Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

関重忠の日記抄

20170804


関重忠の日記(抄録)を見つけたのですよ~。
関と言えば日露戦争が始まる前から戦艦朝日の機関長をしていた人物で、有名な写真を多く撮影しています。


広瀬武夫_旅順口閉塞

これもそのひとつ。
前列右から3番目が広瀬武夫です。右隣は栗田富太郎。

広瀬武夫には「約束を守れ」という道徳の教科書に載った話、切手を送る約束をした少年に万が一のことがあった時の為にとロシアから切手を送るという話があるのだけれど、その少年がこの関機関長の長男重広君である。

2・3年前にこちらで連載した「艦隊勤務の日々」でも紹介しましたが、朝日のカッター競技の部員たちを鍛えていたのが広瀬になります。
その時の様子を、関は遥かな後年に回顧しているのですね。

それに長男氏によると、何処かに寄港する度に、
(柔道着持って出て行く奴がいる…)
(テニスラケット持って出て行く奴がいる…)
という感じで、顔を合わせることが結構あったようで、そこから仲良くなったのですって。
テニスは関の趣味でした。

そんなことがあったので、日記に広瀬が出て来ないかしらという純然たる広瀬目的です。

結果。

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明治37年の収録が5月から……!

われ泣き塗れて蟹とたはむる。

財部彪日記(明治37年欠落)といい、竹下勇日記(明治38年から収録)といい、関忠重日記といい、どーしてこんなにピンポイントで広瀬を外してくれるのか。

目的とするものがないという点でかなり興を削がれたのですが、一応は読んだ。
せっかく見付けたし…
数点ほどは朝日に関係する写真も収録されていました。
カッター競争の優勝旗であったり、カッター競争を応援する朝日の乗員たちを写した写真であったり。

読んでいてへえと思ったのは、海兵16期の関重孝が弟でした。
そうなんだ。
関には弟がふたり、3兄弟で全員海軍さんだった(あと妹がふたり)。
重忠は機関科、重孝は兵科、末弟重光は機関科。


海軍兵学校16期生は元々機関学校の生徒です。
在校時に機関学校が兵学校と合併し、彼らは兵科士官として卒業することになった。
(後に兵学校と機関学校はまた分離します)

広瀬武夫が海軍兵学校15期なので、その次の期。
クラスヘッドは井出謙治になります。
井出についてはワシントン海軍軍縮会議の連載をしていた時期に触れていますのでそちらをどうぞ。

ちなみに広瀬ら入学の翌年に秋山真之が海兵に入学していますが、秋山クラスは17期。
途中で機関学校の生徒たちが入ってきたから、卒業期がずれているのですね。
それはいいのですが、元々3人とも機関の方で海軍に入っている。
何かあったのかな?


関の趣味は留学先のイギリス(グリニッジ海軍大学卒)で覚えたテニスと写真だったのですが、見ていると写真は半ば公務でした。
海軍からも正式に撮影を頼まれていて、大本営海軍部から写真撮影に必要な消耗品が送られてきていたり、現像した写真を送り返したり。
ある時は呼ばれて第2艦隊司令部の写真を撮影もしている。
今現在見られる日露戦争時の海軍関係の写真の多く(というか殆どか?)を撮ったのがこの人物だと思うと、何というかもうありがとうございますとしか言いようがありません。
広瀬の写真は他にはないですか…(こら


広瀬とは5歳が離れていて、1863年、文久3年の生まれ。
5歳くらいかとは思うのだけれど、明治19(1886)年のイギリス留学中の日記には頻繁に斎藤実や、その辺りの年代の人々との交流が出ていて、たかが5年されど5年という感じですなあ。

知っているビッグネームが結構出てきます。


ビッグネームと言えば、関さん、子供の頃に静岡英学校に通っていたのよ。
そして人見勝太郎(寧)の家で世話になっていたそうで!
びっくりしたー!びっくりしたわ、もう!
この本で一番びっくりしたのはここやったわ!(笑)
私が関さんの立場だったら伊庭八郎の話を聞き倒すね!


伊庭八と言えば、少し前に日テレの年末大型時代劇シリーズを一括して頂いたのです。
「毎晩堀内孝雄鳴り響いてんな」
とか、
「毎晩里見浩太朗見てんな」
とか、言われながらえっちらーおっちらーと毎日少しずつ見ていたのですが、2・3日前に全部見終わった!

