Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

パラべラム~堀悌吉(13)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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・昭和5(1930)年4月1日に回訓案が閣議で可決、その日の内にロンドンへ打電
・東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王 → 政府が決めた以上あれこれ言う筋合いにない


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これで円満解決かと思いきや、まだ加藤寛治は不満たらたらで「上奏したい」の一点張り。
上奏して昭和天皇に何を言うかの想像は大体出来るわけですよ^^;
勿論条約反対の事だろうと条約賛成派の人は思う訳で、回訓決定以前にも上奏は何度か阻止されている訳です。
加藤の邪魔をしていたのが岡田啓介軍事参議官であったり、鈴木貫太郎侍従長であったり。

ただ回訓打電の翌日は上奏が許可されている。
その時は露骨な反対上奏ではなく、心配していた周囲もややほっとした…

のも束の間。


同日、末次信正軍令部次長が黒潮会(海軍の記者クラブ)に不穏の文章を発表しようとし、それを察知した海軍省側に未然に抑えられるという事件が起こっています。
浜口雄幸首相がこの事を知り、海軍政務次官と末次を招致して回訓に関して諒解を求めた上、綱紀粛正の点から注意するという事態に陥った。
その時は末次も反省の辞を述べたのですが。

会見後の記者会見で、政府を批判。
しかもその3日後、参議院内での講演で再度軍縮批判をぶち上げた。


浜口怒り心頭。



軍令部、特に末次は請訓が届いた直後に新聞紙上に独断で「海軍反対」と発表した前科があります。(【10】
注意して、反省したと思ったらその舌の根も乾かない内にこれだよ!
そらそうだ。反省なんかしてないもん…

軍人は政治不関与という決まりがあります。
思うだけならまだしも、新聞紙上や公式の場で政府の反対意見を発表する等もっての外。
しかも政府が既に決定してしまったことに対してです。
それに海軍首脳で回訓案を検討して政府に返した時、加藤も末次も何も言わなかったよね。(【12】

誰がどう見てもこれは軍人としての規を超えている。


これは政府内で大きな問題になりまして、最終的に岡田の方にあいつどうにかしろと話が行っています。
浜口より話を聞かされた山梨が、首相は末次を次長の地位から引かせるべく何らかの手段をとるかもしれない、と岡田に言う程だったので、浜口の怒りは相当大きなものだったと思われます。
ただ山梨次官の根回しで、この時は部内限りの処分ということになり、軍令部長よりの戒告ということで決着となった。(4月中旬)
しかしこの約2ヶ月の6月、末次は次長更迭となっています。


末次信正、伏見宮、東郷平八郎


条約反対派の領袖は立場から言っても加藤寛治でしたが、実際に加藤を操っていたのは末次信正であったと言われています。
思えばワシントン会議の頃からそうでした…
岡田などが加藤を説得し、納得させても、軍令部に行って戻ってきたらもう話が変わっている。
そういうことが再三だった。


加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


条約を纏めたい方からすると、まさにこんな感じだったかと。(※)
この事については、堀悌吉も「海軍現役ヲ離ルル迄」(昭和20年3月執筆。『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)所収)に記しています。
ちょっと長いけど、堀さん出てくるの久しぶり(…)なので引用する。


自分の軍務局長時代は所謂倫敦会議時代だが、時の次官は又山梨中将であつた。
末次中将は軍令部長加藤寛治大将の下に次長として帷幄の府に立て籠り、策謀を事として居た。

即ち此の機会に於て宿敵山梨氏を首めとし左近司(土原註:政三)氏等をも一挙に蹴落とさんとし、
同時に末次の周辺には志を同じうする者共の一派が集まって来て居た。
凡ての騒乱変動は殆んど此の点より出発して居る。

