Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

財部日記 第2弾

帰ってきた。
え、何処からという感じですが広瀬武夫の勉強会@東京に行ってきたー。
色々お話しを伺ってきましたぞ!
皆さん熱い方ばかりで私場違いだったんじゃないかと心配。
迷惑ではなかっただろうか。
 
そして頂き物!


グッズ 


クリアファイル(竹田市の)とサクマドロップ。
ビスコとチロルチョコがカスタマイズできるのは知っていたのですが、サクマドロップまでとは…(笑

午前は国会図書館に行ってきました。
引き続き財部日記を見てきた。
今回はあんまり収穫はなかったのだけれど、ぺらぺら見ていてたら、


財部日記 


お?と。
伊木壮次郎の話が出ていた。
明治28年7月11日条で、病気で加療のため鹿児島の自宅に帰っているという話を聞いて吃驚とある。
以前書いた諜報のことと関係あるのかなあとも思うのだけれど、さすがに1年前…
否定するのも肯定するのも微妙だわあ…


あとここ。


財部日記


財部の結婚式当日の日記。
薄すぎて読めないよ!でも広瀬って書いてある(※根性)
この日ともう1日について、職員の方と交渉したら、本当に特例ですよって現物を見せてもらえた…!

B6サイズほどの小さい日記帳だったよ。
そこにめっちゃ細かい字で書いてあるの。明治30(1897)年、119年前の日記。
上写真の薄い所は青の万年筆っぽく、急に濃くなっている後半部分は毛筆。なぜ。

もう1日の薄いところは、鉛筆(きっと先の丸まったやつ)でした…
職員の方に「これは読めないですね」と言わしめた!(笑)

上写真の話は、広瀬とあるから、向井弥一の名前も出てくるのかと思ったのだけれど、そうではなかった。笑
巳丑会(クラス会)のみんなで何か贈るから、何が欲しい?ということを広瀬が代表して聞いてきたという内容。
置時計か、盃か、花瓶のどれかがいいと返事したんですって。
関連記事

プリペア

そろそろ財部彪日記を見に行くための準備をしなければならないのだが。
前回見に行く際にかなりの下調べをしたので、何となく気持ちがたる~ん。
何と云ふことでせう。

とはいえ見たいと思うところはあってですね!
特に気になっているのは明治32年の部分。
広瀬武夫がロシア駐在、そこへ朝日回航委員の竹下勇、イギリス駐在員の財部彪がやってくる。





その時の記念写真が上のものですが、前列中心に座っているのが上村彦之丞です(中心…
来露したこの御一行様の面倒を主に見ていたのが広瀬でして、ロシアを発つ時も駅でお見送りをしている。

その時にね、上村がちょいちょいと広瀬を呼んで突然ほっぺたにチューするのですよ!
ほっぺにちゅー!(代わってー!)(こらこら

いやー…
私、この話は長らく島田謹二さんの作り話かと思っていたのですがね、竹下勇がとある席の回想で語っておるのですよ。
見てたんか竹下君。
それならきっと財部君も見てるはず。
それにこの一行と広瀬がどういう話をしていたのかとか、そういうのも財部日記からなら分かるのじゃないかと思う。
広瀬書簡を見ていると、広瀬はこの頃、ちょっと悩み多き時期であった節があるので、そういった話を聞いてないかとも思う。

あと財部の縁談の所かなあ…
ほんっと複写物が薄すぎて辛い。
原本見せてもらえないか聞いてみたいのだけど、ちょっと無理そうだよなあ。
1日、2日分だけなのだけれど。

あーやっぱり準備しとかんといかんわ。笑
関連記事

追い手に帆かけて(2)

海の神様金毘羅さん。
海上安全にご利益があるため、船乗りからの信仰が篤い。





香川の辺りを通行する船は、金毘羅さんに奉納する初穂料やお賽銭、御神酒を樽に入れて蓋。
それに「奉納金毘羅宮」という幟をくくりつけて海に流していた。
塩飽諸島の辺りの潮流の関係で、大体は金毘羅さんに近い海域に流れ着く。
これ、「流し樽」と言いまして、流れ着いた先であったり海に漂っている樽を見付けた漁師なんかが拾って金毘羅さんに届けていたそうです。

で、この流し樽を海軍でもしていたそうで。
そうなんだと思ってさ。
岡田貞寛『海軍思い出すまま』によると、昭和13(1938)年、著者が新少尉で戦艦金剛に載っていた時も瀬戸内海を呉から小松島に行く著中に御賽銭を入れた樽を流していたそうで。
以下引用。


