Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(13)

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この話は19回シリーズです。サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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・昭和5(1930)年4月1日に回訓案が閣議で可決、その日の内にロンドンへ打電
・東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王 → 政府が決めた以上あれこれ言う筋合いにない


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131226142448ebf.jpg


これで円満解決かと思いきや、まだ加藤寛治は不満たらたらで「上奏したい」の一点張り。
上奏して昭和天皇に何を言うかの想像は大体出来るわけですよ^^;
勿論条約反対の事だろうと条約賛成派の人は思う訳で、回訓決定以前にも上奏は何度か阻止されている訳です。
加藤の邪魔をしていたのが岡田啓介軍事参議官であったり、鈴木貫太郎侍従長であったり。

ただ回訓打電の翌日は上奏が許可されている。
その時は露骨な反対上奏ではなく、心配していた周囲もややほっとした…

のも束の間。


同日、末次信正軍令部次長が黒潮会(海軍の記者クラブ)に不穏の文章を発表しようとし、それを察知した海軍省側に未然に抑えられるという事件が起こっています。
浜口雄幸首相がこの事を知り、海軍政務次官と末次を招致して回訓に関して諒解を求めた上、綱紀粛正の点から注意するという事態に陥った。
その時は末次も反省の辞を述べたのですが。

会見後の記者会見で、政府を批判。
しかもその3日後、参議院内での講演で再度軍縮批判をぶち上げた。


浜口怒り心頭。



軍令部、特に末次は請訓が届いた直後に新聞紙上に独断で「海軍反対」と発表した前科があります。(【10】
注意して、反省したと思ったらその舌の根も乾かない内にこれだよ!
そらそうだ。反省なんかしてないもん…

軍人は政治不関与という決まりがあります。
思うだけならまだしも、新聞紙上や公式の場で政府の反対意見を発表する等もっての外。
しかも政府が既に決定してしまったことに対してです。
それに海軍首脳で回訓案を検討して政府に返した時、加藤も末次も何も言わなかったよね。(【12】

誰がどう見てもこれは軍人としての規を超えている。


これは政府内で大きな問題になりまして、最終的に岡田の方にあいつどうにかしろと話が行っています。
浜口より話を聞かされた山梨が、首相は末次を次長の地位から引かせるべく何らかの手段をとるかもしれない、と岡田に言う程だったので、浜口の怒りは相当大きなものだったと思われます。
ただ山梨次官の根回しで、この時は部内限りの処分ということになり、軍令部長よりの戒告ということで決着となった。(4月中旬)
しかしこの約2ヶ月の6月、末次は次長更迭となっています。


末次信正、伏見宮、東郷平八郎


条約反対派の領袖は立場から言っても加藤寛治でしたが、実際に加藤を操っていたのは末次信正であったと言われています。
思えばワシントン会議の頃からそうでした…
岡田などが加藤を説得し、納得させても、軍令部に行って戻ってきたらもう話が変わっている。
そういうことが再三だった。


加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


条約を纏めたい方からすると、まさにこんな感じだったかと。(※)
この事については、堀悌吉も「海軍現役ヲ離ルル迄」(昭和20年3月執筆。『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)所収)に記しています。
ちょっと長いけど、堀さん出てくるの久しぶり(…)なので引用する。


自分の軍務局長時代は所謂倫敦会議時代だが、時の次官は又山梨中将であつた。
末次中将は軍令部長加藤寛治大将の下に次長として帷幄の府に立て籠り、策謀を事として居た。

即ち此の機会に於て宿敵山梨氏を首めとし左近司(土原註:政三)氏等をも一挙に蹴落とさんとし、
同時に末次の周辺には志を同じうする者共の一派が集まって来て居た。
凡ての騒乱変動は殆んど此の点より出発して居る。

陋劣陰険の奸手段を用ゐて新聞記者を買収し、
御調子者で芝居気の多い加藤大将を煽動して風無き所に波瀾を起し、
東郷元帥や殿下(土原註:伏見宮)を渦中に捲き入れ、
海軍先輩某々等の財部大臣に対する反感を利用して諸種の論議を醸成せしめ、
之を政治上の駈引きの種として政党に売り込み、
所謂統帥権問題と謂ふ様なものを拵へ上げて国中を騒がせ、
後日国家の大患を来すべき悟る能はずして、唯だ自己等の立場を造り固めるに汲々として居た。

