Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

広瀬武夫の話、色々(6)

サイト移行の為下ろします 
関連記事

追憶(2) 秋山真之

*****

この話は4回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。

*****


需要があるようなので続きます。
ありがとう。
そして青いよ!引用の嵐である^^;


4)清水光美 (36期。同期に南雲忠一、沢本頼雄)

○明治41年 橋立乗組み

橋立の乗組になった。艦長は有名な秋山真之大佐。
橋立は横須賀予備艦隊(司令官野元綱明少将)の旗艦であった。

私は少尉になったばかりで航海士を勤め艦長付きとなり、私用にまで関係するようになった。
艦長は時々上陸されて二、三日帰ってこない時もあったが、艦に泊まられるときなどは艦長室に呼ばれて、
艦長と共にジュータンの上にアグラをかきながら書物の整理を手伝った。

あらゆる方面の書物が雑然と堆く積まれてあって、これを分類して目録を作ったり抜粋するのだが、
その間折りに触れていろいろなことを話された。

「兵学校の卒業者たるものは大尉一杯まで生徒の積りで連続不断に本を読み、話を聞き、勉強しなければならない。
私は尉官時代俸給は殆ど全部読書に宛て、洗濯袋を持って古本を買ってきたものだ」

とも言われた。
また連合艦隊解散の辞について、「どうしてあんな名文が出来たのですか」と無遠慮に御尋ねしたら、

「名句名文など云うものは無造作に出来るものではない。
平素から読書の間に名文句に出会ったときは、これを書き留めて整理していた。
土井晩翠のような詩人でも、昔からの名句をカードに抜粋して引き出しに分類保存してあり、
例えば月夜の景色を詠まんとすれば、その部のカードをペラペラめくっている間にヒントを得るようにしていたそうだよ」

と言われた。



野元綱明は、広瀬武夫がロシアに駐在していた際、上司であった時期があります。
ウマが合わなくてね、広瀬もいろいろ悩んでいたようです。

そして後年、米内光政の上司にもなっててだな~…
米内しゃままで苛めてたらしい。
他にもいくつか芳しからざる話を目にしてます。部下にはちょっと意地悪な人だったみたい。

洗濯袋云々については秋山の同期である堀内三郎も話を残しています。
横道に逸れてしまいますが、出典元がちょっと手に入りづらい本だと思うのでこれも引用してみる。


本人から直接聞いた話だが、彼は新聞雑誌を読んでも、また書物を読んでも、
破いても差支のないものは、これはと思ふ様な大事な処を引き裂いて、洗濯袋
…此の頃でも呉れるだらう。あの兵学校で貰ふ洗濯袋だ…の中に入れて置く、

月に二三度は雨や風で何処へも出られず、また友人も来ん、つまらぬ日があるものだ、
さう云ふ時に彼は洗濯袋を引繰り返して整理する。
その中の要らぬものは棄てる。 大切なものはスクラップブックへ貼る。

斯う云ふ風に彼は一面天才でもあつたが、一面に於てはよく知識を集めたものだ。<略>
秋山はそれを少尉の頃からやつて居た。<略>
勉強する時間がないと云ふのは嘘だ。勉強しやうと思えば何時でもできる。
秋山はやつたんだ。
兵学校を出てからもやつたんだ。 <略>

処で、このポケツトに本を入れて置いて、遊んで居る時でも、酒を飲んで居る時でも、
ひよいと出して読むと云ふことは、 秋山の兄もさうらしかつた。

私の従兄に秋山の兄、即好古将軍と親友であり、陸軍大学も同期であつた陸軍士官が居つたが、
「秋山と云ふ男は妙な奴だ。酒を飲んで居てもひよいと本を出して勉強して居る」
と云つて居た。
兄と弟と何方が真似たか知らん。
或は秋山が兄から教へられたのかも知れない。

