Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(16)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312231245042af.jpg


大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014822_3.jpg


こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)
関連記事

パラべラム ~ 堀悌吉(4)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


NHKの山本五十六特番の再放送ですが、8月30日の午後2:00~3:50にあるそうです!

BS1 山本五十六の真実 (別窓、外部リンク)

もう少し後かと思ってた。危なかった…^^;
MVさんありがとうございます。

「パラべラム」の続きはサイトに持って行くかと思ったのだけれど、それだけ再放送が近いならブログでちまちま更新する。
堀さん傑材なのに山本五十六の親友というレベルでの紹介で終わるばかりなのが悔しいのである。





続き。


堀が軍務局第一課の課員になった当時、大正7(1918)年の海軍大臣は加藤友三郎、次官は栃内曽次郎。
軍務局長は井出謙治で、軍務局第一課長は山梨勝之進でした。

海軍省軍務局第一課。
海軍省で中心になるのが軍務局、海軍軍事行政の話がここに集約される。
その中でも第一課は軍政系統の枢要中の枢要で、本当に仕事ができる優秀な人が集められる。
第一課長→軍務局長→次官→大臣というのがひとつの出世コースになります。

前回書いた堀への誹謗中傷がどれだけ謂れのないものか、こうした所に堀を持ってきた人事局と海軍大臣が彼をどう見ていたか。
配属された部署からおおよその見当が付きます。


栃内曽次郎も井出謙治も、山梨勝之進もこのブログではもう結構名前が出てきています。
栃内は岩手出身。
15歳上の兄が栃内元吉(陸軍)で、この人は盛岡の作人館で原敬と同室になった縁から生涯に亘る友人であったことは「岩手人脈(2)」で触れました。
井出と山梨は今は特にいいですか。



当時海軍は88艦隊(戦艦8・巡洋戦艦8)の建造に邁進していました。
ただね、当時の日本はホント~にビンボーなので、財政的に無理がかかりまくってるんですよ。

シベリア撤兵もできず出兵費用かかりっぱ(シベリア出兵大正7年~)、原敬が首相の頃には株価が大暴落(T8)。
その上に世界大戦終結の反動で大戦景気が一転、戦後恐慌に陥ります(T9~)。
海軍軍縮会議(T10)を挟んだものの、そこに追い打ちをかけたのが関東大震災(T12→震災恐慌に)。

不況と言えば昭和初期の印象が強いですが、実はそれは大正からの財政問題が連綿と続いた結果ですわ~
大正期は大戦景気の数年を除けば慢性的な不景気、不況です。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014826.jpg 大戦景気の頃の成金


大正初期の段階で日露戦争時の借金の利子さえ払えない状態に陥っており、世界大戦がなかったら日本は確実に財政破綻してました。
財政問題に限らず対21ヶ条の要求やシベリア出兵で国際的にも孤立しかけていて、実に危うい綱渡りをしているのが大正という時代。
いつもすれすれの所で不思議と救われている。


こうした状況の中での88艦隊計画。
海軍の状況を見ると、どうしても達成したい、その理由も気持ちも分かるんです。
戦勝国なのに、海戦では大勝利だったのに、その後の建艦技術の発展の速さについて行けず、海軍は三流・四流になってしまっていた。
(詳細は「H'sシップヤード」(の日露戦争後・大正期の話)をどうぞ。当時の建艦について)
でも無理なんだよorz

大正10年の海軍費 → 国家予算の3割

海軍だけで国家予算の3分の1を使ってる!
国家は海軍だけで成り立ってるんじゃないんだよ~

大正7年の時点で、既に陸海合わせた軍事費が国家予算の半分なんです…
その上88艦隊が完成したら、その維持費だけで国家予算の半分が必要とされた。
艦隊の!維持費!だけで!