当時末次氏は鼻孔出血で時々休んだことがあるが、其の間に加藤軍令部長が納得して凡そ納まりかけて居た事情も、
末次次長が出勤すれば直ちに変更せられ紛擾を起すといふ如き事実は一再に止まらない。

自分等は彼等の斯う云ふ遣り方に悩まされ
而も彼等の勝手な捏造にかかる批難の的となって居た<略>


末次は元々軍令畑の人で、風采もよく弁も立ち、まさに名将然としており、
その上ワシントン会議以降の日本海軍の基本戦略であった対米邀撃漸減作戦の第一人者で、人を納得させる所が大きかった。
(末次がロンドン条約に頑強に反対したのはこの作戦に支障をきたすというのが理由にあったみたい)

以前紹介した小柳資料でもそういった言葉が散見されまして、下の人々からの評判はとても良かったそうです。
ただそういった言葉の後、ほぼ全部に「軍人の分を超えすぎた」という旨の一文が付いていた。



末次更迭は山梨勝之進も次官を辞めるからということで、交換条件的、喧嘩両成敗的に行われている。(同日)

山梨勝之進はそのまま行けば確実に海軍大臣になっていただろう逸材でした。
末次が、「山梨のような知恵のある人物にはかなわない」、山梨をそう評した事は、大分以前に書いたことがあります。
加藤、末次といった、いわゆる「艦隊派」と言われた一派から見ると、一番邪魔だったのが山梨だった。


山梨勝之進


部内の心ある人と同様に、こんな人事をする海軍に若槻礼次郎は随分思う所があったようです。
自伝『古風庵回顧録』に記述がある。


海軍部内を纏めるについて、次官の山梨勝之進などは、もつとも尽力した一人であつた。
しかし当時省内の要職にあつた人たちは、軍縮条約に同意したという理由かどうか判らんが、
後にみな外に出され、予備に廻され、海軍では用いられなかつた。<略>
軍縮会議に際して、内でその仕事をしたとか、向うへ行つて働いたとかいう理由で、
海軍がその人たちを冷遇したということを聞く私は、心中不愉快にたえなかつた。

一ぺん山梨に会つた。
私は山梨に対して、

あんたなどは、当たり前に行けば、連合艦隊の司令長官になるだろうし、海軍大臣にもなるべき人と思う。
それが予備になつて、今日のような境遇になろうとは、見て居て、実に堪えられん、

と云つた。
すると山梨は、

いや、私はちつとも遺憾と思つていない。
軍縮のような大問題は、犠牲なしには決まりません。
誰か犠牲者がなければならん。
自分がその犠牲になるつもりでやつたのですから、私が海軍の要職から退けられ、今日の境遇になつたことは、少しも怪しむべきではありません、

と云つた。


続きます


***

※註

本人曰く「俺は8割感情で行く男だ」の加藤寛治(18期クラスヘッド)が全くの単純で末次に操られていたのかと言われたら、どうもそうでもないようです。
【10】で当時艦政本部長であった小林躋造が、「妥協案位の割合なら国防もやりようがある」という旨の発言をしたと書きました。
そのことに対して小林は加藤から声を掛けられています。
曰く、

「貴様、あの席上であんな論をなすのは怪しからん、しかし、事実は貴様のいった通りだよ」


『岡田啓介』(岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)よりの引用ですが、同書には、万々承知の上での強硬論だった節がないでもない、とあります。
これ研究の余地があるんじゃないのと思う(メジャーな分野なので既にありそうだけど)と同時に、もしそうだったら余計タチ悪いよねっていう…

上記の引用、言われたのが小林ということで『海軍大将小林躋造覚書』を確認したのだけれど、それらしい言葉は見つからなかった。
見逃したかなー^^;
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パラべラム~堀悌吉(12)

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大好きな岩手県の雄安倍貞任の御命日です。
今日は前九年の役が終了した日ですな。(1062年)
そういえばこちらのブログに移ってから平安時代の話を書いた覚えがないなあと…^^;
気が向いた時にでもぼちぼち書いて行けたらという感じですか。
ちなみに安倍晋三首相は安倍貞任の弟宗任の子孫になります。すげー。