感想。


濃い。


「五稜郭」は初めて見たのですが、伊庭八、舘ひろしやった。
私の中ではもっと若いのだけれど、序に言えば土方も近藤ももっと若いのだけれど、結構合ってるなーと。
そしてブリュネが岡田真澄で笑ってしまった。
まあハーフの方なので特に違和感はないかー
本当に久しぶりに見た「白虎隊」の西郷隆盛役が見たことのない人だったので、誰だろうと。
西郷どん、どんなにチョイ役だろうと大体が名のある俳優がするだろうに…
キャスト見たら脚本家がしてた。笑
どうなん。それ^^;

MVさん、すべて見終わりました!
ありがとうございました!

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青森と盛岡つながり

借りてきた本に絡めてつれづれ。


20170708_2


上写真はダイバーシティ関係で借りている外交官関係の本(内一冊はまったく関係ない)。
欲しい情報があまりないのでそのまま返すつもり。
そして珍田捨巳の本は早々に返却の憂き目にあったのであった…
ごめんねすてみん。


珍田捨巳は青森は弘前の人。クリスチャン。
肝の据わった外交官として知られた人物で、後に侍従長を勤めている。
山本権兵衛が内閣を組織した時に外相としての入閣を何度も依頼したけれども断られておる。
近代史では和初期では割と名前を聞く人物。
既出で、竹下勇関連で一度名前を出しております。

東奥義塾の出身。
東奥義塾の話って書いたことあったっけ?記憶が遠すぎて覚えていない。
同窓に陸羯南(ジャーナリスト)、一戸兵衛(陸軍)、佐藤愛麿(外交官)といった人々がおります。

陸羯南は今迄何度も触れている日本三大ジャーナリストのひとり。
司法省法学校(現東大法学部)での賄征伐事件に巻き込まれて退学処分になってしまった人物です。
この時一緒に退学になった同級生に原敬と加藤拓川がおり、後も親しく交わっていたようです。


原敬、加藤拓川、陸羯南


加藤拓川は正岡子規の叔父にあたる人物で、秋山好古とは幼馴染で家族ぐるみのお付き合い。
加藤は後に原敬の斡旋で外交官となるのですが、よくよく調べると加藤・原・秋山の在巴が重なっていた時期があり、三人がパリで顔を合わせることも少なからずあったのではないかと想像します。笑
ちなみに原と秋山がワンショットで写っている写真もあるのよ。
大正中期ですが。

加藤は甥っ子正岡子規を友人陸羯南に預けますが、子規の門弟に原敬の甥っ子・原抱琴がいるなど、結構面白いつながりがあります。
原の俳句はこの甥っ子の影響があったようですね。


珍田捨巳、一戸兵衛の1年後輩に藤田潜がいます。
東奥義塾出身だったかちょっとうろ覚えですが(調べんかい)、長く攻玉社の副社長を務めていた人物。
明治期の海軍軍人は海軍の予備校的位置づけであった攻玉社の出身者が多く、広瀬武夫もそのひとり。
勿論藤田も広瀬のことを知っており、広瀬がロシアへと出発する際は攻玉社の生徒を連れて見送りに行っています。
広瀬は攻玉社を卒業しても、新設された柔道部の部長をしていましたから、結構関わりはあったと思うよ。

この藤田の息子が海軍大将藤田尚徳で、海軍兵学校29期。
同期に米内光政、八角三郎、高橋三吉、佐久間勉(佐久間艇長)らがいます。
昭和14年、米内を海軍大将として残すため、高橋三吉と語らって自分達が予備役に編入されることを願い出た。敗戦前後を挟んで侍従長を勤めています。


米内光政_紅葉館
(盛岡出身者の集まり)


米内と八角は同郷盛岡の友人で、八角の父・彪一郎と原敬がこれまた友人であったのですよ(家が近所)。
八角彪一郎は早くに亡くなるのですが、それだけに原が結構三郎のことを気に掛けていてだな、海軍に行けと応援したのが原敬おじさんであった…
そしてさぶちゃんがみっつぁんもどうかと海軍に誘ったという中である。笑


原敬、栃内元吉、八角彪一郎 盛岡の友人ショット


原敬の友人・栃内元吉は栃内曽次郎(海兵13期)の兄(最終陸軍中将)。
栃内元吉の妹(曽次郎の姉)が八角彪一郎の妻になる。つまり栃内兄弟は八角三郎のおじさん。
(長い寄り道)


