Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ダイバーシティ(2)

海兵26期、日露戦争当時大尉であった山本信次郎ですが、明治10年の生まれになります。
明治29年に海兵に入って31年に卒業、少尉任官が明治33年1月。
明治38年の日本海海戦当時だと28才。

この様子から考えるに、フランス語がペラペラになる程勉強する時間はあったのかと思うのですが、抑々勉強をしていたのは海兵入学以前の中学生の時でした…

山本が通っていたのはフランス系カトリック校、暁星中学校になります。
今もありますな。
伝記によると、山本が通っていた当時は週の内3日はフランス語、3日は英語の日と決められ、それぞれの日にはそれぞれの言葉で話さなければ主張が正しくても認められなかったそうです。
中学生という頭の柔らかい時期に4年も(それも寄宿舎で)こういう生活を送っていたら、そらートリリンガルにもな(れ)るだろう。羨ましい。


山本信次郎


山本が加藤友三郎参謀長、伊地知彦次郎三笠艦長に呼ばれて、ロシアの旗艦ニコライ一世に行くよう言われたと前回書きましたが、その場には東郷平八郎司令長官と秋山真之参謀もいたと山本の回顧にあります。

うーん、これを見てもこの人が選ばれたのはやっぱり語学力じゃないかと思うんだなあ…
恐らく上官たちは山本が語学に堪能であることをよく知っていて選んでいると思う。
特に東郷平八郎。


上村彦之丞 秋山真之 東郷平八郎 島村速雄 舟越楫四郎


明治33年に義和団事件が起きた際、山本が乗組んでいた笠置が中国に派遣されています。
中国には英・独・仏・伊・米・豪・露、そして日本を含む8ヶ国の連合軍が共同で出兵していました。
山本はその列国代表の会議に通訳として出ていたが、いちいち上官の返事を待っておられず直答するような場合も生じてきてしまったそうです。(どんな状況だよと思わんでもないですが…)

しかもその内に問題が自分で責任が取れない位にどんどん大きくなってきて、

山本「早く辞めさせて」(´;д;`)

そらー…
当時山本は少尉に任官したばかりの23歳ですので、悲痛な嘆願だったと思います。笑(こら

上官「旗艦が到着したら通訳できる高級副官がいるに違いないから、それまで待て」

しかしやってきた旗艦の高級副官では話が通じなかったのであった…


結局山本は通訳として呼び戻されます。
そこで外国艦隊との折衝等のために”常備艦隊付”という肩書を与えられ、一時期ではあれ常備艦隊司令長官の幕僚になっていた。
これが山本が少尉に任官して半年後の出来事。
そしてこの時の常備艦隊司令長官が東郷平八郎中将でした。

ロシア海軍の司令長官との会議時、山本は何度か東郷に随行していたようですし、幕僚の中でも山本がとびっきり若いので、東郷も彼を可愛がったようです。
(というか、この時何語で通訳したんだ)


そういうこともあって、ニコライ一世への軍使随行の件は山本一本釣りだったんじゃないかなという気がするのですね。


はい、続きます。
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東郷井@神戸花隈

先日触れた神戸花隈の東郷井に行ってきました。
名の通り東郷平八郎所縁の史跡。

軍艦で大和と言うと先の戦争が浮かぶ方が大半だと思いますが、こちらは2代目。
初代艦は明治の初め、神戸の小野浜造船所で建造、勝海舟や坂本龍馬で有名な海軍操練所と海軍塾があった辺りから程近い所です。
小野浜造船所、明治の中盤に呉海軍工廠に吸収されているのでそんなに一般的ではないかも。

東郷平八郎は大和の造船監督官として神戸に派遣されていたのですね。
その際生活していたのが花隈の神港倶楽部で、滞在期間はおよそ1年。
そこで使っていた井戸を記念して建てられた石碑が「東郷井」。