(※土原註:秋山が亡くなった時)
私は嘸(さぞ)万巻の書が蔵せられて居ることだらうと思つて居た。
処が驚いたことに何もなかつた。
恐らく彼は読んだことは皆頭の中に入れて仕舞つたから、本を残して置く必要はなかつたのだ。
尤も珍籍と云ふ類のものはあつた。


(「秋山将軍の勉強法」 海軍中将堀内三郎談 (『海軍先輩の逸話、訓話集 其の三』/海軍省教育局/S8))


秋山兄弟は揃って大変な勉強家でした…
ってゆーか従兄って誰ー!
陸大同期?陸大1期生って10人しかいないのよ!
堀内、兵庫県出身だそうで、1期生の出身地見てみたら兵庫の人2人いた。
藤井茂太と石橋建三。
どっちかなの?やだ、ホント誰なの。気になるやんか~


○明治41年 橋立乗組み 2

 


私が飯田久恒中将(<略>)からじかに聴いた話だ。

「日露戦争が済んで連合艦隊が伊勢神宮に外線報告参拝をした後、
秋山参謀に「観艦式当日には長官の訓示が要りますね」と云ふと、
うんと軽く頷いておられたが、東京湾に回航すると上陸したきり帰って来ない。
忘れているのではないかと心配になり、四苦八苦して何とか起案してみた。

押し迫ってから漸く秋山参謀は帰艦したが、これを見せると
「アアあれか、あれなら乃公が書いておいた」
と出されたのが、あの有名な連合艦隊解散の辞であった。
私は冷汗をかいた」。


私は冷汗をかいた。

(笑)
淡々と書かれてて笑ってしまう。
いや、なんてーか飯田さんお疲れ様でした…^^;
この話もよく出てるね。
しかしふらっと出て行って帰ってこないってのが多いな(笑)


秋山さんはこの訓示は永く後世に残るものだと重視し、推敲に推敲を重ねたものと思う。
長く艦に帰らなかったのも、上京中知己の学者に図って練りに練っていたのではあるまいか。

秋山さんは不世出の天才であったと同時に非常な努力家で、
自ら習得したものはよく整理して次第に累積長養されたもので、
彼の名戦術も名文章も決して偶然の産物ではなく努力の結晶と思う。

短い期間ではあったが、私は艦長付として秋山さんに仕えたことは、
私の四十年の海軍生活中最大の教訓で今に感銘している。
私は練習艦隊司令官になってからもよく当時のことを思い出して候補生の訓示に引用した。



この清水光美元海軍中将、私は全然知らない方だったけど、小柳資料中秋山について書かれている文章では一番印象に残りました。
勉強家、努力する天才。
言っていることが堀内と同じだな、と思ったのよ。


続く。 
関連記事

日本海海戦、日進の惨劇(3)

*****

この話は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。
題は『海軍の本より』に変わっています。

*****


題がそぐわない。


『追悼 山本五十六』、『残花一輪』より続き。
いや、なんてゆーか、本当に続くとは…^^;


日露戦争終結後の明治39年、日進乗組みであった市川恵治少尉は通常勤務の際に旅順口攻撃の際に打撲した箇所を2度強打するという事故に遭い、最終的に立てなくなる程になりました。
和泉乗組みの時もそんな感じでしたが、この時はもう我慢で通用するような状態ではなかった。

舞鶴海軍病院に入院し、左股関節の切除手術を受けたものの経過良好ならず、軍医は左足を切断した方がいいという判断に落ち着いた。
市川もそれには反対しませんでした。
やるなら一気にやってくれ。

ただ彼が今まで激痛に耐えてきたのは軍人として奉職できるから、入院したのも海上勤務に戻りたかったからだった。
それが完全に奪われてしまうことになる。
何のために生きるのか。
心が完全に折れ、2度3度と自殺未遂をし、神経衰弱になった。


『残花一輪』に書かれているこの頃の様子を見るに、人の心配や言葉を全く受け入れられない状態になっています。
なんといいますか、こんな書き方したくないけどまるっきりキ○ガイですわ。

