Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

鈴木貫太郎の昭和

(※題は大袈裟)

明日のNHKの歴史番組が鈴木貫太郎だそうで。
九死に一生スペシャルの第6弾をするのか(第7弾まである)。
明後日は2・26事件の日ですものね。

証言テープが見つかったということですが、テープが見つかったのは2年前です。結構前やぞ。笑
当時ブログでNHKニュースを掲載したので覚えている方もおられると思います(現在非公開)。
そういえばこの話はNHKでしか見なかったのだけど、NHKのスクープだったのか。

NHKによるとこの証言テープは昭和40年代に鈴木の妻が千葉県野田の青年団から頼まれて話したもの。
内容は2・26事件の事だけなのか、ニュースで流れていたのはそこだけだったので全容は分からない。

押しかけた青年将校らに鈴木が、
「何事が起こってこんな騒ぎをしているのか。話したらいいじゃないか」
と対話を呼びかけていたことや、銃撃された鈴木を前に妻のたかが青年将校に、
「とどめだけはどうか待ってください」
と訴えたところ、
「止めは残酷だからやめ」
と部下に命じたことなどが語られているとのこと。
明日テレビで流れるのはこの辺りじゃないかな。


上の青年将校、鈴木を襲撃した指揮官は安藤輝三大尉になります。
妻の訴えに安藤は止めをささなかった。
安藤は鈴木と面識があったそうで、忍びないという気持ちもあったことはあったと思う。
ただ主な理由は、息の根を止めなくてもこの状態なら死ぬと思ったからでしょう。

鈴木が銃撃された部分は左胸(心臓の辺り)、頭、肩、睾丸になります。
左胸と頭をいってるあたり、まあ、普通そう思うわな。
安藤率いる兵隊が去った直後に駆けつけた長男は、直径1mほどの血の海に頭をつけて俯せに倒れている父を見ています。


鈴木貫太郎


鈴木本人はというと、この状態でも意識があった。
大至急駆けつけてきた医者が自分の血溜りで滑って転ぶのまで見ています。
ただ医者が処置している間に意識が飛んで、ついでに脈も止まった。
…のですが、輸血がギリギリ間に合って命拾いしています。(輸血あったんや
4発命中している内、頭部は弾丸がこめかみから耳の後ろに抜け、左胸は弾丸が背中に残るという状態。
鈴木は69歳。
本当によく助かったと思う。


2・26事件で狙われた人物は鈴木の他、岡田啓介(首相)、斎藤実(内大臣)、高橋是清(蔵相)、渡辺錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)ら。あと元老西園寺公望も。
斎藤、高橋、渡辺が犠牲になり、岡田、鈴木、牧野、西園寺は命拾いした。

鈴木がターゲットになったのは侍従長という立場を利用している”君側の奸”と青年将校らから見做されたため。
鈴木の侍従長就任は昭和4(1929)年ですので、事件が起こった当時昭和11(1936)年で在勤7年目になります。

珍田捨巳の死去に伴う後任人事だったのですが、就任直前の鈴木の役職は海軍軍令部長。
侍従長になる為に予備役編入というかなり異例の異動になります。

昭和2(1927)年の海軍大演習の際、昭和天皇やその側近らが海軍首脳と接する機会があった。
大演習の責任者は鈴木軍令部長ですから、お上に近侍して様々説明をする機会があるのですがその時に目をつけられたようです。

側近らはこの大演習の際、海軍に密に接して、陸軍と比べて見聞が広いとか、有為で信頼に足る人が多いとか、そういうことを感じたらしい。
鈴木に対してだけではなかったようですが「中でも鈴木だ」と、珍田侍従長や牧野伸顕内大臣が鈴木を随分気に入った。

牧野は大久保利通の次男になります。
当然海軍薩摩派との繋がりがあり、山本権兵衛とも仲が良い。
そうした背景から海軍の雰囲気は大体分かっていたと思うので、鈴木本人を知って余計にそうした感があったのではないかと。
珍田亡き後、後任に鈴木を強力に推したのは牧野です。

