Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(7)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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続き。

進め方を考えていたのですが、そのまま行くことにした(おい)
政策決定に関与できる立場にない堀悌吉は殆ど出てきませんが、いい機会だと思うのでロンドン海軍軍縮会議の話でも。
大変だから今迄避けてきたのに(笑)



大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議で主力艦の制限がかけられたものの、補助艦艇(巡洋艦、潜水艦等)の制限はかかりませんでした。
それを知った軍令部第1班長斎藤七五郎が、
「それではいずれ補助艦艇の競争が始まるではないか」
とがっかりしたという話が残っている。(軍令部第1班長と言う作戦計画の中心人物が思う所がミソである)
その予感は遠からぬ後年、現実のものになります。


昭和2(1927)年のジュネーブ海軍軍縮会議がその歯止めを掛けようとした会議で、この時の首席全権は斎藤実。(内閣は田中義一内閣)
堀悌吉はこの会議でまたもや随員となっています。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014830.jpg


参加国は日米英の3ヶ国ですが、米英の主張が平行線のままで会議が決裂。(日本が仲裁…
何の成果もないまま、問題が昭和4(1929)年のロンドン海軍軍縮会議にまで持ち越されています。
ロンドン海軍軍縮会議は1次と2次がありまして、昭和4年の会議は1次。
2次は昭和10年、その前に予備交渉があり、その時の日本代表が山本五十六でした。

ジュネーブ会議の決裂後、英米がその問題を摺合せまして、それが大体妥協点に達してから日本が呼ばれている。
要するに英米で打ち合わせしてから日本を入れた訳で、日本としては不利な立場で交渉を始めなければならないという状態でした。


第1次の軍縮会議に参加すべく赴いたのは以下。
全権と海軍関係者のみピックアップ。

全権:若槻礼次郎(首席)、財部彪海相、松平恒雄駐英大使、永井松三駐白大使
顧問:安保清種海軍大将
随員:左近司政三中将、山本五十六大佐(少将)、豊田貞次郎大佐、中村亀三郎大佐、岩村清一大佐、山口多聞中佐

山本五十六が次席随員として参加しています。

本国の陣容は海相不在の間、海軍の事務管理となった首相浜口雄幸、海軍次官山梨勝之進、軍務局長に堀悌吉。
本国では山梨次官と堀軍務局長が非常な労を執ることになります。


海軍としては会議以前から主張すべき立場は決まっていまして、それが「対米7割の維持」。
何となく初めから割合に拘る派と拘らない派に分かれて争っていそうな気がしますが、さにあらず。
ワシントン海軍条約会議時の条約賛成派とか反対派とか関係なく皆「対米7割」。
海軍の総意として、軍事的な視点からこれは譲れないという意見でした。

一方浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相、そして首席全権若槻礼次郎らの政治家は、
 ①経済的問題(国民負担の軽減)から軍縮は必要
 ②協調外交の立場からも軍縮に賛成する必要がある
この意見で、政治的な視点からとにかく軍縮条約には調印する というスタンス。

既にこの時点で意見が割れている。


財部は全権になった際、若槻主席全権に対し、
「軍人である自分が7割を貫徹するのは難しく、政治家である貴方に協力してもらいたい」
という旨を依頼するのですが、上記の通り若槻は妥協できる所で決着しようと考えているため、うまーくそれを避けて「うん」とは言わない。
この最終決着地に対する意見の相違がそのままロンドンに持ち越されています。

ロンドン海軍軍縮会議は、政府側と海軍側のこの手の擦れ違いが非常に多かった。
条約調印の後、あれだけ揉めた大きな原因は、このコミュニケーションの悪さにあったと思われます。


続く。


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追憶(1) 秋山真之

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この話は4回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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あの宗教の話で終わるのは余りにも余りなので。

