Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

思想の殺戮

大正を読み直す

『「大正」を読み直す 〔幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川〕』

内容は昭和を考えるには大正からですよねということです(簡略化しすぎや…
昭和陸軍の、統帥権を利用した暴走の萌芽は大正のあちこちに転がってるのよという勉強をしていた身からすると、知ってますとしか言いようが…

昭和の全体主義の萌芽は大正時代にある、という話。
個人が持つ思想が明治末に国家により圧殺されるところから始まり、最後には個人が全体主義・国家主義を唱え出すようになる流れが描かれていました。
この本を読んでいてちょっと…というか、かなりびっくりしたことが。

「個人が持つ思想」とはこの本の場合は社会主義で、「国家による圧殺」とは大逆事件の事。


大逆事件(角川新版日本史辞典/1996)

著名なものとしては、1910(明治43)年幸徳秋水<略>らの当時の無政府主義者・社会主義者が明治天皇暗殺を計画したとされる大逆事件<略>がある。
’10、5月から全国的に多数の社会主義者が逮捕され、26人が起訴された。

非公開の公判を経て’11年1月18日大審院特別法廷において24名に死刑、2名に有期懲役の判決があったが、十分な確証のない者もあり、翌日天皇の特赦により死刑の半数は無期懲役に減刑された。

しかし、残り12名に対しては早々の24日11名、翌日管野の死刑が執行され、社会に衝撃をあたえた。


大逆罪は皇室に対する罪のことで、戦前では一番の重犯罪になります。
天皇・三后(太皇太后・皇太后・皇后)・皇太子・皇太孫に危害を加えた、または加えようとした、ということで皇室へ危害を加える=国家への反逆と見做された。

幸徳事件(所謂大逆事件)は、時の政府によるでっち上げだと言われます。
最近の研究ではこれが一致した見方で、事実そうだったと思われる(辞書の内容は古い)。

しかしそんな事件が全くなかったかと言われるとそうでもない。
起訴された26人全員が冤罪とは言い切れず、実際に明治天皇を暗殺しようと考えた人間は4人いた。
爆発物の製造実験をし、更にその材料も押収されているし、この人々は逮捕されている。


ただ幸徳秋水がこの計画に関わっていたかと言われたら、それはNO.
では計画を全く知らなかったかと言われたら、それもNO.
上記4人に相談はされたけれど、幸徳は反対した。
反対したから、計画からは除外されている(だけれども首謀者扱いで捕まった)。

4人の逮捕後、幸徳を含む22人が逮捕されますが、この人たち、天皇暗計画とは本当に無関係なんである。
逮捕の理由が上記4人の誰かとかつて親しかったとか、影響を与えたとか。
あいつならやっているはずだ、とか。

何の証拠もないまま社会主義思想の持ち主という理由で捕まっている。
まあ、政府は社会主義者を一掃するために、大逆罪という刀を振りかざして捕まえているので…
とにかく理由が分からないまま逮捕され、死刑判決を受けた人が多かったと思われる。

計画に反対してその後は関与しなかったにも関わらず天皇暗殺計画の”首謀者”扱いされた
幸徳については、この事件の担当検事自身が以下のように述べている。(『「社会」のない国、日本』より)


幸徳が此の事件に関係のない筈はないと断定した
証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するやうになつた


疑わしいという理由だけで逮捕され、非公開裁判にかけられた挙句死刑判決を受けて処刑される。
上記の通り大逆罪は戦前では最も重い罪で、裁判は非公開、三審ではなく、大審院で1回限りで結審します。
判決は覆らない。


私は知らなかったのですが、この時特赦で無期懲役になったひとり坂本清馬が戦後昭和36年に東京高裁に再審請求を行ったそうです。

38年にこの再審請求に関わる審尋が始まった。
この審尋の公開を弁護団が要請したものの、却下され非公開。
そして頭ごなしに再審請求人の思想を否定的に見る質問を裁判長が再審請求人にした挙句、再審請求は却下された。

理由。 


大正を読み直す 


なにこれ…
ちょっと何言ってんのか分かんない…

また、最高裁の大法廷が昭和42年に大逆事件の再審請求の特別控訴の棄却を全員一致で決定。
戦後の最高裁は戦前の大逆事件を追認した。
裁判所は坂本に対し死刑判決を受けるようなことをしたのだと認定した。

著者は震え上がるような恐ろしさを覚えたと書いているのだけれど、私も怖くて鳥肌がたった。衝撃的でした。


あと、私の中でごちゃごちゃになっていたのだけれど、幸徳秋水って結局社会主義なの?アナーキズムなの?どっちなの?という…
幸徳秋水が紹介される時ってどちらも書かれているように思うのですが、国史大事典を見ると、社会主義→無政府主義らしい。
うーん…政府からしたらどっちであっても、国体の否定であるから容認できるようなものではなかっただろう。