陋劣陰険の奸手段を用ゐて新聞記者を買収し、
御調子者で芝居気の多い加藤大将を煽動して風無き所に波瀾を起し、
東郷元帥や殿下(土原註:伏見宮)を渦中に捲き入れ、
海軍先輩某々等の財部大臣に対する反感を利用して諸種の論議を醸成せしめ、
之を政治上の駈引きの種として政党に売り込み、
所謂統帥権問題と謂ふ様なものを拵へ上げて国中を騒がせ、
後日国家の大患を来すべき悟る能はずして、唯だ自己等の立場を造り固めるに汲々として居た。

当時末次氏は鼻孔出血で時々休んだことがあるが、其の間に加藤軍令部長が納得して凡そ納まりかけて居た事情も、
末次次長が出勤すれば直ちに変更せられ紛擾を起すといふ如き事実は一再に止まらない。

自分等は彼等の斯う云ふ遣り方に悩まされ
而も彼等の勝手な捏造にかかる批難の的となって居た<略>


末次は元々軍令畑の人で、風采もよく弁も立ち、まさに名将然としており、
その上ワシントン会議以降の日本海軍の基本戦略であった対米邀撃漸減作戦の第一人者で、人を納得させる所が大きかった。
(末次がロンドン条約に頑強に反対したのはこの作戦に支障をきたすというのが理由にあったみたい)

以前紹介した小柳資料でもそういった言葉が散見されまして、下の人々からの評判はとても良かったそうです。
ただそういった言葉の後、ほぼ全部に「軍人の分を超えすぎた」という旨の一文が付いていた。



末次更迭は山梨勝之進も次官を辞めるからということで、交換条件的、喧嘩両成敗的に行われている。(同日)

山梨勝之進はそのまま行けば確実に海軍大臣になっていただろう逸材でした。
末次が、「山梨のような知恵のある人物にはかなわない」、山梨をそう評した事は、大分以前に書いたことがあります。
加藤、末次といった、いわゆる「艦隊派」と言われた一派から見ると、一番邪魔だったのが山梨だった。


山梨勝之進


部内の心ある人と同様に、こんな人事をする海軍に若槻礼次郎は随分思う所があったようです。
自伝『古風庵回顧録』に記述がある。


海軍部内を纏めるについて、次官の山梨勝之進などは、もつとも尽力した一人であつた。
しかし当時省内の要職にあつた人たちは、軍縮条約に同意したという理由かどうか判らんが、
後にみな外に出され、予備に廻され、海軍では用いられなかつた。<略>
軍縮会議に際して、内でその仕事をしたとか、向うへ行つて働いたとかいう理由で、
海軍がその人たちを冷遇したということを聞く私は、心中不愉快にたえなかつた。

一ぺん山梨に会つた。
私は山梨に対して、

あんたなどは、当たり前に行けば、連合艦隊の司令長官になるだろうし、海軍大臣にもなるべき人と思う。
それが予備になつて、今日のような境遇になろうとは、見て居て、実に堪えられん、

と云つた。
すると山梨は、

いや、私はちつとも遺憾と思つていない。
軍縮のような大問題は、犠牲なしには決まりません。
誰か犠牲者がなければならん。
自分がその犠牲になるつもりでやつたのですから、私が海軍の要職から退けられ、今日の境遇になつたことは、少しも怪しむべきではありません、

と云つた。


続きます


***

※註

本人曰く「俺は8割感情で行く男だ」の加藤寛治(18期クラスヘッド)が全くの単純で末次に操られていたのかと言われたら、どうもそうでもないようです。
【10】で当時艦政本部長であった小林躋造が、「妥協案位の割合なら国防もやりようがある」という旨の発言をしたと書きました。
そのことに対して小林は加藤から声を掛けられています。
曰く、

「貴様、あの席上であんな論をなすのは怪しからん、しかし、事実は貴様のいった通りだよ」


『岡田啓介』(岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)よりの引用ですが、同書には、万々承知の上での強硬論だった節がないでもない、とあります。
これ研究の余地があるんじゃないのと思う(メジャーな分野なので既にありそうだけど)と同時に、もしそうだったら余計タチ悪いよねっていう…

上記の引用、言われたのが小林ということで『海軍大将小林躋造覚書』を確認したのだけれど、それらしい言葉は見つからなかった。
見逃したかなー^^;


