Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(4)

前回までで川村純義、足立たか、乃木希典、東郷平八郎、鈴木貫太郎の名前を出しましたが、『陛下、お尋ね申し上げます』で少し語られていたのはこの人々位。

昭和天皇は日露戦争以前の明治34年のお生まれで、維新を生きた人々と生きた時代が若干被っており、教科書に名前が載るあの人やこの人ともお会いしているのですね。
なんちゅう羨ましさ…
あの人どんな人でしたかとか、そらー聞いてみたい気持ちに駆られるわ。笑

昭和天皇に質問した記者たちも同じように思う人がいたのか、折に触れて関わった人の事が聞かれている。
引用は上記書籍より。


★★昭和46年4月20日の記者会見

昭和天皇が幼少期に教育を受けた川村伯爵、乃木学習院長、東郷御学問所総裁、杉浦重剛のエピソードがあれば聞かせて頂きたいという問いに対して。


*****
**川村純義について


天皇:
川村純義大将のことだと思うが、赤ん坊の時で、なにぶん小さく、それに短い間だったのでよく覚えていません。


でしょうね。^^;
川村純義については、まあそうだろうなあと思います。
3つ4つだと記憶があってもかなり遠いよな…
昭和天皇と1歳違いで、川村に預けられていた時は2・3歳であった弟宮(秩父宮)にしても、川村家の事は何一つとして記憶にないと回顧されています。

川村家での話は、イヤイヤ期(笑)の話を書きました。
ただ厳しくしても迪宮が風邪なんかひこうものなら、川村は袴に着替えた上で、小さい手を握って夜通し看病をしていたそうです。
簡単な風邪でもすぐに袴が出されるので、侍医は否が応でも真剣の上に真剣にならざるを得なかったそうで。
厳しかったけれど、当然ながら、そらーもーそらーもーめちゃくちゃ大事にされていた。

先日まずは大山巌に里親の話が降りたという件を書きましたが、これってどういう選考がされていたのだろうと思うのですよ。
条件はあることはあったのですね。以下4点。

 ①武勲明らかなる老臣であること
 ②夫婦とも壮健である事
 ③子女を養育した経験があること
 ④家庭の和楽が豊かなこと

その上で、父君である大正天皇もさることながら、明治天皇の意向が強く働いていたというのがね…
選ばれたのが大山、次いで川村か、と思うのよ。
ふたりとも西郷隆盛の親戚である。


西郷隆盛 川村純義


若い頃に短期間であれ接した西郷隆盛に、明治天皇はとても大きな影響を受けています。
それ故に、明治天皇は明治10年の西南戦争の鎮圧は喜んだものの、西郷を逆賊とし、その上生命を奪った政府と軍の主脳からは心がやや離れてしまったのですね。
それが政務軍務のサボタージュとなって現れます。
これは大分前に「Relationship」という話で書きました。

見ているとその心の傷は時間が解決していった様なのですが、それも10年ほどという結構な時間が掛かっている。
迪宮が生まれたのはその更に10年後のことですが、うん。
西郷隆盛の関係者であったからなのかなあ…


*****
**乃木希典について


天皇:
学習院の乃木大将については、私が学習院から帰る時、途中で偶然、乃木大将に会って、その時乃木大将から
「殿下はどういう方法で通学していますか」
と聞かれたのです。

私は漫然と
「晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います」
と答えた。
すると大将は
「雨の日も外套を着て歩いて通うように」
といわれ、私はその時ぜいたくはいけない、質実剛健というか、質素にしなければならないと教えられ、質実剛健ということを学びました。<略>


乃木希典 東郷平八郎 


乃木に関しては昭和57年9月7日にも聞かれていて、その時は強い影響を受けた本は?という内容。
記者が、「例えば乃木が『中朝事実』を差上げたことは吾々も知っているのですが」と問えば、


天皇:
『中朝事実』のことは、これは事実でありますが、まだ初等科の時代ですから、よく読んではいませんけれども、そのあとで乃木院長は殉死したのですが、どうもその気持ちがあって、そういう本を私にくれたかと思ってます。


昭和天皇はそうは言うけれど、大正6年9月13日(乃木の命日)、東宮御学問所にご進講に上がった杉浦重剛が、
「乃木将軍が献じた本がある筈だが、」
と皇太子に話を向け、また本について質問するとそれにもきちんとした答えが返ってきたそうです。
杉浦は退出するとそのまま乃木の墓所に報告に向かったとのこと。

