Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

撒饌

広瀬神社から撒饌を送っていただきました。
毎年ありがとうございます。来年は行けると思うんです…(涙

今年は軍神せんべいを頂いた!と思いきや…
あらーん…


せんべい 


軍神せんべいじゃなくなっとるよ。
武夫せんべいになっとる。


せんべい


中身は変わってなかった。笑
せんべいの方にはばっちり軍神の文字が入っています。
型が戦前のものだそうで、意匠を変えるのは流石に難しかろう。
それはとにかく軍神せんべい、とっても久しぶりなのでおいしくいただきたいと思います^^
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ノスタルジア

肌寒いわー…
皆さんのお住まいの所でも同じなのでしょうか。
ジンジャーエール用にジンジャーシロップを作ったのですが、お湯で割って飲む羽目に。笑
新生姜が出ている間にもう一回作ろうと思いつつ、青梅を買う。(あら…
今年はブランデー梅酒を作るでえ。
日曜日に仕込んだのですが、飲めるようになるまでにはまだ時間がかかるなあ。
待つ楽しみもあるのだけれど、出来るだけ早く飲み始めたい。笑

それはさておき、聞いてくれ!

中野直枝の懐旧談を手に入れた!
やったー!


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


これと同じものかな?どうだろう。
こちらは伝記らしいので違うのかな?
流石にこの時よりは自分の中野情報は増えていると思いたいけれど、残念ながら大して変わっていないのである。あーあー…

中野直枝と言ってもすぐにピンと来る方はそんなにいないかと思いますが、海軍兵学校15期です。
海兵15期です(大切なことなので2回言いました)。
広瀬武夫と同期よ!
最終は中将。
中野は日露戦争時の大本営参謀だったということで、今迄何度か名前も出している。

ついでに書けば上掲写真の小栗孝三郎も同期で、こちらは最終が大将です。


日露開戦当時の軍令部(大本営海軍部)は副官を入れて14名なのですが、その内の5人が15期になります。
軍令部長伊東祐亨、次長伊集院五郎(5)、海軍参謀山下源太郎(10)、江頭安太郎(12)、森義太郎(10)、井内金太郎(13)、財部彪(15)、小笠原長生(14)、中野直枝(15)、森越太郎(15)、高木七太郎(15)、田中耕太郎(16)、谷口尚真(19)。
副官江頭安太郎(兼任)、小黒秀夫(15)。

作戦の方で中心になっていたのは山下源太郎と財部彪。
しかし期を見ていると中枢になっているのが、見事に兵学校教育が整い始めた辺りですな…

そしてみんな若いよね。
15期は明治元年前後の生まれが多く、14~17期は大体明治元年ごろを生年と思えば、大体36~8歳辺りです。
明治と共に成長してきた世代が日露戦争の中核になっていた事が分かります。
山下源太郎は41歳、連合艦隊司令長官であった東郷平八郎でさえ56・7歳ですからねえ。

東郷はもっと老人のイメージがありますが^^;
戦場でベストな判断を下すのに、体力のない老人では無理だと思う。
そう思うと停限年齢をどこに設定するかは大事だわな…

ちなみに山下は広瀬武夫の兄勝比古と同期になります。
仲が良かったそうで。一緒に写っている写真もありますね。うふふ。

あと江頭は私が15期の次に好きな12期!(数珠を繋ぐ#11
作家江藤淳の祖父になります(皇太子妃雅子さまの曽祖父でもあります)。
更についでに書くと江藤の叔父の妻が山屋他人(12期)の娘である。

高木七太郎は以前「閻魔」で紹介しました。
後輩共からけちょんけちょんにけなされてて笑った。(こら

田中耕太郎は広瀬のロシア駐在時の同僚です。
一緒に写っている写真があるん。

広瀬武夫、加藤寛治、野元綱明、田中耕太郎


谷口尚真はこのブログに移ってから一発目の連載で触れました(石部金吉金兜)。


長すぎの前置きですが(笑)
あれこれの人が出てきた時は出来るだけ紹介したいのでご容赦くだされ。

で、この中野が広瀬との話を少しですが残してくれていた。
日清戦争の頃、中野と広瀬は横須賀の水雷艇隊勤務だったそうです。
同僚だった。
中野が鈴木貫太郎の後を受けて6号艇長、広瀬が18号艇長だったそうで。

ある時、金沢沖で魚雷発射をした後に揃って横浜に入港した。
そうしたら広瀬が
「今日は俺が奢るからついて来い」
とか言ってさ!