パラべラム、沢山の方に読んでいただいているようでありがとうございます。
いやー何だか怖くなってきた。笑。
言っときますけど学術研究等の参考にはなりませんぞ。
ここは個人の趣味のサイトですからな。為念。
拍手して頂いた方、またランキングクリックしてくださった方もありがとうございます。
この話冗談抜きで結構大変なので嬉しいです^^;


***


ロンドンからやって来た請訓に大反対!の軍令部。
そんな事は関係なく妥協案を受け入れるつもりの政府。
その間に挟まれる海軍省。

山梨勝之進次官が非公式軍事参議官会議の後、海軍の意見として「米国案の妥協は受諾できない」と浜口雄幸首相に伝えたのが昭和5(1930)3月24日。
浜口がそれに「政府は会議の成功を望んでおり、決裂させるようなことは無理」と返したのも同日です。

翌25日、海軍ではもう一度集まって会議したものの(岡田啓介軍事参議官、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長、小林躋造艦政本部長、山梨勝之進海軍次官、堀悌吉軍務局長)、纏まりがつかない。
その報告を山梨次官より受けた浜口首相の返事は、
「妥協はする、不退転の決意である」
やっぱり意見は変わらない。

更に3月27日に浜口は昭和天皇に拝謁していて、妥協に関する同意を得ているんですね。
天皇のゴーサインに勝る支援はなかったでしょう。


浜口雄幸 岡田啓介


浜口は拝謁後、加藤軍令部長と岡田と会見しています。
この頃には財部彪海相の意志が岡田や山梨次官にはっきり伝わっていたようで、岡田自身が堀軍務局長、古賀峯一高級副官に対して
「大臣の意志がはっきりした以上、省部協力して大臣の意のある所に動かざるを得ない」
と述べている。

その上浜口と会談し、昭和天皇に拝謁して浜口がその決意を更に固めたのを見ている訳です。
分かってはいたけど、妥協以外の道がないということは、一段とはっきり悟ったことでしょう。
その中で浜口に更に三大原則を説明し(7割必要)、更に閣議に出させろとゆする寛治。
なんたるつわもの(一蹴された)。


この頃、侍従長であった鈴木貫太郎も動いていました。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/suzuki.jpg


「何割ないと国を守れない」じゃなくて、「与えられた兵力で国防を考えるのが軍令部の役目」、そうした事を言っている。
実は鈴木、前職が軍令部長でした。
つまり加藤寛治の前任者で、余計に思う所があったのだと思う。
ただ、
「侍従長でなければ諫めることもできるのだけど」
との本人の言葉通り、天皇の側近という立場上何かしら目立って動くということはできません。

加藤寛治が会いに来て妥協不可を力説しても冷静にあしらって加藤を落胆させたり。
伏見宮に面会して、海軍巨頭会議での発言は余程注意を要す、皇族と言う立場と影響力を考えて欲しい、会議決裂の及ぼす影響は大きい、そういった事を言上している。
言上と言うか、釘刺しに近いと思う…


そういうことがあったからなのか、どうなのか。
岡田と山梨が「請訓を丸飲みする、但し政府には条件を付ける」と決め、
加藤は激しく元帥・軍事参議官会議(ほぼ妥協反対)を開くべき!上奏する!と主張していた頃(岡田に一蹴される)、
面会にやって来た岡田に伏見宮はこう言った。(3月28日)


①海軍の主張(7割)は正当なもの、回訓が出る迄は押すべし
②しかし政府が決めたら従うより他なし。2個師団増設問題のようにしてはならぬ。軍事参議官会議は開かぬ方がいい
③請訓通りになれば加藤は軍令部長を辞めるか?辞めさせぬ方がいい
出張で当分不在になるが、その間にもし参議官会議が開かれたら、適当な時期に発表してくれ
 (『岡田啓介』岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)

岡田と山梨大喜び。

もーそらー宮様のお墨付きですよ。
本当にホッとしたと思います。


 ※2個師団増設問題
  大正元年。陸相が帷幄上奏で単独辞任、陸軍が後任を出さなかった為内閣が成立せず倒壊した。
  陸軍が我が都合で倒閣させたと大問題に



岡田は加藤寛治を相手にする一方で、閣議に提出する兵力拡充案を山梨らに考えろ、としています。
これが上の「条件」で、米案の兵力量では配備に不足を感じるのでその補充が必要、軍縮で制限される分野と違う分野を補充してくれ、ということ。
その拡充案が閣議で承認され、その後に回訓案が出来上がります。
それが4月1日。

