Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

お披露目

財部彪、故郷の都城(宮崎県)で挙式していたと思っていたのだけれど、東京で挙げていた。
財部彪顕彰会の伝記の記述も違うってどういうことー!ちょっとどういうことー!(笑)
私サイトで都城で挙式と書いたよ!?(笑)

ただおかしいとは思っていたのだよー(※これに限らずこう感じる所は意外と多い)
関係者皆が東京にいるのにわざわざみんな宮崎まで移動していたのかとか、さあ…
東京か。東京やんな、やっぱり…

うん、なんというか財部の結婚は急転直下で決まったね。
外堀埋められて最後は諦めたね、これ。
「致し方なし」だもんね。
そして広瀬武夫や向井弥一のふたりは勝手に友人の為と言って破談させようしたのではなく、財部に助けを求められての行動だった。
財部が山本権兵衛の長女と結婚したくなかった理由は、山本が権門勢家であるため。
…もあるのだけれど、これが第1の理由ではなかったわ。
それはここでは書きませんが、当時はとてもじゃないが口には出せなかったと思う。

ただ結婚したらしたで結構楽しそうな感じではある。
そして都城へも帰っていた。
お墓参りと親族や知り合いへ奥さんを紹介するため。新婚旅行に近かろう。


5月15日に東京で挙式をしています。
ただ本当にもう読めないのですよ。薄すぎて…





「広瀬」とあるのが見えて、非常に気になる。
恐らく向井の話も書かれているだろう。
友情から自分の意志に添うように尽力してくれたということが書かれていると思われる。
読みたいけれど、もう一度国会図書館に行ってもこれは読めない気がする。
どうかなあ…コピーのコピーだからなあ…

そして16日に披露宴を開いていて、そこで東京近辺にいる同期や懇意にしている知人を呼んでいる。
招待状を三十人程に出していて、二十数人が出席してくれた。
竹下勇、中野直枝、山中柴吉、木村剛、町田駒次郎、松井健吉、広瀬武夫とやっぱり同期が多い。
やーん竹下君もいるー(落ち着きなはれ)
向井の名前は出ていなくて、これは他用があったのだと思う。
何も無ければ向井は絶対に来てくれそうだし。
そして秋山真之もいました。あっきー呼ばれてたわ(笑)

仁礼景一も出席者のひとり。
仁礼景一…名前は既出なのですが、お、覚えてる?^^;

海軍大臣をつとめた仁礼景範の長男で、アナポリス出。
初めは医学の為にアメリカ留学をしていたのですが、何があったか途中でアナポリスに私費留学している。
卒業期は18期卒業相当という扱いのようです(18期…加藤寛治、安保清種らのクラス)。
広瀬とは同僚であった時期があり、それが18期の遠洋航海、比叡乗組み。
え?という感じですが、この時は18期らと同等扱いではなく比叡分隊士として乗組んでいます。

「仁礼等如キハ我吾ガ妻ヲ胴上ゲスルニ至レリ」

とかいう一文があって笑えるんだけど。
イネちゃん胴上げされてる…
そしてもう「吾が妻」だよ!「吾が妻」!照れがないな財部!(笑)
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日本海海戦、日進の惨劇(2)

*****

この話は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。
題は『海軍の本より』に変わっています。

*****


続く予定ではなかったんですが。笑

MVさんから色々とご教示いただきまして、「日本海海戦、日進の惨劇」の市川残花は『残花一輪』市川禅海、市川恵治少尉だろうということで。

実はね、先日のエントリを書く前に「市川残花」でググってたんですよ。
そうしたら出てきてたんですよ、市川禅海とか『残花一輪』とか『熱血秘史』とかね!
『熱血秘史』が引っかかってる時点で家にある『熱血秘史』確認しときゃ分かってただろうに眠気に負けて怠りました。orz


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_06020164.jpg


で、さらっとですが『残花一輪』読んでみた。


市川恵治、長野出身の海軍兵学校第31期。
同期に及川古志郎、加藤義隆(加藤友三郎の養嗣子)、長谷川清らがいます。

海兵を卒業したのが明治36(1903)年12月で、気の毒にこのクラスも卒業式後の遠洋航海が吹っ飛んだ。
翌37年2月11日が開戦なのでそんな余裕はさらっさら無かった…
遠洋航海の準備の最中に佐世保に停泊している連合艦隊に各自配属の辞令が下り、市川は初瀬に配属された。
はい。
初瀬ですね。沈みましたね…
そうなんですがその前にこの方和泉に移り、次いで日進に移っています。


