Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

東福寺*清水寺

敢てカテゴリーを史跡にしてしまう強引さ。笑
京都国立博物館に行くついでに東福寺に行ってきました。


東福寺


先週の土日辺りが一番きれいだったのではなかろうか…
雨で散ってた感じだったなー


東福寺


ほぼ床紅葉。
開園?が8時半だったので8時頃に着いたのだけれど、それでもちょっと並びました。
もっとゆっくり行けばよかったかなという感じだったけれど、帰る頃(9時半ごろ)には団体客とか団体客とか団体客とかが…
早く行ってて良かった。天気があまりよくなかったけど。


東福寺


お陰で写真の写りもあまりよくないのであった…
ぼけてるし…
東福寺に行くのは15年ぶり?多分それ以上な気もするが^^;
本当に久しぶりだったので良かったです。


東福寺 


庭観たり。
ぶらぶら即宗院の前まで行って帰ろうかと思いきや、


東福寺 即宗院


特別公開されている…!
普段非公開で入れない所なのですよ、ここ。やったー。
というか今の時期は毎年開いてそうやけど。
ちなみにこの特別公開の看板の後ろには「鹿児島藩招魂碑」という碑が建っている。

東福寺は薩摩と所縁の深い寺院でして、塔頭即宗院は薩摩藩主の近畿の菩提寺。
鳥羽伏見の戦いの際は薩摩の屯営が置かれたのもこの東福寺になります。
そういう関連もあって西郷隆盛関連の史跡があるのですね。


東福寺 即宗院 


そのひとつが招魂碑。
またこちらには田中新兵衛、奈良原喜左衛門のお墓もあるそうです。
驚いたのだけれど、中井弘の墓所もこちらだった。
ひとつ上の写真、看板の下の石碑に「中井桜州山人墓所」とあります。
三者のお墓は、一般の墓地と同じ敷地内にあるようです。
うろうろしたけれど見当たらなかったので。
その墓地の方は進入禁止になっていたので、お参り不可でした。
残念。


東福寺からぶらぶら歩いて京博まで(20分かからない位で行ける)。
完全に住んでいた時分の生活圏で(笑)、本当に懐かしい辺りでした。
七条の辺りは本当に変わってしまいましたが、今熊野の方は相変わらず。

京博では27日までの坂本龍馬展を再見。
荷物も上着も全部預けて、正に手ぶら。ケータイも財布すらも持ってない!(笑)
変な目で見られてたけどいいんだ。平気。笑。
文書を読みながら、途中でちょっと眠くなりながら(笑)、3時間半…もうちょっといたか?

帰り際に宮川禎一さんが展示室を見廻りしていたのに遭遇。
話しかければよかったけど、最後の方はもう頭の芯が疲れていて休みたかった…
いつぞやごちそうになったお茶とお話しは大変おいしかったです…

前回見に行った時は気付かなかったのだけれど、重文指定されている史料の中に広瀬武夫の父の名前がありました(しかし名前の羅列であるだけで意味のある史料ではない)。
そういや宮川さんから頂いたメールでそういうことが書かれていたような気がすると確かめてみたら、書いてありましたわ。
ちょっと忘れてた。

陸援隊に参加していた山縣小太郎(広瀬の先生)なら坂本も知っていただろうし、会った事もあっただろうけれど、広瀬の父はどうだろうね。
龍馬も名前くらいは知っていたのだろうけれど、会ったことはなかったと思う。
物理的にちょっと難しい。


清水寺


京博を見学してからこれまたぶらぶらしながら清水寺まで。
相変わらずの観光地である…
人多すぎて疲れる。


清水寺


紅葉を見るというより人を見に来ている感じ。笑


清水寺


そして境内にある西郷隆盛関係の石碑。笑
月照上人は清水寺の塔頭成就院の住職でした。その関連。

しかし京都もどこ行ってもK国人C国人ばっかりで、もう本当に行く気がなくなるというか。
関連記事

バトン

上村彦之丞は日露戦争の蔚山沖海戦で撃沈した露艦の将兵627人を救助したことでよく知られる提督でもあります。

『上村大将追悼録』には佐藤鉄太郎も寄稿していますが、やはり日露戦争時の話が中心でその話にも触れられている。
佐藤はこの話を割とあちこちでしているようですね。
確かに色々な面で話しやすい内容ではあると思う。


上村彦之丞 秋山真之 東郷平八郎 瓜生外吉 加藤友三郎 舟越楫四郎


其の当時上村将軍は日に月につもり来たりし我艦隊乗員の鬱憤の
或は露国艦隊の将卒に向て発せんことを惧れられたので殊更に
「捕虜を好遇せよ」との命令を発せられたのである。


大丈夫だろうか国の名誉を傷つけるようなことをしはしまいかと心配する佐藤先任参謀をよそに、日本の兵員達は捕虜となった露兵を大変丁寧に扱った。
兵員達の行動もさることながら、武士道を重んじ敵の将兵を厚遇した上村の態度が広く称賛されました。

上村のこうした行動は西郷隆盛の姿から学んだものであったようです。
具体的な話としては戊辰戦争の際の会津藩の降伏の話が出ていたのだけれど、庄内藩の事ではなかろうか…(東郷吉太郎の寄稿による)
曰く、