ただ鈴木からすると、侍従長云々はいきなり降ってわいた話だった。笑
「無骨一辺倒だから無理だと思う」と断る鈴木を、一木喜徳郎宮内大臣が何時間もかけて説得。
一旦保留はしたものの、結局受けることになった。
いきなり全然違う畑に飛び込むことになった鈴木ですが、
「大船に乗っているような気持でいられた」
と当時の侍従から言われたりして、どっしり構えた安定の安心感がある侍従長だったようです。
わかるわー
鈴木の妻たか(後妻)が幼少時の養育係であったりと、昭和天皇にとっても気安い所があったと思うし。


鈴木貫太郎


また昭和20年、戦争終結時の首相でもあります。79歳。
耳も遠くなっていて、普通に考えたら首相就任なんて無理でしょう。
鈴木は大命を拝辞しますが、
「頼むからどうか枉げて承知して貰いたい」
と昭和天皇に頼まれています。

天皇が「頼む」というのは本当に異例中の異例です。鈴木だけじゃないか?
首相任命は、大命降下、であって、命令なんです。
『タイムスリップ竜馬と五十六』で東条英機が首相に立候補してましたが、立候補してましたが、立 候 補 してましたが、そういう性格のものではないのである。学級会かよ(※電車で読んでて大きく噴き出した)


鈴木内閣は終戦の為の内閣でしたが、首相就任に際しては流石にそんなことは言えません。
鈴木ののらりくらりは、和平推進派である米内光政海相や東郷茂徳外相でもその腹が読み切れず、
「え、これ本当に大丈夫?」
と思うこともしばしば…^^;
最終的には誰もが避けてきた聖断を鈴木が天皇に求めたことで戦争終結が決まった訳ですが、こういうことは鈴木だからこそできたのだろうと思います。
昭和天皇とのそれまでの繋がりやそこからくる信頼、年の功も大きかっただろうけど、こうと決めたら筋を通してしまう腹の据わり方が、鈴木はちょっと常人とは違う気がします。

鈴木についてはサイトに「筋金入り」という文章を載せています。
宜しかったらそちらもどうぞ。


個人的には敗戦時の話など他にも話題がある鈴木より、出来たら亡くなった斎藤実の話をして欲しいと切実に思う。
斎藤だってすごい軍人政治家なんだけど…
特に朝鮮総督時の話なんかしたらいいと思うよ。無理そうだけど。
朝鮮人からも「斎藤さんには会いたくない。会ってしまうと断るつもりの話でもハイって言ってしまうから」
と言われるほどの徳望の持ち主。


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若い頃はシュッとしていて、米国駐在時に体格を良くしたいと毎日ビールを配達してもらい(※間違った太り方)、大家に外聞が悪いから止めてくれと言われたり、人力車を降りる時に顔面から落ちて吃驚した友人を安心させる為に鼻血垂らしながら笑ったり。先に拭けよ実。余計怖いわ。
斎藤実記念館でみた薄紫のシルキーなパジャマが忘れられません(胸元に濃紫のリボン付き)。
服は全部奥さん任せだったそうですん。あれは春子さんの趣味なのか。
好物はほやです。味噌汁も好きで卵3個4個入れて食べたい。コレステロールの摂り過ぎですね。そうですね。
そうめんや甘いものも大好き。
郵送する場合は東京市四谷仲3-44までお願いします。
予め連絡する場合は電話番号600番ですのでお掛け間違いのないように。
(悉くどうでもよすぎる情報)
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パラべラム~堀悌吉(16)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


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大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


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こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)
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栴檀(3)

サイト移行の為下ろします。
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パラべラム~堀悌吉(12)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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大好きな岩手県の雄安倍貞任の御命日です。
今日は前九年の役が終了した日ですな。(1062年)
そういえばこちらのブログに移ってから平安時代の話を書いた覚えがないなあと…^^;
気が向いた時にでもぼちぼち書いて行けたらという感じですか。
ちなみに安倍晋三首相は安倍貞任の弟宗任の子孫になります。すげー。

