Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

東北旅程、振り返り2

平泉から水沢までは電車で15分。
在来線は大体北上川沿いに通っています。


衣川


こちらは電車からのワンショット。
前方に衣川、左側の山には中尊寺があります。


中尊寺、衣川


三角の辺りからの撮影ですね。


衣川


衣川。ここは本当に風景が変わってしまった。
2008年に行った時にはバイパス工事の途中でした。
地の方に話を伺うと、この川が決壊すると大動脈である国道が使えなくなるのでという話でした。
確かに死活問題だよね。
平泉のバイパス工事と言えば、柳御所が発掘・保存された切欠になった工事ですが、なんというか色々と思う所があります…


中尊寺、衣川


19年前に行った時はこんな感じでした(初平泉さえ雨やったわw)
1個上の写真の奥に見えている橋(新衣川橋)、あそこから撮影した風景。
当時は赤い欄干の小さな橋(衣川橋)で、こんな小さな川から12年に及ぶ大戦争が起こったのかと感慨一入だったんですね。


水沢駅


そして15分後、水沢。
水沢は南部鉄器の産地で、駅がエラい素敵なんである。
下り線だけですが南部鉄器の風鈴が釣り下げられていて、本当にいい音色。
この駅大好き。

時間はやっぱりあまりないので余韻に浸る暇なく斎藤実記念館へ。
水沢には偉人が多く、高野長英、斎藤実、後藤新平の出身地。
留守家の城下町で、現在でも残っている武家屋敷がいくつか無料公開されています。
後藤新平旧宅もそのひとつ。

斎藤実記念館は駅から一番遠いどん突きにあるんだよね…
歩いて20分位だと思う(駅前に大体タクシーが止まってます)。


斎藤実記念館


斎藤実記念館(上写真)に行きつくまでに武家屋敷、高野長英生誕地、後藤新平旧宅があります。
本当に近所。
ちなみに高野と後藤は親戚です。
以前来た時(2008年)はここで被災した。
震度6強で交通がストップ。
奥州市衣川地区が最大震度だった。
いや、だから電車で15分…(嵐を呼ぶ女)

斎藤実記念館見学後はぶらぶらとほぼ閉まり掛けていた武家屋敷を見学して駅に戻る。
どこもかも16:30で閉館且つ駅前には何もないので(コンビニもない)、長居してもしかたない^^;
銅像とか結構あるんだけどね(後藤の短パン銅像とか)、見に行く程の時間はないのでさっさと電車に乗り込んで北上へ。


北上へは水沢から15・6分。近い近い。
移動時間は短いのだけれど、電車の本数が少ないのでその調整がちょっと大変。


東北地図


東北本線(縦)は大体1時間に1本電車があるのだけれど、北上線(横)は2時間、若しくは3時間に1本。
乗り過ごしたら死ぬ(真顔)

横手まで行くには北上で乗り換え、40分程電車待ちの時間が出来るので一時下車してうろついていたら、駅前で観光物産コーナーを見つけた。
やったー。

実はこの時点でもう6時を回っている。
駅構内に売店位あるだろうと思うでしょう?
駅前にコンビニ位あるだろうと思うでしょう?
ないんだよ!(笑)新幹線止まる駅なのにないんだよ!
ファーストフード店?
今回の旅行でンなもん見たの山形駅だけだったわ!

で、観光物産コーナーで見つけたこれな。


五郎がびっくり焼


五郎がびっくり焼。4個入りで500円位やった。


五郎がびっくり焼


何これめっちゃおいしい…!
これを家用のお土産にすればよかったと今更(本当にな

電車で2個食べました。
はい、この日の晩御飯終わりっ!

