Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

侍従武官、南洋群島へ行く(1)

再び貴重な写真を見せて頂く機会に恵まれまして、ぼちぼち調べています。
大正6(1917)年6月、ヤップ島に侍従武官向井弥一が差遣された時の集合写真。
集合写真と言っても6人である。

調べる過程を書いてみるよー^^


***


ヤップ島まで何しに行ってたの?
(素朴な疑問…)
遠い。

御差遣なので、慰問とか視察とかそういう話だろうけど、アジ歴の「皇族其他御差遣」の史料を見たら分かるんじゃないの?と思いまして。
思ったんだけどね、ない。
こういうパターンはよくあるので(というか殆ど)、別段失望もしなくなってきた。笑


ヤップ島に大正6(1917)年6月に行っている船を調べることに。
侍従武官が乗るなら依頼書というか、文書だってあるだろう。
ただこんなニッチな情報分かるのかと思い、調べてみたら案外分かるもんですな。
自分でも驚きだわー。

それが「艦船行動簿 大正6年6月分(2)」という史料で、南開丸という船がヤップ島に行っている。
そこで南開丸を調べてみたら、南洋貿易株式会社(現存)という民間企業の船であることが分かった。
「南洋貿易株式会社経営」という史料をざっと見ると、当時この会社は南洋の定期航路を持っていたようで、船の行動予定を海軍に届け出ているんですね。

で、この史料を見ていたら現地から海軍省への文書に「臨南防」とか「臨時南防」という言葉がよく出ていて、その後に司令代理とか参謀という肩書が付いているわけですよ。
あ、この視察かと。
現地軍の視察かと。

「臨南防」「臨時南防」は、臨時南洋群島防備隊の略称になります。
そこで臨時南洋群島防備隊を調べてみることに。


簡単に時代背景を書くと、当時ヤップ島は日本の占領地になります。
日英同盟を理由に第1次世界大戦に参戦した日本が南方諸島(旧ドイツ領)を委任統治していた話を年初に書きましたが、その辺りの話。

委任統治以前、占領地であった当初は軍政が敷かれていてその受け持ちが海軍でした。
(だから民間船の行動予定が海軍に提出されている)
海軍でその軍政を担当したのが海軍省軍務局第1課で、山梨勝之進が担当していたことがある(大正7~10年頃の第1課長)。

なるほど、その軍政組織が臨時南洋群島防備隊だったのね。
ちなみにベルサイユ条約締結(大正8、1919年)以後は正式に日本の委任統治領となり、軍政から民政に切り替わり南洋庁が置かれています。

そうしたことが念頭にあり南方諸島云々は大正中期の印象が強かったのですが、実際に調べてみるとかなり早い段階から軍司令部が置かれていてちょっと驚きでした。
考えたらそもそもが戦争に乗じての占領なのでそらそうなのですが。


アジ歴で検索したら「臨時南洋群島防備隊公報」という史料が出てきます。
あ、これで多分ほぼ解決だわーと思う。

これを見たら大正3(1914)年12月末に臨時南洋群島防備隊の司令部が置かれている。

初代の司令官が松村龍雄。
頭脳の佐藤(鉄太郎)、剛毅の財部(彪)、長者の鈴木(貫太郎)、学問の松村(龍雄)の、14期四天王。
財部は15期になっちゃったけどね。
日本海海戦時、三笠の副長されていた方です。
『明治天皇紀 談話記録集成(5)』に副長当時の回顧が載っているので読みたいのですが他館貸出を謝絶されてもーたorz

ちなみに松村菊勇の兄です。
菊勇(きくお)は日露開戦以前からの旅順口閉塞作戦の計画者のひとりでしたが、負傷で不参加となってしまった。
その代わりとして参加したのが広瀬武夫になります。
広瀬は最初から乗り気だった、参加者だったと書かれている本もありますがそうではなく、どちらかというとあまり賛成はしないという感じだったみたい。
それが参加となったのは、有馬良橘が見込んで声を掛けたからになります。

それは措いといて。臨南防に戻ります。
こちら、群島ということで5管区に分けて軍政を敷いている。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141116.jpg


位置は大体でお願いします。司令部が置かれていたのはトラック島。

臨時南洋群島防備隊司令部
 -サイパン守備隊
 -パラオ守備隊 -アンガウル分遣隊、ヤップ分遣隊
 -トラック守備隊
 -ポナペ守備隊 -クサイ分遣隊
 -ヤルート守備隊

司令部が設置された当初ヤップ島に置かれたのは守備隊の一段下の分遣隊で、定員が指揮官中尉(少尉)1人、軍医1人、主計1人。
ただ大正6年の公示を見ると少佐が配置されている。

近デジの『南洋庁施政十年史』を見たら大正7年の定員が、指揮官が少佐(大尉)に、分遣隊が守備隊になっていたので、当局が当初思ってたよりも重要度が高くて(高くなって)位置づけが昇格したのかも。

向井弥一と一緒に写っている人は、恐らくこのヤップ分遣隊の偉い人だろう。
辞令をみたら当時ヤップ島に赴任していた指揮官は生越貞少佐(30期)。
あと鶴田勝という大主計の名前が出てきた。
その他はまだちゃんと見てない。
大変で…^^;

ヤップ島は海軍からは偉い人から下っ端水兵まで合計40人しかいないという小所帯だったみたい。


続く!


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