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パラべラム~堀悌吉(10)

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堀悌吉が出ないまま2桁の大台に…
内容がブログ向きではなくなってきたよ~
もうこれがサイト10年記念ですって言っていいんじゃないかと思う^^;
レベル的にはそんな感じ。かなり苦労して書いてますorz



ロンドンでまだ日英米で妥協案を探っていた頃、首席全権の若槻礼次郎がこの辺りでもう腹をくくるべき、と決断した旨を【7】で書きました。
それで、その際軍人を交えずに首席全権のトップ会談で、政治家が政治判断として決めてしまったということも。

昭和5(1930)年3月14日、若槻、財部彪、松平恒雄、永井松三の全権の名前で、

もうこれ以上日本の立場を押すのは無理
対米69.75%で妥協已む無し

という請訓を日本政府に送り、指示を仰いでいる。
財部としては7割に拘りたいものの、全権という立場上足並みを揃えたようです。


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財部はこの際ミスをしています。
この辺りで妥協したいという請訓に署名する。
その理由はこうこうで、納得できない気持ちも分かるが、仕方ない。枉げて承知して欲しい。
そういう説明を海軍随員にしていない。
せめて顧問である安保清種、首席・次席随員である左近司政三、山本五十六には意を尽くして理解を求めるべきだった。
だから突き上げられるんだよ…orz
説明位しときゃ山本なんかはどう思っていたにせよ部下を抑えること位はしてくれたと思う。

これねー…
今まであれこれと財部の話を読んできたけれど、多分財部の性格だと思う。
腹を括ってあまり人に話さない。
美点と言えばそうなのだけれど、重要な時に欠点となって表れていることの方が多い気がする。

向井弥一がシーメンス事件の際の財部の態度を怒ったことは以前も触れましたが、それと同じで言葉を尽くして他者の理解を得ようとしない態度がコミュニケーションの悪さとなって現れる。
海軍部内での評判の悪さと言うのは、こういう所にも一斑があったと思われます。
この話はまた後日することもあると思うので、今は措きます。


海軍の随員の意見が反映されないまま請訓は政府へと送られました。
当然ながら若槻には色々文句が集まり、海軍としては別個に政府に対して反対意見を上申する、とか、そういうことまで言い出す始末。
若槻は「そういうことをするなら」、と政府に詳細な説明を送っていたようです。(『古風庵回顧録』若槻礼次郎)

実際海軍の意見って送られたのかな?
海軍省の方には
「交渉を続けている間に、7割を得られる機会もあるかもしれないからそれを待ちたい。目下苦慮中」
といった電報は出されているのだけど、この事かどうかは分からない。



ここから舞台が国内に移ります。

 今までの話 … ロンドン。日英米の交渉で妥協案成立、全権が政府にこれでいいかと連絡(請訓)
 今からの話 … 国内。請訓に対し政府が返事を作成(回訓)。妥協賛成反対で①政府と海軍、②海軍内部ですったもんだ


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幣原喜重郎外相が請訓を受け取ったのが3月15日。
それから浜口雄幸首相に面会し、浜口は海軍次官山梨勝之進に海軍部内の意見調整を命令。
当時海相が不在ですので、浜口が海軍大臣事務管理をしており、山梨から見たら浜口は上司代理になります。


浜口首相の指示後、山梨次官は直ちに 臨時省部最高幹部会議を開きます。
意見は概ね反対。
理由は妥協案では国防上欠陥が出るというもの。

ひとり、航空本部長であった小林躋造が国民が望む所は軍縮、比率もこれ位ならやりようがあるといって、妥協可としたくらい。
小林はジュネーブ海軍軍縮条約で首席随員を勤めた人で、派遣されている全権や随員の苦労や、国民の要望を理解していた人だった。
そんな事もありつつ、回訓は今すぐでなくていいと外務省は言っているので少し考えよう、ということになった。


