Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

プリペア

そろそろ財部彪日記を見に行くための準備をしなければならないのだが。
前回見に行く際にかなりの下調べをしたので、何となく気持ちがたる~ん。
何と云ふことでせう。

とはいえ見たいと思うところはあってですね!
特に気になっているのは明治32年の部分。
広瀬武夫がロシア駐在、そこへ朝日回航委員の竹下勇、イギリス駐在員の財部彪がやってくる。





その時の記念写真が上のものですが、前列中心に座っているのが上村彦之丞です(中心…
来露したこの御一行様の面倒を主に見ていたのが広瀬でして、ロシアを発つ時も駅でお見送りをしている。

その時にね、上村がちょいちょいと広瀬を呼んで突然ほっぺたにチューするのですよ!
ほっぺにちゅー!(代わってー!)(こらこら

いやー…
私、この話は長らく島田謹二さんの作り話かと思っていたのですがね、竹下勇がとある席の回想で語っておるのですよ。
見てたんか竹下君。
それならきっと財部君も見てるはず。
それにこの一行と広瀬がどういう話をしていたのかとか、そういうのも財部日記からなら分かるのじゃないかと思う。
広瀬書簡を見ていると、広瀬はこの頃、ちょっと悩み多き時期であった節があるので、そういった話を聞いてないかとも思う。

あと財部の縁談の所かなあ…
ほんっと複写物が薄すぎて辛い。
原本見せてもらえないか聞いてみたいのだけど、ちょっと無理そうだよなあ。
1日、2日分だけなのだけれど。

あーやっぱり準備しとかんといかんわ。笑
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お披露目

財部彪、故郷の都城(宮崎県)で挙式していたと思っていたのだけれど、東京で挙げていた。
財部彪顕彰会の伝記の記述も違うってどういうことー!ちょっとどういうことー!(笑)
私サイトで都城で挙式と書いたよ!?(笑)

ただおかしいとは思っていたのだよー(※これに限らずこう感じる所は意外と多い)
関係者皆が東京にいるのにわざわざみんな宮崎まで移動していたのかとか、さあ…
東京か。東京やんな、やっぱり…

うん、なんというか財部の結婚は急転直下で決まったね。
外堀埋められて最後は諦めたね、これ。
「致し方なし」だもんね。
そして広瀬武夫や向井弥一のふたりは勝手に友人の為と言って破談させようしたのではなく、財部に助けを求められての行動だった。
財部が山本権兵衛の長女と結婚したくなかった理由は、山本が権門勢家であるため。
…もあるのだけれど、これが第1の理由ではなかったわ。
それはここでは書きませんが、当時はとてもじゃないが口には出せなかったと思う。

ただ結婚したらしたで結構楽しそうな感じではある。
そして都城へも帰っていた。
お墓参りと親族や知り合いへ奥さんを紹介するため。新婚旅行に近かろう。


5月15日に東京で挙式をしています。
ただ本当にもう読めないのですよ。薄すぎて…





「広瀬」とあるのが見えて、非常に気になる。
恐らく向井の話も書かれているだろう。
友情から自分の意志に添うように尽力してくれたということが書かれていると思われる。
読みたいけれど、もう一度国会図書館に行ってもこれは読めない気がする。
どうかなあ…コピーのコピーだからなあ…

そして16日に披露宴を開いていて、そこで東京近辺にいる同期や懇意にしている知人を呼んでいる。
招待状を三十人程に出していて、二十数人が出席してくれた。
竹下勇、中野直枝、山中柴吉、木村剛、町田駒次郎、松井健吉、広瀬武夫とやっぱり同期が多い。
やーん竹下君もいるー(落ち着きなはれ)
向井の名前は出ていなくて、これは他用があったのだと思う。
何も無ければ向井は絶対に来てくれそうだし。
そして秋山真之もいました。あっきー呼ばれてたわ(笑)

仁礼景一も出席者のひとり。
仁礼景一…名前は既出なのですが、お、覚えてる?^^;

海軍大臣をつとめた仁礼景範の長男で、アナポリス出。
初めは医学の為にアメリカ留学をしていたのですが、何があったか途中でアナポリスに私費留学している。
卒業期は18期卒業相当という扱いのようです(18期…加藤寛治、安保清種らのクラス)。
広瀬とは同僚であった時期があり、それが18期の遠洋航海、比叡乗組み。
え?という感じですが、この時は18期らと同等扱いではなく比叡分隊士として乗組んでいます。