ただ市川が5・60代ならまだしも、日露戦争に参加したのが少尉候補生時、22・3歳。
海軍を辞めることになったのが手術を受けた時だとすると、24・5歳です。
そら、かわいそうだよ…
自暴自棄になっても仕方なかったと思うけど、家族も周囲も手におえなくなってしまった。

最終的に東京大久保の某寺に寄寓することになり、住職の話を聞く内に憑き物が落ちたようになった。
明治42年に得度とあるので、日露戦争が終わって4年。
実に長い間の身体的、精神的な苦しみでした。

どうしても『坂の上の雲』で描かれる花形の将官に、華やかな方に目が行ってしまいますが、戦後に苦しんだ将校や兵士、家族は山ほどいたと思います。
市川はそんな中のひとりだったのだろう。


市川にはすごくお世話になった上官がいて、それが明治39年当時日進の副長であった真田大佐(市川在籍中は中佐)。
ん?と思いましてね。
もしかして真田鶴松かしら…
調べたら市川よりも卒業年が上の真田姓には真田鶴松と真田権太郎のふたりがいました。
15期と18期ね。

『残花一輪』の原稿は明治42年のクリスマスに書き上がり翌年出版されたのですが、真田大佐が一部内容を校閲している箇所があります。
うん、、明治42年当時で大佐である真田さんの方ですね。
18期のクラスヘッド加藤寛治でさえ大佐に進級したのが明治43年12月ですので、真田鶴松で間違いないです。

真田鶴松。
広瀬武夫と同期でして(前回名前が出た松井健吉も同期)、ブログ・サイトで何度か名前が出てきています。
東京万世橋に広瀬の銅像を建立するのに(嫌々ながら)涙ぐましい努力をしてくれた人だ!(笑)
ありがとう!

真田は市川が日進にいた際、
「頑張りすぎ、体を壊すぞ。今日は時間もあるのだから上陸して遊んで来い」
と声を掛けてくれたり、部下には好かれる副長だったようですな。
真田は市川の得度式にも出席してます。

意外だったのは、市川の姉、皇室と関わりがあったみたい。
市川が姉の家に身を寄せていたころに、11・2歳の女子と8・9歳の男児がいたのを見て、話でもしたいと軽く姉に振ったら、

「あんた何言ってんの!?あそこにおられるのは若宮殿下と姫宮殿下よ!」

この若宮殿下ってもしかしたら昭和天皇の事じゃないかと思うんだけど…
お姉ちゃん何者。


***


『追悼 山本五十六』に話を戻すと、山本五十六と市川は日進艦上で約5か月程寝食を共にしていた。
山本の死が公表された後、それを知った新聞記者が何か特ダネはないかと訪問して来たり、答えに窮すると所があったようです。


蟻の塔のような艦内を巡回見学中、右舷やら左舷やらがわからなくなったり、
前甲板のつもりで上甲板に出て見ると、何とそこが後甲板であったり、
甚だしきに至っては下甲板以下でとうとう迷子になってしまって、所在の兵に道を聞き聞き、
やっと自分どもの公室へたどり着いてホッとしたというウソのような失策もあった。

それにまだ乗り馴れぬ悲しさには、ろくな波でもないのに意気地もなくよっぱらって仕事に差し支えたり、
万事がこんなザマでは戦時のお役に立つどころか、時には上官から艦内の邪魔物のようにもこきおろされて、
泣きたくなることさえあった。

こうした自分などに丸一ヶ年後れて、これも遠洋航海抜きでポカンと「日進」へ新乗してきた高野候補生たる者、
またお多分に漏れぬ存在であった。<略>
栴檀の嫩葉らしいところは、自分ごとき者の凡眼にはいっこうに見受けられなかったというのが、
当時における自分の偽らざる高野候補生観である。



以前触れたように、市川ら31期は遠洋航海を経ず、練習艦に半月乗っただけで各自各艦に配属になっています。
心構えもないまま、いきなりの配乗はいろいろキツかっただろう…^^;