ただし(※土原註:樽の)中に現金は入っていない。
二斗ぐらいの醤油か味噌の空樽を熱湯で洗い清め、
「奉納 一、金拾圓也、大日本軍艦金剛」と墨書した半紙を納め、
海水が入らないように鏡をしっかり閉めて、その上に木の角柱を立て、御幣を麻糸で縛って海に流した。
昔は現金を入れたが金ぴらさんに届かないことがあって、約束手形?に変わったのだと聞いた。
<略>

樽が拾われると、前に書いたように金ぴらさんへ届けられる。
持参するのが中身だけ郵送するのか知らないが、遠い他県から一々持って行く訳には行くまい。
神社はこれを受け取ると、お礼と十円の領収書を金剛に送ってくる。
金剛ではそれと引き換えに郵便為替で送金するという段取りである。
<略>

主短現七期の北島秀治郎君のエッセイ集「侏儒の戯言」の中に、

戦争中戦艦大和が讃岐沖を通った時、
やはりお賽銭の金額を書いた紙を入れた樽を流したという話を同艦の乗員から聞いたと書いている。






金毘羅さんから送られてきた御札は艦内神社にお祀りされていたそうです。
前近代的な昔の風習というか、近代以降でも漁師であったり一般船舶であったりでされていた印象があったので、軍艦でもこういう事してたのかとちょっと驚きが…
昭和になってもこうしたゲン担ぎがされてたんですね。
本書には海上自衛隊でも同じことをしていると書かれていて、あ、そう言われたら10何年か前に私も聞いたことあるわ、それ。

というか船乗りはゲン担ぎとかジンクスとか大事にするよなあ…^^;
船は女人禁制だとか、猫を乗せるとか(船の守り神)、オムライスに乗せるグリーンピースの数だとか(奇数)。





女人禁制は船の神様が女神であるため(嫉妬されて悪い事が起こると言われる)。
猫は船の守り神。

奇数は海軍どうこうというより、日本古来の風習から来ているものだと思う(中国から来た陰陽思想ですが)。
奇数=陽、偶数=陰で、奇数の方が縁起が良い。
なので五節句、

 1月7日(人日:七草)、3月3日(上巳:桃)、5月5日(端午:菖蒲)
 7月7日(七夕:竹)、9月9日(重用:菊)

はいずれも奇数が重なるめでたい日なんですねえ。
1月7日?
1月1日は?ということですが、これは元旦ということで特別で別枠になるらしい。


財部彪が英国駐在を終えて帰国する際、水雷艇霓の回航委員長に任命されています。
責任者として霓で帰ってきた。

音読みは想像がつくけれど、水雷艇の名前は音じゃねえなあ。
何と読むのか分からず字通を見たのですが、「にじ」です。





虹ね。
これ、雌のにじだそうですよ。

メス!?(笑)

虹に雌雄ってあるんかい。
確か『聯合艦隊軍艦銘銘伝』だったと思うけれど、船=女神ということで霓の方が選ばれたのでは、という話が載っていた。


間に挟まっている桜は間違い写真ではありません。笑
虹は去年の7月に撮影したもの。2重になっていた。


ブログランキング 日本ブログ村 ブログランキングならblogram


歴史ブログランキングに参加しています。よろしければぽちっとお願いします。
拍手してくださった方、ランキングクリックしてくださった方、ありがとうございました^^

関連記事

今日の財部日記(10) 伊木壮次郎6

日本郵船ウラジオストク支店開設が明治29(1898)年4月。
ウラジオに派遣されていた伊木壮次郎が一時帰国したのが明治29年6月(伊木壮次郎2)。
再度ウラジオに派遣ということで、無記名パスポートが申請されたのが同年9月11日。

②9/11 玉利軍令部副官→三須人事課長 (伊木壮次郎2参照)
海軍大尉伊木壮次郎嘗テ秘密御用ヲ以テ露領浦潮斯徳ヘ出張ノ処
去ル六月命ニ依リ帰朝之際旅行券ハ同所貿易事務官ニ於テ取リ上ケ相成候
就テハ今般ハ用済再ヒ同地ヘ出発致候ニ付 <以下略>


そもそも官民問わずウラジオにあった出先機関は軍事スパイのたまり場だったんじゃない?^^;