東奥義塾出身者、佐藤愛麿の養子が特に敗戦時のソ連関係で有名な外交官・佐藤尚武。
日露戦争直後のロシア公使館に配属されております。
当時、当然ながらまだサンクトペテルブルグでも広瀬武夫を知っている人がいた。
佐藤の初めての下宿先が広瀬が下宿していた家であったり、街中の古本屋の親爺に
「広瀬さんは真面目でいい人だった」
とか言われてんぜ。笑
この親父さんは広瀬行きつけの古本屋さんで、広瀬がロシアを引き上げる際に持って帰れない書籍を全部タダで貰っている。
ついでに鰹節2本も貰っている。笑


20170708_2


沢田節蔵。外交官。
大正10年の皇太子外遊に供奉員として参加した人物としてしか知らん。
ごめん。笑
ぺらぺら見ていたらこの方もクリスチャンだったわ…

よくよく考えると、昭和天皇は
幼少期の養育掛に足立たか(鈴木貫太郎の後妻)
青年期~の御用掛に山本信次郎
侍従長として珍田捨巳
で、周囲にずっとクリスチャンがいるのね。
こういうのって、特に取り沙汰とかはされなかったのかしら。
まあ、人物を見ての選定だったと思いますけれども。

沢田は『皇太子殿下御外遊記』を二荒芳徳と共著で出版した人物で、回顧録を見ると背表紙の文字は、専門家に依頼して聖武天皇の文字から探してもらったとありました。
まさかそんな所から引っ張ってきているとは思わなかったので、少し驚いた。笑

(沢田は鳥取の人です…)
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『徳川慶喜家の子ども部屋』

徳川さん宅(ち)の常識』を読んで、積読になっていた『徳川慶喜家の子ども部屋』を読む。
面白い。


著者は徳川慶喜の孫で大正10年生まれ。
生まれる前に慶喜は亡くなっていたので顔を見たことはない。
そして元将軍家は幕府が滅亡した後も色々な意味で凄かった…

もうね、付き合う層が全然違う。当然ながら。
姉妹の嫁ぎ先が大名家、皇族というのが普通である。親戚に普通に皇族がいる。笑
というか、著者の姉が高松宮のお妃であったわ…
そうだったの。高松宮喜久子妃殿下でございました。
当時の皇族の縁組とか大名の縁組とか、幅広すぎて覚られない。


姉が高松宮に嫁いだ時、著者は10歳。
高松宮にも大変可愛がられたようで、著者はこの義兄が大好きになり、姉に向って
「半分分けてちょうだい」
かわいい。笑
高松宮というと阿川さんの『高松宮と海軍』の印象が強いです。
そして同じく喜久子妃の印象もここからなんだなあ。

著者、当然ながら通っていた学校は学習院なのだけれど、


日本史の先生はどなたも、学生が華族の子女、つまり大名、公家など歴史に登場する家の子女が多かったから、「学習院は歴史の授業がやりにくい……」とこぼしておられたと聞いている


やっぱり。笑

あと読んでいてそうなんだと思ったのは、昭和5年当時、著者が住んでいた御殿の家令(昔で言うと家老)は三輪修三という元海軍大佐とあったのね。
へーと思って何気なく調べてみたら、海軍兵学校17期でした。
あらま。
秋山真之クラスか。
軽くググってみた程度では何も分からん。
手元資料を確認した所、後から数えた方が早いハンモックナンバーだったということぐらいしか判明しなかった。笑
東京の人のようで、元々幕臣だったのかな?
何かしら縁がある人であったかと推察しますが、退役後にそういう進路もあるのですね…

そして著者の父、徳川慶喜の子息らは修業のために嘉納塾に預けられていたそうです。
あらー。
そうなんだ。

嘉納塾は過去何度か触れていますが、講道館柔道の嘉納治五郎の私塾になります。
そもそも嘉納治五郎は教育者なのですよ。
英語ペラペラ、且つ東大で文学、政治学、理財学、哲学を修めた当時の超エリート。
宮内省や文部省に出仕する傍ら大鳥圭介にスカウトされて学習院の教授兼教頭になった。
27歳の時。
柔道ばっかりやっていたわけではないのである。