閣議に案を上程する前、浜口首相は岡田、加藤を呼び、回訓案の説明しています。
それに対し、
 岡田 政府が決定した以上、海軍は最高の方法を考えたい
 加藤 不満であり同意できない 
 山梨 案を海軍首脳に図る。閣議上程はそれから願います

海軍に回訓案を持ち帰り、上の3人、小林艦政本部長、野村吉三郎練習艦隊司令官、大角岑生横鎮長官、末次信正次長、堀悌吉軍務局長で会議。
幾らか修正した後閣議に回しました。
はい。この時加藤も末次もいるわけですが、異論は唱えていません。
軍令部も回訓案を了承した、とみなされた。

閣議においては外相が幾らか訂正を加えた後、問題なしと言うことで、浜口首相、幣原喜重郎外相、山梨次官の発言や説明の後、閣議は満場一致で回訓原案可決。

その日の内にロンドンに打電されました。
はー…ひと段落。


加藤寛治、東郷平八郎、岡田啓介


伏見宮は最終的には政府の決定従えとのことでしたが、もうひとりの海軍の大御所、東郷平八郎はどうだったのでしょう。
回訓が打電された日、山梨次官が経過・結果説明のために東郷元帥の元を訪れています。

山梨に向かって、東郷曰く


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず、
今更彼是申す筋合にあらず、
此の上は部内の統一に力め愉快なる気分にて上下和衷協同
内容の整備は勿論士気の振作訓練本来の使命に精進すること肝要
 (『岡田啓介』)


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず
今更彼是申す筋合にあらず



政府が回訓を決定した以上は、それでやらざるを得ない。
今更あれこれと言う筋合いのものではない。

これですよ。
宮様も東郷元帥も、政府が決めた以上は仕方ないと言ってるんです。
回訓案を承認した。

これがどうして大騒ぎになるのか。


続く


上の写真の解説。

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パラべラム~堀悌吉(11)

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岡田啓介(当時軍事参議官)は条約妥協に関する紛糾が始まってから声を掛けられたのではありません。

ロンドンで会議が始まる以前から、牧野伸顕内大臣から「会議決裂は困る」と洩らされたり(内府から=聞く方からしたら天皇の意向である)、
元老西園寺公望からも、海軍は荒れるだろうからその纏め役になって欲しい、と頼まれていました。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014913.jpg


岡田の軍縮に対する考え方は、


大体軍備というものはきりのないもので、どんなに軍縮をやったところでこれでいい、これでもう大丈夫だという、そんな軍備はありゃせん。
いくらやってもまだ足らん、まだ足らんというものだ。
<中略>

わたしは当時からいい意味での完全な軍縮は出来ん、きっと軍備の競争はなにかの形で残ると思っておった。
だから成るべく、ばかな、出来もせぬ争いをやめてしまって、争いを出来るだけ小さくしたほうがいい、と考えていたわけだ。

米英を相手に戦争すべからずという、そんな『べからず』じゃない。
戦うだけの支度が出来ればいいが、そんなことはいくらがんばっても国力の劣る日本には出来ない。
出来ないならば成るべく楽にしていたほうがいいというわけだ。
どっちも頭がおさえられておれば、こっちは、自然と対抗出来る別の方法も考えられるというものだ。
(『岡田啓介回顧録』 岡田啓介/毎日新聞社/1950)


こんな感じ。
「妥協丸飲みもやむなし」も海軍次官山梨勝之進に意見を問われた際の岡田の言葉になります。
そして、


ロンドン会議のまとめ役として、奔走するのに、わたしは出来るだけはげしい衝突を避けながらふんわりまとめてやろうと考えたものだ。
反対派に対しては、あるときは賛成しているかのように、なるほどとうなずきながら、まあうまくやってゆく。
軍縮派に対して、強硬めいた意見をいったりする。

要するに、みんな常識人なんだから、その常識がわたしの足がかりなんだ。
いくら激している人間にも常識的な一面はあるんだからね。そこを相手にする。
狂人だったら別だ。ただ逃げる、これがわたしの兵法だ。