ついて行った先は大きな料亭で、しかもふたりの芸者付き。
どうしたの広瀬。(笑)

中野よりも早く勲六等の賜金を頂いたから奢ってやるということだった模様。
広瀬は普段こういう所に来る男ではないのに、と中野も嬉しかったようです。
私も嬉しい。笑(なんでや

これ、昭和31年の回顧で、中野は当時88歳。
約60年前の事をよく覚えてるなと思って確かめたんですね(史料批判

広瀬は明治28年10月下旬に水雷艇第18号の艇長になっています。
そして同年11月18日に勲六等単光旭日章と金200円(と従軍記章)を下賜されている。
勲六等の賜金とはこのことで、この頃(より正確には明治30年頃)の相場だと大体300万円位かな~…

この話、恐らく明治28年11月下旬の事でしょう。
結構ぴしっと覚えとるな、中野。

中野と広瀬の水雷艇は軍事普及のためによく隅田川を遡上していたそうです。
そんな事までしとったんや…
広瀬の水雷艇、よく品川に出ているのですよ。
品川にそんなに何の用事がと思っていたのですが、もしかしてそういうことだったの?
しかも18号艇は一般汽船とごっつんこして、ドック入りもしている。笑。

この18号艇長の時代の部下に藤井宗恂という人物がおり、この頃の話をいくつか残してくれています。
当時から部下は可愛がっていたようですね。
そして出されたご飯(水兵が作ったの)がおいしかったら褒めちぎってくれるんだぜ…!
ちなみに藤井の長男は広瀬から名前を貰って武夫くんです。笑

部下の話はあるのだけど、この頃の同僚や上司の話は思いの外ないのです。
中野の話、本当にほんのちょっとですが見付けられて嬉しかった。
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道頓堀

道頓堀に行ってきた。
用事があったのは難波だったのだけれど、なんとなくぶらぶら…


20170603


いかにもーという感じ。
ひっかけ橋でごわす。


20170603_3


カールなくなったらここのおじさんリストラやなー(酷いこと言う…
道頓堀の辺りは戦前、道頓堀5座と言いまして、芝居小屋が5つほどあったのですよ。
現存しているのは松竹座と国立文楽劇場だけかな?

五座のひとつに弁天座がありまして、下の写真で見ると道頓堀の奥の方に建っていた。


20170603_2


座主が尼野氏で、支配人は入婿した尼野源二郎という人物です。
広瀬武夫のお友達である。イケメンです(真顔)。
奈良十津川の出で、軍人か政治家になりたいと言っていたようなのですが、何故か芝居小屋経営者の養子に…
理由は当時の友人にもよく分からなかったそうです。

弁天座は戦前に何度か火事で焼失しているのですが、その立て直しに尽力していたり、後事業に乗り出してホテル経営をしていたり…
大阪の実業家として、割と名前の知れたひとだったらしい。
広瀬とは講道館柔道繋がりで、広瀬の紹介で加藤寛治と知り合ったりもしています。
陸海軍にはかなり顔の広い人でした。

広瀬は大阪に定宿を持っていたらしいのですが、私は単純にえー道頓堀でいいじゃん、イケメンに泊めてもらえよと思っていたのですね。
こちらの定宿はちょっと不便な場所にあるので。

何年か前に知ったのだけれど、その定宿の女将、イケメンの愛人やった。笑(加藤寛治情報)
あー…絶対これイケメンの紹介や。笑

しかし座主は養父、その後は義兄な訳ですよ。
マスオさん大丈夫なのか。(いらんお世話)
とはいえ入婿自体が結構頼み込まれての事だったらしく、その辺り色々あったのかなあとも想像…

それはともかく、道頓堀に来るたびに広瀬もこの辺りを歩いたのかなーと思う訳ですよ。
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広瀬武夫*113回忌

広瀬武夫の御命日です。
書きたいこともあったのだけれど間に合いませんでした。
しかし触れないというのもどうかと思うので、ちょっと古い雑誌をば。


2017327_1


右のは明治37年4月、真ん中のは明治37年5月、左のは明治37年4月。
左の征露図会は復刻版。
去年鹿児島に行った際、維新ふるさと館で開かれていた古本市で350円やった…
実は中身は持っているのだけれど、本になっているものなら欲しいなと。


2017327_1

ぼろぼろですわ…

久しぶりに征露図会をぺらぺら見ていたのだけれど、広瀬の同期近藤常松の書簡が一部掲載されている。
内務省土木監督の技師であった兄宛。
(この兄が近藤仙太郎と言う高名な技術者だったらしく、利根川や大井川、天竜川の改修でかなりの功績があるようです)


向井弥一_海大講習員 
(左から2番目が近藤。荒川仲吾と向井弥一も同期)


近藤常松は旅順口閉塞作戦当時、駆逐艦漣の艦長で、閉塞隊の援護と収容の任に当たっていました。
大島正毅や松永光敬、九津見雅雄といった同期たちも同様の任に就いており、送る方も送られる方も感慨一入であったのではないかと想像します。