桂太郎 原敬


ちなみに時の政府は第二次桂太郎内閣です。
所謂桂園内閣の時代で、前の政権であった西園寺公望内閣は割と社会主義者に寛容だったんですね。

当時内相(治安の責任部署は内務省)であった原敬は、
きつく叩くと地下に潜って蔓延し、却って取締りしにくくなる、社会主義の蔓延を防ぐにはもっと根本的な社会政策が必要である
という旨を日記に記しています。(明治43年7月23日条)


原敬日記 


しかしながらそれが山縣有朋、桂太郎ラインに叩かれまして、これが一因で西園寺内閣は退陣しております。
ついでに大逆事件の指揮を執ったのは後の首相、平沼騏一郎(当時法務省の検事)。

あと感心したのは吉野作造の民本主義について。
普通にイコールで民主主義、人民主権だと思っていたのですが、違うものだったのね…
ただこの本を読んでいて感じたのは、吉野の言う民本主義と民主主義、本人の中でさえごっちゃになってない?という…^^;
大杉栄から的確な罵倒的批判を受けていて、ちょっと驚いた。
私たちが学校で習う歴史って一体何なんだろうね。

このエントリーだけ題が違いますが、今回読んだ中で一番衝撃的だったのがこの本でした。
「思想の殺戮」という言葉は本書中に2度かな?出てくるのですが、明治末期の大逆事件はまさしく国家による思想の殺戮でしたわ…


***

ということで、読書感想文終わり!
後はもういいです(笑)
まあ、本屋で見かけたら「あ、あれか」と思ってください。笑
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固め修めし大八洲(7)

読んでるよーと声を掛けて頂いて嬉しいです。
拍手をしてくださっている方もありがとうございます^^
反応があるとやる気が出るわー(現金)

そして伊藤博文の話になると熱くなる。
大好きなんです伊藤博文。近代の政治家で一番好きだ。

前回の話、非常に単純化してます。
さすがにあそこまで簡単な話ではないのだけれど、バサッと大枠を掴んで。
歴史は大きな流れが分かると細かい所も分かりやすいから。

日清戦争後~日露戦争前の政治の大きな課題は、軍拡の費用をどこから持ってくるか、です。
大体において地租増徴案がネックになって内閣が倒壊し、議会が解散されている。


**


大隈重信、板垣退助の隈板内閣が成立したのは明治31(1898)年。
成立間もなく…というか、内閣成立前より旧進歩党派と旧自由党派で分裂、結果4か月で内閣空中分解。
その後に組閣したのが山縣有朋です。
これは前々回触れた第2次山縣内閣で、33年に文官任用令と軍部大臣武官制度を導入した内閣になります。

で、この内閣の時に地租が上がってるのね。
民党はどうしたという話ですが、旧自由党系の憲政党(星亨)が政府と提携している。
山縣と憲政党が妥協して地租を2.5%から3.3%に引き上げています。


https://blog-imgs-72-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20155602.jpg (下の→)


但しこれは明治32(1899)年から5年間、つまり明治37(1904)年までの時限立法だった。
これでとりあえずは財源確保!
これ以上は何にもなし!…かと言われたらそうではない。

第2次山縣内閣の次、第4次伊藤博文内閣でも増税案(建艦補充費用捻出等の為)が提出されていますし、その次の桂太郎内閣では地租増税の5年制限を無期限にする案を議会に提出しています。
当然野党第一党である政友会(自由党系憲政党が母体)は猛反対します。
それを伊藤博文が政友会総裁の立場ではなく、国家の元老の立場から、無理やり政友会に受け入れさせている。
明治36(1903)年。


桂太郎


ちょっとね、私もよく分からないのだけど、この5年時限立法の地租増徴継続案。
ネットで見ていたらちゃんと5年後の明治37年3月末で終わることになっていて、その直前に日露戦争が始まったので結局延長されたという記述がある。
桂内閣と政友会の妥協がすっ飛ばされてんだが。
流れが繋がらない…
結局5年間では終わらなかったことは確かなので、結果としては一緒と言っちゃ一緒なのだけれど。
サイトに移す時にはちゃんと調べときますわー
すまーん。


日清戦争が終わってもロシアの脅威に対抗するために軍拡に次ぐ軍拡が継続され、当時の政治の課題はその軍拡費用をどこから持ってくるかでした。
具体的には地租増徴、消費税などの間接税の導入・増税が挙げられる。
今まで書いてきた通り。
じわじわじりじり国民にかけられる税金が上がっていく。