薩州の兵隊の居る宿舎は戸を閉め道路に居る兵隊には背面を向かしめ降将を見せしめなかつた
而して降将は礼を以て遇し決して辱かしむべきものではないと老西郷は云はれた(※土原註:と上村が言っていた)


私は知らなかったのだけれど、日清戦争時、秋津洲艦長であった上村は拿捕した敵艦操江の艦長以下を西郷同様に遇したらしい。
秋津洲に収容する際には総員を艦の前部へ移動させ、後甲板の人払いをした後、艦長室に降将を引見した。
そう東郷に話した上で「敵の降将を遇するに決して辱かしむべきものではない」と、今度は上村が東郷に伝えている。

東郷吉太郎(海兵13期)は日露戦争終盤時は朝日の副長でしたが、露艦アリョールを捕獲した際、上村の話をすぐに思い出したそうです。
アリョール艦長の死没に際しては、少なからぬ同情と礼儀を尽くさざるを得なかったと回顧している。

読んでいて、なるほどなあこうして受け継がれていくものなのだなと、正直感心しました。
げにありがたきは優れた先達かな。


こうした敵の名誉を重んじる行動については、同じく日清戦争時の連合艦隊司令長官伊東祐亨の話がよく知られています。
降伏を申し入れてきた敵将丁汝昌に対する扱い、また自殺した丁の遺骸をジャンクで送らせてくれと申し入れてきた清国側に激怒して決して許さなかったこと。
伊東は処分されるのを覚悟の上で独断で没収する筈であった商船をリストから外し、丁の棺を送らせています。


東郷平八郎 伊東祐亨 井上良馨


伊東もまた薩摩出身です。
薩摩だけではなかったと思うけれど(乃木希典の水師営の会見の例もあるし)、士風というものがあるのだろうなと思う。


先日鹿児島に行った際に、伊東祐亨の誕生地にも行ってきました。
清水馬場やったわ…!
桐野利秋さんちから近いやん…


伊東祐亨誕生地 


しっかし非常に冷たいこの仕打ち。
石が建っているだけで(しかもゴミステーション…)、伊東に関する解説版すらなかった。
凄い提督なんやぞ、伊東。
好きな提督だけに悲しいわ…
関連記事

帰りなん、いざ(2)

明治6(1872)年の所謂征韓論争で敗れた西郷隆盛が下野するや、同調する薩摩人が雪崩を打って官職を投げ打った。
当時海軍兵学寮の学生であった山本権兵衛も帰郷したひとり。
そして同様に海軍兵学寮生であった上村彦之丞も帰鹿しています。

『上村大将追悼録』の所収の言行録には当時の話の聞き書きがある。
ひとつは東郷吉太郎(東郷平八郎の甥)のもの。
もうひとつは谷山初七太郎・江口国彦(共著)のもの。

帰郷後、上村は西郷隆盛に会いに行くのですが、山本権兵衛同様そこでめちゃめちゃ怒られた。笑。
後者の話によると、武村の西郷邸(下写真が跡地、武屋敷跡)


鹿児島 


…を訪ねると先客がおり(恐らく桐野利秋、辺見十郎太だろうとのこと)、彼らとは別室にて面会してくれた。
上村は西郷が鹿児島に帰って活動?していることについて、意を得ないからはっきり説明してくれと議論をふっかけたらしい(笑)

西郷は煙管の吸い口を目の辺りにぐりぐり当てて、暫く黙っていた。
これ、西郷が考えている時の癖だったそうです。
考えるというより普通に頭が痛かったんだろう…^^;


君等は一体何の為に帰来せしか、
これ男子として第一前約に背くにあらずや、
初め一身を捧げて海軍に従事すと誓いし言は今何くにかある。
君等は目下兵学校の書生にあらずや、
当に課業に是親しむべきの時なり、
何を以て約束を忘れ課業を抛ち倉皇として帰来せしか。


西郷は畳み掛けるようにして上村を叱った。
更に続けて言うには、山本権兵衛が上村以前に帰郷していたとのこと。


先きに山本(伯)も左近允と共に、還り来たれり。
故に同様説諭して、帰郷せしめたり。
君等は他日、日本の海軍を率ゐて国難に当るべきの人なり。
須らく其責任を知らざるべからず。


上村はこの説諭に応じて東京に帰ることにした。
また山本も左近允隼太も西郷の言に納得して帰京しました。
ただ左近允は一旦東京に戻ったものの再度帰鹿、西南戦争に参加して城山で戦没したようです。


西郷邸を辞した後、上村は実家に直帰はせずその隣家に宿泊。
すると翌日早朝から上村はいるかと門を叩く者がおり、隣家の主人が、
「西郷さんの所では」
と気を利かせて言ってくれた為、彼等は西郷宅を訪ねて行った。

後に彼らと会えば
「西郷先生の用で上京するんだって?」
と口々に言う。
西郷は尋ねてきた彼らに
「上村は西郷の要を帯びて再び上京する」
と伝えていたようなのですね。
実際のことを知ると、要らざる諍いが起こる。
上村の身に危険があるかもしれないという西郷の思慮だったようです。