加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


こんな感じで、岡田は山梨次官(とそれを支える堀悌吉軍務局長や古賀峯一高級副官)を支え、軍令部長加藤寛治、浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相、伏見宮・東郷平八郎の海軍大御所といった人々の間を駆け回った。



政府から請訓が示されたのが昭和5(1930)年3月15日。
それから約10日後の24日に非公式軍事参議官会議(伏見宮、東郷、岡田、加藤、末次、山梨、堀)が開かれまして、妥協可否についての海軍側の結論が出ます。

海軍「米国からの妥協案をそのまま受諾するのは無理」

…。
……… (^▽^)?
……この辺りなんとも理解しがたい…
階級的にも他と比べて力のない山梨と堀がいる程度では大勢に影響がなかったんだろう。


ただ前回書いたように浜口雄幸首相の肚は決まっていて、「妥協」の一択。
海軍の否に対し浜口は、

「妥協する。政府は会議の成功を望んでいる。会議決裂させるようなことは無理。再考しろ」


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149112.jpg


もうこの頃にはね、浜口、軍令部側に対する怒りを腹に据えかねていて、

外国との交渉案件に関し現役軍人が恣に自己の意見を喧伝するか如きは綱紀粛正の問題として別に処理する必要あり
(『浜口雄幸』(波多野勝/中公新書/1993)より引用)

浜口激おこ。
公文書でこういう言葉を残すってよっぽどです。
確かに加藤や末次はやり過ぎだ。


まず軍縮は軍が俎上に上るとはいえ外交問題であること、また経済的な観点から内政問題でもある。
そもそも兵力量なんて軍が独断で決められるもんじゃありません。
内政外交を鑑み、国力を総合、俯瞰して、政府が決めるものです。
7割じゃないと国防に責任が持てない、だから会議が決裂しても構わない?
それは軍令部が決める事じゃない。
国の向かう方向を決めるのは軍令機関ではなく政府です。

それを勝手に新聞紙上に「海軍は反対だ」とぶちまけ、
昭和天皇の側近に会っては反対だと言い(天皇に伝わることを期待している)、
帷幄上奏で昭和天皇に意見を申し上げたいと運動する(阻止される)。

そら浜口怒るで…
外相幣原喜重郎にしても、妥協択一で初めから肚が決まっており、海軍の意見を重視する気はあまりなかったみたい。


(※土原註:英米相手の会議を)思い切ってまとめるより仕方ない。
海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とてもまとまりゃせん。 
(『外交五十年』 幣原喜重郎/中公文庫/1986)


話聞く気ねえw


この頃、幣原は浜口と相談した上海軍抜きで回訓を作り始めていました。


この項の書き方だと、軍令部ばっかりが悪者、みたいな書き方ですが、中々そうとばかりも言えなくてですね…
あっちもこっちも、どうしてもうちょっとうまくできないのだろう、と後世の人間から見ると思うことばかりなんである。


海相不在で、浜口雄幸が海軍大臣臨時事務管理になっていることは何度か触れました。
この臨時事務管理になっている間、浜口は一度も海軍省に足を運んではいません。
軍事参議官らとも会っていないし、もちろん東郷平八郎などとも会ってない。

これ、海軍から見た時、どうでしょうね。
当時艦政本部長であった小林躋造の述懐があります。(昭和8年)


首相は海軍大臣事務管理を兼ぬるに至つても、一辺も海軍省に来たではなし、
又一度も東郷元帥や軍事参議官等と膝を交へて国事を談じた事もない。
海軍との連絡は日参夜参する山梨次官に一任して、顧みざる観がないでもなかつた。<略>
之を海軍の有象無象より見れば「彼奴増長してやがる」「傲慢だ」の感なきにしもあらずであつた。

浜口氏の周囲に居た連中が野人揃ひで、かゝる礼儀をも馬鹿馬鹿しいと考へたからでもあらうが、
若し浜口氏が努めて海軍の巨頭に会はれ、虚心坦懐に我国の当面せる内治外交上の困難を説明されたなら、
海軍巨頭も大に諒解されたでもあらふ。
  
 (『海軍大将小林躋造覚書』伊藤隆・野村實編/山川出版社/1981)


東郷平八郎と会って欲しいということは、山梨次官も浜口首相に何度か懇願していました。
しかし浜口は断った。

・元帥の事は尊敬しているし、元帥が「総理の考えはどうか」と尋ねてくれば、喜んで説明する
・しかし私は天皇陛下、国民、議会に対し全責任を負う立場の総理である
・私の方から進んで元帥に説明することはできない