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その間、強硬に妥協反対と主張したのが海軍軍令部。
意見を通すべく動き回っていたのが軍令部長加藤寛治と次長末次信正になります。

加藤は
財部海相には7割が無理なら引き上げて来い、東郷元帥も同意見だと電報を打ち、
浜口首相に会っては7割を切れば国防に責任が持てないと言い、
牧野伸顕内府、鈴木貫太郎侍従長に会っては妥協反対を唱え。

末次次長に至っては、請訓が海軍に示された直後、独断で新聞紙上に海軍当局の意見として
「米国案には不満だ」
と反対表明をする始末。
どう見てもやり過ぎです。
陸海軍大臣以外の軍人は政治関与を許されてはいません(※浜口の逆鱗に触れました)。

その上当時ただひとりの元帥であった東郷平八郎が妥協不可を強硬に唱えていたため、余計に事態がややこしくなる。
東郷だけでなく、当時予備後備役であった大将や中将らも妥協不可を言い募って会合を開くといった状況でした。


ただね、海軍が何を言ったとしても浜口雄幸の肚はロンドン海軍軍縮条約を成立させるという、その1点にある。

そもそも昭和天皇、元老・重臣ら、新聞の論調も世論も軍縮大歓迎でした。
当時は昭和2年から続く不況の真っただ中、緊縮財政の最中で、経済的な余裕がない。
そして、外交の視点から日本(の海軍)が原因で会議をダメにすることも絶対に避けたい。
国際社会からの孤立は避けたい。
これが浜口の気持ち。

じゃあ何で海軍の意見を聞くかと言うと、いい感じで海軍の意見を纏めて欲しいというのと、加藤ら強硬派のガス抜きだったと思う…^^;
これは山梨勝之進も重々分かっていたと思います。


海軍(省)としても、政府と海軍が対決する事態も避けたいんですよ。
当時衆議院総選挙が行われ浜口内閣の与党民政党が大勝したばかりです。
文字通り国民から選ばれた政府でした。
政府と対決しては世論を敵に回してしまうし、まかり間違うと倒閣騒ぎになる可能性がある。
上記の通り天皇をはじめとする国家上層は政府の後押しをしていることを見ても、それはどうかってなるよね。

対米7割は欲しい。けれど状況を鑑みれば「妥協丸飲みもやむなし」。
これが条約賛成派の大体の見解だった。


ただ妥協反対派にはそんなの関係ねえ!(古い
この人たちには外交や財政の失敗で国が破綻するとか、そんなことは関係ないのです。
は?
と思うでしょ?
開戦以前に国が滅亡する可能性がある事が分からない。
びっくりするけど本当なんだよ。
カネカネ言うな!金と国防の問題、どっちが大事なんだ!
っていう感じ。
どっちも大事だよ…
でもそれがなかなか通じない。
ただただ反対する。


そこで海軍部内や政府・海軍間の調整に走り回ったのが軍事参議官の岡田啓介になります。

山梨次官では首相や軍令部長、海軍の大御所(東郷や伏見宮)を相手にするには、官位が低かったり海兵の遥か後輩だったりと、立場上難しく、うまく動けない。


つづく


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パラべラム~堀悌吉(8)

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ロンドン海軍軍縮会議に際し、海軍が掲げた3大原則は以下。

 1.補助艦の総括比率 対米7割
 2.大型巡洋艦(8インチ砲搭載)の保有量 対米7割
 3.潜水艦の現有勢力の維持

これで総括して「対米7割」。

首席全権若槻礼次郎の姿勢は「妥協できる所で妥協する」でした。
しかし会議当初からそんな姿勢をとっていた訳ではなく、初めは7割の路線で押しています。

しかしながら、前回書きましたが、既に英米でシナリオが出来上がってるんですよ…
そうなってくると中々交渉が進まない。


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どの位進まないかと言うと、会議開始が1月末、それから1ヶ月経っても何にも決まらなかった…^^;
これでは埒が明かないと開かれたのが松平・リード会談(2月末)で、これで大体の日米妥協案が出来てきました。