神港倶楽部は戦災で焼失したのですが、その跡地が川崎重工健保会館となっていた。
ただこちらが売却となり石碑もどうなるかという感じであったのですが、どうにか残していきたいという地元の要望で花隈城に移転となっています。
今年の5月10日だったので、本当につい最近のこと。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/IMG_0769.jpg


場所は山の上から山の下に移っただけ、元の位置からも大して遠くないという史跡巡り愛好者(笑)としては大変ありがたい感じになっています。笑
しかも駅前。

表が東郷井。
文字は財部彪です。わーい。左下に「彪書(花押)」とあります。
裏面には碑文が刻んである。
移転前は近づくのが難しい上植込みで判別不明でしたが、すんごく分かりやすくなった。

東郷井は既にサイトの史跡案内で紹介済みですが、改訂して近い内にアップします。
この史跡、古くて小さい写真しかなかったんだよなあ…
大きいのがあったような気がするのだけれど見つからなかった。気のせいだったか^^;
雰囲気は以前の方が良かったので、それはちょっと残念かな。





昨日は久しぶりに神戸に行きました。
元町高架下とかホントひっさびさ。
東郷井は阪急花隈駅が最寄りですが、JR元町からも歩いて10分くらいです。
モトコー、どんどん進むと軍装品店があったんですよね。今もあるのかな。
海軍大将の礼服とかあって驚いたことがあるわー
書簡とかあります?と聞いたら、「あれば買う」と言われる。笑
違う違うそうじゃ、そうじゃな~い~
私が欲しいんだよ!(笑)
あまり扱ってないみたいでした。

昔は京都の古本市でも明治の元老元勲とか勝海舟とか有名人の掛け軸とかよく出てたんですよ。
壁にかけてあって、まあ観賞用だなあ(笑)
出す方もそうだったのだと思う。
最近はそういうの全く出なくなって遊びに行く楽しみが半減ですわー

関西では近代政治家なり軍人なりの遺物に触れられる機会や場所は少ないんですよ。
近代政治史はやっぱり東京だよなあ… 
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固め修めし大八洲(9)

戦艦八島の話、続き。

八島と初瀬が沈んだのは明治37年5月15日。
実はこの日、この2艦に先だって春日に衝突された巡洋艦吉野が沈んでいる。

前日14日には通報艦宮古が触雷で、翌日16日には赤城に衝突された砲艦大島が沈没。
翌々日17日には駆逐艦暁が触雷で沈没。
顔色を失うどころの騒ぎではなく、連合艦隊にとっては文字通り魔の5月、呪われた5月でした。


根拠地に着くと第1戦隊司令官であった梨羽時起、初瀬艦長中尾雄、八島艦長坂本一、敷島艦長寺垣猪三、龍田艦長釜屋忠道、笠置艦長井出麟六ら各艦長が東郷平八郎司令長官に報告をしに行っている。

三笠に行ったら舷門まで東郷長官が迎えに来てくれて、坂本は互いに手を握ってただ涙が出るばかりだったと回想しています。
長官室で報告に向かった艦長全員が号泣した。
泣くよりほか何も言葉がなかったと寺内猪三が言っていたけれど、本当にそうだったのだと思います。
連合艦隊は 5月15日だけで戦力の33%を失った。


全戦力の3割って。
こんなことになってしまって、これからどう戦えばいいのか。
そう思って泣く艦長たちに東郷は、御苦労だったねと一言、お茶を勧めたといいます。
すごいなこの人。素直にそう思う。
流石に薩英戦争からの猛者は違う。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/IMG_0558.jpg


この東郷の態度が虚勢でも何でもなかったというのは、朝日に観戦武官として乗っていたイギリス海軍のペケナム大佐の言葉からもよく分かる。
全く平素のまま。
それを見た将卒たちがどれほど心を安んじたか。

伊藤正徳が「日本海軍は良い司令長官をもった」と書いているけれど、本当にそうだったのだと思います。
肝っ玉座り過ぎ。
総大将というのは本当に全軍の要なんですね…



初瀬は乗員の半数以上が亡くなりましたが、八島は幸いにもひとりの死者も怪我人もいなかった。
不要人員の退艦処置が早かったのと、艦の沈み方がゆっくりであったため。
ロシア海軍にも八島の沈没は認識されていなかったようで、とりあえず八島喪失は隠匿された。