そして横手に着いたのは夜8時頃。

続く!
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鈴木貫太郎の昭和

(※題は大袈裟)

明日のNHKの歴史番組が鈴木貫太郎だそうで。
九死に一生スペシャルの第6弾をするのか(第7弾まである)。
明後日は2・26事件の日ですものね。

証言テープが見つかったということですが、テープが見つかったのは2年前です。結構前やぞ。笑
当時ブログでNHKニュースを掲載したので覚えている方もおられると思います(現在非公開)。
そういえばこの話はNHKでしか見なかったのだけど、NHKのスクープだったのか。

NHKによるとこの証言テープは昭和40年代に鈴木の妻が千葉県野田の青年団から頼まれて話したもの。
内容は2・26事件の事だけなのか、ニュースで流れていたのはそこだけだったので全容は分からない。

押しかけた青年将校らに鈴木が、
「何事が起こってこんな騒ぎをしているのか。話したらいいじゃないか」
と対話を呼びかけていたことや、銃撃された鈴木を前に妻のたかが青年将校に、
「とどめだけはどうか待ってください」
と訴えたところ、
「止めは残酷だからやめ」
と部下に命じたことなどが語られているとのこと。
明日テレビで流れるのはこの辺りじゃないかな。


上の青年将校、鈴木を襲撃した指揮官は安藤輝三大尉になります。
妻の訴えに安藤は止めをささなかった。
安藤は鈴木と面識があったそうで、忍びないという気持ちもあったことはあったと思う。
ただ主な理由は、息の根を止めなくてもこの状態なら死ぬと思ったからでしょう。

鈴木が銃撃された部分は左胸(心臓の辺り)、頭、肩、睾丸になります。
左胸と頭をいってるあたり、まあ、普通そう思うわな。
安藤率いる兵隊が去った直後に駆けつけた長男は、直径1mほどの血の海に頭をつけて俯せに倒れている父を見ています。


鈴木貫太郎


鈴木本人はというと、この状態でも意識があった。
大至急駆けつけてきた医者が自分の血溜りで滑って転ぶのまで見ています。
ただ医者が処置している間に意識が飛んで、ついでに脈も止まった。
…のですが、輸血がギリギリ間に合って命拾いしています。(輸血あったんや
4発命中している内、頭部は弾丸がこめかみから耳の後ろに抜け、左胸は弾丸が背中に残るという状態。
鈴木は69歳。
本当によく助かったと思う。


2・26事件で狙われた人物は鈴木の他、岡田啓介(首相)、斎藤実(内大臣)、高橋是清(蔵相)、渡辺錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)ら。あと元老西園寺公望も。
斎藤、高橋、渡辺が犠牲になり、岡田、鈴木、牧野、西園寺は命拾いした。

鈴木がターゲットになったのは侍従長という立場を利用している”君側の奸”と青年将校らから見做されたため。
鈴木の侍従長就任は昭和4(1929)年ですので、事件が起こった当時昭和11(1936)年で在勤7年目になります。

珍田捨巳の死去に伴う後任人事だったのですが、就任直前の鈴木の役職は海軍軍令部長。
侍従長になる為に予備役編入というかなり異例の異動になります。

昭和2(1927)年の海軍大演習の際、昭和天皇やその側近らが海軍首脳と接する機会があった。
大演習の責任者は鈴木軍令部長ですから、お上に近侍して様々説明をする機会があるのですがその時に目をつけられたようです。

側近らはこの大演習の際、海軍に密に接して、陸軍と比べて見聞が広いとか、有為で信頼に足る人が多いとか、そういうことを感じたらしい。
鈴木に対してだけではなかったようですが「中でも鈴木だ」と、珍田侍従長や牧野伸顕内大臣が鈴木を随分気に入った。

牧野は大久保利通の次男になります。
当然海軍薩摩派との繋がりがあり、山本権兵衛とも仲が良い。
そうした背景から海軍の雰囲気は大体分かっていたと思うので、鈴木本人を知って余計にそうした感があったのではないかと。
珍田亡き後、後任に鈴木を強力に推したのは牧野です。

