Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(15)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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お久しぶりの続きです。
前回はこちら→ パラべラム14



一方、財部彪は元々軍令系の人です。
それが明治42(1909)年12月、いきなり海軍次官に抜擢されたことは「紐解『財部彪日記』」でも書きました。
それまで一度も海軍省での勤務経験ないんですよ、財部。
軍令部の方でさえ部課長の経験がない。

薩摩派、岳父が山本権兵衛ということで、周囲から色々と余所では聞けない話を聞いていたと思いますが、実際に実務を執るとなるとかなり大変だった。
何せ経験がないもんで、財部本人もへろっへろになった。
それでも海相斎藤実を支えながらどうにかこうにかやっていくわけです。


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で、仕事を覚えてスムーズに行ける、余裕も随分出てきて3年目位、という時に起きたのがシーメンス事件。
大正3(1914)年1月に浮上した海軍の収賄事件で山本権兵衛内閣が倒壊します。
大隈重信内閣で新しく海相になった八代六郎は、汚職事件の責任を取らせる形で山本権兵衛と斎藤実を予備役に編入しました(引退させた)。
財部もその煽りを食って待命となります。(巻き添え…

約1年続いた待命の後、大正4年2月に第3艦隊司令官として復帰。
それ以降は各地鎮守府・要港部で長官・司令官を歴任しており、中央官衙に帰ってきたのが大正12(1923)年。
海軍大臣としてでした。

これねー…複数の意味で大きなネックなってると思う。
これは難しかったと思うよー

まず海軍省での実務経験、下積みが全然ない。
財部は海軍大臣になるまで海軍省での勤務が実質3年しかないんですよ。
しかも仕事覚えた頃に強制終了。

次に、加藤友三郎海相の下、省部で人が育つ時期に財部は地方に出ている。
その時点で中央官衙での人の繋がり、信頼を繋ぐ機会が激減する訳です。


そもそもね、財部は海軍部内では評判が悪い訳ですよ。

一番の原因は昇進が異常に早かった点にあると思います。
若い頃から本当に早くて、日露戦争の中盤には既に大佐です。
2期上、3期上のクラスヘッドと同じくらいのスピードで昇進していて、親王並みだということで「財部親王」なんて影口を言われていた程。

次官就任に際しても、前任が海兵7期の加藤友三郎で、間7期をすっ飛ばして実務経験のない15期の財部彪です。
8期から14期にはすごい人、沢山いますよ。
山下源太郎(10)、村上格一(11)、山屋他人(12)、江頭安太郎(12)、栃内曽次郎(13)、野間口兼雄(13)、鈴木貫太郎(14)、佐藤鉄太郎(14)、その他。
特に江頭を飛ばしているということに誰が納得するだろうか。
私もできん。

3期飛ばして軍務局長になった堀悌吉でも嫉妬されたり憎悪されたりです。
しかも財部の場合は薩派、岳父山本権兵衛。
外からどう思われるかは推して知るべしと言うべきか。

だからね、回顧録なんかでみんな言うんだよ。
財部は苦労が足りてないって。苦労してないからって。
経験が足りてないってみんなが見てる。

そもそもそんな状態なのに大正の核になる時期に中央での勤務がないというのは、色んな意味でやっぱり厳しかったと思う。
その上地方に出ていることで大正10年ワシントン会議の際の加藤のやり方を間近で学べなかったというのも、財部の為には残念だっただろう。


後ね、時代の制約と言うか、時代の流れと言うものあってだな。
大正10年にワシントン条約が成立して、ネイバル・ホリデイ、軍縮時代となります。
この条約に沿って日本は既存の軍艦、建造計画のあった軍艦が廃棄されました。

その時に海軍士官のリストラも行われているのね。
そりゃそうだよね。
軍艦の数が減るのだから、それに乗り組む人数だって減る。
対米比率やその後の軍艦の廃棄の話にはなるのに、この話はあまり出てこない気がします。

ではどういう層が首切りにあったか。
【6】で紹介した「加藤全権伝言」(大正10年)で、加藤友三郎自身がそのことを井出謙治次官に伝えています。


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淘汰スルニシテモ配員上多少ノ困難アリトスルモ
成ルヘク上級者ヲ多ク淘汰シ下級者ヲ多ク残シタシ



士官の中で対象になったのは将官クラス、佐官クラスです。
この時期に将官になっているのは、日露戦争時代の中堅層、日露戦争を支えた世代。
あれ、と思われる方も多いと思います。
そうなんですよ。
『坂の上の雲』に出てくるあんな人やこんな人がオン・ザ・リザーブ・リスト!引退!