パラべラム、沢山の方に読んでいただいているようでありがとうございます。
いやー何だか怖くなってきた。笑。
言っときますけど学術研究等の参考にはなりませんぞ。
ここは個人の趣味のサイトですからな。為念。
拍手して頂いた方、またランキングクリックしてくださった方もありがとうございます。
この話冗談抜きで結構大変なので嬉しいです^^;


***


ロンドンからやって来た請訓に大反対!の軍令部。
そんな事は関係なく妥協案を受け入れるつもりの政府。
その間に挟まれる海軍省。

山梨勝之進次官が非公式軍事参議官会議の後、海軍の意見として「米国案の妥協は受諾できない」と浜口雄幸首相に伝えたのが昭和5(1930)3月24日。
浜口がそれに「政府は会議の成功を望んでおり、決裂させるようなことは無理」と返したのも同日です。

翌25日、海軍ではもう一度集まって会議したものの(岡田啓介軍事参議官、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長、小林躋造艦政本部長、山梨勝之進海軍次官、堀悌吉軍務局長)、纏まりがつかない。
その報告を山梨次官より受けた浜口首相の返事は、
「妥協はする、不退転の決意である」
やっぱり意見は変わらない。

更に3月27日に浜口は昭和天皇に拝謁していて、妥協に関する同意を得ているんですね。
天皇のゴーサインに勝る支援はなかったでしょう。


浜口雄幸 岡田啓介


浜口は拝謁後、加藤軍令部長と岡田と会見しています。
この頃には財部彪海相の意志が岡田や山梨次官にはっきり伝わっていたようで、岡田自身が堀軍務局長、古賀峯一高級副官に対して
「大臣の意志がはっきりした以上、省部協力して大臣の意のある所に動かざるを得ない」
と述べている。

その上浜口と会談し、昭和天皇に拝謁して浜口がその決意を更に固めたのを見ている訳です。
分かってはいたけど、妥協以外の道がないということは、一段とはっきり悟ったことでしょう。
その中で浜口に更に三大原則を説明し(7割必要)、更に閣議に出させろとゆする寛治。
なんたるつわもの(一蹴された)。


この頃、侍従長であった鈴木貫太郎も動いていました。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/suzuki.jpg


「何割ないと国を守れない」じゃなくて、「与えられた兵力で国防を考えるのが軍令部の役目」、そうした事を言っている。
実は鈴木、前職が軍令部長でした。
つまり加藤寛治の前任者で、余計に思う所があったのだと思う。
ただ、
「侍従長でなければ諫めることもできるのだけど」
との本人の言葉通り、天皇の側近という立場上何かしら目立って動くということはできません。

加藤寛治が会いに来て妥協不可を力説しても冷静にあしらって加藤を落胆させたり。
伏見宮に面会して、海軍巨頭会議での発言は余程注意を要す、皇族と言う立場と影響力を考えて欲しい、会議決裂の及ぼす影響は大きい、そういった事を言上している。
言上と言うか、釘刺しに近いと思う…


そういうことがあったからなのか、どうなのか。
岡田と山梨が「請訓を丸飲みする、但し政府には条件を付ける」と決め、
加藤は激しく元帥・軍事参議官会議(ほぼ妥協反対)を開くべき!上奏する!と主張していた頃(岡田に一蹴される)、
面会にやって来た岡田に伏見宮はこう言った。(3月28日)


①海軍の主張(7割)は正当なもの、回訓が出る迄は押すべし
②しかし政府が決めたら従うより他なし。2個師団増設問題のようにしてはならぬ。軍事参議官会議は開かぬ方がいい
③請訓通りになれば加藤は軍令部長を辞めるか?辞めさせぬ方がいい
出張で当分不在になるが、その間にもし参議官会議が開かれたら、適当な時期に発表してくれ
 (『岡田啓介』岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)