日本国内の士気の事もあるし、公表して敵の士気を上げることもない。
それに公表は外債の募集にも大きく影響するだろうし。
3割減はやっぱり大きいわー 


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ただそれで困ったのが八島の乗組員でした。
沈没が公表されたのが翌明治38(1905)年。
日本海海戦直後の5月31日だったので、その時まで八島は存在していることになっている。
勿論八島沈没は極秘事項なので、”八島”乗員は士官も兵員も全員内地との連絡を完全にシャットアウト。

そんな状態なので、内地から何にも取り寄せることもできない。
誰彼の私物もほぼ全部が海の藻屑になっており、必要なものは友人から分けてもらうとか、そういう事をしていたそうです。
兵員達が特に不便をしたそうで、誠に気の毒だったと坂本が話していた。



八島最後の艦長であった坂本一が八島の副長をしていた頃の話をこの連載の一番初めに書きました。
その次の次の副長が八代六郎。
山梨勝之進が八島で甲板士官をしていた頃、ハンモックから落ちたことがあったそうです。


八代六郎  山梨勝之進


その時に真っ先に駆けつけてきたのが八代副長。
そうして自分の子供を抱きかかえるようにして「大丈夫か」と気遣ってくれた。

ある時は買ってきた長靴を、
「履いたらサイズが合わないので君に上げるよ。捨てることもできないから」
初めから山梨に上げるつもりで買ってきている。
八代六郎はそういう人だったそうです。
情熱い、部下を可愛がる人だったみたい。
(ロシアであれだけ広瀬武夫の親身になって世話をしてやった様子が分かる気がします)


坂本と次の副長はやかまし型、八代は全幅の信頼を置いて何も聞かない副長。
八島の副長をひいて、人には色々ないき方がある、と山梨の漏らした感想が非常に印象に残っています。

八島と聞くと、雑多ながらばらばらっとこういう事を思い出す。


基本的に沈没した艦の名は縁起が悪いということで継承されません。
八島も初代艦のみ。
多くの人の思いと、多くの人の思い出と共に八島の名前も海に沈んでいった。



これにておしまい。

と書きたいところですが余滴があります。
(びっくりするほどいつも通りだな) 
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ふりさけ見れば春日なる(2)

三笠の話を書いていて昨年目にしたニュースでじゃんけんの「軍艦」が出てきてたなとふと思い出す。
良い内容ではなかったので何とも言えませんが、懐かしいというか、驚いたというか。
グーは軍艦、これは同じだったのだけど、チョキが朝鮮、パーがハワイですって。ですって。
そうなんだ。
私の時は(所は?)、チョキが沈没、パーが破裂だった。
縁起でもねえ。笑
地域差とか年代差とかあるのかなと思ってさ。
というか今どきの子供でもそんなのでじゃんけんするん?っていうのが。笑


話は変わりますが、三笠と言えば手許にはこういうものがある。
展覧会のパンフレットと三笠保存会の会報『三笠』(2号)。


三笠


昭和35(1960)年に大阪三越で開催されたもののパンフレットで、会報はそれに挟まれていた。
多分一緒に会場で配られたのだと思う。
京都に住んでいた時に古本屋の雨曝しにされてるパンフばかり入っている箱の中から見つけた。100円。
アンジェリーナの前にある古本屋なー間部詮勝寓居跡の隣ですよ(そんなローカル情報いらん)

三笠保存会の会員でないからよく分からんのだけど、今の会報の前身だと思う。
戦後に三笠が荒れるに任せていた頃のもので、それをどうにかしようという動きが漸く実現してきた時期のもの。
内容を見ると当時は復元工事の為の調査中で、また寄付金を募っている真っ最中。
展覧会も寄付金を集めるというのが眼目だったようです。
ちなみに当時の三笠保存会の会長は渋沢敬三(渋沢栄一の直孫)、副会長は伊藤正徳、石坂泰三、沢本頼雄。
流石に錚々たる名前が並んでいます。
山梨さんの名前はないなあ…