クラスで言うと13~22・3期が核で、25・6期位迄かなー…
具体的に名前を挙げれば、こんな人たち。

栃内曽次郎(13)、佐藤鉄太郎(14)、千坂智次郎(14)
小栗孝三郎(15)、中野直枝(15)、布目満造(15)
舟越楫四郎(16)、森山慶三郎(17)、山路一善(17)
佐藤皐蔵(18) 、下村延太郎(18)


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


やだー!
なんか聞いたことがある人ばっかりなんだけど!
聞いたことある人ばっかり挙げたからなんだけど!(笑)
大正11年中旬~12年に待命になっている人は大抵そうだと思う。

佐藤鉄太郎の名前があることに意外感を持つ方も多いかと思います。
個人的には、生きていたら秋山真之もこの時の整理の対象になっていたと思う。
ふたりとも加藤友三郎に左遷されてます。
佐藤は軍令部の権力を拡大しようとして加藤の逆鱗に触れ、軍令部次長から海大校長へ。
秋山は大陸政策に深入りしすぎて軍務局長から欧州視察旅行に飛ばされた。
ハイ。
あっきーの視察旅行、慧眼を讃える話しかほぼ聞かないわけですが、これは事実上の左遷です。


軍人恩給はそんなに手厚くなかったようで、大将と言えど現役を退いてしまうと大変だったようです。
それまでについていた特典的待遇も無くなるし。

『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)には、26期の南郷次郎が、自分は経済的には困らないからと整理対象であった同期の代わりに予備役になったという話があります。(※)
それだけ大変なことだし、人員整理は好む好まざるに関わらず人の恨みを買う。
加藤友三郎がいくらカリスマ的であったといっても、そしてどんな理由があったとしても、首を切られた側からはやっぱり恨まれる。

ただ山梨勝之進の話によると、この時はその怨嗟の矛先は加藤ではなく次官であった井出謙治に向いている。(加藤には怖くて…^^;)
加藤は井出を自分の後継者に考えていた節があるのですが、結局それは実現せずに終わっています。
ワシントン会議の処理が傷となり、結局は最後に山本五十六を付けて欧州に視察旅行をさせるだけで終わってしまった。
ロンドンの時でも、山梨勝之進次官が犠牲となった訳ですが、ワシントンの時も同じだった…
こうなってくると、加藤のワンマンは良かったのか悪かったのか。
評価が分かれるところだと思います。


続く!
変な所で話途切れるけど

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(※)

南郷次郎は嘉納治五郎の甥で、講道館2代目館長。関西の嘉納財閥の一族。
嘉納治五郎の生家(=南郷の母の実家)は神戸御影の現菊正宗酒造・白鶴酒造で、幕府の御用聞きを勤めるような大変な名家でした。
嘉納治五郎自身も学校を経営していたり、講道館を経営していたりで、つまり家が大変なお金持ちだったので海軍辞めても困らない。

広瀬武夫は柔道繋がりで南郷とは仲が良く、というか南郷の母とも仲がよく、息子が世話になっているからとお菓子やなんやをよく持たされていた。
南郷の方が9歳年下で、広瀬は弟を見るような感じで南郷を可愛がっていたみたい。
南郷が海兵を受験する前、造船所を見に行きたいと広瀬に依頼したことがあり、それに対する広瀬の返事が残っています。
横須賀水雷隊攻撃部第2水雷隊時代。明治28年だと思う。
一般には知られていないもので、一応内容は未公開になるのか。私も写真でしか見たことがない。



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(17)岩手人脈

岩手・盛岡から野辺地尚義を頼って上京してきた少年、それが山屋他人でした。
上京時期の詳細は分からないようですが、どうも明治12(1879)年、13・4歳頃の事みたい。
同じく盛岡・南部藩の原敬も上京していますが、こちらは明治4年という随分早い段階です。
まあ原の方が丁度10歳年上になるので、そんなもんかと。