高野五十六とは他の後輩と同様に接し、特に親しくしていたとか、そういう感じでもなかったんだろうと思います。
ただ戦闘終わり、高野候補生が担架でランチに運ばれている際に一言二言言葉を交わしていて、それが市川が高野、後の山本五十六ですが、と顔を会わせた最後の機会になった。



時飛んで日露戦争から32年後の昭和12年、市川の元にある老人が訪ねてきた。
聞けば日露戦争に出征、触雷で沈んだ駆逐艦速鳥乗組みで、後に日進に配属された元下士官だった。
市川は初瀬の例もあり彼を可愛がり、少尉任官の際には少尉候補生の軍服をそのまま与えたりもしたようで。
老人は年も年だし(74歳)、今生のお別れにと岡山からやって来たのだけれど、しかしながら市川は覚えてなかった^^;
あーあ…
それでも家に逗留させてやり、東京見物に連れて行ってやりとする内に、聞いた話がふたつ。

・重傷を負った高野五十六候補生を抱き下ろして負傷者収容所へ運んだのはこの老人だった
・速鳥で戦死した森下基一少尉の墓所を知りたい

そこで市川は、あっ、と思い、


「明日はお前をド偉い人に会わせてやるぞ。よいか、びっくりするな。それは米内海軍大臣と山本海軍次官だ」


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140603.jpg 左)山本 右)米内


「お前は海軍大臣と次官に会いに来た身であることを気がつかずにいるのだ。
お前は無紹介で両大官に会う資格を立派に具えている。
俺は米内さんとは兵学校で同じ分隊で一ヶ年間、文字通り寝食をともにした仲であるから、会って話せばご記憶があろうと思う。
そして森下基一少尉は米内さんと同期の秀才だった。
その部下たりしお前が今生の願いで展墓したいから少尉のご生国を調べていただきたくて
身分も忘れて推参致しましたと言ってみろ、大臣だろうが大将だろうが、必ずお前に会うに決まっている。
山本次官に至っては一も二もないことだ。<略>」



…いや~…
調べたらね、森下基一「少尉」は、森下基一「大尉」で朝日の分隊長で日本海海戦で亡くなってるんです。
日露戦争自体は30年以上前の話だからなあ…
老人の記憶違いは起こりうると思うけど、老人が正しいことを伝えているのに市川が間違って書いている可能性も…
市川の文章は資料批判の重要性をまざまざと感じさせます^^;


市川は足の具合が悪くて付き添えなかったけど、市川の妻が老人と一緒に海軍省まで行った。
で、米内海相と山本次官は会ってくれたかというと、これがすんなりと会ってくれた。

米内はすぐに墓所の所在を調べてくれ、山本は老人の話を聞いて感無量になってしまった。
山本は情の厚い人でしたので(部下の殉職時には遺族が驚くほど泣いたり)、これは流石に大袈裟だったりとか記憶違いではないと思うなあ。

揮毫を頼んだ所ふたりとも快く承諾して、老人は家宝がふたつできたと喜んで帰って行った。



『追悼山本五十六』がここまで広がるとは思ってませんでした。笑
軽い気持ちで引用したんだけど、思いがけない発見ができて面白かったです。 
関連記事

(19)岩手人脈 3

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010340.jpg

原敬が親友の子・八角三郎に海軍行きを勧め、更に八角が誘ったのが米内光政。
みっつぁん、さぶちゃんの仲のふたりは盛岡中学の同級生でした。
中学とは言うものの旧制ですので、現在の高校になる。


この中学校、この時期に後の有名人を多く輩出していまして、米内と八角の2級下に金田一京助(言語学者)がいます。
そして金田の同級生に、野村胡堂(作家)、田子一民(衆議院議長)、郷古潔(三菱重工社長、東條内閣顧問)、及川古志郎(海軍、海相)がいる。
で、1級下に板垣征四郎(陸軍、陸相)がおり、そのもう1級下に石川啄木(歌人)がいます。
で、手元に資料がなくて詳しいことは分からないのが原抱琴で、この人は米内の1級下じゃないかと思う。

