Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

海軍兵学校15期!(6) 小杉辰三

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

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「この○○こそ××の△△だったんだよ!」

https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014077.jpg


一体何が始まったのと思ったあなた、海軍兵学校15期の続きですよ。

シリアスを装ったギャグではありません。書いている本人は至って真面目です。(笑)
真面目にな、なんだってー!と思った人の話。


海軍兵学校15期総勢80名。
80名いたらそれなりに驚く人もいる訳である。
親類関係であったり経歴あったり様々ですが。

私が今確認している中では十数名親戚や婚姻関係で「は?」(真顔)と思う人がいる。

とりあえず今更感がある人たちふたりから。

財部彪


岳父が山本権兵衛、相婿の実父・養父が松方正義、西郷従道、上村彦之丞。
今更過ぎて新鮮味も驚きもない。(失礼)


竹下勇


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014077_2.jpg 左)竹下 右)財部

岳父が鮫島員規であることは何度か触れましたが、叔父に久木村治休がいます。
うえええ…くっきーか!くっきーかよ!(こら)

幕末、生麦事件でイギリス人を斬りつけた薩摩藩士のひとりになります。
これで歴史に名前が残っている。
竹下は明治12年に鹿児島から上京するのですが、その際伴ってくれたのがこの久木村。
戦前の本には奈良原繁が叔父と書いている本もあるのですが、生麦事件で混同しているのだと思う。
ついでに言えば『竹下勇日記』の小伝には久木村治作とある。誤字ですな。
更に古い話になりますが、江戸時代宝暦年間の木曽三川の治水工事の際に切腹した薩摩義士・山元八兵衛の子孫になります。
竹下君、元々は山元姓でして竹下家に養子に出されています。


小杉辰三


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014077_3.jpg

実父が細谷十太夫、養父が小杉雅之進。

>実父が細谷十太夫、養父が小杉雅之進。
>実父が細谷十太夫、養父が小杉雅之進。
>実父が細谷十太夫、養父が小杉雅之進。

ばりビビった
(真顔)

見ていて一番びっくりしたのがこの方。
うん、初めは何かの見間違えかと思ったわ…本気で…

鴉組の細谷です。
細谷烏と十六ささげ、の細谷です。カッコいいよね!(興奮)
その細谷の三男で、明治3年に小杉家に養子に行った。

小杉雅之進は長崎伝習所で機関関係の勉強をした人。
咸臨丸の太平洋横断の際も蒸気方・教授手伝として乗り組んでいます。当時は機関科の事を蒸気方と言ったそうです。
オランダから帰ってきた開陽丸に乗り組んでいまして、戊辰戦争にも参加。
当時の開陽丸の船将は榎本武揚、船将並(副船将)は沢太郎左衛門、蒸気役一等(機関長)が小杉になります。
五稜郭まで行っている。
戦後は弘前で幽閉、後許されるのですが、この幽閉先に開拓で北海道に向かう際の細谷が立ち寄り、小杉辰三の養子縁組が決まったのでは?という話。

明治政府的には海軍で奉職して欲しくて許したようですが、それを意地でも受け付けず、運輸、特に海運関係での奉職をしています。
榎本に説得されたみたい。
えのさんに頼まれちゃしょうがねえ…
ちなみに沢さんは広瀬が兵学校生徒だった時の兵学校教授よ~

しかし凄い人たちを父ちゃんに持ったね、小杉…
小杉は機関学校からの転入組でして、そもそもが機関というのは養父の関係からかしらと思うのが人情。

ハンモックナンバーは2番。
先見の明のある優秀な人であったと推察されますが、最終階級が造兵少佐。
ん?少佐?
15期は日露戦争が始まる頃は大体少佐なんですよ。
と言うことは退官か、病気で待命→予備役→後備役編入か、亡くなったか。
大体いずれかに当てはまる。
小杉の場合は前者で、明治36年、呉工廠での勤務が最後。

退官前は製鋼事業に携わっていたようで、これは将来伸び代があると踏んだと思われます。
書籍業者小林清一郎をくどいて、製鋼事業に乗り出した。
それで辞めたんですね。

出来た会社は小林製鋼所。
呉工廠の優秀な職工をヘッドハントして、彼らを連れて小杉自ら英国ヴィッカース社に研究に行っていましたので関係者の期待はかなり高かったようです。
国内の重工業がまだ発展していないので余計だっただろうなー
ただ肝心の製鋼が初っ端から失敗続き。
技術的・資金的な問題で小林がギブアップしまして、操業1か月で鈴木商店に身売りすることに…
確かに個人の資金で重工業を起こすっちゅうのは荷が重すぎる。