近藤は日清戦争直前、広瀬と同じく水雷術練習所「迅鯨」の分隊士でした。
周囲がどんどん出征していくのを見て、当時の広瀬は焦り、自分の番が来ないことに落胆する日々だったのですが、果たして同僚の近藤までが先に出征することに…
「貴様、俺より先に征くのか」
そう広瀬から言われたと近藤本人が話を残しています。
当時の広瀬(の日記)が大変かわいくて(おっと失礼)、私としては大好きな時期です。
近藤が兄に宛てた書簡の最後に、


一言之を云へば唯壮絶惨絶と申すの外無之候
遂に我親愛なる広瀬武夫を失ひ申し候


とある。
同期ですから当然と言っちゃ当然ですが、やっぱり仲が良かったんだろうなあ…


また作戦に赴く広瀬を見送った霞艦長・大島正毅の回顧も残っている。
霞が福井丸と並走していた際に大島が

今夜は星光微かにして薄き靄あり、決行最上の夜と思はる。
已に天佑あり成功疑ひなし


こう信号した。
そうしたらすぐに船橋天幕に登ってきた広瀬が手旗信号で返信。


我又成功を確信す、有難う左様なら


そのまま福井丸を見送った霞はその後、閉塞隊援護・警戒に回る。
その内に空が白み始め、海を漂う端艇を見つけて近付けば乗っていたのは福井丸の乗員だったそうです。


広瀬中佐は「どうされた」と問ひしに、「戦死しました」と答ふ

それから乗員を収容したのだけれど、


能くゝゝ見れば戦死者負傷者多数端艇の底に倒れ、血肉は飛散し端艇は破れ
実に凄愴惨憺の極みにて、暗愁痛惜無限の感に打たれつゝ、
中佐の肉片を大切に白布に包ましめ、其他の戦死負傷者を丁寧に収容し、
全部終了せしを以て、端艇を舷側に横附けの儘繋止し、沖合に向へり。


この肉片はアルコール漬けにされた上、大島艦長であった兄勝比古の元に届けられ、4月初旬に帰国しております。


日露戦争直前_同窓会_広瀬武夫


向井弥一のご子孫様から頂いて、自分で人物の特定をした15期の集合写真は私の宝物です。
これは明治37年2月5日撮影。
後年の写真でもなく、当時のまんま戦場にいる時まんまの姿で写っているというのは、なんとも感慨無量になります(出征前日ですが)。
この写真には大島も、松永も久津見も写っている。
近藤がいなくて残念ですが、この人たちか、と当時の回顧等を読むと思います。

広瀬についてはもっと多くの人の証言なり回顧を集めたいと思うのですが、それがなかなか難しい。
上の写真の中では、特に町田の話を私は聞きたいと思うのですね…
町田に限りませんが、”軍神”じゃない、”軍人”広瀬武夫の話がもっとあると思うのですよ。
杓子定規な広瀬武夫像でもなく、「広瀬中佐!」と変に敬う感じでもなく、もう少し自然体で広瀬に触れられる機会があればと思うし、そういう場をサイトやブログで作って行ければいいなと思います。

そんなこんなで広瀬武夫の113回忌でございました。
合掌。
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財部日記 第2弾

帰ってきた。
え、何処からという感じですが広瀬武夫の勉強会@東京に行ってきたー。
色々お話しを伺ってきましたぞ!
皆さん熱い方ばかりで私場違いだったんじゃないかと心配。
迷惑ではなかっただろうか。
 
そして頂き物!


グッズ 


クリアファイル(竹田市の)とサクマドロップ。
ビスコとチロルチョコがカスタマイズできるのは知っていたのですが、サクマドロップまでとは…(笑

午前は国会図書館に行ってきました。
引き続き財部日記を見てきた。
今回はあんまり収穫はなかったのだけれど、ぺらぺら見ていてたら、


財部日記 


お?と。
伊木壮次郎の話が出ていた。
明治28年7月11日条で、病気で加療のため鹿児島の自宅に帰っているという話を聞いて吃驚とある。
以前書いた諜報のことと関係あるのかなあとも思うのだけれど、さすがに1年前…
否定するのも肯定するのも微妙だわあ…


あとここ。


財部日記


財部の結婚式当日の日記。
薄すぎて読めないよ!でも広瀬って書いてある(※根性)
この日ともう1日について、職員の方と交渉したら、本当に特例ですよって現物を見せてもらえた…!

B6サイズほどの小さい日記帳だったよ。
そこにめっちゃ細かい字で書いてあるの。明治30(1897)年、119年前の日記。
上写真の薄い所は青の万年筆っぽく、急に濃くなっている後半部分は毛筆。なぜ。

もう1日の薄いところは、鉛筆(きっと先の丸まったやつ)でした…
職員の方に「これは読めないですね」と言わしめた!(笑)

上写真の話は、広瀬とあるから、向井弥一の名前も出てくるのかと思ったのだけれど、そうではなかった。笑
巳丑会(クラス会)のみんなで何か贈るから、何が欲しい?ということを広瀬が代表して聞いてきたという内容。
置時計か、盃か、花瓶のどれかがいいと返事したんですって。
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