Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

大村益次郎先生寓地址・福沢諭吉誕生地

地図_大阪キタ_適塾


旧除痘館から大村益次郎先生寓地跡までぼちぼち歩きます。
2・30分位かなあ…寄り道しながら歩いていたのでよく分からない。

場所は西区江戸堀、フコク生命ビルの前。
大阪市立科学館・国立国際美術館を挟んで斜交いに福沢諭吉の誕生地があります。
科学館を目指していけば早い。


「大村益次郎先生寓地址」


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寓居だと思ってた。寓地ですかそうですか。

大村益次郎が適塾に入ったのは弘化3(1846)年のこと。
その翌年に長崎に留学して、さらにその翌年に適塾に戻ってきた。それが緒方洪庵が道修町に除痘館を作った前年のこと。


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こんな感じ。
塾生の時は適塾に寝泊まりしていたのだけど、戻ってきてからは塾頭になっていまして塾外に下宿していました。
それがここ。


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石碑の隣に設置されている解説版によると、嘉永2(1849)年から倉敷屋作衛門宅の座敷に住んでいたとあります。
ただ、こちらにいたのは短期間で(家人が煩わしかったらしい)、すぐに引っ越すことに。
引っ越し先はここから随分離れた大阪城の目の前、谷町台地の方(名付けて漏月庵)になります。


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漏月庵の方にも石碑があったそうなんですが、今は無し。
空襲で無くなったんじゃないかなあ…よく分からん。

大村益次郎についてはもう少し書きたいことがありますがそれは後回しにしまして。
この石碑から歩いて数分の所にあるのが福沢諭吉誕生地。


地図_大阪キタ_適塾


場所は堂島リバーフォーラムの西の端!


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こちら、3つの石碑が建っています。
手前が「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」、『学問のすすめ』より。


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手前にあるのが中津藩蔵屋鋪之跡で、中心にあるのが福沢諭吉誕生地。
福沢は大阪生まれでした。
中津ではない。

初代記念碑は金属製で戦争中に供出され、2代目は戦争が終わって数年後に建立、そして現在のは3代目。
字は小泉信三。


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幕末明治の大教育家福沢諭吉先生こゝに生る。
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)。
こゝは旧豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。
先生の父百助は一面に於いて、経学者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀会計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。
彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時
「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」
と語ったと伝へられてゐる。
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを仏門に入らしめる以外にはなかったのであらう。
当時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見し得たであらうか

昭和29年1月  慶應義塾社中建之
            題字 小泉信三
            撰文 高橋誠一郎
            書  西川 寧



特に書く必要もない気がしますが、福沢も適塾の生徒でした。
まーいろいろやらかしてますな、塾生の時代は。
万引きしたり、よそで万引きと間違われたのに腹を立てぶち殺すといって脅して商売やめさせたり。
どうなのよそれ…(と真面目に)

…この書きっぷりで大体お察しかと思いますが、福沢諭吉は好きじゃないんだ…
昔書いたこともあるけど、やってる事見てたらなんでこれが人格者扱いされるんだよと思うんだなあ。
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