そして明治37(1904)年2月、日露戦争が始まります。
ではその戦費はどこから調達してくるか。
よく知られているのは高橋是清の外債調達ですが、勿論これだけではありません。
国民にはさらに税金がかけられる。


日露戦争中、桂内閣は2度にわたって「非常特別税」という臨時増税を導入しています。
戦争が始まってしまうと流石に政府と議会が反目しあうような状態ではありません。
まさしく挙国一致の様相で、反対も出ずにスムーズに可決。

具体的には地租、所得税、営業税、酒税、砂糖税の増徴、石油消費税、毛織物消費税などの新設。
塩と煙草は専売になった。
煙草の話は生方敏郎(明治15年生、ジャーナリスト)の『明治大正見聞史』にも出ています。
曰く、政府の専売になると不味くなることは分かっていたがみんな我慢した、云々。
非常時だからねえ…

そして臨時増税なので、この非常特別税にも時限がありました。
日露講和が成立した翌年末まで。
制限があるし、そしてまさしく皇国の興廃この一戦にあるから、税金がどんどん上がってもみんなが我慢した。
(この話はまだ続きがあるのですが、それは後に回します。本当に違う話になってしまう)


日露戦争ってね、こういう中で遂行された戦争なんです。
日露戦争で活躍した軍艦も、こういう中で作られた。
ドラマ『坂の上の雲』で、

国民が爪に火を灯す暮らしをして軍艦を作った

という旨の言葉があった。
確か広瀬武夫のセリフだったと思うのだけれど、これ、本当そう。
明治天皇が宮廷費を出し、文武官が俸給の1割を返納し、国民が度重なる増税に耐えて、本当にみんなでお金を出し合って作った軍艦。
いつの時代の軍事費も国民のお金で賄われています。
それに違いはないのだけれど、こういう経緯を知っているから、余計に明治の、日露戦争頃の軍艦が私はいとおしい。


それがやね、まだろくに戦いもしない明治37年の5月に触雷で沈むわけです。(開戦は2月)
戦艦6艦の内の2艦、八島と初瀬が1日で沈んだ。
第1艦隊、即ち連合艦隊の基幹になる戦闘部隊の構成艦です。一番肝心な所。
戦闘力何割減で後どうしようということもあったと思うけれど、これ国民に対してどうやって言い訳するの?

初瀬は触雷の際に犠牲者が出ています。
だから隠せなかった。
ただ八島の方は全員無事でしたので、日露戦争後まで触雷で沈没したという事実は隠匿されています。

士気の低下が懸念されたこともあったと思う。
けれど、国民に対して申し開きできないという理由も絶対にあったはず。


つづく。


***


前回大隈重信の改進党と書いていましたが、進歩党です。
当時すでに改名してた。すいません。 
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日本海海戦、日進の惨劇(2)

*****

この話は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。
題は『海軍の本より』に変わっています。

*****


続く予定ではなかったんですが。笑

MVさんから色々とご教示いただきまして、「日本海海戦、日進の惨劇」の市川残花は『残花一輪』市川禅海、市川恵治少尉だろうということで。

実はね、先日のエントリを書く前に「市川残花」でググってたんですよ。
そうしたら出てきてたんですよ、市川禅海とか『残花一輪』とか『熱血秘史』とかね!
『熱血秘史』が引っかかってる時点で家にある『熱血秘史』確認しときゃ分かってただろうに眠気に負けて怠りました。orz


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_06020164.jpg


で、さらっとですが『残花一輪』読んでみた。


市川恵治、長野出身の海軍兵学校第31期。
同期に及川古志郎、加藤義隆(加藤友三郎の養嗣子)、長谷川清らがいます。

海兵を卒業したのが明治36(1903)年12月で、気の毒にこのクラスも卒業式後の遠洋航海が吹っ飛んだ。
翌37年2月11日が開戦なのでそんな余裕はさらっさら無かった…
遠洋航海の準備の最中に佐世保に停泊している連合艦隊に各自配属の辞令が下り、市川は初瀬に配属された。
はい。
初瀬ですね。沈みましたね…
そうなんですがその前にこの方和泉に移り、次いで日進に移っています。


初瀬にいた頃、第1次旅順口攻撃の際(M37年2月9日)、発砲した反動で後ろに下がった砲身が左股関節部を強打。
一時的に立てなくなるほどの衝撃だったのですが、何も知らない親友にしっかりやろうぜと励まされ、何とか立ち上がった。

