Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(4)

楽聖瀧廉太郎の親友、鈴木毅一の叔父・鈴木虎十郎が広瀬武夫の同期であったという話です。

そして鈴木虎十郎が兵学校入学前に身を寄せていた文豪坪内逍遥は広瀬の嫂の従兄加藤高明、広瀬の大先輩八代六郎と同郷、学校の後輩という何とも不思議な繋がり。
世間狭すぎ。


  瀧廉太郎


鈴木毅一が東京音楽学校に入学したのは明治29(1897)年のこと。
そこで2学年上の瀧廉太郎と肝胆相照らす仲となり、瀧のいる所に必ず鈴木あり、と言われるほどのつるみっぷり。笑

瀧の先輩には幸田延、幸田幸という女性がおり、彼女らは文豪幸田露伴の妹になります。
ということで海軍軍人で、千島探検で有名な郡司忠成(海兵6期、斎藤実と同期)の妹にもなります。
凄い一家ですな、幸田家…^^;

瀧と鈴木にとっては姉の延は教師、妹の幸は先輩でした。
つるんで遊びに来たり、当時流行っていたテニスをしたり(!)、和気藹々とした青年時代を過ごしていたようです。


瀧廉太郎が上京したのは明治27(1894)年、東京在住であった従兄瀧大吉の家に身を寄せます。
大吉は優秀な建築家であったそうで、ジョサイア・コンドルの助手もしていたらしい。
お上、特に陸軍の建築物が多い。
というか陸軍お抱えだ。笑。陸軍兵舎等の建築物に随分関わりのある方だったそうです。
廉太郎にとっては大きな理解者であったみたい。

廉太郎は上京以降、この従兄一家と一緒に暮らしていました。
その住所がね、麹町の平河町、富士見町、四番町だったり上二番町だったりする訳ですよ。

あれ?なんか似たような住所知ってるわ、となる訳です。
広瀬武夫の兄、勝比古の家が上六番町…
近いんじゃないの?^^;
ホテルグランドアーク半蔵門のHP(…)に、大変分かりやすい地図があるので、別窓でリンク張っときます。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141106.jpg
ホテルグランドアーク半蔵門 江戸切絵図 (これの元地図はこちら 現代番町麹町絵図


一番町二番町の枠、左上に緑のチェックがありますが、その上に四角い人物レリーフが見えます。
そこが瀧廉太郎旧居跡。
広瀬の兄が上六番町に居を構えたのは明治26年か28年で、瀧家が四番町・上二番町に暮らしていたのは明治29年からになります。

当時広瀬武夫は足繁く兄宅に通っていましたし、または寄宿していました。
上六番町は、上絵図の三番町四番町とある辺り。
割と近いのかと思いますが、土地勘がないのでよく分からん。
もしかしたら擦れ違いくらいはしているかもとは思うけれど。
ちなみに、三番町四番町の枠の左上の緑の辺りが東郷平八郎邸(現東郷元帥記念公園)で、ここも上六番町だった。

広瀬の兄勝比古は日清戦争当時、 浪速の砲術長でした。
艦長は東郷平八郎で、この時に高陞号事件(英国商船を撃沈)が起こっています。
ちなみに広瀬の同期で、2・26事件時の首相であった岡田啓介も分隊長心得として浪速乗組みです。



広瀬武夫がロシアに留学したのが明治30(1897)年。
瀧廉太郎はまだその頃音楽学校の学生でしたが明治32(1899)年7月に卒業。
その後は音楽学校のピアノの授業嘱託や補助をしています。

ピアノ及び作曲研究のため満3年間のドイツ留学を命じられたのが翌33(1900)年6月12日。
日本を出発したのは翌34(1901)年4月6日、ドイツ着は約1か月後の5月下旬。
ライプチヒ音楽学校に入学したのは10月で、その12月に体調を崩して入院している。


瀧廉太郎、鈴木毅一


当時欧州の冬の寒さにやられて体を壊す日本人は多かったようです。
日本とは段違いの寒さの為、油断して風邪をひく→こじれて中々治らない→肺炎・結核(→死去)。
このパターンが多かったみたい。