この『中朝事実』ですが、鈴木貫太郎が侍従長になった時に随分探したのだけれど、見つからなかったそうです。


*****
**東郷平八郎について


天皇:
東郷元帥については、東郷元帥や先生たちから帝王学というものの基礎を教えてもらったが、誰がどういうことをと批評することはできないが、平等にすべて今も尊敬しています。


ほうほう。
この時東郷については特に言及がなかったのですね。
所がですよ。


★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。


天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。


東郷元帥に対してはあまり深い印象をもっていない。

そうなんだ。
これは結構意外だった。

実は昭和57年9月7日の会見でも乃木と東郷の印象に聞かれていて、その時も
東郷元帥に対しては、あまりそういう印象はなかった
とお答えになっているのですね。

ただ東郷は以前「ParaBellum」で書いたように、最晩年の、晩節を汚したと言われてもしかたない行動をしているのでなあ…
敢てあまり突っ込まなかったという見方も、もしかしたら有りかなと思います。


つづくー
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岩倉具視邸@西宮神社

別に神社巡りしているつもりはないのだが。
梅酒祭りとかいう大変素敵なイベントが催されていたのでちょっとえべっさんまで行ってきたん。
参道を通っている時に気が付いたのだけれど、


岩倉具視@西宮


あっ、扉開いとーよ…
えべっさんにある六英堂。
私も数年前に存在を知った(結構屈辱的だった。笑)地元ではかなり大物の明治期史跡である!
お茶会等の時にだけ使用されているようで、一般公開はされていない。
扉が開いていたのでふらふら~と吸い込まれるように。


岩倉具視@西宮


入ってすぐの所に「明治天皇行幸所旧岩倉邸建物」の石碑。


岩倉具視@西宮


建物の玄関口。
今日は建物の中には入れませんでしたが、興味がある方はこちらからどうぞ!さあどうぞ!(笑)
実は7年ほど前に30年ぶりに一般公開されましてね、その時に見学に行きました。
その時のレポ。

そしてこの建物の説明はこちらの通り。


岩倉具視@西宮


明治天皇行幸所とありますが、岩倉具視の御見舞に明治天皇が来られた邸宅です。
写真の通り3度程移転していますが、その度部材ごと、建具なんかもそのまま移築されていて、往時のままのようです。(震災で傷んだ柱幾つかは取り換えられているようですが)

このお見舞いの時の様子が結構有名な絵画になっております。
ご覧になったことがある方も多いかと思いますが、この絵の御屋敷がこちらの建物。


岩倉具視@西宮


うーん、また一般公開してくれたらいいんだけどなあ…

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固め修めし大八洲(5)

戦艦八島の続き。


議会で戦艦の建造費全額削除されること2年あまり、第4議会の時点で明治26年。
日清戦争いつから始まるか知ってるか。
明治27年だ…

ただ戦争が始まる年月日なんて当時の人には分からんので、国際情勢の変化に鑑みて心配だけはものすごく募る。
一番心配したのは恐らく明治天皇だと思われ、流石に政府と議会の間に入りました。

曰く、

国防を揺るがせにすれば100年の悔いを残すことになる。
そこで私が内廷費から30万円を6ヶ年出すことにする。
文武官僚も特別の事情がある者を除いて俸給の1割を6ヶ年国庫に返納し、それを建艦費に宛てなさい。


政府と議会の政争終了。

……。
んー…
議会もね、本気で国防をゆるがせにする気はないとは言うんですよ。
八島と富士の建艦を急がないといけないという事だって、本当は分かっている。
前回民党は「民力休養、政費節減」をスローガンに政府に対したと書きました。
これは嘘ではない。
嘘ではないけれど、これだけが理由でもない。

明治憲法下で議会(政党)が持っている政府への対抗策は予算協賛権です。
だから政府(藩閥)に反対しようとすると、それを振りかざすことになる。
軍艦が必要でこんな事をしている場合ではないというのを分かっていてこういう事をする。
その上政党が権力を握ると、政党人は陸海軍大臣の席まで猟官運動の対象にするんですよ。