三笠


完成予想図も載っている。
三笠復元工費の見積もりは約2億円、昭和35年の時点でその約半額が寄付済か寄付決定となっていたそうです。
寄付額は神奈川がダントツで(桁が違う)、流石に地元(で荒れっぷりを実見する人が多かった)ということだったのか。
あと海軍関係者が多かったこともあるだろう。
記念艦みかさの公式HPによると、最終的な募金額は1億6千万円(含米海軍の2400万円)。
それに国の予算9800万円を加えて復元工事が実現した。

『戦艦三笠』(船の科学館史料ガイド6)によると敗戦後に占領軍が三笠の武装解除を命令し、上甲板以上にあったマスト、煙突、主砲塔、副砲その他の艤装品が撤去されて周辺の地上に放置されていたとのこと。
そして甲板にはダンスホール(下写真右奥の丸い屋根の建物)が設置された。
これは有名な話です。


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(34・5年かも)

昭和25(1950)年の朝鮮戦争で金属価格が高騰した結果放置された艤装品が盗まれ、また喫水線下の砂も掘り出されてボイラーやエンジンも盗難に遭ったそうです。
同じく公式HPにはその当時の写真が掲載されていますが、上甲板にあった構造物を取り払った後三笠の周辺地の使用を委託された民間企業がダンスホールと水族館を作りマストや大砲を売り払ってしまったとある。
名前も分からないような有象無象が持って行ったのかと思いきやこれって特定できんじゃねーかorz

そういうこともあって会報には艤装品の寄付(若しくは購入)の募集も載っている。
現在三笠に残っているオリジナル品は錨とダビッドだけだそうです。
それでもよく残されたと思うし、残っていて良かったと思う。
大切にしないとね。


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こういうのはご時世だなと思いますねえ。寄付興業だよ。
相撲が大好きで大日本相撲協会の会長までした竹下勇が生きていたらさぞ喜んだだろうと思います。
竹下は昭和21年に亡くなっている。
会長就任時の挨拶で、子供の頃によく相撲を取って遊び、安保清種を投げ飛ばしたりしていた、なんてしれっと語っていて、あれを読んだ時は思わず笑った。


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私は三笠も随分ご無沙汰しております…
リニューアル前はよく行っていたんだけど、リニューアル後に広瀬武夫の柔道着が常設展示から外れてしまい、そこから足が遠のいた^^;
同じ理由で遊就館からも足が遠のいている。
現金ですまぬ。
ただ東京に行った時は靖国神社へは極力お参りするようにはしているのだけれど。
じーちゃんの戦友が沢山眠っているのでなー。


記念艦三笠展で出品されていた物は、目録を見ると殆ど東郷平八郎関連のものでした。
着物や軍服といった身の回りのものから勲章や書、日記など。
日露戦争関連のもの、三笠関連のものが流石に多い中で、広瀬武夫の柔道着がある。
この出品者が防衛庁になっている。
防衛庁か…
多分三笠にあるあれだと思うのだけれど、移管されたのかな?
三笠は国の所有物だから別に不思議でもないけれど、去年テレビで出ていた道着と同じなのかなと。
よく分からんことが多い^^;





今回のエントリの題は百人一首に採られている阿倍仲麻呂の和歌より。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

戦艦三笠の名はこの三笠山から。
阿倍仲麻呂は哀愁を伴って思い出される人物のひとりです。
何時からというと子供の頃からなんですよねえ。
遣唐使船で唐に渡って、科挙に受かってどんどん出世、最終的に玄宗皇帝に気に入られて帰りたくても帰れなくなってしまった(許してくれなかった)。
漸く帰国の許可を貰って、乗った遣唐使船が難破(ベトナムに漂着)。
結局唐で亡くなっています。
この歌は帰国に際して開かれた送別会で詠んだとされる。
8・9歳の頃の私には、この人の事が子供心にかわいそうでかわいそうで仕方なかった。
いまだに強い寂しさやもの悲しさを感じる歌でもあります。