そういう関係で嘉納はハイソな知人の子供を預かることがありまして、その預かり先が後の嘉納塾。
一方で嘉納は講道館も運営していますし(英語塾も運営しとります)、嘉納塾では柔道必須であったようなので、講道館の初期に柔道を嗜んだ顔ぶれには当時の上流階級であったりエリートであったりがかなり多いです。

大鳥圭介の息子ふたりもその流れで講道館に通っており、広瀬武夫とは仲良しでした。
これも今まで何度か触れていますが、一緒に遊びに行ったり旅行に行ったり、職場に見学においでとか。広瀬は弟のような感覚で接していたのだと思う。

また広瀬は自分の腹違いの弟を家族が反対するのを説得して上京させていて(学費は広瀬持ち)、その弟を14歳で嘉納塾に入れるのですが、これを後々広瀬はやや後悔していた。
(広瀬は講道館と書いているのですが、書簡を見ていると「在塾」とあり、また『軍神広瀬中佐詳伝』を見ても嘉納塾幼年舎です)

というのも、上記の通り嘉納塾にはハイソが多いのですよ。
広瀬は厳しく育てられた幼少~少年期、海兵生徒時代を経て、講道館を取り巻く世界を知る訳ですが、弟は豊後竹田から上京してすぐにその世界に放り込まれた。

弟は1年位で病気の為に退塾するのですが、広瀬が考えていたのとはちょっと違う感じになってしまったようですね。
広瀬から見ると嘉納塾・講道館に在籍する上流階級の雰囲気の、悪い風の影響を受けたと感じたようです。
広瀬自身が質実剛健を地で行くような人だったので、余計に思うところがあったのではないかと思う。

この広瀬弟は明治11年生まれ。
『徳川慶喜家の子ども部屋』著者の父・徳川慶久(慶喜七男)は明治17年生まれ。
7歳違うと、嘉納塾の寄宿生活でも顔を合わせたかどうかという感じか。
ただ慶喜五男、六男は明治10年11年の生まれで、同時期に在籍した可能性はあるのでは?と推測。
調べたら分かりそうですが、そこまではいいや。
広瀬弟が在籍していた時期が思春期だからなあ…
余計に影響を受けやすい時期だったのではなかろうか。


で、よくよく見たらこの著者の祖母が慶喜側室の新村信でした。
そうなんだ!
新村信の義弟が新村出(しんむら・いずる)といって、広辞苑の編纂者です。
新村の実父が木戸孝允と交流があり(神道無念流の同門でした)、その縁で京都にあった木戸邸の一部を新村が自宅に移築しています。
これは現存していまして、何年か前に見学に行った際のレポートがありますので、興味のある方はどうぞ^^

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撒饌

広瀬神社から撒饌を送っていただきました。
毎年ありがとうございます。来年は行けると思うんです…(涙

今年は軍神せんべいを頂いた!と思いきや…
あらーん…


せんべい 


軍神せんべいじゃなくなっとるよ。
武夫せんべいになっとる。


せんべい


中身は変わってなかった。笑
せんべいの方にはばっちり軍神の文字が入っています。
型が戦前のものだそうで、意匠を変えるのは流石に難しかろう。
それはとにかく軍神せんべい、とっても久しぶりなのでおいしくいただきたいと思います^^
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ノスタルジア

肌寒いわー…
皆さんのお住まいの所でも同じなのでしょうか。
ジンジャーエール用にジンジャーシロップを作ったのですが、お湯で割って飲む羽目に。笑
新生姜が出ている間にもう一回作ろうと思いつつ、青梅を買う。(あら…
今年はブランデー梅酒を作るでえ。
日曜日に仕込んだのですが、飲めるようになるまでにはまだ時間がかかるなあ。
待つ楽しみもあるのだけれど、出来るだけ早く飲み始めたい。笑

それはさておき、聞いてくれ!

中野直枝の懐旧談を手に入れた!
やったー!