この時から数年後の明治33年、再度首相となった山縣有朋が軍部大臣現役武官制度を作ります。
陸海相の補任資格を現役士官に限るという制度で、 大正期から戦前期にかけての度重なる悪用で非常に悪名高い制度として知られている。
で、昭和であんなことになったのは制度を作った山縣のせいだとまでいう奴がいる。
勉強不足も甚だしい。

山縣の肩を持つ気はないけれど、山縣が生涯に渡って政党を嫌い抜き、国家を危うくするものだと信用しなかった理由は分かる。
軍人として政治家として、こんなことする政党を信用できるか?という話ですよ。
特に当時の海軍拡充計画で作られた三景艦だって、いざ使ってみたら結構大きな欠点がある訳です。
八島と富士はそれを補完して定遠鎮遠と真っ向勝負をするための艦だったのに。
藩閥に対抗するために予算を全額削除。


現役武官制度の本来の目的はね、一般にイメージされるような軍の政治介入、進出ではない。
軍事が政争に巻き込まれたり、党利党略に利用されるのを防ぐためだった。
逆なのよ…

そもそもなぜこの制度が作られたのか、その理由に触れないで結果から制度と制度を作った人間を批判するのはどうなのよと私は思う訳です。
確かに山縣は非難批判されるようなことを結構している。
してますよ。確かに。ええ、色々と。
しかし流石に昭和の責任を山縣に押し付けるのは違うだろう…
山縣になら何してもいいと思われている風はあると思う。


その話はさておき。
明治天皇の所謂建艦詔勅で八島と富士は急いでイギリスに発注されました。
が、やっぱり間に合わなかった…
起工が明治27年日清戦争の真っ最中、竣工が明治30年。


戦艦八島


日露戦争が始まった際、日本が持っていた戦艦は八島、富士、敷島、初瀬、朝日、三笠の6艦。
後者4艦は明治33~5年にかけての竣工。


前に八代六郎が八島の副長であった際の話を書きました。
曰く、

「八島は日本一の艦である」

当時明治33年です。
同年竣工の艦もまだ日本には回航されてないので、当時八島と富士は紛れもなく「日本一の艦」だったことになります。


つづく。

いやー終わらんー
語りたいことが沢山ある…見てくれている人は興味あるのかこんな話…^^; 
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パラべラム~堀悌吉(余滴)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


『明治天皇と日露大戦争』という映画があります。
今年の初夏頃にデアゴスティーニから出てましたなー
解説だけ立読みするつもりでいたのに完全に忘れてて、気付いた時には書店からはもう姿が消えていた。笑

昭和32(1957)年封切の約半世紀前の大ヒット作ですが、いまだに評判がいい。
多分一番評価が高いのはエキストラによる行軍で、まだ昭和32年ですからね~
映画の為に練習した、ではなくて、軍隊経験者が兵隊さんのエキストラで出てる^^;
本物が出てる。
これだけでもちょっとみてみようかな、という気にはなる。
(※見たことない人はツタヤに置いてある)


主人公は明治天皇ですが、戦死者名簿に目を通しておられたりと割と細かい所にまで描写が及んでいます。
これは作られた美談等ではなく実際の話で、一兵卒に及ぶまで全員の名前を見ておられました。
読みが分からなければ調べるように、変わった苗字は由来を調べるように指示されたり、階級が上の方になると写真も併せてご覧になっていたと日野西侍従の回想にある。

あまり知られていませんが、陸海軍の忠勇を長く伝える目的で、戦争ごとに御府も建てられています。
日清戦争は振天府、日露戦争は建安府という、まあ倉庫ですが、戦争の記念品、戦利品を収めていた。
こちらにその戦死者名簿も収められていました。

映画の封切は戦後まだ12年しか経っていない頃で、作る側も見る側も戦前の教育を受けた人が殆ど。
こういうの、当たり前の知識だったのだろうなと思います。

この映画を見ながら同じく当時は知ってて当然だったのだろうなと思うのが軍歌で、戦闘場面の折々にゆかりのある軍歌が流れてます。
中々絶妙に、しかも自然に流れてきて、知っていれば分かるけれど、知らなかったら分からない(笑)
色々知識が試される(笑)(何の)