ただ鈴木からすると、侍従長云々はいきなり降ってわいた話だった。笑
「無骨一辺倒だから無理だと思う」と断る鈴木を、一木喜徳郎宮内大臣が何時間もかけて説得。
一旦保留はしたものの、結局受けることになった。
いきなり全然違う畑に飛び込むことになった鈴木ですが、
「大船に乗っているような気持でいられた」
と当時の侍従から言われたりして、どっしり構えた安定の安心感がある侍従長だったようです。
わかるわー
鈴木の妻たか(後妻)が幼少時の養育係であったりと、昭和天皇にとっても気安い所があったと思うし。


鈴木貫太郎


また昭和20年、戦争終結時の首相でもあります。79歳。
耳も遠くなっていて、普通に考えたら首相就任なんて無理でしょう。
鈴木は大命を拝辞しますが、
「頼むからどうか枉げて承知して貰いたい」
と昭和天皇に頼まれています。

天皇が「頼む」というのは本当に異例中の異例です。鈴木だけじゃないか?
首相任命は、大命降下、であって、命令なんです。
『タイムスリップ竜馬と五十六』で東条英機が首相に立候補してましたが、立候補してましたが、立 候 補 してましたが、そういう性格のものではないのである。学級会かよ(※電車で読んでて大きく噴き出した)


鈴木内閣は終戦の為の内閣でしたが、首相就任に際しては流石にそんなことは言えません。
鈴木ののらりくらりは、和平推進派である米内光政海相や東郷茂徳外相でもその腹が読み切れず、
「え、これ本当に大丈夫?」
と思うこともしばしば…^^;
最終的には誰もが避けてきた聖断を鈴木が天皇に求めたことで戦争終結が決まった訳ですが、こういうことは鈴木だからこそできたのだろうと思います。
昭和天皇とのそれまでの繋がりやそこからくる信頼、年の功も大きかっただろうけど、こうと決めたら筋を通してしまう腹の据わり方が、鈴木はちょっと常人とは違う気がします。

鈴木についてはサイトに「筋金入り」という文章を載せています。
宜しかったらそちらもどうぞ。


個人的には敗戦時の話など他にも話題がある鈴木より、出来たら亡くなった斎藤実の話をして欲しいと切実に思う。
斎藤だってすごい軍人政治家なんだけど…
特に朝鮮総督時の話なんかしたらいいと思うよ。無理そうだけど。
朝鮮人からも「斎藤さんには会いたくない。会ってしまうと断るつもりの話でもハイって言ってしまうから」
と言われるほどの徳望の持ち主。


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若い頃はシュッとしていて、米国駐在時に体格を良くしたいと毎日ビールを配達してもらい(※間違った太り方)、大家に外聞が悪いから止めてくれと言われたり、人力車を降りる時に顔面から落ちて吃驚した友人を安心させる為に鼻血垂らしながら笑ったり。先に拭けよ実。余計怖いわ。
斎藤実記念館でみた薄紫のシルキーなパジャマが忘れられません(胸元に濃紫のリボン付き)。
服は全部奥さん任せだったそうですん。あれは春子さんの趣味なのか。
好物はほやです。味噌汁も好きで卵3個4個入れて食べたい。コレステロールの摂り過ぎですね。そうですね。
そうめんや甘いものも大好き。
郵送する場合は東京市四谷仲3-44までお願いします。
予め連絡する場合は電話番号600番ですのでお掛け間違いのないように。
(悉くどうでもよすぎる情報)


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パラべラム~堀悌吉(16)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


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大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


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こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)

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パラべラム~堀悌吉(7)

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続き。

進め方を考えていたのですが、そのまま行くことにした(おい)
政策決定に関与できる立場にない堀悌吉は殆ど出てきませんが、いい機会だと思うのでロンドン海軍軍縮会議の話でも。
大変だから今迄避けてきたのに(笑)