小柳冨次が戦後に纏めた資料があります。
『帝国海軍 提督たちの遺稿』(水交会/2010/水交会)がそれで、通称小柳資料。
東京裁判終了後まもなくから小柳元海軍中将が中心となり、当時生存していた海軍の枢要な位置にいた人物に口述聞き取りを行い、それを原稿に纏めたもの。
内容は大東亜戦争の時期に海相、軍令部総長、軍務局長、部隊指揮官などの職にあった高級将校の懐旧談、47人分。


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戦争の時期の回顧録だけでなく、各自の海軍生活の思い出も結構綴られている。
うん。
戦争の時期にベテランだった人々は日露戦争の頃にペーペーだったり海兵生徒だったりで、若い時期に『坂の上の雲』に出てくる人々が上司だったり先生だったりする。
つまりそういう話もあちこちに散見するわけです。

色んな人が色んな人の上司になっている筈なのだけれど、秋山真之の名前が意外と出てきており、しかもみんな文章が長い。
それだけインパクトのある人だったんだろうね。
秋山の名前を出している人はこの5人。

1)嶋田繁太郎 2)寺島健 3)山梨勝之進 4)清水光美 5)小柳冨次


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1)嶋田繁太郎 (32期。山本五十六、堀悌吉と同期)

○明治41年 音羽乗組(南清艦隊) 

艦長は有名な秋山真之大佐、音羽は第三艦隊所属(司令官寺垣猪三少将)で、
北は揚子江、南は香港厦門仙頭を巡航警備した。
当時僚艦須磨の艦長は鈴木貫太郎、<略>
三井にハウス・ボートがあり、私は鈴木、秋山両艦長に御共して上海から蘇州杭州まで観光に行ったこともある。
<略>

秋山艦長はよく艦長室で筆を持って、原稿のようなものを巻紙に書いておられた。
字も上手だし、始めからスラスラと立派なものを書いておられるのを見ただけでも、
この人は偉いものだと感心していた。
象山浦の戦略上の価値に就いて課題を出されたことがあり、色々懇切に指導された。

常に臍下丹田に力を入れておらねばならぬと、六尺褌の持論や、
日本海々戦七段構えの邀撃戦法なども興味深く話された。
兵員にはよく桃太郎の訓話を平易に講和された。

南支行動中厦門附近で、海図に記載なき暗岩に接触したことがあったが、たいしたことはなかった。
任務終わって、佐世保に帰港したとき、浅岡と云う造船部長(艦長の同郷人で私の保証人)の官舎に
秋山さんと一緒に招待されたことがある。
酔いが廻ると、秋山さんは仕舞八島を演られ、その多芸なのに驚いた。


1年程秋山の下にいたらしい。
てか、これってあれですよね、MVさん。暗岩に接触って、あの話ですよね^^
鈴木の。


○大正5年2月イタリア駐在

イタリア駐在任命時、秋山は軍務局長。
嶋田は兵学校入学時は心臓性脚気で、入学式の時に脳貧血で倒れるなど、入校してからもあまり激しい運動ができなかったようです。
艦隊勤務から外され海外駐在となったのはそれを知っていた秋山等先輩の推挽かとのこと。
また赴任に際して秋山曰く
「イタリー語を覚えてもしかたがあるまいから、フランス語でも学んで来い」
あと秋山が欧州視察に出かけた際、イタリアで秋山や随員山梨勝之進の面倒を見たのも嶋田。


2)寺島健 (31期。市川残花と同期)

○日露戦争時

明治三十八年八月十日の黄海海戦で三笠の損害は可なり大きく、<略>
(土原註:司令部では植田参謀と小倉少佐が負傷退艦したため)
参謀は秋山さん独りになったので、八月一二日私と加藤隆義、菊井信義の三人の候補生は
一時三笠に乗艦を変更されて幕僚事務を補佐させられた。
その内に飯田、清河の両参謀が着任して我々は元の艦に帰った。


明治38年ではなくて、37年の間違いです。
加藤隆義は加藤友三郎の養嗣子、飯田は飯田久恒、清河は清河純一ですな。
あとちょっと続いてるけど、それはいいです。割愛。
ちなみに寺島の1期下、山本五十六のクラスですが、クラスヘッドであった堀悌吉少尉候補生が三笠配属になっています。