実はですね、製作顧問として堀悌吉がこの映画に関わっています。
映画監督から考証を頼まれている。
このエントリを書くために一応確認と思ってレンタルしたのですが、名前は出てなかった。
『不遇の提督堀悌吉』(宮野澄/光人社/1990)を見ると、同期の広瀬彦太と一緒に現場であれこれ聞かれたりしていたみたい。

このことについてやや詳細が書かれている書籍、私の手元にあるのは『不遇の提督堀悌吉』だけなんです。
小説で申し訳ない。
日本海海戦の東郷ターン撮影の際のカメラの回し方は堀のアイデアだったという話は『堀悌吉』(大分県先哲叢書)にも出ていたのですが。

出典は恐らく広瀬彦太編集の『堀悌吉君追悼録』(堀悌吉君追悼録編集会/1959)。
確認したかったのですが所蔵が大学図書館だけで貸出し無理やった…
(そして同時に頼んだ『加藤友三郎元帥』に至っては「広島に行ってください」って言われた。酷い。笑)
今の段階ではこれ以上確かめようがない。誰か詳細を知らないか。

小説の方では三笠艦橋(勿論セット)での撮影の様子を見て、広瀬彦太が
「玉木がいない」
と叫ぶシーンがあるんです。
あーと思うよね…

今まで何度か書いてきましたが、堀や広瀬彦太ら海兵32期は日露戦争の真っ最中に卒業、余り間をおかず各艦に配乗されています。
三笠に配乗された候補生は11名で、クラスヘッドであった堀悌吉もここ。
広瀬彦太はどの艦だったのか私は知らないけれど、同じく同期であった玉木信介も三笠。


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07260322.jpg


使い回し写真でごめんね。
右後ろに写っている白い服の候補生が玉木信介。
日本海海戦で勝利をおさめ、帰港した佐世保で三笠は爆沈しますが、その時に亡くなった堀たちの同期。
本当に色んな思いがあったのだと思う。


この映画、当時本当にヒットしたそうです。
会う人会う人が「良かった」と言って薦めてくるけれど、山梨勝之進はあんまり乗り気がしなかったそうです。
ただそんなに良いのならと映画館に足を運んで、実際に見たら涙が止まらなかったと本人が回想してる。
良かったらしい。

山梨さんは明治33(1900)年、三笠回航委員として渡英しています。
就航する前から関わったフネで、青年時代の肝脳を捧げたと自分で言っている程思い入れがある。

出ている人もね、みんな知ってるんですよ。
知っている人ばっかり。
明治天皇にも会ったことがある、山本権兵衛の副官を務めていた時期もあるので伊藤博文や小村寿太郎の所にも何回もお使いに行った。
日露戦争前には朝日艦で広瀬武夫と用談をしていることも、本人の口から伝わっています。
秋山真之に至っては第1次世界大戦の視察旅行のお供で8か月間一緒にいた。

堀にとっても山梨にとっても、本当に感慨ひとしおの映画であったのだと思います。



***



http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141215.jpg


これ何年か前に前ブログで一度出したことある写真。
とある本の中表紙に書かれていたのに気づいて超ビビる
思う存分撫で擦るというセクハラをはたらいてから返却した。笑

河野三通士は同郷杵築の友人のようです。
『英文毎日』の主筆を勤めたことのある人物で、ジャーナリストか。
堀が予備役編入後の昭和10年4月に来阪した際、河野と大阪湾を巡航したのだそうで。
そこに偶々居合わせたのが水野義人という大学生。

えっ。

えー…あの水野?
はい。あの水野です。
分からん人は阿川弘之の『山本五十六』を読みましょう(丸投げ)(笑)
事故死の多いパイロットの適性判断の為に、航空本部長時代の山本五十六が雇った観相見(手相・観相)です。
これがまた滅茶苦茶当たる。(当たるから航空本部の嘱託になったんだけど…)

堀はこの時に水野に観てもらい、現在の状況を当てられた上で、これからはそんなに悪くないということを告げられている。
こんなところで名前を見る人とは思っていなかったので少し驚いた。


***


大正6年海軍小演習の集合写真で、加藤亮一(主計)と思われる人がいました。
紹介で日本飛行機初代社長と書いたのですが、加藤の次に社長になったのが堀悌吉だった。
あ、同じ会社だったのか(笑)
堀の方は日飛、日飛、と覚えていたので、繋がっていなかった。笑
大分県先哲叢書『堀悌吉』によると、加藤の退任のタイミングを見ると、堀を入れるために辞めたんじゃないかという話。