若槻は、それまでにも大体分かっていたと思いますが、7割は無理だと、相手は譲歩しないとはっきり認識したと思います。
もうこの辺りが手の打ち所だと判断し、


「こゝで最後肚を決めなければならんと思つた」 (『古風庵回顧録』若槻礼次郎/読売新聞社/1950)


単独でイギリス全権のマクドナルド(首相)、アメリカ全権のスチムンソン(国務長官)と会談。
ふたりは若槻が己の名誉と生命を賭した、ただならぬ決意で会談取り纏めの肚中を語った姿に心を動かされたようです。
そこからは早く、1・2日で妥協案が出来上がった。

あれこれを総合した比率が対米比率 69.75%。6割9分7厘5毛。

数字だけ見れば7割より0.25%欠けるだけで、外務省としては万々歳の結果だったみたい。
そして内容全体を見れば日本海軍の要求はほぼ達成されたと海軍省軍務局も見ていたようです。


しかし海軍は非常に不満だったわけです。

海軍のスタンスはロンドン派遣組も留守組も対米7割だと書きました。
これが松平・リード会談で日米の全権が歩み寄りを始めると、現地の随員から激しい反発が起こります。


その急先鋒が山本五十六少将と山口多聞大佐。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/cc853c3eb03a5a7c66cfe1e68bbdfe0a.jpg 山本56


山本は当時次席随員でして、随員の中でも割と立場のある人物でした。
その山本が随員の反対意見を纏めて全権を突き上げた。

理由としては交渉中に接近してきたフランスと他国の交渉状況、またイギリス海軍将校から得た情報等を鑑みて、安保清種顧問、左近司政三首席随員を含む海軍随員の殆どが、
「今一度強く出たら英米は譲歩する」
と判断したという状況があったため。


纏めた反対意見を山本が財部彪全権に開陳した所、財部はかなりぐらつき(板挟みで困ったのだと思う)、若槻にも開陳しにいけと指示。
この時の様子がかなり凄かったようで、見ていた外務省の斎藤博は

「日本全権団員の息の根を止めるような猛烈果敢さがあった」

と語り、また財政面からこの辺りで妥協した方がいいと意見を述べた賀屋興宣(大蔵省)に山本は、

「賀屋黙れ!それ以上言うと鉄拳が飛ぶぞ!」

それは最早脅しですがな。



山本五十六は大正8(1919)年から2年間、大正14(1925)年から2年間、アメリカに駐在しています。
山口多聞も同様です(大正10年から2年間)。
この会議が昭和4(1929)年なので、たった数年前の話。

アメリカに駐在する中で彼我の国力の差を知悉し、また飛行機の重要性・必要性を感じたという話は、山本のエピソードとしては非常によく知られたものと思います。

もし日本が原因で会議が決裂したらどうなるか。
米英とは大きな溝が出来ますし、その後に待っている建艦競争で日本がどうなるかって、山本が想像できなかった訳がないと思うんですが。
米国駐在期の体験が山本の「日米戦うべからず」の大元となっているのに…

山本はワシントン会議以後、砲術から航空分野に転身しています。
そこまで航空兵力を重視するようになった山本が、何故そこまで艦船の割合に拘ったのかというのも、私にはいまいち理解できません。


この話ね、山本五十六の話する時でもあまり触れられない。
一番よく読まれているであろう阿川弘之の伝記小説にも書かれてないし、何だか無かった事のようにされて、
こんなに一貫して戦争に反対した提督なんですよ!先見の明に溢れてたんですよ!
って言われてるように思えてならない。


ちょっと横道逸れるけど。
『歴代海軍大将全覧』という本があります。(半藤一利、横山恵一、秦郁彦、戸高一成/中公新書ラクレ/2005)
歴代の海軍大将について4人で延々と座談している本。