そらー無理ですわ。
どう考えても無理ですわ。


ただ建艦競争に財政的に苦しめられたのは日本だけではありませんでした。
他の欧米各国も同じで、それでいっちょ話し合おうぜ、とアメリカからお誘いが来たのが大正10(1921)年の夏。

同年秋にアメリカワシントンで開催される海軍軍縮会議に出席する全権代表に、原敬首相は加藤友三郎海相を指名しました。
この辺りの話は「Odd Priority(の3)」と「原敬と加藤友三郎」に書いたのでそちらをどうぞ。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014826_2.jpg


この会議のためにワシントンに赴いた海軍の全権委員は加藤寛治。
随員は山梨勝之進、末次信正、野村吉三郎、永野修身、上田良武ら各大佐。
堀悌吉中佐、佐藤市郎少佐、桑原寅雄大尉、三戸由彦機関大尉、武井大助主計少佐、榎本重治海軍省参事官がいます。


続く。
関連記事

ワシントン海軍軍縮会議のころ

*****

この話は3回シリーズです。若干加筆の上サイトに纏めて移行済み。
そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 大正、昭和 よりどうぞ。
題は 加藤友三郎の話 に変わっています。

*****



山梨遺芳録より (第9回)


全権大使の主席に軍人をもってくるというのは、国際的には中々微妙でした。
軍の文民統制が当然のことになっているアメリカやイギリスからすると、こういう場面に軍人が一番に出てくるのはどうかという感触だったみたい。
全権首席に加藤友三郎を据えるというのは、当時の国内状況諸々を鑑みてベストチョイスであったけれど、政軍関係の在り方の違いから、欧米にはそれが理解されないんじゃないかという懸念があった。
それに大正に入ってから日本がやってきた事をつらつらと思うに、日本の軍人は軍国主義者だと思われても仕方ないわ…^^;

アメリカ側は全権のひとりであった幣原喜重郎にわざわざ「提督や大将は全権じゃなくて、顧問か委員にした方がいい」とまで言ってきたようです。
確かにそうだけれど、日本の国情はそれを許さない。
それでどうしたかというと、幣原は加藤に注文を付けた。


各国の全権がワシントンにつくと、アメリカ側の代表であるヒューズを始め国務省から出迎えが行く。
イギリス全権バルフォアに対してもそうで、両側に群衆が一杯いて、帽子を振って盛んに日本でいうバンザイをする。
恐らく加藤全権に対してもそうだと思う。
向こうが帽子を振って歓迎したら、こちらも帽子を取って、にこにこ会釈してもらいたい。
それから軍服でなく、平服でやって来てもらいたいと、その副官に伝えさせた。
 (『外交五十年』 幣原喜重郎/中公文庫/1987)


無愛想禁止、軍服もアウトにして、少しでも印象を良くする作戦。(……)
引用中の副官は野村吉三郎じゃないかと思う。
で、加藤は言われた通りにやったのかといえば、やった(笑) 
やったんだけど、めっちゃ不機嫌(笑)


君が余計な注文をするから、平服を着て帽子を振ったが、もう君の注文は肯かん。
おれはあんなことが嫌いだ


そらーまー加藤と言えば冷徹・無口・無愛想で知られた人ですが。
そこに孫がいると思えば出来たんじゃね?(笑)エア孫(笑)
ワシントンの大使館に着くや加藤は幣原をつかまえて苦情を言い放ったのだけれど、豈図らんや加藤の評判はめっちゃ良かった。
幣原曰く、チャーミング・アドミラルと言われたそうです。
そして幣原の一言。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/katoutomosaburou.jpg


幣原…(笑)
ただ、この会議で一番人気のあった全権は加藤であったようです。
それは幣原の想像を上回っていて、ヒューズも「あの人は、誤魔化しとか、嘘をつくことを絶対にしない人だといって非常に信用していた」。