上引用の2行目に「貿易事務官」とありますが、ウラジオの貿易事務官といえばかなり馴染みのある名前も出てきます。
それが外務省の川上俊彦(かわかみとしつね)。

経歴を見ると、明治23~24年に浦潮港貿易事務官として勤務、25年に公使館書記生としてロシア在勤。
33年からまたウラジオの貿易事務官。
日露戦争前日本はウラジオに領事館を置くことが許されておらず、代わりに置かれていたのが貿易事務館になります。

ロシア駐在を終えた広瀬武夫がシベリアを横断してウラジオまで辿り着きますが、その時に滞在したのが川上の家でした。
川上は忙しかったようで、主に新妻常盤ちゃん(※結婚1年目)が広瀬の接待をしていた。
常盤ちゃん広瀬にスマートにエスコートされたりして(マジか)、危ない所を助けてもらったり、この人は自分の守護天使か何かかと思ったらしいよ。けっ(こら
3人で写っている写真もあります。サイトに転がってますのでよかったら探して(丸投げー

日露戦争中は満州軍総司令部附になったりしている。
そして有名な写真がこれ。





後列左端。
乃木希典とステッセルの水師営の会見の通訳をした人物です。
また伊藤博文が暗殺された際も側におりまして、流れ弾にあたっている。

川上は戦後に海軍から表彰されているのですが、その理由がウラジオ地域における諜報活動(明治30年代)。
日露戦争直前のロシア太平洋艦隊の動静についてだったり、ウラジオ軍港の要塞の状況を諜報員を使って情報収集していた。
海軍はこういう事が余り得意でなかったのか、外務省に頼むことが多かったみたいですね。
陸軍は自前でやってるんだけど…

こういうこともあって、川上、伊木壮次郎の事を知っていたのじゃないかと想像。
明治29年時点で川上がロシアいたのか、ちょっとわからないのですが、それでも名前くらいは知っていたのではないかしら。
手元に部分的にある川上の追悼録にはそういう話は勿論載ってはいないのですが。


 29年8月10日 海軍大尉伊木壮次郎転地療養の件
 29年9月11日 海軍大尉伊木壮次郎露領浦塩斯徳出張旅行券交付の件
 29年12月9日 海軍大尉伊木壮次郎転地療養願の件
 30年1月19日 海軍大尉正七位勲六等伊木壮次郎特旨進階ノ件

伊木のパスポート申請が9月11日で転地療養の申請が12月9日(伊木2)。
12月初旬にウラジオに渡っていたとして、亡くなったのが1月20日なら…

諜報活動で得られたもの、特にはなかったのではないのという気がする。
…外務省に頼んだ方が良かったのでは… (禁句
(『東亜先覚志士記伝』では1/20とありますが、実際には1/19だと思います)

伊木には壮之助という弟がおり、兄の非業の死を知って(どうやって…)台湾総督府勤めを辞め単身シベリアへ。
ロシア語を修めて、日露戦争時には第3軍のロシア語通訳になったとある(『東亜先覚志士記伝』)。
あら、ま。(乃木軍=第3軍…^^;
なんだか色んな所で接点が出てくる訳です。
世間狭くて恐ろしい。

伊木、ちょっと調べてみて思ったのは、石光真清的なニオイがするって所でしょうか…
要するにこれ、使い捨てじゃない?
派遣先で殉職しても公にできない職務に従事しているから、亡くなった理由も公表されない。
表彰もされない(ひょっとしたら恩賞もなかった可能性が…)。
他に海軍軍人でこういう職務に従事していた人っているのかしらと思うのだけれど。


伊木の訃報が入った時の記事、財部日記にはあるのではないかと思う。
ただ私が複写したのは明治30年3月からなのですね。くそう。
5月中旬に式を挙げた新婚の財部夫妻は墓参のために都城へ帰郷、その後鹿児島にも足を延ばしているのですが、

6月5日 夕知識氏ト同道故伊木壮次郎兄ノ墓ヲ訪フ
6月6日 午前来客ニ接シタル後喜入氏ト同道伊木氏ヲ訪ヒタリ
6月8日 伊木壮次郎君ノ墓ヲ詣ヅ

とある。
伊木氏を訪れたとありますが、実家だろう。
『東亜先覚志士記伝』の記述が確かなら当時伊木壮之助は台湾にいる筈なので、応対に出たのは親かその他兄弟かな。
日記には訪問時の内容は書かれていないけれど、どういう話がされたんでしょうねえ。


山本権兵衛長女との縁談が持ち込まれた時、財部はその場で即座に断った。
しかし話を持ってきた上村彦之丞はその後も中々納得してくれなくて、それを突っぱねるために同期の向井弥一や広瀬武夫を巻き込んで頑張る訳です。