ちなみにこの時の船団には鑑真和上もいました。
仲麻呂とは船が違ってたらしい。
和上はこれが6回目のトライで、漸く日本に辿り着いた。
ただ度重なる苦労と疲労によりこの時には両眼とも失明していたと言われます。

奈良の唐招提寺は鑑真和上が創建した寺。
有名な和上像が安置されていますが、年に2日だけ初夏に公開されています。
一度は拝顔したいのだけれど、未だ機会に恵まれず…
お寺には何度か行ったのだけど。

この和上像と聞くと思い出す人がいまして、それが2・3年程前に亡くなった米長邦雄名人。
唐招提寺にふらっと訪れた時に、その辺にいたお坊さんに和上に会いに来たと告げると御影堂に通されそうです。
和上像の前でじっと座っていると、鳥の声が聞こえてきたと。
そういう話をお坊さんにしたら、それは迦陵頻伽の声ですね、と。
その辺にいたお坊さんは実は唐招提寺の偉い人だったらしく、いつもはそんなことしないのに、なんとなくしてしまった、そうで。
仏縁というか、何かがあったんでしょうね。

1:1のトーク番組で米長名人がそういう話をしていた。
『徹子の部屋』かなあ…10年以上前です。
そして笑いながら瀬戸内寂聴(実名言ってた)には悟りは開けないし迦陵頻伽の声は絶対に聞こえないとか言ってて爆笑した。
流石米長名人(笑)

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ありがとうございます。ありがとうございます。
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パラべラム~堀悌吉(17)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


財部彪はロンドンに出かける前、面会した東郷平八郎に対米7割固持を強い言葉で口にしたみたい。
それはロンドン海軍軍縮の紛糾後、元老西園寺公望が岡田啓介に
「何故あんなに東郷が強硬になったのか」
と尋ねた時に岡田がそう答えていて、それで6割の条約に強く反対したとあります。
多分それもひとつの理由だったんだろう。


また財部個人に対する反感も、やっぱりあったのじゃないかと思う。
有名な話ですが、財部はこの会議に夫人を同伴しています。
それに対して東郷は、
「戦(会議のこと)にかかあを連れて行くとは何事か」

当時海軍では駐在武官や重要な任務を帯びた武官などが夫人同伴で海外赴任することは白眼視されたそうです。(『自伝的日本海軍始末』高木惣吉/光人社/1971)
財部夫人の評判があまり良くないというのも、ネックだったんだろうなあ…
(※但し、謂れの無い誹謗中傷が多かったそうです)


しかしながらね、これですよ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014830.jpg


お分かり頂けるだろうか。


斎藤実の隣にいる女性はなんなのさという話ですよ。
昭和2(1927)年のジュネーブ海軍軍縮会議、斎藤実全権は夫人同伴なわけだが。
(当時斎藤は朝鮮総督ですが、就任に際し現役復帰していて現役士官なのですよ、一応)
財部の夫人同伴への批判は聞くのに、斎藤に対してないのはなぜなのか。
ジュネーブ海軍軍縮会議は戦ではなかったのですか東郷さん。
私は大変納得いきません。
てゆーか財部と斎藤の人望の差と言われたらそれまでなんだけど。 orz
なんかもう、個人攻撃なんじゃないの?という気になってしまう…


それやこれやに加え、条約反対派や反財部派からあれこれと吹き込まれ、財部彪がロンドンから帰って着た頃には東郷は相当強硬になっていました。
条約に反対するだけではなく、財部の進退にも言及、批判をしていて、紛糾の度合いが余計に大きくなった。
海軍内部としても、政治的にも。