『山梨遺芳録』を見ていると、新聞記者にも非常に評判が良かった。
加藤の無愛想は幣原ならずとも気になったと見え、山梨も「アメリカは新聞万能の国だから、新聞記者への対応は余程はしっかりしてもらわないと困る」、そういう事を伝えたらしい。
ただ蓋を開けてみるとそれは杞憂で終わった。
それというのも、向こうの新聞記者の狙いが日本の新聞記者とは違い、愛嬌があるとかお世辞なんかはどうでもよく、質問を浴びせた時に相手がどんな表情をするかが大きな関心事であったから。
難しい質問をされても、冷静に簡潔、明快に要点だけを即答する、そんな加藤の姿勢がよかった。

当時の新聞記者の話に山梨は何度か触れているけれど、日本の新聞記者と比べて随分思う所があったようです。
確かロンドン海軍軍縮会議の時だったと思うけれど、当時次官で内地で骨を折っていた山梨は非常に丁寧に新聞記者に対し、すごく評判が良かったらしい。
ただ、その裏でどういう事を思っていたかというと、


外国の新聞記者は、格が違って、英国あたりの有力な新聞雑誌の一流記者となれば、
自ら総理大臣や外務大臣になったつもりでその責任においてものを書く。
これは、書いてはいけない、これはまだ時機が早い、このように書かなくてはいけないと、国家的見地から筆をとる。

日本の記者には、そんな見識は毛頭なかった。
ただ、抜けがけの功名をしようとする自己本位であった。
ひどいのになると、これをもって政争の具とし、倒閣の具に利用しようとし、まったく外国とレベルが違うのである。


またこうもあります。


日本は新聞が悪い。商業政策からでもあろうが、ことさらに事をまげて、ときの政府に楯つく。
これが、大衆をあらやまらしめて、ときどき馬鹿者が出る。

(『山梨遺芳録』)


本当に、山梨は色々と思う所があったのだと思う。

この辺りを読んだ時は「新聞はこの次の一大事の時にも国を誤るだろう」と断言した山本夏彦を思い出しました。
今は新聞もさることながらテレビの方が輪をかけて酷そうだけれど。
商業政策という事からいえば、高校野球も元はといえば新聞を売るために新聞社が始めた催しです。

夏暑い → 新聞読む気なくなる → 新聞売れなくなる → 何とか読ませたい →
 高校生に野球をさせて報道しよう → 各都道府県から代表を出せば万遍なく売れるんじゃね?

嘘かと思うかもしれないけどほんまやで。


短いけど今日はここまで
関連記事

戦艦三笠のストライキ(続)

山梨遺芳録より (第2回)


明治三十四年の秋に、副長西山(実親)中佐のひきいる後発隊(<略>)が信濃丸で到着した。<略>
当時三笠は、未完成ながらどうにか居住ができるようになっていた。
ハンモックも釣れるし、賄所もできた。
それに艦の構造にも馴れさせるため、信濃丸が着くと、早速兵員は、艦内に居住することにした。
准士官以上は、まだ艦内居住ができないので、当直は艦にとまるが、そのほか(二十名)は外泊(下宿)することになった。
これは、一つには、士官に英国の社会生活を味わせるという、艦長の趣旨もあったのであろう。

ところが、ここに兵隊の不平が爆発した。
士官は、背広で毎日外出して、いいものをたべ、立派な下宿にとまり、いいことをしている。
われわれは、ゴミだらけの艦内で、ガチャガチャとやまかしいハンマーの音を耳にしながら、不自由きわまる生活をしている。
われわれを牛馬と思っているのかというのである。

兵隊にも輪番に外出を許してあったが、ことばが通じないで面白くないのであろう。
外泊と艦内生活では、天地の差である。
こうなると、兵隊の感情というものは、きわめて尖鋭化するものである。
副長の指導にも不十分の点があったようであり、もっと気のきいた臨機の処置をとればよかったのだが、すでに兵隊がいうことをきかなくなっていた。
暴行非礼をしたわけではないが、兵隊は、中甲板に立てこもって、ハッチをしめて、一切でてこない。<略>

