Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

薩摩Jr.

12月初めは薩摩の人の誕生日が多いんですよね。
初旬に桐野利秋、篠原国幹、西郷隆盛の誕生日が固まってる。
篠原さんの誕生日を、私はずっと12月4日だと思っていたのです。
竹下勇(この人も薩摩人)の誕生日が12月4日で、おお一緒だと思いきや、冬どんは5日だったみたい。
ずっと間違えて覚えてたorz
辺見十郎太が11月初旬で、何か書こうと思いつつそのままスルーしてしまった^^;へへ
ごめんね辺見君。

辺見には勇彦(ゆうひこ)という忘れ形見がいます。
薩軍が城山に籠城している時に誕生したので、父子は一度も対面していない。
父が”賊軍”となってしまったとはいえ、薩摩の猛将辺見の息子ということで周囲が陸軍に入れようとするのですが、本人が勉強大嫌い。
陸軍の幼年学校k、士官学校、年限ぎりぎりまで試験を受け続けるも全滅。
同郷の誼で高島鞆之助、次いで上原勇作が家に寄留させてくれていたのですが、余に不真面目なので面倒見切れんと放り出されてしまった。笑
ただ後に理解してくれる人が現れ一念発起、日露戦争の頃には現地で馬賊を率いて後方活動に従事しています。
偵察で手柄を立てていて、その結果奉天将軍府顧問格という結構な役職に就くことになった。
そういう人。
詳しくはサイトに「忘れがたみ~辺見勇彦、馬賊、日露戦争」という文章がありますので、そちらをどうぞ。


誰かの息子という話では、大山巌の次男、大山柏が陸軍に入っています。
地元図書館に『金星の追憶』があってちょっと驚いた^^;
夏頃に借りて読んだのですが、面白かったです。
しかし親と同じ世界に入って、しかも親が陸軍の親玉のひとりと言うのは本当に大変だ。
柏は考古学でかなり名の知れた人です。
私は元々考古学者だと思っていたのですが、陸軍さんだった。
それも陸軍を辞めてからそちらに進んだのかと思っていたのだけれど、陸軍に在籍していた時からだった。
そちらの方に進みたくて、陸軍を辞めたくて仕方なかったみたい。(認められなかった…

大山元帥の息子ということで、大先輩から声を掛けられることも多かった。
雷親父と称された上原勇作の話が結構出ていました。

陸軍大学校の参謀旅行で福岡に泊まっていた際、当時参謀総長であった上原勇作(の副官)に呼び出された大山柏。
公用じゃない、和服で良いから早く!と副官にせかされて上原の宿舎に行ってみると、別嬪の女将相手に飲んでいた。
顔を出すや、

上原「この人は若いが学者だ。だからそのことも知ってるだろうと思って呼んだ」
女将「あらあらうふふ」
大山(何の話)
上原「福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門が奥さん(白蓮)と寝る時、若い女をもうひとり連れ込むって女将から聞いたんだけど、三人でどうやってするもん?」
大山「」

呼び出されて聞かれたことが3(自重
大山曰く「大変な難問題だ。これは参謀旅行の問題よりずっとむつかしい」。
一応考えて答えたんだぜ…(笑)
若い方は当て馬で、緒戦用なのではないでしょうか」(その答え)(間違ってた)
緒戦用…流石陸軍(笑)

大山柏は次男なのですが長男は高といって、こちらは海軍に入った。
ただ少尉候補生の時に軍艦の事故に遭い亡くなっています。

大山巌の従兄弟、西郷従道の四男と五男も海軍に入っています。
四男は上村彦之丞の養嗣子・従義(山本権兵衛の娘婿)、五男は機関の方に進んだ従親。
親の西郷従道が海軍大臣まで務めたのに、兵科と比べると冷遇されていた機関の方に進んだというのは若干奇異な感をうけますが、どうも政治的なあれこれがあったみたい。
よく分からん。
機関に進む人が少なかったため大臣の息子に率先して進ませたのでは、という話は読んだことがある。

軍艦が石炭で動いていた頃、如何に少ない煙で軍艦を動かすかというのが腕の見せ所だったそうです。
1隻ならとにかく複数だとそれが如実に分かってしまうため、こっちの煙が濃いと兵科士官が機関の苦労も知らず、「もっと煙を少なくしろ」「もっと」「もっと」と要求する。
ついに「煙を出すな!」と怒鳴ってしまい、
西郷従親 「分かった」
煙を出さない→石炭を焚かない→軍艦を止めた、という話がある。