○明治40年

ある演習のときであった。
伊集院さんが審判長で秋山さんが主席審判官であった。
両軍が互いに視界に入って将に戦闘を開始せんとしているので、審判官の私は報告に行くと秋山さんは夢中になって碁を打っている。
両軍の距離が三万米になったら知らせて呉れと云う。
三万米になったので、また届けたが中々御輿を上げない。

「もう戦闘を始めました。間もなく二万米になります」
と言うと漸く艦橋に上って来て、じっと両軍艦隊の対勢を見詰めていたが、忽ち
『何々廃艦、演習中止、各艦隊現序列の順序に佐世保に入港せよ』
と信号した。
その処置の早いこと、間髪を入れない。

佐世保に入港すると各審判を集めて講評会議があった。
甲論乙駁、中々会議が進行しない。
すると秋山さんは一木山(料亭)へ行ってくるからと座を外された。
中々帰ってこない。
秋山はどうしたなどと不平も出る。
夜の明ける頃になってようやく帰って来て、斎藤七五郎其の他審判官の起草した講評案を一瞥し、

「こんなものは駄目だ。こんなことは大学校で教えていない筈だ。
講評は批評だけではいけない。
この場合斯くすべきであると教えなければならない。」

と言って忽ち自分ですっかり書き直した。
沢山の審判官が一晩中審議して出来上がった講評案がすっかり反故になってしまったので方々から苦情が出たが、
大学校に帰って、兵棋盤上でチェックしてみると秋山さんの講評案がそっくり的中しているので、
今更の如くその頭脳の精確さに驚かされた。

秋山さんは将来戦のことを心配されて、アメリカに勝つには奇想天外の斬新兵器によらなければ勝ち目はない。
何でもよいから新しい着想を出せと始終云われた。<略>



どこかで聞いたことがある話だ。
『坂の上の雲』に出てたかな?伊集院は伊集院五郎。


3)山梨勝之進


山梨さんの話は年初に連載していた話と同じですので割愛。


あと1・2回続く予定だけど、需要ある?
無かったら止める。
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器量

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この話は3回シリーズです。若干加筆の上サイトに纏めて移行済み。
そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 大正、昭和 よりどうぞ。
題は 加藤友三郎の話 に変わっています。

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山梨遺芳録より (第10回)


秋山真之と佐藤鉄太郎の理論が元になっている対米7割論と88艦隊計画。
明治40年代から固持し続けて来たこれらを没にするというのが大正10(1921)年の海軍軍縮。

※対米7割論…アメリカの7割の兵力(主力艦の総トン数)があれば太平洋を越えて来た米国艦隊に日本が攻撃されても勝機はあるという理論

帝国国防方針(仮想敵国:陸軍→ロシア、海軍→アメリカ)もこれらを織り込んで考えてある筈なので、対英米6割を飲む、飲めるとなると、海軍的にはじゃあ今までの話って何だったの?となる訳で。
それに軍縮になるというと大規模な人員整理も伴う訳で。


当然海軍内部からは猛烈な反対があった。
どうも軍令部あたりの少壮士官が多かったようですが、その急先鋒になったのが加藤寛治になります。
カトカンは既に中将で、少壮とは程遠いんだけど…^^;
そしてその加藤の下にいたのが末次正信。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131226142448ebf.jpg


加藤寛治はこの軍縮に専門委員として参加しています。
同じ加藤ではあるけれど、この条約に参加しないと海軍どころか国家が危うくなると高度な政治的判断を下した加藤友三郎とはものの見方が随分違っていて、この人は海軍至上で国防のためには7割は絶対堅持。絶対に譲れない。

加藤寛治は自分の事を「俺は8割感情で動く男だ」と評していますが、
もうまさしくそうだとしか思えない行動を取っていて、どうあっても加藤(友)が加藤(寛)の意見を容れないのを見て、
もの凄いスタンドプレーをぶちかまします。