山本の項目。


秦 山本はロンドン会議のとき、随員として行くのですが、請訓案に大反対した。
   あのころの山本は単純な、向こうッ気の強いあばれ者の印象があります。

半藤 怒ったのは、具体的にどうのこうのではなくて、
    東京に照会せずどんどんすすめた財部全権のやり方が気に入らなかったからみたいですよ



ロンドン海軍軍縮会議の話これで終わり。

私は半藤さんはあれこれの人物に関して贔屓の引き倒しをする人だと思って見ていますが、これなんて本当にそうだと思う。
やり方が気に入らなかったとか、そういう話じゃないと思うんですが。

それにやり方が気に入らないという理由だけで、軍縮という国家の安危に関わる問題をぶち壊そうとするのか。
それはそれで問題だろうし、これ、結構山本に失礼なこと言ってる気がするんだが。


ただ、やり方が気に入らないというのは、分かるんです。
ただそれは財部に対してだけではなく、特に首席全権若槻礼次郎に、であったでしょう。
財部に対しては、海軍の立場を強く主張しない腰の弱さに腹が立っていたとは思うけど。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


見ていて分かるように、松平・リード会談にせよ、日米英の全権会談(トップ会談)にせよ、軍人がコミットしていないんですね。
政治家が政治判断として、軍人抜きで妥協案を成立させている。

………。
まあ要するにあれだ。気に入らないんですよ…^^;


続く


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パラべラム~堀悌吉(7)

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続き。

進め方を考えていたのですが、そのまま行くことにした(おい)
政策決定に関与できる立場にない堀悌吉は殆ど出てきませんが、いい機会だと思うのでロンドン海軍軍縮会議の話でも。
大変だから今迄避けてきたのに(笑)



大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議で主力艦の制限がかけられたものの、補助艦艇(巡洋艦、潜水艦等)の制限はかかりませんでした。
それを知った軍令部第1班長斎藤七五郎が、
「それではいずれ補助艦艇の競争が始まるではないか」
とがっかりしたという話が残っている。(軍令部第1班長と言う作戦計画の中心人物が思う所がミソである)
その予感は遠からぬ後年、現実のものになります。


昭和2(1927)年のジュネーブ海軍軍縮会議がその歯止めを掛けようとした会議で、この時の首席全権は斎藤実。(内閣は田中義一内閣)
堀悌吉はこの会議でまたもや随員となっています。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014830.jpg


参加国は日米英の3ヶ国ですが、米英の主張が平行線のままで会議が決裂。(日本が仲裁…
何の成果もないまま、問題が昭和4(1929)年のロンドン海軍軍縮会議にまで持ち越されています。
ロンドン海軍軍縮会議は1次と2次がありまして、昭和4年の会議は1次。
2次は昭和10年、その前に予備交渉があり、その時の日本代表が山本五十六でした。

ジュネーブ会議の決裂後、英米がその問題を摺合せまして、それが大体妥協点に達してから日本が呼ばれている。
要するに英米で打ち合わせしてから日本を入れた訳で、日本としては不利な立場で交渉を始めなければならないという状態でした。


第1次の軍縮会議に参加すべく赴いたのは以下。
全権と海軍関係者のみピックアップ。

全権:若槻礼次郎(首席)、財部彪海相、松平恒雄駐英大使、永井松三駐白大使
顧問:安保清種海軍大将
随員:左近司政三中将、山本五十六大佐(少将)、豊田貞次郎大佐、中村亀三郎大佐、岩村清一大佐、山口多聞中佐

山本五十六が次席随員として参加しています。

本国の陣容は海相不在の間、海軍の事務管理となった首相浜口雄幸、海軍次官山梨勝之進、軍務局長に堀悌吉。
本国では山梨次官と堀軍務局長が非常な労を執ることになります。


海軍としては会議以前から主張すべき立場は決まっていまして、それが「対米7割の維持」。
何となく初めから割合に拘る派と拘らない派に分かれて争っていそうな気がしますが、さにあらず。
ワシントン海軍条約会議時の条約賛成派とか反対派とか関係なく皆「対米7割」。
海軍の総意として、軍事的な視点からこれは譲れないという意見でした。

