Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

陸奥宗光・小松帯刀墓所跡@大阪(2)

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この史跡は2回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

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再来年の大河ドラマが真田幸村で『真田丸』www
笑った私は悪くない。多分。
真田丸て先日このブログで紹介した真田幸村 出丸城跡(心眼寺)のことでっせ。

大阪市天王寺区にある史跡巡りシリーズ(いつからだ)。
陸奥宗光・小松帯刀墓所跡(1)の続き!


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014511.jpg 
伊藤博文と陸奥宗光像(山口県下関市、春帆楼)


陸奥宗光_天王寺史跡


向かって右側が夕日岡阡表、真ん中が清地蔵、左側にあるのが原敬が建てた陸奥宗光顕彰碑。
その足元にあるのは陸奥宗光の父の歌碑になります。

夕日岡阡表は碑が大きいのと、字が細かいのでよう読みまへん…
『陸奥宗光 歿後百年記念講演集』にその拓本の写真が載っていました。
台座を除いた高さが3.2mですって。
撰文は陸奥宗光で、明治10年9月建立。
陸奥の父が亡くなって数か月後に建てられたものになります。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05110308.jpg
右下の写真が昭和4年ころの夕陽岡(ママ)の墓所の様子


陸奥の父は伊達宗広(千広)といい、紀州藩の財政を一手に握っていた人です。
陸奥はええとこのぼんぼんでした。
ただ藩内部の政争に敗れて父が入牢、一族が城下から追放されています。
幕末になると政治情勢の変化で、入牢したり許されたり一家が浮沈を繰り返していた。
時世といえば時世ですな。
この辺りは岡崎久彦の『陸奥宗光とその時代』にも詳しく描かれていましたので、そちらをどうぞ。

陸奥がその前半生で故郷和歌山をあまり好きでなかったというのは、政争で家族が相当シビアな状況に遭わされたことが大きかったみたい。
特に父の失脚は幼少期の出来事で、藩に対する忠誠とか愛とか、そんなものが芽生える前の話だったこともあるようですな。
結局藩を出て坂本龍馬に付いて行っちゃったもんねえ…
それに坂本の下にいる時は土佐出身とか言ってたし。


陸奥宗光_天王寺史跡


『陸奥宗光 歿後百年記念講演集』(陸奥陽之助編/朝日新聞出版サービス/1997)を見ると、陸奥宗光の孫陽之助氏いわく、


思うところがあり、一九五三年(昭和二十八年)秋、祖父の父伊達千廣を始め先祖九人の遺骨を父廣吉の終焉の地、鎌倉の寿福寺の「矢倉」の地下に移送した。
宗光の墓石も共に運んだ。



ただ、こちらに墓所があった頃の名残が残っていて、それが前回・今回と紹介している碑になります。

左上写真は清地蔵(さやじぞう)といい、陸奥宗光の娘・清子(さやこ)が21歳の若さで亡くなったのを悼み、等身大の地蔵を建てたとのこと。
元々はお墓の前に建っていたそうです。
で、正面から見て左側に建っているのが陸奥宗光追慕碑。原敬が建てたもの。


陸奥宗光_天王寺史跡


三十六宮苑色多 霓裳曲罷流霞酔 紅塵百丈長安道 金馬門前独花看   福堂

 余深受福堂陸奥伯知遇相従有年今茲
 値其十周忌辰乃鐫伯平生得意之詩于
 石建諸墓側以表追慕之意
    明治四十年八月 内務大臣原敬拝誌  廣群鶴鐫



福堂は陸奥宗光の号です。
原敬の碑文から建立の理由が分かりますな。


原敬


明治23(1890)年、農商務大臣になった陸奥の秘書になったのが原で、その時から7年ほどの付き合いになります。(明治30年に陸奥が死去するまで)
陸奥が農商務大臣を辞めた時は進退を共にし、また陸奥が外相になった時には原はその要請で外務省入り。
後に陸奥の下で外務次官になっています。


原敬は引き立ててくれた陸奥に大きな恩を感じており、亡くなる前は毎日のように陸奥の病床に駆けつけています。
陸奥は既に危篤状態だったみたいで、原としては堪らなかったみたい。
ああもうこれが最期だと思うと平気な顔で話し続けることもできないし、陸奥が病をおして話し続けるのを見るのも辛い。
話したそうにしている様子に、もっと枕元にいてあげたいと思うけど、涙がこみあげてきて居た堪れない。
そういうことが陸奥が亡くなった日の原敬日記に書かれている。
原敬は割と淡々と日記を記す方でして、ここまで感情が吐露されている所は珍しい。


陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養嗣子となっています。
古河は古河財閥の創業者でして、足尾鉱毒事件を起こした古河鉱業がよく知られている。(陸奥が農商務大臣の時代)
潤吉が社長になった際は原敬もその後見として副社長になっています。
また後年には古河(と三井)に政友会の党費を預けていたり、後々まで何かと関わりがありました。


陸奥宗光_天王寺史跡


空蝉の殻は何処に朽ちぬとも 我魂やどるかた岡こぞこれ 自得翁


自得も陸奥の父、伊達千広の号です。
ちなみにこちらを夕日丘と名づけたのもこの方。
関連記事

陸奥宗光・小松帯刀墓所跡@大阪(1)

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この史跡は2回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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大阪、天王寺にある史跡の続き。
今回は近代、陸奥宗光に関するもの。

藤原家隆墓の紹介の際にも書いた通り、なぜか街角の史跡地図には入れられてもらえていない陸奥宗光…orz


四天王寺夕陽丘附近地図


大阪市営地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅5番出口から歩いて2・3分です。


家隆墓と陸奥宗光関連石碑


こんな感じの位置関係なので、家隆墓を目指して行けば到着する。


陸奥宗光_天王寺史跡


7年ぶりの訪問なのですが、新しく石碑が建っていたり解説が新しくなっていたり…
新しい解説版は平成22年、4年前に差し替えになっていました。


陸奥宗光_天王寺史跡


上の写真から分かるように、以前のは木製でした。
経年劣化で字が随分読み辛かったというか、読む気失せる感じだったので、こうした変化は非常にありがたい…


陸奥宗光_天王寺史跡


伊達家・陸奥家 墓所跡

向かって右側の石碑を「夕日岡阡表」といい、陸奥宗光が先考(実父)伊達宗広の行実を漢文で述べたものである。
伊達宗広は紀州藩の重臣で、政敵によって蟄居させられたが、赦免後脱藩して、主に京都で勤王活動を行った。
鎌倉初期の歌人、藤原家隆を敬愛していた宗広は、明治初期、この地に来て、この地の風趣を愛し、自分も家隆卿の傍に眠らんと、自在庵を建てた。
また家隆卿の和歌にちなんで、当地を「夕日岡」と名づけ、伊達・陸奥一族の墓地と定めた。
宗広は明治十年、東京で亡くなったが、遺言により夕日岡に葬られた。

以来、陸奥宗光を始め、妻子など合わせて九人の人々が葬られた。
しかし、子孫によって、昭和二十八年に墓は鎌倉にある寿福寺境内に改葬された。



陸奥宗光_天王寺史跡


解説版の前に石碑が建っていますが、
正面が 夕日岡(夕陽丘)命名の地
右側が 伊達宗広 陸奥宗光墓所跡
左側が 小松帯刀墓所跡


はい。こちら、小松帯刀の墓所でもありました。


この地には薩摩藩家老、小松帯刀清廉が埋葬されていた。<略>
明治初年には参与として大阪にも在勤し、明治三年(1870)7月20日、大阪で亡くなった。
「墓陵は天王寺村之内家隆塚有之夕日の岡ト申ス所、摂海見はらし至極眺望宜敷所ニ御座候(略)」
と、薩摩藩士木場伝内が大久保一蔵(利通)に宛てた書簡に記している。
大久保や五代友厚が、小松の墓参りに夕日岡を訪れている。
その後、明治9年(1867)鹿児島に改葬された。



http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05110306.jpg http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/VC00005.jpg


右のは鹿児島にある小松帯刀像。
左のは本格焼酎「小松帯刀」、大関が出している焼酎。
何年も前のなので、ラベルは変わってるかも。
大関、思いっきり地元なんだけどね、大関の先々代(確か)の社長が小松帯刀の子孫で、その関係での商品だったそう。
解説版にある通り、小松は明治9(1876)年、鹿児島日置のお寺に改葬されています。


陸奥宗光・小松帯刀旧墓所(2)に続く!
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