加藤(友)に無断で本国の井出謙治次官や安保清種軍令部次長に絶対反対の極秘電報を打ったり(末次が起案)
更に加藤(友)無断で、以下のような発表をしたり。

「もし対英米7割が認められないなら、日本は会議を脱退する」

おい…

これには流石に加藤友三郎もブチ切れた。
本当に血の気の引く音が聞こえたんじゃないかと思う。
やり過ぎとか越権行為なんてもんじゃないよこれ。
一体何考えてんの…
この時ばかりは加藤(友)もポーカーフェイスをかなぐり捨てて「日本に会議失敗の責任を負わせる気か」と怒鳴りつけたという話が残っている。

加藤寛治日記にこの時の記述はないかと思ったけれど、簡潔過ぎて分からない。
こういう事をしてしまう加藤(寛)に加藤(友)は、
「君ももう中将なのだから、少しは下の者を抑えることを覚えたらどうか」
みたいなことも言っているのですが、それが果たしてどれほど伝わったか。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312261424493fd.jpg 


全権大使は加藤、幣原喜重郎、徳川家達の3人でした。
しかし幣原が病気で倒れ入院、徳川はお飾りで役に立たず、加藤がひとりで多くの決断を行っていた。


加藤友三郎は独裁者型の優れた指導者であったように思います。
普段からやり方が随分独断専行であったようで、加藤寛治はそれが余りに過ぎると憤り、大臣の首をすげ変えようと名和又八郎に話を持ちかけた事がある。(※相手にされずに終わる)
すげえな寛治。

ただ、加藤(友)は自分の判断に全責任を負うというスタンスでいて、それがこの軍縮会議の時のスタンスでもあった。
頭脳の明晰さ、腹の据わり方、判断の正しさ。
熟考果断の人で、ワンマンでも尊敬されカリスマ的であったというのは、そういう所にあるようです。
加藤寛治だって楯ついていても随分尊敬していたようだし。
(加藤友三郎の死去後、海軍はどうなるのだろうという感想を人に漏らしている)


対英米7割という海軍のコンセンサスを押しのけ、自分の判断で6割の比率を受け入れること。
成功させないと国際的・経済的に国家が危機に陥る会議での全責任を負うこと。
これだけでもひとりの肩に乗せるにはかなりヘビーですが、そこに強硬反対派の代表である加藤寛治の抑制が加わる。

神経戦の会議から帰って来て、次の日の会議の準備をし、自説を曲げない寛治の説得をする。
精神的にも肉体的にも、ものすごいストレスであったと思われます。
元々体の調子が悪かった(大腸癌だった)上にそういう状況で、加藤友三郎は帰国後斎藤実に
「アメリカでは死ぬかと思った」
と語っている。
実際、神経をすり減らすことが多すぎて、止められているのにウィスキーでも飲まないとやってられなかった。


こんなことになって東郷平八郎元帥がなんと仰るか。

条約反対派がそんな伝家の宝刀を抜いても、加藤友三郎は、
「元帥は何もかもご存じだよ」
と言って笑うだけだったといいます。

ここがロンドン海軍軍縮会議時とは大きく違っているところで、ワシントンの時は関係者への根回しと海軍省部のトップの状況認識・情報共有と信頼関係がすごかった。


ワシントン海軍軍縮会議の時は、見ていると海軍省と軍令部のトップに人を得ていた感があります。
海軍省の方は海相が加藤友三郎で次官が井出謙治。
井出は加藤大臣がいない間の留守番でしたが、このふたり、見事な連係プレーだった。
加藤は情報を井出をパイプにして本国に流しています。
それも、本来なら正規ルートである筈の外務省を通さず、井出を通してまず首相・外相といった政府首脳、そして海軍上層部に情報を回して理解・了解を得ている。