一方浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相、そして首席全権若槻礼次郎らの政治家は、
 ①経済的問題(国民負担の軽減)から軍縮は必要
 ②協調外交の立場からも軍縮に賛成する必要がある
この意見で、政治的な視点からとにかく軍縮条約には調印する というスタンス。

既にこの時点で意見が割れている。


財部は全権になった際、若槻主席全権に対し、
「軍人である自分が7割を貫徹するのは難しく、政治家である貴方に協力してもらいたい」
という旨を依頼するのですが、上記の通り若槻は妥協できる所で決着しようと考えているため、うまーくそれを避けて「うん」とは言わない。
この最終決着地に対する意見の相違がそのままロンドンに持ち越されています。

ロンドン海軍軍縮会議は、政府側と海軍側のこの手の擦れ違いが非常に多かった。
条約調印の後、あれだけ揉めた大きな原因は、このコミュニケーションの悪さにあったと思われます。


続く。


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優先順位がおかしい話(2)

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題は Odd Priority に変わっています。

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山梨遺芳録より (第6回)

~ 前回までのあらすじ ~

台湾銀行救済緊急勅令案の会議の筈なのに、筋の違う政府の外交批判を展開し始めた枢密院顧問官・伊東巳代治。
みんなげんなりしながら聞いていたけれど、方向違いで謂われのない批判と御前でのお下品(?)発言に堪忍袋の緒が切れた閣僚がいた。

~ ~ ~

(※伊東巳代治は)果ては陛下の御前をも顧みず、「知らぬは亭主ばかりなり」などと放言して、私を罵倒した。
(『外交五十年』 幣原喜重郎/中公文庫/1986)

ブチ切れた閣僚は幣原でした。

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/sidehara.jpg

幣原は当時若槻礼次郎内閣の外務大臣でした。黙っていられなかった。
枢密院会議に出席していた閣僚が黙っているので、若槻首相に一言いいかと断った上で、

・今日の諮詢は台湾銀行の件だ。貴方は外交について非難したが、何の関係がある
・いわれのない事実を痛論したが、その証拠を出せ
・よく調べもせずに憶測で虚構の事実で論断するのは甚だ迷惑
・陛下の前で私を中傷するのはどういう訳か。このように世間を惑わす責任をどう考えているのか

私の声はしだいに激越になるので、若槻首相もハラハラしている様子だ。
財部(海軍大臣)は小さい声で、「そんなのに相手になるな」という。
しかし私は黙っていては癖になるからと思ったので、ここで思う存分に反駁してやっつけた。


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黙っていては癖になるって…こ、子供か…
伊東は真っ赤になって怒ったものの御前であったので流石にそれ以上は何も言わず、それはその場で済んだのだけれど、会議が終わった後、


「貴様は実にけしからん。御前でおれを罵倒するとは、不都合な奴だ。」


逆ギレ。
そしてそんな伊東にさらに腹が立った幣原。


私に対して貴様呼ばわりである。これに対して私は、
「どっちが不都合か」
とやり返した。それからすこぶる不穏な場面に立ちいたり、まるでゴロツキの喧嘩のように、
「来るなら来い」
といいざま、私は腕をまくった。 
(※周りが止めました) 


幣原(笑)
笑う場面じゃないけど思わず笑ったこの場面。
いや…確かにね、本当に腹が立ったと思うよ…
あんなことを言われた挙句、台湾銀行救済緊急勅令案は枢密院で否決され若槻内閣は総辞職することになったし。


当時、総理大臣が辞職すると各皇族に挨拶回りに行くという慣例があったそうです。
宮家は市内(当時は東京市)に散らばっており、それを訪ねるためには当然あちこちを通らないと行けない訳で。
その際、若槻は銀行に黒山のような群衆が押し掛けるのを目撃しています。
取り付け騒ぎが起きてる…


私はそれを直視することが出来なかつた。こうなると思つたから、自分は一生懸命やつた。
それを枢密院が軽く見て、こんな事になつた。
(『古風庵回顧録』)


