Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ダイバーシティ こぼれ話

ダイバーシティ関連で本編には書かなかったけれど、面白かった話。


①『竹下勇日記』

山口多聞、山本信次郎を通じて竹下勇の長女香ちゃんとの縁談を申し込んでいた。
断られた。
竹下は自身の考えを述べた上で先方に再考を促していたけれど、こういう場合ってどういう風に断りを入れるのだろう…

そして香ちゃん、聖心女子学院に通っていた。
そう言えば山路一善の娘たちも聖心女子学院だったなあ…何かあるの?


②『沢田節蔵回顧録』

沢田節蔵は外交官。
大正10年の皇太子御外遊の供奉員のひとりで、昨日更新したサイトでも名前を何度か出したのだけれど、回顧録にあった外交官の先輩の話が面白かったです。

井上馨の養嗣子勝之助の話が出ていて、この方外交官でイギリス大使(大正2~5年)を勤めていたのだけれど、その夫人・末子さんが大変な才媛であったそうです。
勝之助と結婚する3・4年程前に英国留学し、リバプール大学の教授宅にホームステイ。
英語を英国のハイソ同様に駆使し、話にしても手紙にしても社交に、外交官であった沢田らが到底及びもつかない程練達されていたそうです。
イギリス海軍司令長官夫人がイギリス人秘書を使っていると思っていた程だったのですって。
凄い。
原敬が
「井上夫人がもし男であったら、自分よりも早く首相になっただろう」
と零していたそうで、それも凄いわ。

へーと思って井上末子をググったら「近代日本とフランス」という国会図書館の企画ページに出てきていた(西園寺公望ー青春の巴里:別窓)。
以下要旨。

井上勝之助が退職して英国留学することを祝う書簡に、末子夫人の仏語能力について言及がある。
末子は英・仏・独語に通じた才媛として知られ、社交界の花としてその美貌を謳われた。
西園寺は井上の退職に伴い夫人が帰国するだろうことを惜しみ、
「欧土にて上等交際にハ仏語、仏文は不可欠なもの」であり、
「仏国巴黎ニ於て極々上等の仏語、仏文等御勉強相成候様」井上に勧めている。
勝之助の退職は大隈重信外相の認める所にならず、イギリス留学は出来なかったが、末子はパリで語学を研修することとなった。


凄いわ井上夫人。
というか西園寺、勝之助より奥さんの方を引き止めているような感じが…^^;

そしてこの井上勝之助の後にイギリス大使に赴任してきたのが先日来名前が出ている珍田捨巳になります。
沢田曰く、

小村外相の顧問米人デニソン氏の手伝いをつとめて英語公文起草にかけては省内随一といわれた幣原さんでさえも、珍田大使の英文には兜を脱いでおられ、

「珍田さんは公文書がお上手であると同時にラブレター書きも巧みで、公私の使い分けを心得ておられる。われわれ後輩には真似ができないねー。」

と話しておられたほどであった。


そうなんだ。
幣原喜重郎は外務省で「国宝級」と言われるほどの英語力があったそうなのですが、凄い人がいたんですねえ。
沢田が言うには、珍田は英語のオフィシャルとプライベートの使い分けが大変上手な方であったそうです。

ちなみに幣原は大阪門真の出身。
門真市立歴史資料館にちょっとした展示がされているということを昨年知りまして。
来月1年待ったシーボルト展がやっとこさ関西に来るので、そのついでにちょっくら行ってくる。
楽しみにしてたんだ。
展覧会では神戸で面白そうな展覧会がぼちぼち始まっていますので、そちらも楽しみにしております。

そして沢田もクリスチャンであった…
山本信次郎とは仲が良かったようで、婦人を伴っての海外赴任の際に就学中の子供を山本家に預けていました。

つづきまっせ。
関連記事

青森と盛岡つながり

借りてきた本に絡めてつれづれ。


20170708_2


上写真はダイバーシティ関係で借りている外交官関係の本(内一冊はまったく関係ない)。
欲しい情報があまりないのでそのまま返すつもり。
そして珍田捨巳の本は早々に返却の憂き目にあったのであった…
ごめんねすてみん。


珍田捨巳は青森は弘前の人。クリスチャン。
肝の据わった外交官として知られた人物で、後に侍従長を勤めている。
山本権兵衛が内閣を組織した時に外相としての入閣を何度も依頼したけれども断られておる。
近代史では和初期では割と名前を聞く人物。
既出で、竹下勇関連で一度名前を出しております。

