ということは伊東雋吉と同じですな。見れば生年が4つしか違わない…
明治10年代、大阪鎮台の脚気患者数が他と比べてダントツに多かったそうで、その対策に乗り出したのが堀内でした。
当時大阪鎮台(後第4師団)の軍医のトップだった。


調査をしている内にね、堀内はあることに気が付きまして。
それは監獄からは脚気患者が出ないという事実。
明治10年代前半の囚人に与えていたのは白米だったそうです。
しかし白米を食べられない一般庶民もいるというのにどういうこと、と当然ながらなりまして、ある時期に麦飯(白米と麦の混合食)に切り替わりました。
そうしたら脚気患者いなくなった。

これに気が付いて、調査した上でじゃあ同じことをしてみようと大阪鎮台で実験した所、実際に減ったんですね。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


減ったっちゅうか、なくなったっちゅうか。
そうしたらこの結果を見た他の鎮台や部隊が大阪鎮台に倣いまして、明治22年には陸軍の部隊の麦飯普及率100%になった。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519_2.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


その結果がこれ。
問題にならない位の患者数になっていた。


明治20(1887)年、明治天皇が来阪された際、大阪鎮台司令官の高島鞆之助が脚気予防のために麦飯を給与、それが効果を上げている事を上奏しました。
実は明治天皇も脚気に苦しんだ経験をお持ちで、また脚気の蔓延に心を痛めておられていました。
そうしたことがあり高島の報告には非常に満足しより詳細を知りたいということで、堀内が更に報告をした。

そういう経緯もあり、高島が麦飯を兵食に採用すべしと堀内を伴って将官会議で建議したものの、肝心の中央(陸軍医務局)には梨の礫でした。
要するに握り潰された。

うん。
地方の部隊が各々の判断で各自麦飯を給与しているだけで、その元締めは麦飯が予防になるということは認めてないんですよ。
だって伝染病なんだもん…
しかしながら、それが後々の大惨事に繋がった。
ここでゴーサインが出ていたら、日露戦争で12個師団分の脚気患者が出るような事態にはならなかっただろう。
陸軍にとっては大きなターニングポイントだったと思うんだけどな…

現地部隊の軍医さんたちは麦飯で脚気患者が減ることを実地で見てきていますから、多くの犠牲者が出ても麦飯を採用しない医務局(石黒忠悳や森鴎外)の頑迷固陋が理解できない。
意見しても聞き容れられず、反駁しても梨の礫。
左遷された人もいますし、辞表を叩きつけた人もいます。


辞表を叩きつけたのは緒方惟準で、以前このブログでも名前が出てきました。
緒方洪庵の嫡子で、襲撃された大村益次郎の治療にあたった人でもある。
つい最近知ったのですが、堀内の奥さんが緒方洪庵の娘で(後離婚)、緒方惟準と堀内は義兄弟やった。
堀内はボードウィンと緒方惟準に師事していたとのことで、大村の治療にも参加していました。


堀内が亡くなったのは明治28年。52歳、肺結核でした。
『緒方惟準伝』によると、当時医学雑誌に載った訃報には

明治十七年以来囂々たる衆議を排し断然麦飯食を主唱して、軍隊兵士の脚気予防上いみじき効を収められたるは、皆人の知るところなり。

とあります。
緒方惟準にしても、この脚気論争で麦飯採用論が排斥されたことに憤って陸軍を辞めた、ということは一般によく知られていたみたい。

石黒忠悳は緒方の同僚です。
石黒は表だって麦飯採用に反対はしなかったけれど、裏でいろいろ手を回していたようでそれに怒りのスイッチが入ったらしい。
ちなみに緒方の息子の名付け親は石黒だった。

更に書くと石黒の娘婿に小野塚喜平次がいます。
東大を明治28年に卒業した二八会のメンバーで、同期に浜口雄幸、幣原喜重郎、勝田主計、市来乙彦、矢作栄蔵らがいます。
特に浜口とは主席争いをした親友だった。
矢作栄蔵が講道館に通っていまして、広瀬武夫と仲が良く、この方を通して広瀬は小野塚と親友になった。

勝田主計は松山出身、秋山真之と仲良しでした。
この方の息子のひとりが龍夫で、原田熊雄(西園寺公望の秘書)の娘婿になっております。
著書に『重臣たちの昭和史』がある。


真田山陸軍墓地
(将官墓碑)


真田山陸軍墓地


さらっと通り過ぎてしまえばそれまでですが、墓標ひとつひとつを見ても色々な歴史が刻まれているものだと思います。
大事にしないとね…

とりあえず陸軍墓地の話はこれでおしまい。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました^^
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