そして何より軍令部長であった山下源太郎が加藤との信頼関係にあり、
諸々の状況から見て対英米6割でもやむなしと加藤の方針に同意していたことが大きい。


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軍令部次長の安保清種はどちらかというと加藤寛治に賛成であったようですが、それに軍令部の少壮士官も6割には反対していたけれど、その軍令部の中にあって上下を緩衝していたのが第1班長斎藤七五郎になります。
これは斎藤自身が自分の役目はバッファーだと友人に語っていて(伝記)、随分苦しい思いもしたみたいですが。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131228.jpg http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2013122802.jpg


そんな部内状況で、東郷元帥も加藤友三郎全権を信頼し満腔の同情をし、だから井出からは「安心して下さい」と連絡が来る始末(?)。
本当に元帥がなんと仰るかなんてレベルの話じゃなかったんですね…


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/69.jpg


井出は潜水艇の先駆者として知られる人物ですが、こういう所もクローズアップして欲しいと思う。
加藤友三郎は井出を後継の海相にしたかったのではないかと思います。
ただどうもこの時の風当たりが強すぎて(加藤友三郎があまりに敵なしの為)、そうは出来なかったみたいだけど。 
山梨曰く、  

この人は、大臣の腹心で頭は鋭く、胆力があり、押しのきく傑物であった。
この人が失脚せずに、中央にひかえていたら、海軍の歩みもちがっていただろうと思う。


ワシントンの際は随員、ロンドンの際は次官で、両会議に深く関わった山梨勝之進からすれば、そりゃあ後者は歯がゆいことだらけだったに違いない。
歯がゆいというか、何故もっとうまくできないのかと歯噛みするような思いだったと思います。
ワシントンの時とは何から何まで違い過ぎた。
まあその話はまた気が向いたら書きたいと思います。
気が滅入るので正直言うとあまり触れたくないorz


知っている提督が沢山出て来たので、広瀬との関係を挙げてみる。笑。

加藤寛治 … 大親友のひとり 
山下源太郎 … M24-5の遠洋航海時の同僚。宿泊先で同じベッドで寝てる。何故。広瀬兄と仲良し(同期)
井出謙治・安保清種 … 戦艦朝日での同僚。朝日を盛りたてる為に頑張ってた3人トリオ
斎藤七五郎 … 第1回・2回旅順講閉塞作戦の指揮官のひとり


山下は日露戦争の際は軍令部、作戦の中心にいた人です(その下に財部彪)。
「米沢海軍」と言われたほど多くの人材を海軍に出した米沢の出身。
婚戚関係がエラい事になっていて、

宮島誠一郎(米沢藩)の
長女 上泉徳弥(12期 米沢) ←広瀬と柔道仲間
三女 山下源太郎(10期 米沢) ←広瀬兄と同期
四女 山中柴吉(15期 山口) ←広瀬と同期
五女 四竃孝輔(25期 仙台) ←山梨と同期
に嫁いでいる。

山下の養嗣子・友彦の伯母が黒井悌次郎(13期 米沢)の妹で、山下源太郎の媒酌人になったのも黒井。
さらに友彦の従姉妹が、山下五十六(32期 長岡)の妻。その媒酌人が四竃孝輔。
四竃は山本五十六の莫逆の友・堀悌吉(32期 大分)の媒酌人でもある。
で、さらに四竃の兄の三女は山口多聞(40期 東京)に、四女は奥宮正武(58期 高知)に嫁している。

さらに山本五十六の妻方の親戚には南雲忠一(36期 米沢)がいるそうで。
これは『聯合艦隊司令長官山本五十六』が映画になった頃に山本のお孫さん(お名前が山下から取って源太郎だった)が仰っていました。
インタビュアーもびっくりしてたけど、確かに結構びっくりするよね…



はい。
結構続きましたが、『山梨遺芳録より』のシリーズはとりあえずここでおしまいです。
…と言いたい所ですが、余滴として後2回、この連載では省いた話を更新します。
もう少しだけ続く。笑。
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