瀧もこれで最終的に肺結核に罹患した。
最早現地での学業も難しいということで明治35(1902)年7月に帰朝命令、10月中旬に日本帰着。
12月には療養の為に大分の実家に帰るのですが、療養の甲斐なく明治36(1903)年6月29日に亡くなっています。
25歳。満年齢で23・4歳ですか。
若い。


瀧には有名な作曲が多いです。
ドイツ留学を命じられてから出発までに約1年の間がありますが、年表を見ているとこの頃に「四季」、「荒城の月」、「箱根八里」といった作品が世に出ている。

「荒城の月」は中学唱歌。
この時期、当時あまり振るわなかった中学校での音楽教育の梃入れの為、中学唱歌を作るのに力が入れられたそうで、その内のひとつだった。
歌詞は土井晩翠に委嘱され、作曲は一般公募。
それに当選したのが瀧廉太郎の作曲でした。(「箱根八里」と「豊太閤」も)
これが明治32~33年で、「中学唱歌」として一連の唱歌が発表されたのが明治34年3月のこと。


広瀬武夫と瀧廉太郎の交流を示すたったひとつのエピソードは、この「荒城の月」を挟んでいます。
『広瀬家の人びと』には、以下の一文があります。


「知ちゃん、やはり滝廉太郎と広瀬中佐は文通していたのね。
ロシヤの大叔父さんに、瀧廉太郎が『荒城の月』の譜を送ったのよ。
それを交際していたロシヤ人の家へ持ってゆき、そこのお嬢さんに弾いてもらうの。
居合わせた人々がびっくりして『その作曲者はどこの国の誰か』とたずねるの。
『勿論日本人です。僕の友人の……』
大叔父さんがいうとね、みんな信じないんですって。
日本人がこんな曲を作れるはずがないってわけね。
ロシヤのサロンでは日本人は未だその程度にしか思われていないといって、大叔父さんの憤慨した手紙があったわよ」



”知ちゃん”は著者である高城知子。
広瀬の兄勝比古の孫で、父は広瀬末人(海兵39期、山縣正郷と同期)になります。
話しているのは著者の姉です。
終戦直後の物がない時期で、焚き物にも不自由していたため、勝比古の代からの書類等を読んでは惜しみながら炊事の炊き付けにした。
瀧との交流を示す書簡もその中の1通だったのでしょう。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141106_3.jpg


上記引用には「交際していたロシヤ人の家へ持ってゆき」とあります。


広瀬のロシア滞在は明治30年9月末~35年3月、帰国の途に着いたのは35年1月早々。
「荒城の月」発表は明治34年3月ですが、公募作品の選考は33年ですので、その位には楽譜が出来ていたことになります。
しかし人に知らせるとなるとやはり入賞・公表されてからと考えるのが妥当でしょう。

ということで、広瀬が楽譜を持って行った時期は、大まかながら推測できます。
明治34年3月からその年末ごろまでの間と思われる。

で、瀧廉太郎ですが、こちらは国費でドイツに留学するわけです。
瀧のドイツ滞在は明治34年5月下旬~翌35年7月の約1年になります。
「中学唱歌」が3月発行、4月上旬に日本発であることを考えると、さすがに発表直後に広瀬に楽譜を送る間は無かったと思うなあ…
そんな一刻も早く送りたい程濃い付き合いをしていたわけでもなかっただろうし。


ふたりの海外滞在が被るのは、明治34年5月下旬~35年3月ですが、実質的には34年5月下旬~12月の間。
広瀬が送られてきた楽譜をロシア人に見せたのは、この時期、明治34年後半だと思われます。

瀧はライプチヒに行く前ベルリンに滞在しているので、そこで海軍の駐在員から広瀬の話を聞いて楽譜を送った可能性はあるよね…。
まあ推測ですが。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141106_2.jpg
(パブロフ一家、友人ボリス・ヴィルキトゥキー少尉候補生と)