初瀬にいた頃、第1次旅順口攻撃の際(M37年2月9日)、発砲した反動で後ろに下がった砲身が左股関節部を強打。
一時的に立てなくなるほどの衝撃だったのですが、何も知らない親友にしっかりやろうぜと励まされ、何とか立ち上がった。

ただその後もその痛みを我慢して人にも語らず治療も受けず、和泉に移ってから更に痛みが酷くなって最終的に立てなくなってしまい退艦、佐世保で入院。
その後日進に配属になっています。
これが『残花一輪』によると9月1日の事。
で、翌年5月末の日本海海戦となるわけです。


A)

微塵になって四散した砲身の小片は司令塔前方の隙間からもバラバラッと飛び込んで、司令官の左眼球を潰し、前頭部を傷つけた。
航海長また頭部を、中央の戦闘舵輪受け持ちの按針手は顔面健(したた)かやられて仆れた。
金城湯池の司令塔の中すら人員は全滅になったくらいである。
況や塔上の前艦橋に身を曝していた者はたまらぬ。

参謀松井中佐と兵二人は爆風に煽られて中部上甲板へと打ち落されて即死。
砲術長従属として首に苗頭尺修正版を釣り、前艦橋の左端に佇立していた高野候補生は、
右脚福良脛の肉を抉り取られ、左手の食指と中指を奪われて仆れた。



上は『追悼 山本五十六』をそのまま引用したわけですが、MVさんが日進の幹部連は一度に纏めて大怪我してたか?と記憶と史料を探ってくださり、史料ナンバーからコマ数までをお知らせいただいたので私もひっさしぶりに『極秘 明治三十七・八年海戦史』を見てみた。


1)2:40
敵ノ十二伊砲弾一発、前砲塔右方ニ命中シテ之ヲ破壊シ
其ノ断片環境及ヒ各層甲板ニ飛散シ、艦橋ニ在リタル参謀海軍中佐松井健吉ヲ殪シ


2)4:05 
敵弾前砲塔ニ命中シ爆裂シテ三須中将、田中少佐以下数名ノ負傷者ヲ生ス

3)7:00
敵弾前砲塔左砲身ニ命中シ附近甲板及ヒ前艦橋等ヲ破損シ太田中主計、高野候補生ヲ始メトシ多数ノ負傷者ヲ生ス


おい市川
(笑)
みんな別時に負傷、死傷しとるがな。

MVさんは当時市川はペーペー(下には少尉候補生しかない!)で全体の事も分からないし、後年に書かれたものであるので(A引用は昭和18年)記憶違いもあるのでは?と仰ってましたが、私もそう思います…
ただ明治43年発行の『残花一輪』でも三須司令官、松井参謀、田中航海長が同時に死傷しているので、多分かなり早い段階か、初っ端からの記憶違いではという気も。
戦闘で多くの死傷者が「散発的に」出たのを、どこかで「一度に」と記憶を変換してしまってるんじゃないかな~という感じが…^^;
てゆーか松井参謀って松井健吉か。15期じゃん。


日本海海戦後は樺太占領に参加しています。
樺太占領については、随分昔に長岡外史の件で触れたことがあります。

長岡外史は日露戦争当時参謀本部次長でしたが、まあ要するに居残り組で、割と時間があったみたい。
敵の伝書鳩を鷹を使って攻撃させようだとか、気球を飛ばして偵察しようとか、暇か。暇なのか大本営陸軍部。
その中に「樺太を占領しよう」という話が出てきます。
別にこれは思い付きではなくて、元々は満州に出征した尾野実信のアイデアだったようです。

戦争中から長岡は東京にいる要路に相談して勝手に準備を進めていた。
桂太郎首相や小村寿太郎外相は良い感触であったようですが、陸海軍関係者に持ちかけては多くの人がスルー。
は?樺太とか何言ってんの?
いやー…
だって現場はそれどころじゃないって^^;
目の前の戦場で手一杯、そもそも割ける兵力もないっちゅうに。
しかしながら講和条約締結の頃に実施されていまして、これは講和を好条件で締結させるのに良いだろうという事で。

そんな感じの(…)作戦に日進乗り組みで参加していた市川、激務でその頃からまた脚の具合がおかしくなりつつあったのだけれど、ここでも我慢してしまう。
で、樺太攻略から凱旋した後、職務の最中に不幸な事故が連続で2度重なり、その両度ともで左股関節部を強打。
遂に立てなくなり、大手術を受けることになった。


つ、続いちゃう…


(MVさん、丁寧なご指摘、ありがとうございました!) 
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