一種のサイレント・ストライキであった。こんな状態が三週間ぐらい続いた。
向井弥一などという精神家の分隊長もいて、さかんに説得したので、ようやくおさまり、艦長は、主謀者を行政処分にして、事件は一段落した。
ところが、三笠が内地に帰ると、山本海軍大臣が承知しない。
将来のために、厳重に処分する要があるとして、本件を軍法会議に付し、司法処分にしたのである。
 

向井弥一がいる!
向井は海兵15期、広瀬武夫の親友のひとりです。
ちなみに艦長は早崎源吾(3)、副長は西山実親(8)。野村吉三郎(26)や清河純一(26)もいた。
山本海軍大臣は山本権兵衛です。
 
http://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/rengoukantai.jpg 清河結構イケメン


山梨勝之進の話からすると、本当にこれは単なるストライキっぽいのだけど…
まあ不正があったとしても山梨が上司や同僚のそういった行為を口にする事はなかっただろうけど、前回書いたような
この反乱は、監督将校や下級将校の収賄事件に発するもの」(『戦艦三笠の反乱』)
というのは、やっぱりちょっと違うんじゃないかなあ。
ちょっと悪く見過ぎてる気がする。
ちなみに「ストライキは3週間程続いた」とあるけれど、『戦艦三笠の反乱』にある同事件の判決文を見ると4・5日で解決してます。

山梨の話だと、司法処分にした、というだけでこの事件についてはこれ以上の続きはありません。
ただ、この軍法会議の史料ってあるのかしら。
ないだろうな(取り扱いが微妙なので)、と思ってアジ歴を見てみました。 
軍法会議そのものはやっぱり見つからなかったのですが(探し方が悪いのか)、関係史料は出て来た。

『35年9月30日 呉鎮機密第322号の2を以て軍艦三笠乗組兵員の非行事件の件』(C10127693400)


あー…サラッとしか見なかったけど、これ、結構な事件扱いになっているっぽい…
そらそうだよね。軍隊において上の命令は絶対です。
下士官や水兵に不満がある度にこんな事をされたら立ち行かなくなる。
上の史料の中では、将来に悪弊を残す可能性がある、という事が非常に懸念されていました。
まさに、


ところが、三笠が内地に帰ると、山本海軍大臣が承知しない。
将来のために、厳重に処分する要があるとして、本件を軍法会議に付し、司法処分にしたのである。



これ。
籠城に参加した下士官らは軍法会議にかけられ処分されています。


それと、『山梨遺芳録』でも『戦艦三笠の反乱』でも触れられていませんが、当然ながら監督者の責任問題に発展しています。
何が問題になったかというと多分、「艦長は、主謀者を行政処分にして、事件は一段落した」、ここの部分。
この「行政処分」というのが一体どういうものか分からないけれど、アジ歴史料を見ていると、艦長らはこの事件の関係者を罰せず、どうやら実質的には不問に付したらしい。
許しちゃったか。

確かにこれはまずいよ。
とは言え事件が起ったのがイギリスで、下士官水兵ほぼ全員がストライキに参加したという状態。
史料に含まれる早崎艦長の報告書によると、士官らと意見を出し合って、三笠を本国へ恙無く回航するという本来のミッションを最優先にした結果がこうだった。
読んでいると、これは海軍士官、しかも艦長としては屈辱的な判断だっただろうなー…と思う。

それを個人としては理解できても、組織としてはやっぱりまずい訳で。
海軍省や呉鎮守府(当時三笠の艦籍は呉)といったトップ、関係局とのやり取りの中で、早崎艦長らの下士官らに対する「処分ハ失当ニシテ責ヲ免レサル」、そう書かれている。
彼らの上官である艦長、副長、分隊士の当時の対処は適切だったか、責任を取らせる必要がある、とそういう事が書かれている。