東奥義塾の出身。
東奥義塾の話って書いたことあったっけ?記憶が遠すぎて覚えていない。
同窓に陸羯南(ジャーナリスト)、一戸兵衛(陸軍)、佐藤愛麿(外交官)といった人々がおります。

陸羯南は今迄何度も触れている日本三大ジャーナリストのひとり。
司法省法学校(現東大法学部)での賄征伐事件に巻き込まれて退学処分になってしまった人物です。
この時一緒に退学になった同級生に原敬と加藤拓川がおり、後も親しく交わっていたようです。


原敬、加藤拓川、陸羯南


加藤拓川は正岡子規の叔父にあたる人物で、秋山好古とは幼馴染で家族ぐるみのお付き合い。
加藤は後に原敬の斡旋で外交官となるのですが、よくよく調べると加藤・原・秋山の在巴が重なっていた時期があり、三人がパリで顔を合わせることも少なからずあったのではないかと想像します。笑
ちなみに原と秋山がワンショットで写っている写真もあるのよ。
大正中期ですが。

加藤は甥っ子正岡子規を友人陸羯南に預けますが、子規の門弟に原敬の甥っ子・原抱琴がいるなど、結構面白いつながりがあります。
原の俳句はこの甥っ子の影響があったようですね。


珍田捨巳、一戸兵衛の1年後輩に藤田潜がいます。
東奥義塾出身だったかちょっとうろ覚えですが(調べんかい)、長く攻玉社の副社長を務めていた人物。
明治期の海軍軍人は海軍の予備校的位置づけであった攻玉社の出身者が多く、広瀬武夫もそのひとり。
勿論藤田も広瀬のことを知っており、広瀬がロシアへと出発する際は攻玉社の生徒を連れて見送りに行っています。
広瀬は攻玉社を卒業しても、新設された柔道部の部長をしていましたから、結構関わりはあったと思うよ。

この藤田の息子が海軍大将藤田尚徳で、海軍兵学校29期。
同期に米内光政、八角三郎、高橋三吉、佐久間勉(佐久間艇長)らがいます。
昭和14年、米内を海軍大将として残すため、高橋三吉と語らって自分達が予備役に編入されることを願い出た。敗戦前後を挟んで侍従長を勤めています。


米内光政_紅葉館
(盛岡出身者の集まり)


米内と八角は同郷盛岡の友人で、八角の父・彪一郎と原敬がこれまた友人であったのですよ(家が近所)。
八角彪一郎は早くに亡くなるのですが、それだけに原が結構三郎のことを気に掛けていてだな、海軍に行けと応援したのが原敬おじさんであった…
そしてさぶちゃんがみっつぁんもどうかと海軍に誘ったという中である。笑


原敬、栃内元吉、八角彪一郎 盛岡の友人ショット


原敬の友人・栃内元吉は栃内曽次郎(海兵13期)の兄(最終陸軍中将)。
栃内元吉の妹(曽次郎の姉)が八角彪一郎の妻になる。つまり栃内兄弟は八角三郎のおじさん。
(長い寄り道)


東奥義塾出身者、佐藤愛麿の養子が特に敗戦時のソ連関係で有名な外交官・佐藤尚武。
日露戦争直後のロシア公使館に配属されております。
当時、当然ながらまだサンクトペテルブルグでも広瀬武夫を知っている人がいた。
佐藤の初めての下宿先が広瀬が下宿していた家であったり、街中の古本屋の親爺に
「広瀬さんは真面目でいい人だった」
とか言われてんぜ。笑
この親父さんは広瀬行きつけの古本屋さんで、広瀬がロシアを引き上げる際に持って帰れない書籍を全部タダで貰っている。
ついでに鰹節2本も貰っている。笑


20170708_2


沢田節蔵。外交官。
大正10年の皇太子外遊に供奉員として参加した人物としてしか知らん。
ごめん。笑
ぺらぺら見ていたらこの方もクリスチャンだったわ…

よくよく考えると、昭和天皇は
幼少期の養育掛に足立たか(鈴木貫太郎の後妻)
青年期~の御用掛に山本信次郎
侍従長として珍田捨巳
で、周囲にずっとクリスチャンがいるのね。
こういうのって、特に取り沙汰とかはされなかったのかしら。
まあ、人物を見ての選定だったと思いますけれども。

沢田は『皇太子殿下御外遊記』を二荒芳徳と共著で出版した人物で、回顧録を見ると背表紙の文字は、専門家に依頼して聖武天皇の文字から探してもらったとありました。
まさかそんな所から引っ張ってきているとは思わなかったので、少し驚いた。笑

(沢田は鳥取の人です…)
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)