権門より嫁を貰うのは平素よりの持論に反する。
答えるにしてもとりあえず伊木以下諸兄に一言する必要がある。

一旦引き取ってもらうために、そういうことを言い訳として言うのですね。
伊木はもう亡くなっているのですが、こういう時に一番に名前が挙がってくるというのはかなり仲が良かったのでしょう。

伊木の訃報、財部はどんな思いで聞いたんでしょうねえ。


ランキング 日本ブログ村 ブログランキングならblogram

歴史ブログランキングに参加しています。よろしければぽちっとお願いします。
拍手してくださった方、ランキングクリックしてくださった方、ありがとうございました^^

関連記事

今日の財部日記(9) 伊木壮次郎5

 日本郵船のロシア語研究生・東健次という変名で、ウラジオストクで軍事スパイをしていたという伊木壮次郎。
財部彪、広瀬武夫の1級上の海軍兵学校14期。
広瀬はロシア・ロシア語という点、財部は日本郵船という点で繋がりがありそうかなと思われます。


伊木壮次郎


ただウラジオにスパイで派遣されたというだけでロシア語を解していた人物だったかとは断じられないかなとは、と我ながら思いますが。
この辺りはやや判断に苦しむ所ではあるけれど、一緒に遊ぶメンバーの名前には入っていたようなので、ロシア繋がりでなくても仲は良かったのだろう。


そして財部彪と日本郵船?という感じだと思いますが。
財部には須田利信という親戚がいる。
『財部彪日記ー海軍次官時代ー』には親戚としか書かれていないのだけれど、調べたら須田の妻あきるが財部盛邦長女とのことで、財部彪とは姻戚のようです。
財部盛邦はよくわからないのですが、アジ歴で出てきた文書を見ると医者であったようです。
財部彪との関係は不明。
そして須田は財部が東京遊学の際(兵学校入校前)、資金的に苦しかった時に援助してくれたとのこと。


この須田氏、実は結構なエリート。
工部省、農商務省、逓信省に勤めて明治20(1887)年に日本郵船入社、その後4年間イギリス留学。
うーん。日本郵船にいるというだけでとりあえずは当時の勝ち組だと思う…
日本郵船は汽船三菱(三菱)と共同運輸(政府系)が合併してできた海運会社です。
ほぼ三菱系。
この日本郵船で大正4(1915)年には副社長。
ついでに日清・日露戦争、第1次世界大戦では叙勲を受けている。

明治30(1897)年の須田は日本郵船の監督という肩書き。
”監督”がどういう立場かはよく分からないので、日本郵船の”ロシア語研究生”の実態がどんなもんであったか、知っていたかどうかは不明。
知ってても財部に話していたかどうか…
ちょっと怪しいか(笑)


アジ歴を見るとウラジオストクに日本郵船の支店が置かれたのが明治29(1896)年4月なのですよ。
それまでは代理店が置かれていた。
支店に切り替った理由は社運隆盛のため(アジ歴#B11092427500)。
業績が良くなってきたため。

この時ウラジオ支店の支店長になったのが寺見機一という人物。
更にアジ歴を見るとこの方外務省の人間で、浦潮港貿易事務官だった。
あらー
経歴見ると浅野セメント社員→貿易事務官→日本郵船社員だったらしいけれど、うーん。
これ…^^;
み、民間人…?
(ググるとコトバンクでも出ていたので、それなりに有名な人物なのか…)

そしてだね、「正六位寺見機一叙勲ノ件」(A10112483200、明治31年)を見ると、


日本郵船会社支配人ト為リ
露領浦塩斯徳港出張以来参謀本部ノ嘱托ニ依リ密ニ軍事ヲ諜報
屡有益ノ材料ヲ回致シ <略>
(※太字は土原)


あらー


寺見死後の明治36年末(日露戦争直前)には参謀本部が偵察業務に携わり貢献するところ少なからずということで、遺族に賞与を与えたいという申請を陸軍大臣にしてますわ。
支店長時代に陸軍から5名の”派遣員”が送られていたが、彼らの任務遂行にも少なからず助力した(#C10071300700)、そうで。
陸相からはOKが出ていて、結果はどうなったか不明ですが恐らく実行されたのではないか。


つづく!(笑)
終わらん…


ランキング 日本ブログ村 ブログランキングならblogram

歴史ブログランキングに参加しています。よろしければぽちっとお願いします。
拍手してくださった方、ランキングクリックしてくださった方、ありがとうございました^^
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)