ただその後もその痛みを我慢して人にも語らず治療も受けず、和泉に移ってから更に痛みが酷くなって最終的に立てなくなってしまい退艦、佐世保で入院。
その後日進に配属になっています。
これが『残花一輪』によると9月1日の事。
で、翌年5月末の日本海海戦となるわけです。


A)

微塵になって四散した砲身の小片は司令塔前方の隙間からもバラバラッと飛び込んで、司令官の左眼球を潰し、前頭部を傷つけた。
航海長また頭部を、中央の戦闘舵輪受け持ちの按針手は顔面健(したた)かやられて仆れた。
金城湯池の司令塔の中すら人員は全滅になったくらいである。
況や塔上の前艦橋に身を曝していた者はたまらぬ。

参謀松井中佐と兵二人は爆風に煽られて中部上甲板へと打ち落されて即死。
砲術長従属として首に苗頭尺修正版を釣り、前艦橋の左端に佇立していた高野候補生は、
右脚福良脛の肉を抉り取られ、左手の食指と中指を奪われて仆れた。



上は『追悼 山本五十六』をそのまま引用したわけですが、MVさんが日進の幹部連は一度に纏めて大怪我してたか?と記憶と史料を探ってくださり、史料ナンバーからコマ数までをお知らせいただいたので私もひっさしぶりに『極秘 明治三十七・八年海戦史』を見てみた。


1)2:40
敵ノ十二伊砲弾一発、前砲塔右方ニ命中シテ之ヲ破壊シ
其ノ断片環境及ヒ各層甲板ニ飛散シ、艦橋ニ在リタル参謀海軍中佐松井健吉ヲ殪シ


2)4:05 
敵弾前砲塔ニ命中シ爆裂シテ三須中将、田中少佐以下数名ノ負傷者ヲ生ス

3)7:00
敵弾前砲塔左砲身ニ命中シ附近甲板及ヒ前艦橋等ヲ破損シ太田中主計、高野候補生ヲ始メトシ多数ノ負傷者ヲ生ス


おい市川
(笑)
みんな別時に負傷、死傷しとるがな。

MVさんは当時市川はペーペー(下には少尉候補生しかない!)で全体の事も分からないし、後年に書かれたものであるので(A引用は昭和18年)記憶違いもあるのでは?と仰ってましたが、私もそう思います…
ただ明治43年発行の『残花一輪』でも三須司令官、松井参謀、田中航海長が同時に死傷しているので、多分かなり早い段階か、初っ端からの記憶違いではという気も。
戦闘で多くの死傷者が「散発的に」出たのを、どこかで「一度に」と記憶を変換してしまってるんじゃないかな~という感じが…^^;
てゆーか松井参謀って松井健吉か。15期じゃん。


日本海海戦後は樺太占領に参加しています。
樺太占領については、随分昔に長岡外史の件で触れたことがあります。

長岡外史は日露戦争当時参謀本部次長でしたが、まあ要するに居残り組で、割と時間があったみたい。
敵の伝書鳩を鷹を使って攻撃させようだとか、気球を飛ばして偵察しようとか、暇か。暇なのか大本営陸軍部。
その中に「樺太を占領しよう」という話が出てきます。
別にこれは思い付きではなくて、元々は満州に出征した尾野実信のアイデアだったようです。

戦争中から長岡は東京にいる要路に相談して勝手に準備を進めていた。
桂太郎首相や小村寿太郎外相は良い感触であったようですが、陸海軍関係者に持ちかけては多くの人がスルー。
は?樺太とか何言ってんの?
いやー…
だって現場はそれどころじゃないって^^;
目の前の戦場で手一杯、そもそも割ける兵力もないっちゅうに。
しかしながら講和条約締結の頃に実施されていまして、これは講和を好条件で締結させるのに良いだろうという事で。

そんな感じの(…)作戦に日進乗り組みで参加していた市川、激務でその頃からまた脚の具合がおかしくなりつつあったのだけれど、ここでも我慢してしまう。
で、樺太攻略から凱旋した後、職務の最中に不幸な事故が連続で2度重なり、その両度ともで左股関節部を強打。
遂に立てなくなり、大手術を受けることになった。


つ、続いちゃう…


(MVさん、丁寧なご指摘、ありがとうございました!) 
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寺内正毅の書簡発見!860点!