上村は西郷の配慮もあって一週間程鹿児島に滞在した後東京に帰ります。
一方の山本は、西郷に説得されて直ちに東京に引き返そうと思ったらしい。
ただ出身郷中である加治屋町の二才(にせ)ら3・40人が、山本が帰ってきているから話を聞こうと集まった。

そこで山本は時局について一席ぶち、最終的には彼等に自重を促したそうです。
山本。笑
ところがそれで大喧嘩になってしまい、すわ血の雨かと思った時に助けてくれた人が居た。


貴島清


貴島清。
この場に居合わせたのですって。
「危険だから直ちに上京した方がいい。今夜の内に出発しろ」
そう言って逃がしてくれた。
山本は家にも帰らず、そのまま東京に戻っている。

上村も西郷の配慮がなければ山本同じような事態に陥っていたでしょうねえ。
西郷にしても貴島にしてもありがたい先輩だなと思う訳です…


官軍本営跡


西南戦争の大詰め、官軍が本営を置いていたのが旧薩摩藩の米蔵。
現在の鹿児島市役所の辺り。
今回初めて見た…のではないと思うのだけれど、昔の写真ないわー。
初めて?(聞くな
貴島は米蔵襲撃の際に戦死しとります。
そうか、この辺りで亡くなったのですね…


関連記事

the fall

9月は我がサイトの柱になる大戦争がふたつ終結した月になります。
ひとつが前九年の役(1062)、ひとつが西南戦争(1877)。

今日は西南戦争が終結した日です。
ということは桐野利秋(大好き)の御命日…

そういう日ですので西南戦争絡みで何か書くつもりにしていたのですが、そして実は温めていたネタもあったのですが、ロンドン海軍軍縮会議が思いの外長引いてorz
ひーん。ごめんなさい。
昭和からいきなり明治10年には頭を巻き戻せなかった。
今そんなことしたらエライことになる。笑

というかおかしいな。私のフィールド明治の筈。
それに私が勉強してたのは統帥権関係でわちゃわちゃしてる政府と海軍…
を、横目に見る陸軍だったんだけど…


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/DV00009.jpg //blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/DVC00007.jpg
(岩崎谷、南洲翁終焉之地)


今日が城山が陥ちた日ということもあって、産経夕刊にでかでかと薩軍の話が載っていた。
で、1・2日前にもネットニュースで維新ふるさと館で流れているテープの話が出ていました。

このテープ、話し手が西郷どんの妻の弟の妻、つまり義理の妹で、実際に西郷どんを知っている人。
ニュースには西郷どんは味噌作りが上手かったという話と一緒に、料理を褒めてもらったという話も出てる。
あー、これ私もすごく印象に残ってる。
めっちゃくちゃ褒めてくれるらしい。出した料理を。
これはいい、あれはいいって、作った本人が決まりが悪くなるくらい。
この内容、『西郷さんを語る―義妹岩山トクの回想』 という本になっている。
地元図書館に入ってて、見つけた時は大層驚いた。

トクさん曰く「優しい人だった」ということだけれど、薩軍の将に関しては、優しい人だったという回顧なりが割と残っているような気がする^^;
別府晋介については従僕がそう証言してますし、篠原国幹も滅茶苦茶優しい人だったそうで。
薩軍研究されている方と話した時、篠原は優しすぎて暴発する若者を捨てられなかったんじゃないかなーと言っていたのが印象的でした…
(ただ薩摩の人の言う優しさの基準ってどのあたりにあるのだろうとは思う。笑)


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/DVC000.jpg 別府晋介誕生地


別府は桐野利秋の従弟ということで、生まれ故郷が共に吉野。
家も近くて歩いて5分くらい。
喜び勇んで行ったのだけど、上の石碑の揮毫が西郷菊次郎(隆盛長男)であることに気付いてぼんやりしてたら、足を這い上がってきたムカデ(2匹)に噛まれるっちゅうマジなんなのこれという目に遭ったことは忘れない。
滅茶苦茶痛かったんだからな!忘れないぞ別府!(別府君のせいじゃない)


古い写真掘り起こしてきた。
維新ふるさと館、結構楽しい。


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/DVC00035.jpg


奥に見えてるのが大久保利通の原寸大フロックコート。勿論レプリカ。
手前の金モールが西郷隆盛の原寸大陸軍大将軍服。
例によって例の如くひとり旅(旅順・大連旅行の足でそのまま行った)だったので、さすがに恥ずかしくてだなー(笑)
映像上映が始まって、他の観光客がいなくなった隙を狙って、そそくさと着てみた。
どの位の大きさだったのかとひとりできゃっきゃうふふしながら(……)写真撮ってたら、コンパニオンのおねえさんが

「写真撮りましょうか」
「……」

//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/91d02ae0.jpg

気分的にはこんな感じだった。


ランキング 日本ブログ村 ブログランキングならblogram 

歴史ブログランキングに参加しています。よろしければぽちっと。
拍手してくださった方、ランキングクリックしてくださった方、ありがとうございました^^
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)