ジュニアの話も中々面白い。
とはいえ親の存在が大きくて子供が苦労する話が大変多く、なんだか気の毒な気持ちになる。
関連記事

eat a ***

森鴎外のお芝居のチラシの裏。

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08170236.jpg

該当動画を探して見たのだけど、森鴎外がどこにいるかなんて全然分からんかった^^;
ただ軍人さんがたくさん写っていたので、名前打ってくれたら知ってる人がかなりいるんじゃないかと想像…


『海軍王国の誕生』を読んでいて面白かった記事がちらほら。
前に山縣有朋の派閥に属した内務官僚、平田東助の甥が建築家の伊東忠太だと書きました。(Nabal Tribe参照)
海軍の山下源太郎も割と近い親戚になります。
その伊東忠太が自分の幼少時代を自画伝という形で書き残している。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08170228.jpg


妙な叔父さんだと思った。

妙な叔父さんだよね確かに…
つーか平田、あんたいつから異人さんになったw


あとこれ。
食人発見orz

内容的に少々グロし。閲覧注意。











http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08170229.jpg


犬や猫を捕って食べるというのは明治初期でも結構見る。
攻玉社でも猫捕まえて食べていた人がいると山屋他人の証言もある。
近世では割合普通の事だったのだと思う。
赤犬がおいしいっていうもんね。
(うちの柴犬に赤犬っておいしいらしいよー^^と話しかけると逃げていく。良くないことを言われていると雰囲気で分かるらしい。笑)
というか薩摩にはエノコロ飯というのがあってだな…
犬好きには耐えられないので気になる人は自分でググれ。


食人はどうなのかなー
昔、縄文人が人肉食べてたこととか、薩摩のひえもんとりとか、書いたことあるけど。
伊東のこれだけ見て一般化は出来ないよなあ。
ただこれ見てると人肉食べるのにあんまり抵抗なかったのかな、という。

薩摩は本当に独特の風俗だよね…
いくら尚武の風といってもここまでしてる所は他にあるの?っちゅう。
ひえもんとりとかその最たるものだと個人的には思いますわー。

知らない方の為に書くと、ひえもんとりは処刑された囚人の死体から生肝を取る競技です。
参加するのは下級武士、若い人(二才_にせ)。
刃物の使用は厳禁で使うのは己の体のみ。
後は何してもよかったらしいけど、刃物使わずしてどうするかって、腹を噛み破るんですよ。
oh…
この辺りは鹿児島出身の里見惇が『ひえもんとり』という短編で実況中継的な話を書いているので、興味のある方はそちらをどうぞ。
老若男女が楽しそうにひえもんとりを見学してます。
(『里見惇 宇野浩二集』 日本文学全集21/新潮社/1964)

ひえもんとりの勇として有名なのが辺見十郎太ですが、『明治の群像(3)』(谷川健一/三一書房/1968)のコラム欄にこうあります。著者は村野守治(鹿児島出身)か。


学生時代に西郷隆盛以下を祀る南洲神社の例祭の折、(九月廿四日の城山落城の日)、薩軍生残りの古老から聞いた。
それによると辺見さんは薩軍随一の豪傑で、味方が退却すると逃げないように斬り殺したといわれているが、実際はそれより乱暴だった。
逃げたものを斬っただけでなくその生き胆を私等部下に食べさせて、お前達も逃げるとこのようになるぞといわれたのにはびっくりしたものだ。
辺見さんはそのように気性のはげしい人であったとその従軍した古老は語ったという。
ある友人から聞いた辺見十郎太の一面である。



辺見が逃げる味方を斬り殺したという話は有名。
有名な一人歩きの話かと思いきや随分前に史料に出ているという話を見たことがあったのだけれど、これを見た時は流石にびっくりした。
というか話を聞いた薩摩人でさえビビってる^^;
辺見…
君は生胆は平気なのにどうして漬物なしで白米が食べられないのか。
Vanish!(2')の参照)


人間の生き胆といえば、首切り浅右衛門(山田浅右衛門)が思い浮かびます。
副業として刀の試し切りと、処刑した死刑囚の胆嚢等薬として売れる部分を売却する特権を持っていた。
かなり高価な薬になったらしい。


今とは随分違う倫理観があったと思われますなあ。


少将グロしとか閲覧中尉とか艦内閲覧とかなんか愉快な一発変換してくれる我がパソコン。笑 
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)