寺内元首相の資料860点発見 乃木大将からの私信など  
(ソース:共同通信 2014/1/16)  

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117.jpg

乃木希典…!
話題にすると向こうから話題がやって来る人だ…(笑)
大磯の寺内家から書簡類が見つかったとのこと。その数約860点!
860点!
うわあ…
近代では2010年に岩倉具視関係文書が1700点ほどばばーんと出てきていましたが、これはそれに次ぐなあ…
上記ニュースを見ると、名前が出ているのが伊藤博文、森鴎外、桂太郎、乃木希典。
バリバリ長州閥の人だけに長州出身者が多そうだけど、これだけのニュースでは判断がつきませんな。
他にどういった情報が流れているのかググってみたのですが、どこの新聞社も共同通信が配信している記事をそのまま出していたので、詳細は待て後日という感じなんでしょうか。

常識的に考えて、陸軍関係者の名前はものすっごく上がると思います。
山縣有朋とか山縣有朋とか山縣有朋とか。笑。
児玉源太郎のも多いだろうし、原敬もあるだろうなー
秋山好古とか井口省吾とか、あの辺りの名前も結構出てくると思う。
ただ寺内に関しては山本四郎さん編纂の『寺内正毅関係文書』(首相以前)があって、そこに出ている史料とかも含まれるんだろうか。
どのぐらいの資料が新発見なんだろう。
記事では乃木希典の名前が出ていますが、なんでも乃木大将が自害する直前に和歌を認めて寺内に贈っていたとのこと。
ニュースに出ていた写真はその和歌でした。

今回発見の史料は山口県立大学に寄贈されるそうです。
ちょっと調べてみたんですが、寺内正毅・寿一の父子2代で私設文庫ができる程の書物を蔵したようで、現在それを管理しているのが山口県立大。
同大のHPによると近世以来の寺内家の蔵書、正毅個人の蔵書および収集図書・資料・受贈図書などの和漢書、洋書、文書があるとのこと。
資料点数は約2万(!)。
それを思うと一番良さ気な所に移るのかな?
大学なら散逸しないだろうし…
どんなものがあるのかと思うけど、目録作るだけでも結構大変そう^^;


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014017_4.jpg

寺内正毅は原敬の1代前の総理大臣になります。
大正7(1918)年の米騒動で内閣交代したのね。
長州閥、バリバリの山縣閥で、山縣閥と言えば桂太郎と寺内正毅。
山縣が後継者視していたのは桂ですが、桂は明治後期~大正初期に山縣と袂を分かちます。
政権運営の必要から桂自身が政党を作ろうとしたのが原因で、政党を敵視する山縣はこれに激怒した。
ちなみに桂が組織しようとした政党は立憲同志会となり、民政党の前々身になります。

同志会は桂の死後に立ち上がった政党ですが、この時の同党のトップに立ったのが加藤高明です。
加藤は元々政友会寄りの政治家でしたが、桂とも加藤とも仲の良かった山本権兵衛が「ちょっと手伝ってやってよ」と両者を仲介。
そうしたら紹介した山本が驚くほど桂と加藤は意気投合してしまった。
そういう話がある。

桂の死後は寺内正毅が後継者的な位置に立つ訳ですが、まあ…
この方は一介の武弁ってやつですな。長いこと陸相も務めていますが、そんな感じ。
えー、おいおい…というような話も随分…うん。随分ありますが、個人としては生真面目ないい人だったらしい。…らしい…


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117_5.jpg


内閣が成立した際につけられた内閣のあだ名?は「ビリケン内閣」。
寺内の顔かたちがビリケンさん(通天閣のあいつ)に似ていたからで、「非立憲」にもかけている。誰うま。
ついでに言えば加藤友三郎内閣は「残燭内閣」、米内光政内閣は「こめない内閣」と呼ばれた。
こっちは中々手酷い。

山口市のお土産に「銘菓舌鼓」というお菓子がありますが、寺内がちょっと関係しています。

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014017_3.jpg

写真横になっててごめん…^^;
元々『舌鼓』だったけれど、食べた寺内があまりのおいしさに「銘菓にしたらいいのに」と言った所名前が『銘菓舌鼓』になった。
これ、山口市でしか買えなかったんだよなー
新幹線でも買えたらしいんだけど、今はどうなんだろう。
おいしくて、家へのお土産用と自分用を購入。毎日旅館で食べてた。笑。

***

立寄ったセブンイレブンで巻き寿司の試食を渡されてびっくりしました。
お金払う時にレジでお寿司と割り箸を渡された。ここで食べるの?今ここで?^^;
クリスマス前にはケーキの試食も渡されたんですが、なんか最近のコンビニ色々とすごいよね…
クリスマスケーキとかお節の予約どうですかーって近所の家を一軒一軒店員さんが回っててちょっとびっくりしました。
でもクリスマスのケーキはケーキ屋で買いたい。
お節もお寿司も家で作るし。
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