小林製鋼所は神戸にあったのですが、売却されて名前が変わり神戸製鋼所になった。
神戸製鋼って…
コベルコかよ!^^;

小杉もそのまま神戸製鋼に移り、技術部門での責任者になったものの支配人と意見が衝突し、神鋼発足後1年余りで退社。
ただ、鈴木商店の大番頭・金子直吉は


神戸製鋼所は専ら小杉君の計画に成るものであるが、其設計は誠に用意周到なるものであって、
今日製鋼所が鋼の質に付絶大の信用を有する遺留の如き亦一つであり、実に同君の賜物である事と思はざるを得ぬ。



とかなり高い評価をしています。(『神戸製鋼80年』80年史編纂委員会/神戸製鋼所/1986)
確かに草創期に辞めてしまったとは言え、小杉は神鋼の生みの親のひとりになります。

妻が大連で亡くなっているので、大陸に渡ったりもしたのかな?
よく分かりませんが、老後は生まれ故郷の仙台で過ごしている。

実父細谷が林子平を敬愛しており、子平の眠る仙台の龍雲院で得度、そこで亡くなっています。
龍雲院を復興したかったようですが、叶わなかったみたい。
その細谷の遺志を継いだのが小杉で、匿名で額面2万円分の株式を寄付していたとのこと。
小杉のお墓もこちらにあるそうです。(東京大雄寺にもあり)

続く! 
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(8)蘭方医たち

シーボルト事件の際はうまい具合に難を避けた高野長英(岩手)は、その数年後に江戸に戻りました。
蘭書を翻訳しながら医者として開業していた。

当時伊東玄朴や戸塚静海、林洞海、大槻俊斎といった後輩たちも江戸で開業していたそうです。
蘭方医として名の知られた人々ばかりですが、高野の方が抜きんでていたそうで、傲慢・傍若無人さに「腹立つ…」と憎たらしく思いながらもその実力は認めていた。

病人を診て分からないような時、高野を呼んで診察してもらう。
で、処方させたら、患者の病気が治ってしまう。

そんな感じだったので、長英がお金に困った時は伊東玄朴等の家に金を貸せと押しかけ、5両、10両と持っていく。
度重なるので断れば、強奪同然に持っていくこともあった。
多分この、「伊東玄朴等」の、等の中に坪井信道も入っていたんだと思う。
この奥さんが「長英さんは人の悪い方で」とそういうことを言い残している^^;


で、この伊東玄朴はかの有名なゲバールレイキ事件(勝手に命名)の当事者になります。

蘭学者の集会で誰かが「今日はオランダ語オンリー。日本語話したら罰金ね!」 → みんな段々日本語が混じりだす → 長英一言も日本語話さず → 玄朴あまりに憎らしく、散会時に梯子段より長英を突き落す(……) → 長英「ゲバールレイキ!」(危ない!)


こういう紹介のされ方だとあまり碌な感じを受けませんが、伊東玄朴、立派なお医者さんです…


高野長英は天保10(1839)年、蛮社の獄で罪に問われ、小伝馬町入りしています。
入牢していたのは5年程で、その最後に起こった火事で切り離しをされた末、逃亡した。
切り離しは牢で火事が起こった際、人道的見地から囚人を一時的に開放することで、3日以内に奉行所か回向院に戻れば罪一等を減じられました。

しかしながら脱獄するために人に金を与えて火事を起こさせたのは他ならぬ高野で、彼は3日経っても戻りませんでした。
これから6年に及ぶ長い逃亡の旅が始まることになります。
ちなみにこの時の南町奉行は遠山景元(金四郎)でした。遠山の金さんだった…


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140316.jpg


高野は牢を出た後、すぐに蘭学仲間の家を訪ねたことが分かっている。
訪問先は大槻俊斎の家で、牢から近かったという理由のようです。
近所には伊東玄朴宅もあったのだけれど、そちらには行かなかったらしい。
先に記したふたつの話は恐らく両者のエピソードの氷山の一角でしょうし、頼る意味では顔を出し辛かったんじゃないかなあ…