明治34年後半、広瀬が7月初旬にアリアズナちゃんちの別荘に行っているのと、12月24日にぺテルセン一家のクリスマス前夜祭に出ているのははっきりしている。
とは言え、他にも誘ったり誘われたりしていると思うので、誰の前でとの特定は流石に今の段階ではできませんな。


ただね、今夏にある一文を見つけまして。
『戦争と音楽』(本多喜久夫/新興音楽出版社/1942)に収録されている、「広瀬中佐と荒城の月」という文章。
1942年。
昭和17年です。戦前です。
戦前に瀧との交流が書かれた文章があった。


広瀬のところへ故郷から一通の手紙が届いた。
披いて見ると、それは郷里大分県の後輩で、当時我が楽壇の天才児とまで謳はれてゐた瀧廉太郎から来たもので、
その文面は、音楽学校の作曲募集に応募して、自作の三篇が入選したから、御眼にかけるとあつて、楽譜が同封されてゐて、
その中の「荒城の月」と題する一篇には次ぎのやうな断り書きが付けてあつた。

「この”荒城の月”と云ふのは、目下都下の青年子女に愛誦されてゐるが、
これはお互いの幼時の思ひ出になつた故郷竹田外の臥牛の古城に思ひを寄せて作曲したものだから、
是非大兄に一吟願ひたく、天涯万里の異郷にある大兄も、故郷の秀麗な風物彷彿として眸視に浮ぶことゝ思ふ」



で、ダンスを習っていた女性に頼んで演奏してもらった、と言う話。(はしょりまくり)

話は全体的に 嘘を言うな(笑) という感じなのだけれど、まあ時代が時代なのでそれは仕方ない。
内容はとにかく、戦前にも知られていた話なのかと、その点に驚きがあった。

この「広瀬中佐と荒城の月」は、資料としては全く何の役にも立ちませんが(酷い)、瀧は案外上の断り書きのような感じで送って来たのでは、ないかなーと思う。

これはもしかしたら、根気よく探したらまた違う話も出てくるのでは?と密かに期待しています。



***


今の段階で私が書ける事はこの程度。
本当に史料として提示できる資料が全然ないもんで、なかなか「こうだ」ということが書けないです。

ただふたりを見ていると、不思議と何かの縁で繋がっているというか、かすっているというか。
意外とそういう点が多くて、調べるのが楽しかった。
瀧廉太郎の伝記に鈴木虎十郎が出てきたのには流石に驚きました。


今夜の番組でどの程度のレベルの話が出てくるのかなー…
1ヶ月ぐらい前に写真とか葉書とか書籍はどこで手に入りますかって聞いてくるくらいだから、どうなんだろうとは思うけど。
私の疑問は解決されるのでしょうか。

あー本当にもっと落ち着いて書きたかった…
知ってる事並べたよ的な感じで申し訳ない。これでも結構かなり頑張りました。
敢て自分で言いますよ。
頑張りました。笑
今月のブログのやる気を全部前借した気分orz


それでは皆さんよいお年を~




…冗談です。(半分本気…)(疲れた) 
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広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(3)

瀧廉太郎の無二の親友、鈴木毅一の叔父が軍人であったと書きました。
ハイ。
鈴木虎十郎と言って、海軍軍人でした。
明治18年に海軍兵学校に入学し、明治22年に卒業しております。
なんか聞いたことがある年代でしょ?
そうなんです。

広瀬武夫の同期です。


何なんでしょうね、この繋がり。笑
あっちこっちで広瀬武夫と瀧廉太郎の線が繋がるなと、それが面白くて温めていた話でした。これ。


この鈴木虎十郎の青年時代を知っている人がいます。
それがジャーナリスト・作家長谷川如是閑。

長谷川は10歳の頃、真砂町にあった坪内逍遥の塾に預けられています。
当時は長谷川の他にも塾生が7人ほどおり、その中のひとりが鈴木虎十郎だった。
曰く、


鈴木虎十郎といふ人は、まだ中学生だつたが、非常によく均整のとれた長大の体躯の持主で、
撃剣、相撲、競争〔走〕、跳躍、ボートなどあらゆるスポーツに達し、塾では一同に撃剣を教へてゐた。
折々近所の撃剣家が他流試合を申込んで来るが、いつも鈴木氏が相手となつて大抵敗けたことはなかつた。
海軍兵学校に入つて、日清戦役に少尉で出征して、開戦早々の威海衛の攻撃で戦死したが、もし生存してゐたら相当の所まで行つた人と思はれる。