5:米内光政、八角三郎
4:原抱琴
3:金田一京助、野村胡堂、田子一民、郷古潔、及川古志郎
2:板垣征四郎
1:石川啄木

こんな感じ?
あと時代が下りますが、宮沢賢治も盛岡中学出身です。
中々面白いのが、この学校、旧制中学らしく質実剛健を旨とするバンカラ学校だったそうですが、この人たちの多くが文学青年だった。

及川古志郎は後に海軍大臣になった…うーん…まあなんだ。色々とアレな人物ですが、非常な読書家、特に漢籍をよく読む人として知られていました。
この頃は短歌を作り、金田一や野村の勧めで雑誌に投稿なんてしてたそうです。
石川啄木はこの及川に可愛がられていた。
入学して暫くは海軍士官になりたかったのに、及川の影響を受けてすっかり文学少年になったそうで^^;
野村胡堂は及川に「良くしてやってくれ」と石川啄木を紹介されています。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140402_01.jpg


その野村の友人のひとりであった原抱琴は本名達(とおる)といい、原敬の甥になります。
非常に頭がいい人だったそうで、盛岡中学から東京の尋常中学に転入したのはそれもあるのか。
そこから旧制一高(第一高等学校)、東京外大を経て東大に進んだ。
ただ惜しいかな明治45年に30歳という若さで早世している。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/80.jpg


この方、正岡子規の門下になります。
上京して子規に会った際、17・8歳の頃ですが、子規が想像していた以上に若くて、
「本当に君が抱琴か」
と聞かれた程短歌の出来が良かったといいます。

なんかね、もう原敬自慢の甥っ子だったみたいで、原自身も、
「法律論もフランス語も俳句も、あいつの方が俺より上手い」
とにこにこしながら人に話していたという話が残っています。
本当に優秀で、東大は病気の為に半分以上休んでいたのにテストの平均が93点とか95点とか、そういう人だったみたい。

野村胡堂は抱琴に影響を受けてホトトギスに寄稿したりしていた。
野村も上京して旧制一高、東大に進んでいまして、これは抱琴と同じルートを辿っています。
ちなみに野村が在校していた当時の旧制一高の校長は、野村が尊敬する新渡戸稲造でした。
新渡戸も盛岡の人で、作人館出身。

野村が旧制一高にいた同時期にはフランス文学者・辰野隆(ゆたか・東京駅の設計をした辰野金吾の長男)が在籍しています。
辰野隆については以前、広瀬武夫と同じ船に乗り合わせたことがあると書いたことがあります。
で、その辰野と仲が良かったのがこれまた一高の生徒・谷崎潤一郎。
そして辰野の奥さんは江川太郎左衛門(英龍)の孫。
繋がるね!(笑)


野村と抱琴はそういう関わりもあって、仲が良かったんでしょうね。
その関連から野村は原敬を「政治家」としてよりも、「親友の叔父」として知っている。
抱琴、病弱で旧制一高も病気で中退していたそうです。
恐らく東大に在籍していた時期だと思いますが、病気で東大前の下宿を引き払い、最終的に赤十字病院に入院。
胸が悪かったといいますから、結核だったのではないかと思います。
郷里盛岡に帰って、そこで亡くなっている。
明治45年。


続きます。
関連記事

(18)岩手人脈 2

東條英機の父は東條英教といいまして、南部藩の出身になります。
安政2(1855)年生まれ、小村寿太郎、犬養毅、出羽重遠、井口省吾らと同年になります。
同じく南部藩出身の原敬はその翌年生まれで、彼らが12・3歳の頃に明治維新を迎えた。