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


これと同じものかな?どうだろう。
こちらは伝記らしいので違うのかな?
流石にこの時よりは自分の中野情報は増えていると思いたいけれど、残念ながら大して変わっていないのである。あーあー…

中野直枝と言ってもすぐにピンと来る方はそんなにいないかと思いますが、海軍兵学校15期です。
海兵15期です(大切なことなので2回言いました)。
広瀬武夫と同期よ!
最終は中将。
中野は日露戦争時の大本営参謀だったということで、今迄何度か名前も出している。

ついでに書けば上掲写真の小栗孝三郎も同期で、こちらは最終が大将です。


日露開戦当時の軍令部(大本営海軍部)は副官を入れて14名なのですが、その内の5人が15期になります。
軍令部長伊東祐亨、次長伊集院五郎(5)、海軍参謀山下源太郎(10)、江頭安太郎(12)、森義太郎(10)、井内金太郎(13)、財部彪(15)、小笠原長生(14)、中野直枝(15)、森越太郎(15)、高木七太郎(15)、田中耕太郎(16)、谷口尚真(19)。
副官江頭安太郎(兼任)、小黒秀夫(15)。

作戦の方で中心になっていたのは山下源太郎と財部彪。
しかし期を見ていると中枢になっているのが、見事に兵学校教育が整い始めた辺りですな…

そしてみんな若いよね。
15期は明治元年前後の生まれが多く、14~17期は大体明治元年ごろを生年と思えば、大体36~8歳辺りです。
明治と共に成長してきた世代が日露戦争の中核になっていた事が分かります。
山下源太郎は41歳、連合艦隊司令長官であった東郷平八郎でさえ56・7歳ですからねえ。

東郷はもっと老人のイメージがありますが^^;
戦場でベストな判断を下すのに、体力のない老人では無理だと思う。
そう思うと停限年齢をどこに設定するかは大事だわな…

ちなみに山下は広瀬武夫の兄勝比古と同期になります。
仲が良かったそうで。一緒に写っている写真もありますね。うふふ。

あと江頭は私が15期の次に好きな12期!(数珠を繋ぐ#11
作家江藤淳の祖父になります(皇太子妃雅子さまの曽祖父でもあります)。
更についでに書くと江藤の叔父の妻が山屋他人(12期)の娘である。

高木七太郎は以前「閻魔」で紹介しました。
後輩共からけちょんけちょんにけなされてて笑った。(こら

田中耕太郎は広瀬のロシア駐在時の同僚です。
一緒に写っている写真があるん。

広瀬武夫、加藤寛治、野元綱明、田中耕太郎


谷口尚真はこのブログに移ってから一発目の連載で触れました(石部金吉金兜)。


長すぎの前置きですが(笑)
あれこれの人が出てきた時は出来るだけ紹介したいのでご容赦くだされ。

で、この中野が広瀬との話を少しですが残してくれていた。
日清戦争の頃、中野と広瀬は横須賀の水雷艇隊勤務だったそうです。
同僚だった。
中野が鈴木貫太郎の後を受けて6号艇長、広瀬が18号艇長だったそうで。

ある時、金沢沖で魚雷発射をした後に揃って横浜に入港した。
そうしたら広瀬が
「今日は俺が奢るからついて来い」
とか言ってさ!

ついて行った先は大きな料亭で、しかもふたりの芸者付き。
どうしたの広瀬。(笑)

中野よりも早く勲六等の賜金を頂いたから奢ってやるということだった模様。
広瀬は普段こういう所に来る男ではないのに、と中野も嬉しかったようです。
私も嬉しい。笑(なんでや

これ、昭和31年の回顧で、中野は当時88歳。
約60年前の事をよく覚えてるなと思って確かめたんですね(史料批判

広瀬は明治28年10月下旬に水雷艇第18号の艇長になっています。
そして同年11月18日に勲六等単光旭日章と金200円(と従軍記章)を下賜されている。
勲六等の賜金とはこのことで、この頃(より正確には明治30年頃)の相場だと大体300万円位かな~…

この話、恐らく明治28年11月下旬の事でしょう。
結構ぴしっと覚えとるな、中野。

中野と広瀬の水雷艇は軍事普及のためによく隅田川を遡上していたそうです。
そんな事までしとったんや…
広瀬の水雷艇、よく品川に出ているのですよ。
品川にそんなに何の用事がと思っていたのですが、もしかしてそういうことだったの?
しかも18号艇は一般汽船とごっつんこして、ドック入りもしている。笑。

この18号艇長の時代の部下に藤井宗恂という人物がおり、この頃の話をいくつか残してくれています。
当時から部下は可愛がっていたようですね。
そして出されたご飯(水兵が作ったの)がおいしかったら褒めちぎってくれるんだぜ…!
ちなみに藤井の長男は広瀬から名前を貰って武夫くんです。笑

部下の話はあるのだけど、この頃の同僚や上司の話は思いの外ないのです。
中野の話、本当にほんのちょっとですが見付けられて嬉しかった。
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