「仁礼等如キハ我吾ガ妻ヲ胴上ゲスルニ至レリ」

とかいう一文があって笑えるんだけど。
イネちゃん胴上げされてる…
そしてもう「吾が妻」だよ!「吾が妻」!照れがないな財部!(笑)
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書簡と日記と

国会図書館には本当にチョー!久しぶりに行ったのですが、結論としては段取り八分の大勝利でした(いい笑顔)。
手間取るかと思いきや、思いの外スムーズに事が運んで我ながら怖い位だったわー
というか、この日は本当にすべて予定通りに事が進んで自分でもどうしたのだろうと思う程の出来でした。
準備って大事ね…(今更)
マイクロフィルムも触るのが久しぶりだったので大丈夫かと思ったけど大丈夫やったわ。
よかったよかった。

下写真に写っているのは向井弥一の書簡ですん。





財部彪の書簡等も複写してきましたが、ついでがあったら〇〇への代金の立て替えを頼むといった内容が多くて笑う。
こうやって同期同士であれこれ融通し合っていたんでしょうね。

結婚しましたっちゅうご連絡等もあり思わず笑ってしまったりもしたのですが、向井書簡、確かめたら抜けが出ていた…
別途複写依頼出しました。涙。
竹下勇のアルバム系でもしかしたら戦艦朝日関連の写真はないかと思ったのだけれど、写真は全般的に余りに写りが悪かったので今回は捨てた。

財部彪日記は精査する間もなかったので名前が出ている辺り、ばさーっと複写依頼。
明治30年の5ヶ月分くらいかな?あとプラスアルファで若干。
あらと思ったのですが、広瀬には森川潔夫という弟がいます。
森川家は飛騨高山で広瀬家が世話になった家で、請われて潔夫が養子に行った。

明治20年代後半に東京に遊学しているのですが、広瀬が露国留学する前に勧業銀行への就職が決まっていたようなのですね。
書簡から見て広瀬自身の周旋ですが、どうもこれ財部の伝手だったみたい。
やっぱり原典史料からは色々と情報出てくる。

今回時間がなく複写に回せなかったのが明治26年分の日記。
ただ閉室ギリギリまで読んでいたのですが、やっぱり出てくる広瀬武夫さん。笑
土曜に広瀬と遊んで日曜に竹下と遊ぶって、くっそ財部wうらやまw
羨ましすぎるww


財部日記 明治26年5月20日(土)
昼伊木広瀬二氏来参、共ニ昼食ヲナシ雑談
広瀬氏ノ言ニ贅沢ニ染ムハ●キニシテ●クスベキモ質素簡易ニ帰ルハ甚タ難シトスル処ナリト
言ハ簡ナリト言ヘドモ予大ニ之ニ感スル処アリ


そらそうだよね。
そんな大げさに感心するようなことでもない気がするんだけど…^^;
どういう文脈でそんな話になったのだろう。それにもよるか。

ついでに言えば広瀬武夫さん(26)、財部彪さん(27)です。
広瀬はこの時期、水雷術練習の為迅鯨乗組みです。@横須賀。
横須賀長浦に柔道場を建てるべく奔走していた時期で、海軍兵学校に柔道を入れた同志である財部ともあれこれやり取りをしていたと思われます。
6月7日条にも広瀬から書状が来ていて、それが柔道預金の件とあった。

初めの●は「易」かな?と思ったけどちょっと違うっぽい感じも…まあ字は分からんでも意味は分かる。
ていうか伊木って誰や。良く出ててんけど。
こんな感じで始終にやにやしっぱなしでした。この変態。
あー早くコピー到着せんかなー
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発掘

ちょっとイケアに行ってきました。
初イケア。イケアデビュー(しつこい)。
手ぶらで帰ってきました。…え?
いや、パン捏ね台に使えそうな大変いい感じのまな板があったのだけどちょっと重たかった…
でもカプチーノとシナモンロール食べたよ!税込で〆て210円だった!
ソフトクリーム50円だって!やっす!(笑)

諸々が安くて驚いたイケアでしたわー。

帰りに図書館によってあれこれ見てきました。
『有終』13年分程の目次を見てきた。
広瀬武夫と関わりのある時期の上泉徳弥の日記の抄録があるという話での確認だったのだけど、該当雑誌には全然違う話が載っていた。ちょっとどういうこと。
仕方ないので他の年月日をざっと見ていたのだけれど、こういうのを見つけた。