(『長谷川如是閑集 1』(岩波書店/1989)より 「逍遥先生のある一面」)


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0088.jpg http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0224.jpg


ここで坪内逍遥か、と思わず笑った私はおかしくない。
今まで何度か触れていますが、坪内逍遥は加藤高明(広瀬の嫂の従兄)、八代六郎(広瀬の大先輩)と同郷で、名古屋洋学校の先輩後輩たちである。
一番の兄貴株は加藤で、八代六郎が海軍に入るかどうかを相談したのも加藤だったのよ。
繋がる時はあっちこっちに繋がりが見えて本当に笑ってしまう。


上記引用、「開戦早々の威海衛の攻撃で戦死」とありますが、鈴木は日清戦争で戦死しています。
当時鈴木は第3水雷艇隊第22号水雷艇乗組みでして、威海衛の戦いで威海衛港内に侵入した際、敵艦の襲撃に遭い亡くなったとアジ歴の略伝にはあります。

そうです。
アジ歴に略伝があるんですよ。(明治27・8年 死者略伝 第11巻 材料(2))
ただ実際には22号艇は港内で定遠に攻撃した後の引き上げの際に座礁、乗員は海に投げ出された。
坐乗していた司令官は助かったものの、鈴木を含む6名が行方不明になったことが同じアジ歴の「連合艦隊出征第24報告」に見えています。


略伝によると、鈴木は豪邁不屈、常に人後に落ちるを恥とするような人物で、藤田東湖に私淑。
また「楠公ノ一族ガ湊川ノ役ニ破レ民家ニ投シテ自刃スルニ当リ七度人間ニ生レテ彼ノ賊ヲ滅サント誓ヒタル故事ヲ追慕シ」云々。
要するに楠正成のファン(笑)
気晴らしに酒を飲むこともせず、煙草も軍人になってからは止めた。
平素は寡黙だけれど、話す時は誰が相手でも談笑する人で、身体強健、頗る健脚。

そして趣味は漢詩。
毎日詩を一篇作って日記代わりとしていたとあります。
ただこれ、後の顕彰の為に人柄や品行はかなり大袈裟に書かれていると思われるので、若干割り引いて考える必要がある。
戦死因も随分糊塗されている点からも分かるように。

しかしですよ。
何だろうこの既視感…

あんた広瀬武夫か(笑)

そう思う事大ですな。
というか、これだけ被ってりゃかなり仲もよかったんじゃないの?と思う訳ですよ。
当然ながら。


交流があったことは分かっています。
同期だからそりゃあるんだけどね、『広瀬武夫全集』に名前が出ているんですよ。
日露戦争中、明治37(1904)年2月19日富田常次郎宛て広瀬武夫書簡。


拝啓 講道館拡張費トシテ、金五円封入致置候。
右ハ故鈴木虎十郎ノ名義ニテ、名簿ニ御登録願上候。
同氏ハ級友ニシテ、シカモ小生ガ海軍ニ柔道ヲ説クニ方リ、賛成致居候モノニテ、
柔道ノ拡張ハ同氏ノ遺志ニモ有之候故、何卒左様取計被下度願上候。再拝
    二月十九日認ム    戦地ニテ 広瀬武夫


富田常次郎は嘉納治五郎の1番弟子です。
講道館の門人第1号で、「講道館の四天王」と言われた人物。
広瀬との書簡のやり取りもしていて、『全集』に富田宛ての書簡が何通かあります。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141204_3.jpg
(めっちゃ切れてる右端の人が富田wごめんww)


広瀬書簡からすると、鈴木も柔道をしていたのでしょうか。
長谷川如是閑の話を見ればしていてもおかしくないと思いますが確証がない。
講道館の入門者名簿、東京本館での入門者分は手元にあるのですが、明治20年のまでしか持ってないのでちょっと分からん^^;
講道館江田島分場の名簿には名前がないので、どうかなあ。