で、その後どうなったかというと、史料がこれだけであとは分からない(笑)
ただ上が考えていた責任を取らせるべき人って、恐らく報告書(顛末書?)を出していた早崎艦長、西山副長、向井分隊長だったと思うんです。
西山と向井は、どういう処分が下されたのかは分からない。
随分ミソは付いただろうとは想像しますが。

艦長だった早崎にもどういう処分が出たのかは分からないのですが、経歴見てたら、うん。
責任取らされてますね、これ。
明治35年11月末に下士官らの軍法会議が終わり、翌年の1月、つまり事件が完全に終わった段階で待命、6月に名誉昇進で少将になって予備役編入。
要するにクビだ(※正確には引退)。

折角の新進の新造艦、その艦長だなんてめちゃくちゃ名誉な役割だっただろうに、なんと言いますか。
気の毒だ…


ちなみに前回書いたこの事件の時の当直中尉、アジ歴史料によると清河純一だった。
向井と清河が随分頑張って説得していたみたい。

関連記事

石部金吉金兜(続)

 『条約派提督 海軍大将谷口尚真―筆録『鶏肋』に見る生き方

前回の続き。

谷口の名前がよく見られるのはロンドン海軍軍縮会議~満州事変の辺りだと思います。
上の本の題名にも「条約派」とあり、そこから想像できる通り対外協調路線の人、海軍良識派のひとりになります。
軍縮条約を締結するのにも随分尽力した。 

満州事変当時、谷口は海軍軍令部長だった。
アメリカとの戦争に繋がりかねないという理由で満州事変には絶対反対、参謀本部から艦艇を派遣してくれと要請されても断っている。
そうした国際協調に重きを置く人は内部からは評判が悪く、周囲(いわゆる艦隊派)からのご注進を受けた東郷平八郎元帥が谷口の姿勢を弱腰と面罵し責めたという話が残っています。
東郷元帥はすごい人だと思うけど、最晩年は周囲から担がれて利用されまくって、本当に老害としか言いようが…

谷口が没したのは昭和16(1941)年10月31日という本当に開戦の直前ですが、前年に野村吉三郎が駐米大使としてアメリカに赴任する際、
「何としてもアメリカとの戦争にはするな」
と病床で涙ながらに口にしていた姿を家族が目にしていると本書にはあります。
国の行き先が心配で心配でたまらなかったんだと思う。
あの辺りの歴史を見ていると大角人事といい、なんでこう良い人材ばかりが放逐されていくのだろうと本当に息苦しくなってくる。
そして組織を生かすも殺すも結局は人だよな、とも思います。


前回も書いた通り、谷口は周りから窮屈に思われる程の謹厳、堅苦しさであったけれど、それが非常にまじめで几帳面、フェアな人だという人物の評価に繋がっていたようです。
財部彪海相が谷口を軍令部長に推した際、昭和天皇に申し上げた谷口の人物評は、
「穏健で公平、大局からものが見られる人物」

井出謙治(16期)は奥さんが花柳界の出だったそうですが、彼が結婚した時の人事局長が谷口だった。
海軍士官の結婚には海軍大臣の許可が必要なのだけれど、谷口が差し支えなし、大丈夫と太鼓判を押したなら問題にならない。
そういう風に周囲から見られていた人だったみたい。