岡田と山梨大喜び。

もーそらー宮様のお墨付きですよ。
本当にホッとしたと思います。


 ※2個師団増設問題
  大正元年。陸相が帷幄上奏で単独辞任、陸軍が後任を出さなかった為内閣が成立せず倒壊した。
  陸軍が我が都合で倒閣させたと大問題に



岡田は加藤寛治を相手にする一方で、閣議に提出する兵力拡充案を山梨らに考えろ、としています。
これが上の「条件」で、米案の兵力量では配備に不足を感じるのでその補充が必要、軍縮で制限される分野と違う分野を補充してくれ、ということ。
その拡充案が閣議で承認され、その後に回訓案が出来上がります。
それが4月1日。

閣議に案を上程する前、浜口首相は岡田、加藤を呼び、回訓案の説明しています。
それに対し、
 岡田 政府が決定した以上、海軍は最高の方法を考えたい
 加藤 不満であり同意できない 
 山梨 案を海軍首脳に図る。閣議上程はそれから願います

海軍に回訓案を持ち帰り、上の3人、小林艦政本部長、野村吉三郎練習艦隊司令官、大角岑生横鎮長官、末次信正次長、堀悌吉軍務局長で会議。
幾らか修正した後閣議に回しました。
はい。この時加藤も末次もいるわけですが、異論は唱えていません。
軍令部も回訓案を了承した、とみなされた。

閣議においては外相が幾らか訂正を加えた後、問題なしと言うことで、浜口首相、幣原喜重郎外相、山梨次官の発言や説明の後、閣議は満場一致で回訓原案可決。

その日の内にロンドンに打電されました。
はー…ひと段落。


加藤寛治、東郷平八郎、岡田啓介


伏見宮は最終的には政府の決定従えとのことでしたが、もうひとりの海軍の大御所、東郷平八郎はどうだったのでしょう。
回訓が打電された日、山梨次官が経過・結果説明のために東郷元帥の元を訪れています。

山梨に向かって、東郷曰く


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず、
今更彼是申す筋合にあらず、
此の上は部内の統一に力め愉快なる気分にて上下和衷協同
内容の整備は勿論士気の振作訓練本来の使命に精進すること肝要
 (『岡田啓介』)


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず
今更彼是申す筋合にあらず



政府が回訓を決定した以上は、それでやらざるを得ない。
今更あれこれと言う筋合いのものではない。

これですよ。
宮様も東郷元帥も、政府が決めた以上は仕方ないと言ってるんです。
回訓案を承認した。

これがどうして大騒ぎになるのか。


続く


上の写真の解説。

2014_09150284.jpg 
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海軍兵学校15期!(8) 海軍的華麗なる一族

*****

この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

*****


題(笑)

海軍兵学校15期、続き!

石川寿次郎


長兄が石川伍一、弟に石川漣平陸軍中将、甥に石川達三がいます。
石川達三、あの作家の石川達三です。
『生きてゐる兵隊』で国語の便覧に載ってますな。

作家か。
何か書き残していないかと自伝を読んだのだけれど、達三が生まれて間もなく石川寿次郎が亡くなっているので、全然面識はなかった。
達三の父が教師であちこち転勤していまして、その一時的な家として石川寿次郎の家に住んだという記述だけがありました。
その時にはすでに寿次郎は亡くなっており、空き家になっていたとのこと。(『私ひとりの私』)
石川寿次郎の没年は明治39年、公務中に乗り組んでいた厳島で亡くなっている。

兄弟の中で一番有名なのは恐らく石川伍一で、この人は日清戦争の前から清国で海軍の諜報活動をしていた。
戦争が始まると周囲から帰国を勧められたのだけれどそれを断り活動を続行、その内清国側に捕まりまして、銃殺されています。



あと面白いな~と思ったのは、平原文三郎という人物。
ハンモックナンバーは79!(笑)
分かっている段階では最終ランクが中佐、大正6年には南洋、オランダ領のとある島に移住しています。
中佐だったら、日露戦争終わってすぐ位に海軍辞めたのかな…