大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議で主力艦の制限がかけられたものの、補助艦艇(巡洋艦、潜水艦等)の制限はかかりませんでした。
それを知った軍令部第1班長斎藤七五郎が、
「それではいずれ補助艦艇の競争が始まるではないか」
とがっかりしたという話が残っている。(軍令部第1班長と言う作戦計画の中心人物が思う所がミソである)
その予感は遠からぬ後年、現実のものになります。


昭和2(1927)年のジュネーブ海軍軍縮会議がその歯止めを掛けようとした会議で、この時の首席全権は斎藤実。(内閣は田中義一内閣)
堀悌吉はこの会議でまたもや随員となっています。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014830.jpg


参加国は日米英の3ヶ国ですが、米英の主張が平行線のままで会議が決裂。(日本が仲裁…
何の成果もないまま、問題が昭和4(1929)年のロンドン海軍軍縮会議にまで持ち越されています。
ロンドン海軍軍縮会議は1次と2次がありまして、昭和4年の会議は1次。
2次は昭和10年、その前に予備交渉があり、その時の日本代表が山本五十六でした。

ジュネーブ会議の決裂後、英米がその問題を摺合せまして、それが大体妥協点に達してから日本が呼ばれている。
要するに英米で打ち合わせしてから日本を入れた訳で、日本としては不利な立場で交渉を始めなければならないという状態でした。


第1次の軍縮会議に参加すべく赴いたのは以下。
全権と海軍関係者のみピックアップ。

全権:若槻礼次郎(首席)、財部彪海相、松平恒雄駐英大使、永井松三駐白大使
顧問:安保清種海軍大将
随員:左近司政三中将、山本五十六大佐(少将)、豊田貞次郎大佐、中村亀三郎大佐、岩村清一大佐、山口多聞中佐

山本五十六が次席随員として参加しています。

本国の陣容は海相不在の間、海軍の事務管理となった首相浜口雄幸、海軍次官山梨勝之進、軍務局長に堀悌吉。
本国では山梨次官と堀軍務局長が非常な労を執ることになります。


海軍としては会議以前から主張すべき立場は決まっていまして、それが「対米7割の維持」。
何となく初めから割合に拘る派と拘らない派に分かれて争っていそうな気がしますが、さにあらず。
ワシントン海軍条約会議時の条約賛成派とか反対派とか関係なく皆「対米7割」。
海軍の総意として、軍事的な視点からこれは譲れないという意見でした。

一方浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相、そして首席全権若槻礼次郎らの政治家は、
 ①経済的問題(国民負担の軽減)から軍縮は必要
 ②協調外交の立場からも軍縮に賛成する必要がある
この意見で、政治的な視点からとにかく軍縮条約には調印する というスタンス。

既にこの時点で意見が割れている。


財部は全権になった際、若槻主席全権に対し、
「軍人である自分が7割を貫徹するのは難しく、政治家である貴方に協力してもらいたい」
という旨を依頼するのですが、上記の通り若槻は妥協できる所で決着しようと考えているため、うまーくそれを避けて「うん」とは言わない。
この最終決着地に対する意見の相違がそのままロンドンに持ち越されています。

ロンドン海軍軍縮会議は、政府側と海軍側のこの手の擦れ違いが非常に多かった。
条約調印の後、あれだけ揉めた大きな原因は、このコミュニケーションの悪さにあったと思われます。


続く。


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(16)紅葉館

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03270609.jpg


門に雑輩入るべからずという表示を掲げた高級料亭(社交場)、芝・紅葉館。
10円(明治30年で15万円程)というかなり高い会員費で、貴顕紳士の社交場、本当に庶民お呼びでない感じ^^;
会員数は300人に限られ、会員になりたくてもなれないという感じだったみたい。

ただ会員証を人に貸すのはアウトだけれど、友人家族を本人が同伴するのは問題なしという点で、仲間内の誰かが持っていれば遊びに来ることはできる。
なので割と色んな著名人が来ていたのかなーという感じはしますな。