本書には谷口の没後30日祭時に海軍関係者が話した追憶の要約が4つ載っていて(財部、鈴木貫太郎、安保清種、中川繋丑)、鈴木の話が面白かったです。


明治三十三年に私は海軍省軍務局におり海軍大学校の教官であったが、ちょうど甲種学生の募集があり、谷口君はそれを受けられた。
当時の選考委員は熱心で、将来の立派な将校を養成しようというのにただ筆記試験に落第したからといって除外されるのはおかしいという意見が出た。
忙しい人は筆記試験の準備ばかりしているわけには行かぬ。
筆記試験を落第した者のうちにも必ず立派な人がいるだろうから、それを斟酌しようじゃないかということになった。
そこで落第した者のうちから求めようということになって、考課表をすっかり調べてそうした人物を選んだ。
その中に谷口君がいた。
またその人物を保証する人がいることも選考の条件とした。
私は谷口君なら保証すると申し出た。
口頭試験は教育本部長はじめ偉い人の前で受けるのだが、実は谷口君は口頭試験で一番、筆記試験は落第しても口頭試験は一番。
このことは恐らく谷口君もご承知がなかったろうと思う。



海軍教育本部?そんなのあったの?
手元にある軍事事典で調べたら、明治33年5月設置になっているので、当時まだ出来たばかりの機関ですね。
大正12年に廃止になり教育局に改められている。
初代本部長は諸岡頼之でした。すいません知りません。
しかしながら、

将来の立派な将校を養成しようというのにただ筆記試験に落第したからといって除外されるのはおかしいという意見が出た。<略>

筆記試験を落第した者のうちにも必ず立派な人がいるだろうから、それを斟酌しようじゃないかということになった。

こうした記述を見ると海軍兵学校での成績が悪かった広瀬武夫が海外留学生に選ばれた雰囲気というか、そういうのが何となく分かるような気がします。
読んでいて、あ、すごくいいなと思ってしまった。笑 


本の内容は訓示なので、まー…堅苦しい話が多いです^^;
ぶっちゃけると読み飛ばしもいい所(笑) 読み飛ばすも何もあまり読んでな(以下ry
ひとつ印象に残っているのが「大正十五年十二月 呉鎮守府長官時代 幕僚ニ訓示」というもので、東洋風の豪傑と西洋風の名将の用兵の術と、どちらがいいのかという件がある。


自分は今まで多くの先輩について以下のような観察をしてきた。
幕僚であったり各部局の部員・局員であった時は口八丁手八丁で企画立案等に優れ、部内で推服された人物でも、
ひとたび司令官なり局長になると、多くは沈黙、威を仰ぐ人になり、盲判を押す人になってしまうようだ。
而シテ部下統御ノ秘訣ハ、一ニ韜晦シテ、知ツテ知ラザルガ如ク部下ニ一任シテ疑ハザルニ在リトスルノデアル。

確かに東洋風という感じ。
日露戦争時の大山巌が彷彿と頭に浮かぶのは私だけ?
といっても『坂の上の雲』に描かれた大山の態度は、あれは資料で見る姿とは大分違うみたいだけど。
(※韜晦…自分の本心や才能を表に出さず隠す事)

これを西洋の名将の用兵と比較すると明らかに違うように思う。
自分はどちらが果たして将としては良いのかと多年迷っているが、
所謂東洋流ノ豪傑ノ遣リ口ハ已ニ過去ニ属スルモノデアツテ、
嘗テハコレモ亦用兵統率ノ術ニ叶ツテ居タニ違ヒナイガ、
現今ニ在テハ、斯クノ如キ「ドクトリン」ハ最早決シテ学ブベキモノデハナイト思フノデアル。


谷口の言葉から、時代が明治とは随分変わったんだなという事を感じます。
明治と大正の終わりでは社会の様子も随分代わり、軍事技術も話にならない位発展してますから、近世を引き摺る統率のあり方では、というか、近世を引き摺る統率のあり方だけでは、もう時代について行けなかったのではないかと思います。
明治維新からすでに半世紀以上経ってるしね。
謹厳居士とか真面目とか言われると頭が固そうな印象だけど、谷口は割とフレキシブルな人だったんじゃないかなー

本はあんまり真面目には読まなかったけど^^;、借りて良かったです(笑)
  
エントリの表題が石部金吉ですが、”融通のきかない頭の固い人”じゃなくて”生真面目で物堅い人”って感じでお願いします(笑)
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)