***


ワシントンとロンドンの海軍軍縮で多くの海軍士官が予備役入りを余儀なくされました。
人員整理の必要性の有無に関係なく、リストラされた方には恨みが残る。
ワシントンの時は責任者である海相加藤友三郎ではなく、井出謙治にその矛先が向いたということはパラべラム(15)でも書きました。
堀も同じで、とある造船官から恨み節を聞かされたりしたそうで。


山梨勝之進の同期に宮治民三郎という人物がいます。
作家江藤淳の母方の祖父ですが(父方の祖父は江頭安太郎)、この方もワシントン会議後に予備役に編入された。
江藤には『一族再会』という家族の系譜を描いた本がありますが、その中でも一種強烈な印象が残っています。

宮治は海軍大演習で素晴らしい出来栄えを叩きだし、軍令部長に呼び出されて直々に褒められるような優秀な水雷屋であったそうです。
潜水学校の校長を最後として予備役入りしたのだけれど、これからという一番充実した時にまさかの宣告。
辞める積りも辞めたくもなかったのに辞めさせられた、そういう話を戦後に訪ねてきた孫江藤に語っている。
戦後ですよ。
余程の無念だった。
同じ思いを抱いて海軍を去らざるを得なかった人は、多くいたと思います。

加藤友三郎でさえ、同期の吉松茂太郎に

「友の野郎、あいつばかり偉くなりやがって、昔からの仲間である俺を邪魔にしやがる」

みたいな事を言われてしまう。
吉松は温厚で有名な人だったそうで、その人にしてこの言い草。(※吉松は軍縮以前に予備役入)

辞めさせられた人たちの思いは、まあなんというか。
海軍に残った人間への恨み節では収まらないだろうし、推して知るべし、でしょう。
ロンドン海軍軍縮会議の際、多くの予備役後備役の将官が決起会や会合を開いていたというのは、そういう感情の話もあったのだと思う。


予備役入りとなった時は潜水学校の校長だった宮治。
大東亜戦争が始まった時に、後輩たちの様子を見に行ったらこう言われた。

「大丈夫、教えられたとおりの事をしています」

えっ
宮治が辞めてから何年経ってんの…(※17・8年)

「馬鹿野郎!この戦は負けだ!」

そう怒鳴り散らして帰ってきた。そら負けてもしゃーないわ…
ただ日本も伊400とか伊401とか終戦間際にすっごいの作ってたんだけどね(本当にすごい)、本当に終戦間際過ぎて全然間に合わなかった。
こんなの作る事をもっと早くに許容できる組織だったら、歴史の推移も色々と変わっていたと思う。
(※12/21にナショジオで放送されます。『日本軍の極秘潜水艦』)

何時の時代も技術はすごいんだよ、日本。
何がダメってマネージメントが全然あかん。今も昔も。
経営が技術をダメにする。
伊藤博文や山本権兵衛がいなかったのが当時の日本の悲劇でしょう…


***


判明の変遷


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


財部と若槻はひと目で分かる。
前列3人は名前が入っていたので、谷口もその時に自動的に判明。
長らくこの3人しか分からなかった。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉


この連載を始めてから改めて見て、堀悌吉が写っていることに気付く。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉、左近司政三、古賀峯一


サイトの「追憶(2)」に載せる左近司政三の写真を拡大加工した後にこの写真を見て同人であることに気付く。笑
中将の礼服を着ているので調べれば分かるだろうとは思ってたけど、そこまでする気はなかったのでラッキー。

そして大正6年海軍小演習の写真に古賀峯一が写っているのが判明した後、この写真を見てあれ?同じ人?
あとは左のふたりですが、調べる気はない(笑)
海軍の軍縮関係者だろう。


***


堀悌吉は阿川弘之の『山本五十六』の印象がとても強いです。
堀という人物を知ったのがこの小説だったからというのがあるのだろうなあ。

「山本五十六の親友」という話で終わってしまうことが多い気がしますが、見ていると「こんな人もいたのだな」と思います。
この連載の初めの方でも触れましたが、「戦争善悪論」とかね、見た時は流石にびっくりした。