移住して何をしていたかと言うと、フルーツと天然ゴムの栽培をしていた。
農場経営をしていたんじゃないかと思う。
いやー…一体どういう経緯だったんでしょうね。笑
小杉辰三の方なら、まだ納得するんですけど、平原の場合は海軍と隔たり過ぎてる気が…^^;
ゴムだけならそうかなと思わん気もないけどフルーツて。


小杉辰三の兄が、北海道開拓に関わった後台湾に移住してるんですよ。
その後厦門に移り、そこから家族に「1・2週間程出かけてくる」と言ったきり帰ってこなかった。
東南アジアを転々として、最終的にはパプアニューギニアに住んでいたようです。
待てども帰ってこないので家族は日本に引き上げてしまった。
で、結局小杉兄が帰ってきたのがン十年後…。

南方興進の為に活動していたようで、その援助を募るための帰国だった。
その時に弟が財部彪や竹下勇と同期であった誼から力添えをしてもらって、古い軍艦を貰うという所まで話が発展したらしい。(昭和7・8年)
ただこの兄が帰国中に風邪に罹って亡くなってしまい、その話はなくなったようです。
当時の新聞にそういうことが載っていた。
これってもしかして平原と面識あったんじゃないの?と思う訳です…^^;



華麗なる?一族というか、華麗なる?親族。海軍編。

山中柴吉


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0709.gif

これは以前このブログで触れたことがありますね。
山下友彦は山下源太郎の養嗣子です。書き忘れました。

黒井悌次郎と山下源太郎のラインがどう繋がるのかがよく分からないのよ…
あと、どういう繋がりかが分からないけれど、山本五十六の妻方の親戚に南雲忠一がいるとのこと。
山本五十六のお孫さんがネット上のインタビューで仰っていました。

ちなみに山下源太郎は海兵10期、広瀬武夫の兄広瀬勝比古の同期で、仲が良かったそうですん。
一緒に写ってる写真が手元にある。

(訂正:山口多聞と奥宮正武の妻は四竈の兄の子です)
(加筆修正版はこちら



岡田啓介、向井弥一


系図的に更に難易度が上がるのがこちら!
ごめんね!これ以上小さく作れなかったの!

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0709_03.gif


個人的には

 こんな感じ。


日露戦争の際中堅以上で有名な方の名前に色を付けました。
立見尚文、鈴木貫太郎、岡田啓介、佐藤鉄太郎、小笠原長生、東郷平八郎、向井弥一、正木義太が親戚である!

訳分からん。


『佐藤鉄太郎海軍中将伝』(石川泰志/原書房/2000)の系図を参考にしました。
多分合ってると思うのだけど、ここまで入り組んで来ると正直自信がない!^^;
どっ、努力は認めてよね!(笑)
というか、佐藤伝も2か所、ケアレスミスがあるんよ…

向井弥一が繋がるというのは、数日前にご子孫様から教えて頂いたホットな情報です。
流石に驚きました…
藤江兄弟の姉妹が、向井の後妻さんだそうで。

兄の藤江逸志は機関科の将校で、栗田富太郎の同期になります。



今のところはこんな感じかな~…
他には旅順閉塞に参加した人(実施部隊・掩護部隊)も複数いますし、唐津の町長になった人もいる。
日本海海戦時、信濃丸の副長で金鵄勲章をもらった人もいます。
公家じゃないかと思う人がいるのだけど、ちょっとよく分からなかったり。

あともうひとり、なにー!と思った人がいるのだけれど、その人の事はついでではなくきちんと書きたいので、また後日ということで。
個人的には竹田市に寄稿してもいいネタだと思う。笑


とりあえず海兵15期!はこれでおしまい!
もう少し書きたいこともあるけれど、そんなに掘り下げても…という感じかな、と思わんでもない(笑)
そういう感じなので、折を見ておいおい書いて行こうかと思います。
個人的にほっこりするような話も、広瀬が絡んでいる話も結構あるんだぜ…

また15期関連で何か情報があったら教えてください。ぜひ。
広瀬絡みならなお歓迎(笑)

ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました^^


秋山の連載からほぼ連日更新で疲れたわ~
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