大槻俊斎は出身が仙台藩、宮城の人です。
出身藩が同じ、そして名前や同じ蘭方医ということからして大槻玄沢・盤渓らと何か関係があるのかと思いきや、ないみたい。

伊東玄朴の所から来たと明け方に戸を叩く者がいるので、開けてみたら数人を引き連れた高野が立っていた。
身なりを整えたいというので便宜を図ってやり、3日以内に帰れと忠告すると、分かっているという。
去り際に高野はもぎ取るようにして刀を持って行ってしまい、それが気になって大槻俊斎は町方同心に相談したそうです。

で、高野は逃亡してしまう。
後に捕縛された高野と一緒に大槻宅を訪れた仲間が、大槻宅で刀を貰ったとペロッと吐いたので、大槻は何度も奉行所に呼び出され、挙句の果てに3年に猶予をやるから探し出せと奉行所から言われてしまった…
勿論3年経っても探すことはできず、無理でしたと報告した挙句30日の閉門。
形式的なものだったようですが、罰を受けている。
き、気の毒だ…


この大槻俊斎、江川太郎左衛門に庇護された蘭方医のひとりになります。
大槻が記した銃創関係の書物を通じて知り合ったというのを何かで読んだ。
主治医のひとりだったんじゃないかと思う。

伊東玄朴も江川とは関わりが深い。
大槻らと種痘所を作ったと上記しましたが、伊東は天然痘予防の牛痘種法を普及させた人として有名。
伊東の言を容れた佐賀藩での実施が濫觴として有名ですが、江川も伊東に頼んで自分の子供で試した後に支配領域全体で種痘を行わせています。


江川は安政2年に亡くなります。
過労によるものだと思われますが、不調を訴えるようになってから僅か1ヶ月での、文字通り急逝でした。
江川を診た医師団の中心にいたのが大槻俊斎でした。
それに伊東玄朴が加わり、 戸塚静海が加わり、林洞海が加わり、江戸にいた蘭方医オールスターという感じだったみたい。
ただその看病もむなしく、ひいた風邪から肺炎をこじらせて亡くなった。55歳。


ちなみに、江川太郎左衛門と遠山景元、面識があったそうです。
父親同士の関係からのようです。
それに、江川が代官見習いになった際その命令を江戸城で申し渡されたのですが、その申し渡しをしたのが遠山の父、遠山景晋になります。
景晋は北方関係でごたごたしていた時に外務大臣的な役職についていたこともあり、間宮林蔵の上司だったこともある。
以前読んだ江川の伝記では、江川と遠山の金さんで893を懲らしめたというエピソードがあったのだけれど、あれがどこまで本当なのかはよく分からない。笑
本当だったら面白いと思うけど。


で、ついでなので、出しておく。

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014031602.gif

上から2段目の右に林洞海がいます。
義弟に松本良順、林董。
松本良順は幕末にはよく名前が出てきます。
林董は明治の外交官として有名。義弟ですが、養子になっている。

息子の研海、榎本武揚、赤松則良、西周は幕末に幕府がオランダに派遣した留学生です。
ちなみに伊東玄朴の養子もこの時の留学生。
洞海の娘は榎本と赤松に嫁し、息子は西周の所に養子に行った。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014031603.jpg

西周の従兄弟の子供が森鴎外で、森は赤松の娘と結婚しています。
なんでも結婚式の時の主賓、榎本だったそうで。
系図から分かる通り、森は離婚しなければリアル華麗なる一族だった^^;


赤松は韮山塾出身、そして肥田は江川の侍医の子供で、ふたりとも長崎の海軍伝習生となり、咸臨丸で渡米、オランダ留学。
また、咸臨丸にはジョン万次郎が乗っていたことがよく知られています。
万次郎は米国からの帰国後、一時土佐藩に取り立てられたものの、江川の要請で旗本に取り立てられ幕府の鉄砲方手付、つまり江川の部下になっています。
日米和親条約締結時に、身分のことなどもあり表に出ることはなかったものの、陰で随分尽力した人物でもあります。


更についでに言うと、林董は後にロシア公使になっています。
写真が趣味で、こういうのを残している。

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014031604.jpg

広瀬武夫さん。笑
明治32(1899)年2月12日、ペテルブルグでの撮影でした。

沢太郎左衛門は広瀬が兵学校に通っていた時、兵学校で教官をしていました。

で、前回出てきた黒田良安(坪井信道が佐久間象山に紹介した蘭学の先生)の甥が三宅雪嶺だと書きましたが、三宅は明治24~25年にかけての海兵18期生の遠洋航海時、比叡に便乗していた。
当時広瀬も比叡乗り組みで、当時の様子を『航南私記』に記しています。

色んな所に繋がりますな。
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