財部帰国時には統帥権論争が始まっていたこと、軍令部長加藤寛治が統帥権干犯の上奏を頻りと要求していたことは既に述べました。(14
実際に周囲の反対や制止を振り切り、加藤は政府を弾劾するような内容での乞骸上奏をしています。
(※乞骸(きつがい)=骸骨を乞う=退職を願う)
これは反対派は勢い付くよね。
東郷にしても同じだったみたい。

条約反対派は東郷にあれこれ吹き込んでもいて、また東郷の言葉の、自派に都合のいい所を世間に喧伝している。
元帥は条約にハンタイダーとか、そういう事を強調する。
こんな風になってくると部内は中々収まらないのですが、海軍省と軍令部で覚書を作ること、財部の辞職確約で何とか収めています。

こうした海軍での悶着を乗り越え、更に枢密院での一悶着を乗り越えた後、政府は漸く条約批准にたどり着きました。
(昭和5(1930)年10月2日。枢密院が審査の際にしたことはOdd Priority(2)参照のこと)


辿り着きはしたのだけれど、幾つかの深刻な問題が起こった。

・海軍が海軍省系と軍令部系+東郷平八郎に近い人たちにまっぷたつ(いわゆる条約派と艦隊派)
・11月14日浜口雄幸首相東京駅で狙撃 → 政党政治否定の動きが活発に → 5・15事件に


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014100302.jpg (@東京駅


この条約が批准される数か月前に山梨勝之進海軍次官と末次信正軍令部次長が更迭。
間もなく加藤寛治軍令部長も交代し、批准された後は財部彪が海相を辞めています。
海軍省部のトップが全員交代するという結果的には喧嘩両成敗的な人事となった。

財部の海相辞任は、立場上止むを得なかったでしょう。
しかし本人が希望したとはいえ山梨が海軍省から去ったというのは本当に痛恨だったと思います。


当時軍務局長であった堀悌吉(久しぶり)は、政府の人間や海軍上層に何かアクションを取れるような立場でも、自分の意志で何かできるような立場でもないため、ここでは全然名前が出てきませんでした。
が、山梨次官を理論的に支えていたのはこの人であったし、あれこれの起案やチェックをしていたのも堀であったようです。


それにロンドン海軍軍縮会議の際の海軍の紛糾、この詳細が分かっているのは堀悌吉のお陰だそうで。

『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)によると、
堀は条約締結の経緯を記録として作成しており、それが「倫敦海軍条約締結経緯」として『堀悌吉資料集』に所収されている。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12110006.jpg


堀は昭和5(1930)年夏頃にこの条約関係で起きた出来事の要点を記していました。
それがどういう事か上達書類に紛れて、財部彪海相の手元にまで行ってしまった。(上写真の左側に書いてある)
一読した財部がこれを完成させた上保存したいと希望したため、正確な資料に基づき書き直し、山梨次官や関係諸官に見てもらって清書。
それに関係文書を添付して、軍務局と大臣官房に1通ずつ保管することにした。

ただ、昭和9(1934)年頃には官房で保管していた方が無くなっていた。
それを耳にしたのが古賀峯一。
ちょっと心配になってね、当時軍務局長であった吉田善吾に軍務局で保存している書類を見たいと申し入れた所、


時代も変化してきたから、このような記録があると海軍部内の統制上好ましくないというので、近く焼却することに決まった
(『堀悌吉』芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)


えっ。


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古賀はロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省の高級副官でした。
これまた名前は全然出てきませんでしたが、堀と一緒にあれこれの会議に立ち会ったり、出張したり。
当時の海軍の状況をよく知っているひとり。
古賀は内心驚きながら、

「ちょっと見たい所があるから貸して欲しい」
「なら用が済んだら焼いてくれ。俺の方で焼却済みにしておくから」

古賀は書類を持ち出して、すぐに堀悌吉の元に持ってきたそうです。
そしてそのまま堀に預けた。
書類は堀が海軍を辞めた後に勤めた会社や防空壕など転々と持ち歩いた為、焼却にも戦災にも遭わずに一級史料として現存することになりました。