そう言われてしまうと、山梨としてはもう二の句が継げない訳で。


それに日本とロンドンでのやり取りの電信、確か60数通あったそうですが、海軍に渡されたのはその内17通ほど。(※)
海軍としては自分たちの組織に関わる話で、しかも国家安危に関わる!と臨んでいるのに、政府が情報を独占して経過を教えてくれない。

流石にこれはどうよと思う。
幣原にしたって「海軍の連中に話を聞いたって」という態度で、海軍としては面白かろうはずがない。
馬鹿にしてるのかと立腹されても仕方ない。
というか山梨さん気の毒。



コミュニケーション不足がロンドン海軍軍縮会議の際に揉めた大きな原因と前に書きましたが、まさにそんな感じでしょ?
海軍に譲歩を望むなら、浜口ももう少し譲歩すべきだったんじゃないのと思ってしまう訳です…


続く

***

※訂正 9/15 高木惣吉の『自伝的日本海軍始末記』より

2月17日~3月12日までの全権電77件の中で、16通は全く海軍に見せず、
17通は浜口から山梨に天下り式に手渡された

***

「≫続き」に拍手の御返事があります
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パラべラム~堀悌吉(10)

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堀悌吉が出ないまま2桁の大台に…
内容がブログ向きではなくなってきたよ~
もうこれがサイト10年記念ですって言っていいんじゃないかと思う^^;
レベル的にはそんな感じ。かなり苦労して書いてますorz



ロンドンでまだ日英米で妥協案を探っていた頃、首席全権の若槻礼次郎がこの辺りでもう腹をくくるべき、と決断した旨を【7】で書きました。
それで、その際軍人を交えずに首席全権のトップ会談で、政治家が政治判断として決めてしまったということも。

昭和5(1930)年3月14日、若槻、財部彪、松平恒雄、永井松三の全権の名前で、

もうこれ以上日本の立場を押すのは無理
対米69.75%で妥協已む無し

という請訓を日本政府に送り、指示を仰いでいる。
財部としては7割に拘りたいものの、全権という立場上足並みを揃えたようです。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140812.jpg


財部はこの際ミスをしています。
この辺りで妥協したいという請訓に署名する。
その理由はこうこうで、納得できない気持ちも分かるが、仕方ない。枉げて承知して欲しい。
そういう説明を海軍随員にしていない。
せめて顧問である安保清種、首席・次席随員である左近司政三、山本五十六には意を尽くして理解を求めるべきだった。
だから突き上げられるんだよ…orz
説明位しときゃ山本なんかはどう思っていたにせよ部下を抑えること位はしてくれたと思う。

これねー…
今まであれこれと財部の話を読んできたけれど、多分財部の性格だと思う。
腹を括ってあまり人に話さない。
美点と言えばそうなのだけれど、重要な時に欠点となって表れていることの方が多い気がする。

向井弥一がシーメンス事件の際の財部の態度を怒ったことは以前も触れましたが、それと同じで言葉を尽くして他者の理解を得ようとしない態度がコミュニケーションの悪さとなって現れる。
海軍部内での評判の悪さと言うのは、こういう所にも一斑があったと思われます。
この話はまた後日することもあると思うので、今は措きます。


海軍の随員の意見が反映されないまま請訓は政府へと送られました。
当然ながら若槻には色々文句が集まり、海軍としては別個に政府に対して反対意見を上申する、とか、そういうことまで言い出す始末。
若槻は「そういうことをするなら」、と政府に詳細な説明を送っていたようです。(『古風庵回顧録』若槻礼次郎)

実際海軍の意見って送られたのかな?
海軍省の方には
「交渉を続けている間に、7割を得られる機会もあるかもしれないからそれを待ちたい。目下苦慮中」
といった電報は出されているのだけど、この事かどうかは分からない。



ここから舞台が国内に移ります。

 今までの話 … ロンドン。日英米の交渉で妥協案成立、全権が政府にこれでいいかと連絡(請訓)
 今からの話 … 国内。請訓に対し政府が返事を作成(回訓)。妥協賛成反対で①政府と海軍、②海軍内部ですったもんだ