野辺地尚義の件で触れましたが、維新の際、南部藩ははからずも”朝敵”となってしまいまして、その藩の子弟であった彼らも苦難の道を歩むことになります。
東北諸藩出身者は、総じてその藩と維新の経緯から大した出世が見込めない風があった。
日露戦争後の明治39年に海軍兵学校に入った井上成美(宮城・仙台)でさえ、宮城出身だから出世はできないと人から言われている。
その30年前、35年前はどうであったかなんて、まあ書かなくても想像に難くない。


ただ盛岡の子弟は大変ながらもまだラッキーだったんじゃないかと。
南部藩には作人館という藩校がありまして、維新時に一旦休校になったか廃校になっていたものの、明治3年に再校したようです。
そこに入って勉強したのが東條英教であり、原敬であった。
作人館にしても旧制盛岡中学にしても、近代史において盛岡出身の人材輩出が多かったのは教育が充実していたからじゃないかと密かに思ってます。


http://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0138.jpg http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010337.jpg


東條と原、同年代の事もあり、上京までのステップはほぼ同時期。
東條はストレートに陸軍の方に進んだようですが、原は海兵を受験して落ちたり、司法学校を賄い征伐で辞めざるを得なくなったり。
若い頃は苦難苦学の道を歩んでいただけに、躓きなく陸軍で歩んでいる東條は原にとっても眩しい存在だったみたい。
郷里の後輩に陸海軍への進路を進めるような書簡を郷里の友人(八角彪一郎)に出しています。
東條は盛岡出身者の期待の星だったようですな。


ただ原もその後は井上馨、陸奥宗光らに見出されて政府高官になり、そして伊藤博文に誘われて立憲政友会に入ることになり、岩手県出身の出世頭といえば東條英教と原敬になっていた。
そういうこともあって、旧主家の世話係というか教育係というか、ふたりはそんなものを務めるような立場になっていました。

南部家が旧藩に縁のある有識者に顧問を頼むようになったのが明治38年で、東條を通して原が依頼された。
明治38年といえば忙しい時期でんがな~^^;
原は既に政友会の重鎮になっていまして、日露戦争後の戦後経営を巡って桂太郎と取引したり…
多忙であまり気乗りしなかったようですが、結局は引き受けている。
で、その時に岩手出身の有力者に協力を依頼して、顧問団を作ったみたいです。

その当時のメンバーにどういう人がいたのかというのは私には分かりませんが、多分前回紅葉館関係で名前を出した人たちとほぼ重なると思われます^^;
大正10(1911)年に原敬が東京駅で暗殺された後は、田舎館愛橘、鹿島精一が中心になっていたようです。(東條は大正2年没)
で、現役を退いた後らしいけど、山屋他人もそれに加わっている。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010336.jpg


上はその関係者が写っている写真。鹿島以外は海軍軍人。

栃内曽次郎には兄・栃内元吉がいまして、この方は陸軍中将にまでなっています。
15歳離れており、兄というよりは実質父親のようだった模様。
この兄は明治3年に作人館に入り、そこで原敬と同室であった縁から終生の親友でした。
開拓使として北海道にいたものの、西南戦争の際は屯田兵として従軍しています。
栃内曽次郎が札幌農学校から攻玉社、海兵に進んだというのは、この兄について行っていたから。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010340.jpg


また原が作人館にいた際に得た友人には八角彪一郎がおり、この八角の妻・きよが栃内元吉の妹(曽次郎の姉)になる。
その八角の子供が八角三郎。
栃内から見たら八角三郎は甥っ子になります。
山屋他人も八角の叔父にあたるそうです。
山屋との関係は色々確認できるところはしたんだけど、どの線で繋がるのかはトレースできなかった…
単に私が情報不足なだけで、緒方竹虎と高橋文彦さんの本に書かれているので嘘ではないと思う。


この八角三郎に海軍に行け!と勧めたのが父の親友・原敬でして、それでお前もどうだと誘った親友が米内光政になります。
八角と米内は盛岡中学の同級生でした。
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)