しかし

時代も変化してきたから、このような記録があると海軍部内の統制上好ましくないというので、近く焼却することに決まった

これですよ。

私もこの部分を見た時はちょっと驚いた。
これ、もしかしたら同時期に結構な数の「好ましくない」重要書類が焼却されているのではないですか。

敗戦直前直後に、陸海軍が真の極秘書類などをほぼ焼却したのはよく知られていますが、
その時以外でもその時々の当事者にとって都合が悪いという理由で、ないことになった「歴史」が随分あるんでしょうね…


続く


**


間には挟まなかったのだけど、ちょっと言わせてorz

東郷元帥や、伏見宮博恭王、加藤寛治、末次信正といった人物、また先輩・同世代の予備役後備役を納得させるような、
また加藤友三郎のように力尽くで押さえつけるような力量(経験や人望)が、財部にはありませんでした。
残念ながら、沸き立つ後輩を押さえつけるような力量もなかった。

見ていると財部も少し頑なな所があるので、状況に適するフレキシブルさに欠けていたのではとも思う。
部内、特に海軍首脳に理解を求める動きを、どの位していたのかなーと。

ただ財部自身も初めは他の海軍首脳と同じように対米7割堅持だったのは、見てきた通り。
会議に出席する前から、海軍と政府の肚が割れていたのも見てきた通り。
一番肝心な所で、足並みが揃っていなかった。
意思疎通の悪さは財部だけでなく、政府側の人間も大概酷いので、紛糾の理由を財部だけに帰するのは酷だと思う。
ただ、あの時期の海軍大臣として、財部彪が力量不足であったというのは真実でしょう。

でもね、海軍がふたつに割れたのって財部のせいですか?
私はこれが聞きたい。
当時海軍のトップであったという点では、確かに財部の責任だよ。
でもね、

「一枚板だった海軍を条約派と艦隊派に分裂させてしまった、財部の責任は大きいですよ」

これ『歴代海軍大将全覧』にある財部の項目、半藤一利のコメント。
納得できない。
財部も岡田啓介も「元帥の晩年に傷をつけたくない」って腫物を触るように気を使ってた東郷平八郎まで担ぎ出して、一部政治家と結託して統帥権干犯問題まで言い出して、海軍を割ったのは誰なんだよ。
財部なの?


『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)を見ると、
東郷は、条約に徹底的に反対することで、また条約締結後も破棄を強く言い続けることで、
少しでもいい条件で、条約締結後に生じる国防の欠陥の補充策を引き出そうとした。

「条約締結は認めてやる。だが政府は海軍軍備を少しでも多く補充しろ」

東郷の条約絶対反対の姿勢は、その駆け引きの道具だったってことだよ。
(この時に東郷の手足になったのが”東郷の私設副官”小笠原長生で、その猛烈な運動には加藤寛治がドン引きしたほど)

どうなわけ?これ。
東郷は担がれただけという意見もあるけれど、これそうですか?



『歴代海軍大将全覧』の財部の項目、
他に書くことないのかと思う位財部夫妻の悪口のオンパレードなわけだが、
秦郁彦が財部の婚姻の際に広瀬武夫が反対したという話を振っている。

曰く、広瀬が財部の婚姻について山本権兵衛宅に直談判に行った際、それを聞いていた山本夫人が
娘は山本の娘であるためにいい人と結婚できないのでしょうか
と泣き、それ見た広瀬がハッとして直談判の内容を撤回して山本宅を去った。
(このパターンの話は私は他に見たことない)

その話の後、対談者4人で財部夫人に対する悪評を言い合い、その揚句に

「元はといえば広瀬が権兵衛夫人の涙に負けたのが悪かったんです。
あのとき、広瀬が断っていたら、いね子は山路一善の嫁になったでしょう。」(秦)


何で広瀬が悪いんだよ。

それに広瀬が断ったところで何の関係もなかったろうよ。
読めば読むほど腹立つ本である。
(この本と著者連が好きな人はごめん。私は無理だ)
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