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149112.jpg //blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/sidehara.jpg


幣原喜重郎外相が請訓を受け取ったのが3月15日。
それから浜口雄幸首相に面会し、浜口は海軍次官山梨勝之進に海軍部内の意見調整を命令。
当時海相が不在ですので、浜口が海軍大臣事務管理をしており、山梨から見たら浜口は上司代理になります。


浜口首相の指示後、山梨次官は直ちに 臨時省部最高幹部会議を開きます。
意見は概ね反対。
理由は妥協案では国防上欠陥が出るというもの。

ひとり、航空本部長であった小林躋造が国民が望む所は軍縮、比率もこれ位ならやりようがあるといって、妥協可としたくらい。
小林はジュネーブ海軍軍縮条約で首席随員を勤めた人で、派遣されている全権や随員の苦労や、国民の要望を理解していた人だった。
そんな事もありつつ、回訓は今すぐでなくていいと外務省は言っているので少し考えよう、ということになった。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131226142448ebf.jpg


その間、強硬に妥協反対と主張したのが海軍軍令部。
意見を通すべく動き回っていたのが軍令部長加藤寛治と次長末次信正になります。

加藤は
財部海相には7割が無理なら引き上げて来い、東郷元帥も同意見だと電報を打ち、
浜口首相に会っては7割を切れば国防に責任が持てないと言い、
牧野伸顕内府、鈴木貫太郎侍従長に会っては妥協反対を唱え。

末次次長に至っては、請訓が海軍に示された直後、独断で新聞紙上に海軍当局の意見として
「米国案には不満だ」
と反対表明をする始末。
どう見てもやり過ぎです。
陸海軍大臣以外の軍人は政治関与を許されてはいません(※浜口の逆鱗に触れました)。

その上当時ただひとりの元帥であった東郷平八郎が妥協不可を強硬に唱えていたため、余計に事態がややこしくなる。
東郷だけでなく、当時予備後備役であった大将や中将らも妥協不可を言い募って会合を開くといった状況でした。


ただね、海軍が何を言ったとしても浜口雄幸の肚はロンドン海軍軍縮条約を成立させるという、その1点にある。

そもそも昭和天皇、元老・重臣ら、新聞の論調も世論も軍縮大歓迎でした。
当時は昭和2年から続く不況の真っただ中、緊縮財政の最中で、経済的な余裕がない。
そして、外交の視点から日本(の海軍)が原因で会議をダメにすることも絶対に避けたい。
国際社会からの孤立は避けたい。
これが浜口の気持ち。

じゃあ何で海軍の意見を聞くかと言うと、いい感じで海軍の意見を纏めて欲しいというのと、加藤ら強硬派のガス抜きだったと思う…^^;
これは山梨勝之進も重々分かっていたと思います。


海軍(省)としても、政府と海軍が対決する事態も避けたいんですよ。
当時衆議院総選挙が行われ浜口内閣の与党民政党が大勝したばかりです。
文字通り国民から選ばれた政府でした。
政府と対決しては世論を敵に回してしまうし、まかり間違うと倒閣騒ぎになる可能性がある。
上記の通り天皇をはじめとする国家上層は政府の後押しをしていることを見ても、それはどうかってなるよね。

対米7割は欲しい。けれど状況を鑑みれば「妥協丸飲みもやむなし」。
これが条約賛成派の大体の見解だった。


ただ妥協反対派にはそんなの関係ねえ!(古い
この人たちには外交や財政の失敗で国が破綻するとか、そんなことは関係ないのです。
は?
と思うでしょ?
開戦以前に国が滅亡する可能性がある事が分からない。
びっくりするけど本当なんだよ。
カネカネ言うな!金と国防の問題、どっちが大事なんだ!
っていう感じ。
どっちも大事だよ…
でもそれがなかなか通じない。
ただただ反対する。


そこで海軍部内や政府・海軍間の調整に走り回ったのが軍事参議官の岡田啓介になります。

山梨次官では首相や軍令部長、海軍の大御所(東郷や伏見宮)を相手にするには、官位が低かったり海兵の遥か後輩だったりと、立場上難しく、うまく動けない。


つづく 
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パラべラム~堀悌吉(9)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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山本五十六がロンドン海軍軍縮会議でなぜ猛然と妥協に反対したのかの理由はよく分からない。