また漢詩の交換をしていたのか、広瀬の「意ノ向フ処筆ノ随フ処」の明治27年正月条に「鈴木虎氏元旦ノ韻ニ次ス」と前置きして自作の漢詩を書きつけたりもしています。


日清戦争当時兄の酉二は姫路播但鉄道に勤務。
明治27(1894)年11月に鈴木虎十郎が一旦戦地から帰国、神戸に帰着する際、兄と会っている。
その別れの際に写真と「征清雑詩」という自作詩集の一包を渡したのだけれど、兄が帰って包みを開けると写真しかなかったそうです。
詩集を受け取るために再度神戸にまで出かけたのだけれど、虎十郎が乗り組んでいた22号艇は既に出発していて、それは叶わなかった。

そして翌年2月5日に虎十郎が戦死。
22号艇は座礁の上放棄されていますので、遺稿もそのまま失われてしまっただろうとのこと。
ただそれ以外にも残された遺稿が多くあったようで、アジ歴の略伝には大江敬香(漢詩人)に預けて調整しており、不日出版の予定とあります。

へーと思ってさ。
探したら鈴木酉二の名前で出ている『藤陰存稿』という本がありました。
でも藤陰は鈴木兄弟の父の号だった。

アジ歴略伝には書簡数点も掲載されており、明治28年1月4日付の母・嫂宛書簡中、追書きで鈴木毅一の名前が出ていました。


毅一義其後如何 学業少々ハ追歩候哉


東京音楽学校に入学したのが29年なので、高等小学生の頃かな。


続く


夕方ぐらいにもう1回更新しますorz 
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広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(2)

瀧廉太郎は明治12(1879)年の生まれになります。
広瀬武夫は明治元年なので、ちょうど一回り違うことになる。

生まれは東京だけれど、父親が転勤族で瀧もそれについて地方を転々としています。
そして豊後竹田にやって来たのが明治25(1892)年の頃。
その頃にはもう音楽の素養が相当あったようで、ヴァイオリンやアコーディオン、ハーモニカも自由に弾きこなしていたといいます。
ちゅーか当時そんなもん持ってる家庭は殆どなかったと思うので、かなり特異な子供だっただろうとは思います。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141204_2.jpg @岡城址


明治26(1893)年、瀧は渡辺由男という教師に巡り合い(担任だったそうで)、この先生からオルガンや唱歌を習っている。
高等小学校を卒業した後瀧は上京し、上野の東京音楽学校に入学している点からも、どうも恩師としての位置づけの様です。
それだけならへーという感じで終わるのですが、ちょっとこれ見てみ。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12040252.jpg


渡辺先生=後藤由男先生の前名


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/493d8d4d3649ed0f374515598ddacf65.jpg


え、なにこれ、同一人物?

広瀬武夫の縁戚が瀧廉太郎の先生?



そして同じ手紙でもう1か所こういう記述がある。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12040260.jpg


!?


あ、あのね…竹田でお医者の衛藤さんって衛藤敦夫さんなんですけど。
衛藤敦夫って誰かって?

広瀬武夫の叔父ですよ。

前回出てきた佐藤次比古の父ですよ。
叔父と言っても年が近くて安政6(1859)年の生まれ、広瀬の7歳年上の兄勝比古(文久元年/1861)と大して違わない。
この人も上京して医学を学び、竹田に帰って開業しています。

前書いた「多分そうだろうけど確証が持てない話」と言うのは、この後藤と衛藤が私が思う人物と同一なのかっちゅう話です。
知らないだけで、結構繋がりがあるんじゃないの?っちゅう話です。

それにこの瀧の書簡を見た時、ふっと思ったことがあるのだけれど。
瀧廉太郎、当時脚気治療のために竹田に転地療養していたんです。
その時の主治医って誰だったの?
衛藤敦夫だった可能性ってあるよね。