もう少し粘り強かったら、もう少し何とかなったのではと思う所は、正直言えばめっちゃある。
しかしながらこういう記述を見ると、後の歴史を思うと、やっぱり胸が塞がる様な思いがします…
まあ、あっちこっちで伊東は関係者を困らせている訳で。


ロンドン海軍軍縮会議の条約批准の際も枢密院の審査委員会のメンバーを全員批准反対の顧問官で固めたり。
政府から審査要請が来ているのに3週間ほったらかしにしたり。


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(『総合日本史図表』(第一学習社) に載ってた漫画)


ただどれだけそんな嫌がらせじみたことをしても、浜口雄幸首相は断固として譲らない。
譲らないよ!だって雄幸ですもの!(誇らしげ)(笑)
そりゃあ国家安危に関わることで、浜口自身が文字通り身命をかけて取り組んでいる上、昭和天皇・宮中・新聞・世論が浜口内閣の味方だった。
この条約批准については浜口のイニシアティブがすごくて、内閣も全一致。

あ、これもしかして歩が悪い?反対し続けるとちょっとまずい?
枢密院の面目丸潰れになりそう。
そう悟ると伊東は豹変。
 
「もう枢密院で議論するのは止めて、批准しよう」
「え?」

当時枢密院議長であった倉富勇三郎は唖然。
唖然というか裏切られた…

倉富は条約批准に反対でそれは伊東と同意見だったのですが、彼の反対理由は審議を通す手続きや法律の問題からくるもので(倉富は法律の専門家)、政治的理由で反対した伊東とはそこが違っていた(その辺りに倉富の限界があるように思います…時代についていけてない)。
伊東は他の委員にも批准を認めるように迫り、


承認を迫る伊東の演説は罵詈に渉り、委員の賛同を得ると急に顔を和らげ言も穏やかになった、
と(※土原註:倉富は日記に)悪意をもって書いている



枢密院議長の日記』(佐野眞一/講談社現代新書/2007)より。
原文じゃないのが残念な所ですが。


条約の審査上必要なる資料を得ずして適当なる審査を為すことを得ざるは当然なるに拘はらず、
伊東は山川、河井が必要なる質問を為し、又は正当なる意見を述べんと欲すれば罵言を発し、
又は委員長を辞すと云ふて之を威嚇し、無理に審査を結了し、委員をして自己の意見に一致せしめたり

(同上より倉富日記の引用の孫引き)


山川は山川健次郎、河井は河井操です。
書き手に悪意があるのでその辺りは勘案が必要ですが、しかし何といいますか。
幣原の回想録でも本人がいない所で伊東に無能を罵られる場面がありますが、うーん。罵声を浴びせずにはいられないのか…
とにかくこういう感じで時代を上っても下っても伊東巳代治に困らせられた人は結構いる。


以前山下亀三郎の本を読んでいたら伊東巳代治の話が出てきてました(『浮きつ沈みつ』/山下亀三郎/山下株式会社秘書部/1943)。
山下は明治~昭和の実業家で、愛媛出身。船成金として有名か。
同県出身という事で秋山真之と縁があり、秋山は山下の小田原の別荘で亡くなっている。
小田原の古稀庵(山縣有朋別荘)に行った時、本当に近くを通ったのに気付かなかったんだよ~
あるのは看板だけらしいけど、見られるものなら見たかった…
あの付近で瓜生外吉の別荘跡(胸像がある)をウキウキしながら探してたのは私ですorz

山下は伊東とは割と懇意にしていたようですが、それを見た先輩や友人から「君は気を付けてゐないと、今に酷い目に遭ふぞ」と忠告されている。
酷い目に遭うぞって…^^;
山下曰く、伊東との付き合いの呼吸は分かっているから別に問題はなかったらしい。
ただうわあ…と思ったのは、


同伯は常に
「自分は、長く猟をして猪や鹿を打ち、また吠える犬は打つたが、尾を振つて来る犬は一度も打つたことはない」
と云ふことを繰り返して言つて居られた。
 

それ、犬の話じゃないよね。


続く!


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