野辺地を頼ったのは、野辺地が山屋の叔父(母方)にあたるからで、上京後はそちらに身を寄せていたようです。
で、その野辺地から紹介された先が攻玉社になる。


山屋他人_野辺地尚義


攻玉社の創始者・近藤真琴は大村益次郎の鳩居堂で学んでいました。
野辺地とはこれまた兄弟弟子だったんですね。
ブルータスお前もかー(笑)

攻玉社入学の経緯については、「親戚に近藤先生の知り合いがおり、その口利きで攻玉社に入った」と山屋自身も回顧しています。


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東京都港区にある攻玉社跡。
元々慶応義塾があった場所ですが、慶応の移転に伴いその土地を譲ってもらって攻玉社ができた。
芝新銭座ですが、この辺り、江川塾があった所になります。

韮山代官の役所が韮山と江戸の2か所にあったということは以前触れました。
江戸屋敷は本所にあったのですが、江川英龍(この連載で触れた太郎左衛門)の息子の代に、幕府が新銭座に土地を与えています。
そこが江川塾の砲術練習場になった。
大山弥助(巌)なんかが江川塾の門人であった時代はここで教えを受けていた。
慶応義塾とはすぐ近くであったそうで、福沢はこの江川塾の土地を借りていたこともあります。


とまれ、近藤自身が海軍に文官として奉職し、しかもこの方海軍兵学校(の前身の前身)の立ち上げから関与しており、兵学校の教官を務めてもいました。
その近藤に感化されて海軍に入る学生が多くなり、更にその人々が攻玉社で教え、更にその感化を受けて学生が海軍に進もうとする、という一種のループであったみたい。
海軍の方でも近藤には諸々の信頼があったようで、割と攻玉社を大事にしていたようです。

海軍もその歴史の前半では攻玉社出身の士官が非常に多い。
『攻玉社百年史』によると、日清戦争に従軍した海軍将校の約3分の1強。
日露戦争では約5分の1が攻玉社出身になります。
明治維新前後生まれ、つまり広瀬武夫らの世代であると多くの人が攻玉社出身、即ち同世代の海軍士官なら殆どの人が海兵以前の顔見知りということになる。


山屋他人も例に漏れません。
山屋は12期生として卒業しますが、入学当初の人数20人中攻玉社出身者は実に15人。
12期には有名人が幾人かいまして、まずクラスヘッド(主席)の江頭安太郎、有馬良橘、林三子雄、あと上泉徳弥もこのクラスです。
この内江頭、林、上泉が攻玉社で、有馬は三田英学校の卒業生になる。

ちなみに江頭安太郎は大正の早い段階で亡くなるのですが、その10年程後に江頭の三男に山屋の五女が嫁いでいまして。
彼らのひ孫が皇太子妃雅子様になります。


紅葉館は支配人野辺地尚義が岩手・盛岡出身ということもあり、初めの頃は盛岡からきたお女中さんが多かったようです。
そんな感じなので、岩手県出身者も結構利用していたみたい。

原敬も仕事の関連で結構ここを訪れていたようです。
仕事のみならず母親の喜寿、米寿祝のパーティーを紅葉館で開催したり。
あと家が近かったことがあったみたいよー(笑)


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日露戦争後は中老会という岩手の在京県人会が紅葉館で開かれるようになり、そのメンバーが鹿島組(鹿島建設)の鹿島精一であったり、田中館愛橘(物理学者)であったり。
山屋他人、栃内曽次郎、後には原敢二郎、米内光政、八角三郎といった人々が参加して、年2回程飲み会が開かれていたそうです。


米内光政_紅葉館


栃内、原、米内、八角、いずれも海軍軍人です。
近代史を見ていると岩手は人材が多いですね~。
総理大臣になったのは、原敬(盛岡)、斎藤実(水沢)、米内光政(盛岡)、あと岩手に入れていいのかどうか、東條英機。
東條は昔から微妙だそうです…
先の戦争に関係して色々事情があることもあるようですが、父は盛岡だけど東條自身は東京生まれ東京育ちなんだよねえ…


続く!
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