竹下勇

ぎゃああああああ

竹下君!
何という怪我の功名。
内容は半分ほどは別の書籍で読んだものと全く同じだったのだけれど、半分ほどは初見。
その中にすごく嬉しい情報が…!
向井弥一の話が入ってたぜひゃっほう!(おちつけ)
他の同期から見ても仲が良かったみたい。気が合ってたって。
帰りの電車の中で読んでいたのですが、書いてあった向井の言葉にちょっと泣いてしまった。
本当にいい友人だったのだと思う。
これはまたサイトで書きますわ。
とりあえずご子孫様に送付の準備ですよ。わーい。

あとは広瀬関連と秋山真之の書簡とか。
今日は時間があまりなくてゆっくり見ることもできなかったし、全く見られなかったものもあったし。
また行かないといけないのかーと思うとちょっと面倒だけどな^^;
見たいものは仕方ない… 
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サイト更新 竹下勇(2)

■サイト更新 近代 【 『竹下勇日記』を読む 2 】

前の話の続きです。
雑多にいろいろ取り揃えてみました。纏めろよ。(放棄しました
前回は財部彪と向井弥一の話が中心でしたが、今回は日露戦争中の山下義韶、セオドア・ルーズベルトとの話、また大正10年皇太子の外遊時の話などを。

竹下は日露戦争前より米国公使付武官としてアメリカに赴任していました。
戦争中ずっとアメリカにおり、ポーツマス講和会議の海軍代表にもなっています。
在米中縁あってルーズベルト大統領と懇意になったことはよく知られています。
えー…一般的に竹下の事績として知られているのはこれだけの気がする訳ですが…
竹下が大統領から直々に「君とは会うからいつでもおいで^^」と言われるようになったその切欠が”講道館の四天王”と言われた柔道家山下義韶になります。


また竹下は大正10年の皇太子外遊の供奉員でもありました。
この皇太子は昭和天皇です。21・2才の頃。
供奉長は先日鈴木貫太郎の件で名前を出した珍田捨巳。
珍田元々外交官ですが、外遊時に一流の人を付けるという事で宮内省御用掛となり、それ以降宮中に入っている。

この御外遊については大分昔にサラッと触れたことがあります。
当時の国家首脳、原敬首相や山縣有朋、松方正義、西園寺公望といった元老らが随分苦労して実現にこぎつけました。
この時の外遊を見ていて思うのは、リアル「可愛い子には旅をさせろ」(笑)

裕仁皇太子、本当にすごく聡明な方だったようです。
が、この外遊の頃は大変箱入りに育てられ、生活を送る上での常識が欠如している所があったようです。
その状態を国家上層部の人間がものすごく心配した。
一番若い元老でさえ70歳ですから、特に彼らは自分の目の黒い内にこれだけはどうにかと相当焦ったと思います。


竹下はその外遊の供奉員のひとりだったのですが、供奉員とはいいつつ実質的には半ば教育係だったのでは?と思います。
竹下だけでなく供奉員全員が。
行路でもこれはあかんということで、ポーカー・ブリッジ・柔道・デッキゴルフといった娯楽においてもわざと皇太子に花を持たせることをしない供奉員も出てきましたし、また言動や挙措動作においてかなりあれこれと申し上げるというようなことも多々あった。
外遊には見聞を広げるという目的と共に、短期間で強制的に実地で実際教育するという目的があったのですが、それが大変成果があったという話。

後は秋山真之の話も少しだけ出しています。


ウィキペディアの竹下の項目を見ていたのだけれど、なんというか…うん…(言葉少な)
まあいつも通りだなあと。
前見た時も思ったのだけど、あの写真どこから取ってるんだろう…欲しい…
あと東京の竹下通りの名前は竹下邸があったのでそこからというのは本当なんですか?
ウィキで竹下通りの項目見ても竹下通りの公式HP見てもそんなこと一言も触れられてないし。笑

随分前だけど飯田延太郎がケマル・パシャをもじってエンタル・パシャとあだ名されていたという話を阿川弘之『軍艦長門の生涯』で読んで、そうなんだと思ってさ。
そういう話他にあるの?と思ってググったらウィキペディアが出てくる。
読んだら『軍艦長門の生涯』がそのまま引き写されてて笑った。参考文献も出典も脚注もなし。
流石にどうかと思う。

旅順攻略戦の際児玉源太郎が乃木希典の所に赴く際、指揮権を預ける云々の為一札を持って行ったという話が『坂の上の雲』にあったけど、あれも数年前にウィキで見たらあれは確証がない、司馬の創作であるってあって笑った。今はどうだろう。
そんなことはないんだが…
便利ですごいとは思うんだけどね、自分が知っている分野でこれだけ荒が見えてくると知らない分野を見るのが怖いんだよなあ。 
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