確かめたいんだけど、そこまでは中々ちょっと分からなかった。
この辺りがテレビで分かればと思うのだけれど、こんな話は出てくるんだろうか。


瀧廉太郎の史料は多くは残っていないそうです。
ただ無二の親友が残した瀧の書簡や楽譜があり、それで研究が大きく進んだとのこと。

それが鈴木毅一という人物。
静岡県、掛川の出身で、実家が問屋場(とんやば)であった。
問屋場は日本史辞典によると「街道の宿場事務所」とあり、要するに当主は宿場全体の責任者のひとり。
初代が江戸初頭(それ以前は焼失で不明)という、かなり由緒ある家。

毅一の父酉二は東海道線、九州本線、朝鮮京釜線等の多くの鉄道工事に従事した鉄道技官でした。
息子が音楽学校への進学を言い出した時は非常に怒って反対したそうです。
堅い職業について欲しいという希望があったと思われます。

ちなみに瀧廉太郎も音楽学校への進学は反対された。
音楽は女子供のすることで、大の男が学校にまで行ってすることじゃない、という風潮が当時はあったそうです。
だから余計だっただろう。

しかも酉二の弟(毅一の叔父)が軍人でして、『瀧廉太郎』(小長久子/吉川弘文館/1968)には、軍人にしたかったのではないか、と推測しています。


続く 
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広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(1)

瀧廉太郎は東京出身になります。
しかし父親が大分県出身、瀧吉弘といって日出藩士でした。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141204_4.jpg


このお父さん、なかなかすごい方でして、大久保利通にスカウトされて明治政府に入った人物。
大久保は岡藩の勤皇派のリーダー・小河一敏や豪商矢野勘三郎を通じて瀧吉弘を知っていたらしい。
明治7(1874)年佐賀の乱、大久保が佐賀に出張してきた際に、吉弘は大久保の知遇を受け上京することになりました。
初めは大蔵省、次いで内務省、更には請われて大久保の秘書官となっている。
大久保が暴漢に襲われた際、身を挺して守るという剛毅な人でもあったようです。

明治11(1878)年の大久保暗殺後は伊藤博文の秘書になり、その後は高級官僚として地方を転々としています。
郡長等を歴任しているのですが、明治22(1889)年に大分郡長、24年に直入郡長となっている。
直入郡の中心竹田、その官舎に入ったのはこの時の話。
この直入郡長の官舎が現瀧廉太郎記念館です。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201203_1.jpg


瀧廉太郎が竹田高等小学校に入学したのは翌25(1893)年1月8日で、明治27年春に卒業するまでの約2年間を竹田で過ごしています(14~16歳の頃)。


実は、瀧が竹田に在住していた最中の明治25年7月初旬、広瀬武夫も竹田の実家に帰省しています。
18期の遠洋航海乗組み後の休暇だと思っていたのだけれど、これ単なる夏休みだったのかな?
(帰国後から間も開いているし、既に違う艦での職務が始まっている)

返ってきた広瀬武夫少尉が学校の鉄棒で器械体操をしたという話が残っているようです。
瀧廉太郎、当時高等小学校生。
実際にその場を見たか、そんな事があったという話を聞いたか。
というか、広瀬と瀧が会っていたとしてたら、この時だと思うのよ~。
何でって。これですよこれ。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201203_2.jpg


左手前が瀧さん家。右側が広瀬さん家。お向いさんなんですよ。
ふたりが知り合いだったことは分かっていますが、会ったことがあるかどうかの確証はない。
でもこれを見ると、史料がないから会ったことがないと断じるのはどうなのだろうと首を傾げてしまう。

広瀬武夫の父重武も司法官僚で、裁判官として地方を転々としていた人物です。
しかも上記した小河一敏の、近しい後輩のひとりになります。
幕末には小河と共に勤王活動をして投獄され、赦免され、投獄され、という人物。
経歴を考えたら、久しぶりに会った息子とあれこれと話している内にこういう話も出ると思うよ、私。
そういえばお向いに住んでるのこういう人なんだよって。


『広瀬武夫全集』の年表には、この時の休暇については「1週間竹田に帰省」とある。
1週間あれば学校でもあれこれできただろうと思うのですよ。
しかし『軍神広瀬中佐の少年時代』にこういう事が書かれている。
著者・佐藤次比古は広瀬の従弟で、広瀬神社の初代宮司です。