恐らく純粋に軍事的視点から国防に問題が出るといった反対だったのだろうし、全権の交渉の仕方がまずいという思いも、政治家が海軍を蔑ろにしているという反感もあったと思う。

ただ、その後いわゆる条約派の提督となったのは確かで、それから日米開戦すべからず、に続いていく。
アメリカに駐在した時代と海軍次官やGF長官を勤めた時代、その間にロンドン海軍軍縮条約が挟まっているから一貫性を見いだせず、余計に理解に苦しむんだと思う。
A→Bなら分かるのだけど、A→B→Aに見えるんだよねえ…

山本五十六については三国同盟に反対した、日米開戦に反対だったという印象が強く、そのイメージに当て嵌めて予断で人物像を考えてしまう所があるのだろうなあ。


『天皇・伏見宮と日本海軍』(文芸春秋/1988)を見ると、著者野村實は、
山本がロンドンから日本に帰着した日に認めた故郷の知人宛ての書簡を見ても、この時まで条約に不満があったことは明らか、と記しています。
ただ帰ってきて目の当たりにした国内状況を見て、考えが変わったのではないかと。


山本が帰って着た頃(6月中旬)、日本では既に条約調印をめぐって統帥権問題が起こっています。

「政府は海軍軍令部(軍令機関)が承知していないのに条約に調印した、これは統帥権の干犯だ」

そう非難したのは野党政友会の犬養毅、そして鳩山一郎です。(4月末~5月初旬の帝国議会)
何でこんなことを言い出したかの理由はただ一点。
政権奪取の為の政府攻撃です。
全くの党利党略です。
政党が言い出すまで、海軍はこんなこと思いもよらなかったんですけどね。
軍部が伝家の宝刀「統帥権」の便利な使い方(拡大解釈)に気付く切欠を与えたのが”憲政の神様”犬養毅。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014911.jpg


犬養は尾崎行雄と並んで一般的に「憲政の神様」と言われ、5・15事件で海軍の青年将校に暗殺された首相として有名です。
犬養の死で以て戦前の政党政治は終わりを告げる。
これね、首絞めてるんですよ、自分で。
私にいわせりゃ党利党略に走った末の自業自得ですよ。
政党政治家が自ら政党の息の根を止めた。

犬養は個人としては清廉で高潔な政治家でした。
しかし晩年は森恪に引き摺られて晩節を汚した感があります。東郷平八郎と似た感じがある。

統帥権干犯問題が起こった時の犬養毅の言動はもっと知られるべきだと思います。
そして鳩山一郎は鳩山由紀夫の祖父です。本当にこの一族はなんなのか。


そして、この様子を見て加藤寛治ら軍令部の人間が統帥権干犯だと騒ぎ出した。(5月中旬)
この頃になると加藤軍令部長は兵力量の問題よりも統帥権問題に関して強硬になっていたようです。
これを纏めるのに財部彪海相、山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長、助力を仰がれた岡田啓介軍事参議官がどれだけ苦労したか。

当時の状況は、
「このままでは海軍省と軍令部が分裂する」
と山本英輔が心配のあまり省部の軋轢調整に乗り出すほどでした。

しかしながら、結果としてはこの騒ぎで海軍が真っ二つに分かれてしまった。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/71.jpg


山本五十六が帰国した時には既に加藤軍令部長と末次軍令部次長が更迭されていました。
そしてすぐに軍令部第1班長、第1課長も更迭され、軍令部は中枢ラインが一新された。
海軍省では山梨海軍次官が更迭となり、これは末次との喧嘩両成敗的な措置になります。
(財部も条約批准直後に海相辞任、堀は暫く据え置き)


帰国した山本がこの状況を見て、特に尊敬する先輩山梨勝之進、兄事する親友堀悌吉が置かれた苦境を見てどう思ったか。

野村實はロンドンから日本に帰着した日が、山本の考え方の転換点であったと述べています。
そりゃあ自分たちがロンドンで全権にやった同様の事を国許で軍令部がやってて、しかも海軍を割った訳だしな。
衝撃を受けたのではないかと思う。


余談(余談だったのよ)長過ぎ。


続く。


うーん…
いい機会だからと思いつつ書いてるけど、
ロンドン海軍軍縮会議の話とか興味ある人いるのかという気がせんでもない。 
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