大槻玄沢(岩手・一関)の孫、大槻文彦が『言海』を完成させた際の祝賀パーティが行われたのはこちらでした。

大槻三賢人

その際の出席者は30数人だったそうですが、伊藤博文、勝海舟、山田顕義、榎本武揚、谷干城をはじめとする早々たるメンバー。
祝辞を読み上げたのは伊藤博文だったそうです。


また創始者のひとりに読売新聞の子安峻がいた所から、読売新聞の関係者が結構使っていたようです。
尾崎紅葉はこちらの常連だったそうですが、それならさもありなんという感じ。
硯友社の人々と結構通っていたようで、何より尾崎のペンネームは紅葉館から来ている。笑
明治30年の大ヒット『金色夜叉』の貫一のモデルは巌谷小波といわれていますが、そのお宮のモデルは紅葉館の仲居だったらしいし。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140330_03.jpg (※これは小説を盛り上げるための演出です)


政治家だけでなく軍人も使っていまして、実は以前紹介したことがある騒動の舞台にもなっていた。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140330.jpg


この人なー。
海軍に関していうと、紅葉館の隣地が水交社で海軍軍人の出入りが割とあったらしい。懇親会とかね。
上泉徳弥(山形・米沢)の名前が出た辺りで心当たりがある方もおられるかも^^;

ここで行われた海軍士官の懇親会の最中、
海軍大臣の息子が酔っぱらって上官を呼び捨てにした上呼びつける → 上泉薩摩風を吹かせやがってとカッチーン! → 相手の頭上に放尿(…)

い、いやあ…
なんちゅうかエキセントリックの域超えてますがな兄さん…
ちなみに海軍大臣の息子というのは仁礼景一です。
海軍大臣・仁礼景範(薩摩)の長男で、広瀬武夫と同じ職場にいたことがある。

明治24年~25年の遠洋航海(『航南私記』の時の航海)で同僚だったんですな。
この仁礼さん、さらっと調べただけではよく分からない点がありまして、以前ちょっと調べたんだ。
元から海軍軍人になろうとしていた訳ではないらしく医学を修めるべく米国留学していたんですが、途中でアナポリスに私費留学してるのね。
方向転換の理由は分からん。
で、アナポリスを卒業して帰国、18期卒業相当という扱いで、18期の遠洋航海に参加している。

18期といえば加藤寛治とか安保清種のクラスですが、仁礼は彼らと同じ扱いでなく、分隊士になっています。
当時広瀬も分隊士として乗り組んでいるので、広瀬とは正に同僚ということになります。
ちなみにこの方も日露戦争で戦死されてます。


明治24・5年ごろの話のようですが、当然ながら藩閥の長い春の真っ最中…
当然ながらその場にいた薩摩系の士官は騒然、上泉も殺されんばかりの空気になったものの、それを止めたのが斎藤実でした。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140330_02.jpg


実は斎藤実(岩手・水沢)、妻が仁礼景範の娘でした。
景一は斎藤の義兄になる。
止めに入ったというのはそういうこともあるんだろうなーと。


上泉は紅葉館と割と縁があるのか、もう一つ話があります。
明治36(1903)年に軍令部付き副官になった際、参謀本部の副官堀内文次郎と計らって陸海軍首脳部の懇親を図ろうということで会合を持っています。
その場になったのが紅葉館だった。
この話は上泉自身があちこちで回想を残しているので、ご存知の方も多いかと思います。
陸軍の大山巌(参謀総長)、海軍の伊東祐亨(軍令部長)をはじめとして、陸軍の方では田中義一や松川敏胤なんかも出てたみたい。


野辺地尚義は明治42(1909)年に亡くなりますが、そのぎりぎりまで支配人であったようですので、多くの名士の色々な場面に遭遇していたと思います。
明治14年から42年までだと28年。
随分長い間支配人をしていたことになりますが、その随分初期…というか、まだ紅葉館立ち上げの準備をしていただろう時期に野辺地を頼って地元・盛岡から出てきた少年がいます。


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前の話”紅葉亭”になってた^^;直しときました
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