或夏大分から竹田迄十一里の道を歩いて帰つて来られて
 お祖母様武夫が今帰りましたよゝゝゝゝゝゝ
と大きな声で帰つて来られ一晩とまつてすぐ出発されたとのことです



しかしこれには年代がないのだよね。
広瀬は海軍に入ってから3度帰郷しているのですが、夏に帰っているのはこの年だけになります(明治25年7月初旬、29年正月、35年4月初旬)。
それを思うと明治25年を指すと思われますが、よく分からん感じになってしまう。
流石に一晩しか泊まれないような状態で、数年ぶりに会った家族より地元の学校を優先するとは思えない。


そこでふと思う訳です。当時の交通事情。
私、これを全く失念しておりました。
佐藤次比古の話から1週間竹田にいたのではなくて、1週間休みをもらったという話では?という疑念が…^^;

瀧廉太郎の伝記を見ると、大分竹田間は当時徒歩が普通だったそうです。
2ルートの交通があり、ひとつは道は良いが遠回り。余程急ぐ時に2人曳きの人力車を使うような道。それで6・7時間。
もうひとつの方が一般的で、こちらは普通に歩けば12時間。
後は馬車もあったけれど、これは1日1往復で、往路8時間かかる。
出発到着時間にもよるけれど、大分竹田間で往復で2日潰れる計算です。

で、当時広瀬の乗組艦の艦籍は呉。
呉から大分までどのくらいかかるのよって話。
調べていないので何とも言えませんが、呉から馬関(下関)で乗り換え、馬関から門司、門司から大分まで、当時の乗継ぎと列車のスピードを考えたら相当時間かかると思う。

明治36年でさえ、神戸・馬関間は列車で約11.5時間かかっています。
呉・馬関間の距離はその約半分弱。うまいこといったら5・6時間位?
明治25年だったらもっと遅かっただろうね。
大分まで直で船を使うという手もあるけれど、片道1日で来れたのかな、これ。
1日で来れても往復2日。2日かかってたら往復4日、+大分竹田間2日。
これって滞在時間1泊になるのでは^^;

私、この時に両者は会ってると考えていたのですが、ちょっと分からなくなってきた。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141204.jpg


広瀬武夫の生家は上写真の場所ではありません。
生家は西南戦争に巻き込まれて焼失し、その後父が裁判官として赴任していた飛騨高山へと引っ越すことになります。
上に写っている家は、明治19(1886)年、父重武が退官し、帰郷した後に構えた家。
住所は溝川。
では高山に引っ越すまでどこにいたかと言う話ですが、それが縁戚の後藤(渡辺)由男宅になります。(直入郡官舎の近く)
これは文献上では私は見たことがなくて、地元のパンフレットに載っていた。


広瀬武夫


どういう繋がりなのだろうと調べたのだけれど、文献上では分からなかった。
ただ広瀬の妹が後に渡辺姓(多分再婚で)になっているんです。
その辺りで関係ある人なのかなあと思うんだけど、ちょっと後年過ぎる気がせんでもない。 
(変な話かと思われるかもしれませんが、明治19年に再再婚した重武の妻は従妹なんです。結構近い所で婚姻しているのでそういう関係もありかと思って)

しかしながら上の『軍神広瀬中佐の少年時代』にも後藤由男の名前が見えてる。
それが上引用の辺りでして、この時の家は「竹田町溝川後藤由男方」と書かれているんですよ。
勿論パンフに写っている写真とは別家なんですが。
上写真の家は後藤家から借りてたのかな。


続く。


くっそw時間が欲しいww
もう少し落ち着いて書きたいorz



佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫/2004)
大久保に近しい人の回顧が収録されている本ですが、大久保の下僚であった人の話も多い。
瀧吉弘も載ってたかと思って見たら、瀧はいなかったけれど千坂智次郎(海兵14期)の父の話が載っていた。笑。
大久保の側近だったらしい。ちょっとびっくりした。 
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