こうした内容を文書として報告してしまう(学校の課題で)辺り、軍人としては相当特異であったと思います。
大正から昭和期の軍人としては誤解を受けやすい面もあったのでは?
大分県先哲叢書『堀悌吉』には、思想的に海軍での居場所を探すのが難しかったのでは?という旨の言葉がありましたが、本当にそうだったのだと思う。

「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」と言われたり、海軍の至宝と言われたり、先の見える本当に聡明な人であったそうです。
先が見えすぎて、多分話が飛躍するのだと思う、話していて禅問答のようになってしまうこともあり、常人には誤解されやすい、理解され辛い点もあったみたい。

秦郁彦の本だったと記憶していますが(軍人の列伝だったと思う)、大失敗を迎える前には良心が駆逐されていく過程が必ずあるという旨の言葉があって、堀悌吉や山梨勝之進を見ているとその言葉をいつも思い出します。
大東亜戦争が負け戦だったからそう思うというのもあると思うけど。


パラべラムはこれにておしまいです。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
というか長かった。お疲れ様でした^^

あー…
終わって良かった…(笑)
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真田山陸軍墓地(5)@大阪

*****

この史跡は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

*****


真田山陸軍墓地 in 大阪市天王寺区。
第5回。こんなに引っ張るとは思わなかった。

被葬者の名前を見て大変驚いたお墓。


真田山陸軍墓地


陸軍軍医監従四位勲三等堀内利国墓

いや、本当にびっくりしました…初めて訪れた時は暫し佇んだ。
ただ思うに、堀内利国って言って分かります? 分かる人、多分殆どいないと思う…^^;


堀内利国。
明治期の脚気論争で名前が出てくる方です。
この陸海軍の脚気論争に関しては随分前にサイトにまとめたものがありますので、詳細はそちらをご覧くださいませ~
麦喰!④陸軍平時編>9)

大雑把に書きますと、近代日本の2大国民病であったのが肺結核と脚気になります。
脚気は一種の栄養失調でして、日本の場合、主食である白米が主な原因になっていました。
食べるのが白米でもバランス良く副食が摂れていたら問題なかったんですけどね、過度に白米に偏り過ぎてたんですね。

患者は都会在住若年層男子に多く、特に多かったのが軍隊です。
軍隊はね、徴兵する側からすると基本的に米食わしときゃいいっていう食事の内容軽視の考えがあるのと、徴兵される側からすると軍隊に行けば白米が食べられるという白米信仰があってだな。
これを切り替えるのが中々難しかった。


とはいえ信じられない数の脚気患者が出てまして、そんなことも言っておられず。
海軍では明治10年代中頃、平時の入院患者の4分の3が脚気だったり、軍艦の半分以上とか、3分の1とかが脚気に倒れる。
軍艦乗組みの水兵などが全員脚気に倒れて、艦長までもが罐炊きをしたっていう記録もある。

海軍では高木兼寛(宮崎出身)があれこれ研究・実地実験した末に麦飯(白米と麦の混合食)に辿り着き、明治10年代後半にはほぼ脚気が撲滅されました。
対する陸軍では名前がよく挙げられるのが森鴎外でして、まあ実際には責任の多くを森の上司であった石黒忠悳(ただのり)が負う訳ですが、日清日露戦争で信じられないほどの死者と患者を出すことになった。
ちなみに陸軍的には脚気は伝染病でした(なので食物の改善では防止できないという意見)。


ただ陸軍でも脚気を撲滅すべく奔走した軍医がおりまして、それが堀内利国になります。
本当にね、この方のお陰で一時は陸軍も脚気撲滅状態になったのよ…

堀内は軍医生活を殆ど大阪で過ごしていまして、言ってみれば大阪地生えです。
大阪の人じゃなくて、旧田辺藩士(舞鶴)。
ということは伊東雋吉と同じですな。見れば生年が4つしか違わない…
明治10年代、大阪鎮台の脚気患者数が他と比べてダントツに多かったそうで、その対策に乗り出したのが堀内でした。
当時大阪鎮台(後第4師団)の軍医のトップだった。


調査をしている内にね、堀内はあることに気が付きまして。
それは監獄からは脚気患者が出ないという事実。
明治10年代前半の囚人に与えていたのは白米だったそうです。
しかし白米を食べられない一般庶民もいるというのにどういうこと、と当然ながらなりまして、ある時期に麦飯(白米と麦の混合食)に切り替わりました。
そうしたら脚気患者いなくなった。

これに気が付いて、調査した上でじゃあ同じことをしてみようと大阪鎮台で実験した所、実際に減ったんですね。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


減ったっちゅうか、なくなったっちゅうか。
そうしたらこの結果を見た他の鎮台や部隊が大阪鎮台に倣いまして、明治22年には陸軍の部隊の麦飯普及率100%になった。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140519_2.jpg
(『明治期における脚気の歴史』/山下政三/東大出版会/1988より)


その結果がこれ。
問題にならない位の患者数になっていた。


明治20(1887)年、明治天皇が来阪された際、大阪鎮台司令官の高島鞆之助が脚気予防のために麦飯を給与、それが効果を上げている事を上奏しました。
実は明治天皇も脚気に苦しんだ経験をお持ちで、また脚気の蔓延に心を痛めておられていました。
そうしたことがあり高島の報告には非常に満足しより詳細を知りたいということで、堀内が更に報告をした。

そういう経緯もあり、高島が麦飯を兵食に採用すべしと堀内を伴って将官会議で建議したものの、肝心の中央(陸軍医務局)には梨の礫でした。
要するに握り潰された。

うん。
地方の部隊が各々の判断で各自麦飯を給与しているだけで、その元締めは麦飯が予防になるということは認めてないんですよ。
だって伝染病なんだもん…
しかしながら、それが後々の大惨事に繋がった。
ここでゴーサインが出ていたら、日露戦争で12個師団分の脚気患者が出るような事態にはならなかっただろう。
陸軍にとっては大きなターニングポイントだったと思うんだけどな…

現地部隊の軍医さんたちは麦飯で脚気患者が減ることを実地で見てきていますから、多くの犠牲者が出ても麦飯を採用しない医務局(石黒忠悳や森鴎外)の頑迷固陋が理解できない。
意見しても聞き容れられず、反駁しても梨の礫。
左遷された人もいますし、辞表を叩きつけた人もいます。


辞表を叩きつけたのは緒方惟準で、以前このブログでも名前が出てきました。
緒方洪庵の嫡子で、襲撃された大村益次郎の治療にあたった人でもある。
つい最近知ったのですが、堀内の奥さんが緒方洪庵の娘で(後離婚)、緒方惟準と堀内は義兄弟やった。
堀内はボードウィンと緒方惟準に師事していたとのことで、大村の治療にも参加していました。


堀内が亡くなったのは明治28年。52歳、肺結核でした。
『緒方惟準伝』によると、当時医学雑誌に載った訃報には

明治十七年以来囂々たる衆議を排し断然麦飯食を主唱して、軍隊兵士の脚気予防上いみじき効を収められたるは、皆人の知るところなり。

とあります。
緒方惟準にしても、この脚気論争で麦飯採用論が排斥されたことに憤って陸軍を辞めた、ということは一般によく知られていたみたい。

石黒忠悳は緒方の同僚です。
石黒は表だって麦飯採用に反対はしなかったけれど、裏でいろいろ手を回していたようでそれに怒りのスイッチが入ったらしい。
ちなみに緒方の息子の名付け親は石黒だった。

更に書くと石黒の娘婿に小野塚喜平次がいます。
東大を明治28年に卒業した二八会のメンバーで、同期に浜口雄幸、幣原喜重郎、勝田主計、市来乙彦、矢作栄蔵らがいます。
特に浜口とは主席争いをした親友だった。
矢作栄蔵が講道館に通っていまして、広瀬武夫と仲が良く、この方を通して広瀬は小野塚と親友になった。

勝田主計は松山出身、秋山真之と仲良しでした。
この方の息子のひとりが龍夫で、原田熊雄(西園寺公望の秘書)の娘婿になっております。
著書に『重臣たちの昭和史』がある。


真田山陸軍墓地
(将官墓碑)


真田山陸軍墓地


さらっと通り過ぎてしまえばそれまでですが、墓標ひとつひとつを見ても色々な歴史が刻まれているものだと思います。
大事にしないとね…

とりあえず陸軍墓地の話はこれでおしまい。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました^^
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