Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

広瀬武夫*113回忌

広瀬武夫の御命日です。
書きたいこともあったのだけれど間に合いませんでした。
しかし触れないというのもどうかと思うので、ちょっと古い雑誌をば。


2017327_1


右のは明治37年4月、真ん中のは明治37年5月、左のは明治37年4月。
左の征露図会は復刻版。
去年鹿児島に行った際、維新ふるさと館で開かれていた古本市で350円やった…
実は中身は持っているのだけれど、本になっているものなら欲しいなと。


2017327_1

ぼろぼろですわ…

久しぶりに征露図会をぺらぺら見ていたのだけれど、広瀬の同期近藤常松の書簡が一部掲載されている。
内務省土木監督の技師であった兄宛。
(この兄が近藤仙太郎と言う高名な技術者だったらしく、利根川や大井川、天竜川の改修でかなりの功績があるようです)


向井弥一_海大講習員 
(左から2番目が近藤。荒川仲吾と向井弥一も同期)


近藤常松は旅順口閉塞作戦当時、駆逐艦漣の艦長で、閉塞隊の援護と収容の任に当たっていました。
大島正毅や松永光敬、九津見雅雄といった同期たちも同様の任に就いており、送る方も送られる方も感慨一入であったのではないかと想像します。


近藤は日清戦争直前、広瀬と同じく水雷術練習所「迅鯨」の分隊士でした。
周囲がどんどん出征していくのを見て、当時の広瀬は焦り、自分の番が来ないことに落胆する日々だったのですが、果たして同僚の近藤までが先に出征することに…
「貴様、俺より先に征くのか」
そう広瀬から言われたと近藤本人が話を残しています。
当時の広瀬(の日記)が大変かわいくて(おっと失礼)、私としては大好きな時期です。
近藤が兄に宛てた書簡の最後に、


一言之を云へば唯壮絶惨絶と申すの外無之候
遂に我親愛なる広瀬武夫を失ひ申し候


とある。
同期ですから当然と言っちゃ当然ですが、やっぱり仲が良かったんだろうなあ…


また作戦に赴く広瀬を見送った霞艦長・大島正毅の回顧も残っている。
霞が福井丸と並走していた際に大島が

今夜は星光微かにして薄き靄あり、決行最上の夜と思はる。
已に天佑あり成功疑ひなし


こう信号した。
そうしたらすぐに船橋天幕に登ってきた広瀬が手旗信号で返信。


我又成功を確信す、有難う左様なら


そのまま福井丸を見送った霞はその後、閉塞隊援護・警戒に回る。
その内に空が白み始め、海を漂う端艇を見つけて近付けば乗っていたのは福井丸の乗員だったそうです。


広瀬中佐は「どうされた」と問ひしに、「戦死しました」と答ふ

それから乗員を収容したのだけれど、


能くゝゝ見れば戦死者負傷者多数端艇の底に倒れ、血肉は飛散し端艇は破れ
実に凄愴惨憺の極みにて、暗愁痛惜無限の感に打たれつゝ、
中佐の肉片を大切に白布に包ましめ、其他の戦死負傷者を丁寧に収容し、
全部終了せしを以て、端艇を舷側に横附けの儘繋止し、沖合に向へり。


この肉片はアルコール漬けにされた上、大島艦長であった兄勝比古の元に届けられ、4月初旬に帰国しております。


日露戦争直前_同窓会_広瀬武夫


向井弥一のご子孫様から頂いて、自分で人物の特定をした15期の集合写真は私の宝物です。
これは明治37年2月5日撮影。
後年の写真でもなく、当時のまんま戦場にいる時まんまの姿で写っているというのは、なんとも感慨無量になります(出征前日ですが)。
この写真には大島も、松永も久津見も写っている。
近藤がいなくて残念ですが、この人たちか、と当時の回顧等を読むと思います。

広瀬についてはもっと多くの人の証言なり回顧を集めたいと思うのですが、それがなかなか難しい。
上の写真の中では、特に町田の話を私は聞きたいと思うのですね…
町田に限りませんが、”軍神”じゃない、”軍人”広瀬武夫の話がもっとあると思うのですよ。
杓子定規な広瀬武夫像でもなく、「広瀬中佐!」と変に敬う感じでもなく、もう少し自然体で広瀬に触れられる機会があればと思うし、そういう場をサイトやブログで作って行ければいいなと思います。

そんなこんなで広瀬武夫の113回忌でございました。
合掌。
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財部日記 第2弾

帰ってきた。
え、何処からという感じですが広瀬武夫の勉強会@東京に行ってきたー。
色々お話しを伺ってきましたぞ!
皆さん熱い方ばかりで私場違いだったんじゃないかと心配。
迷惑ではなかっただろうか。
 
そして頂き物!


グッズ 


クリアファイル(竹田市の)とサクマドロップ。
ビスコとチロルチョコがカスタマイズできるのは知っていたのですが、サクマドロップまでとは…(笑

午前は国会図書館に行ってきました。
引き続き財部日記を見てきた。
今回はあんまり収穫はなかったのだけれど、ぺらぺら見ていてたら、


財部日記 


お?と。
伊木壮次郎の話が出ていた。
明治28年7月11日条で、病気で加療のため鹿児島の自宅に帰っているという話を聞いて吃驚とある。
以前書いた諜報のことと関係あるのかなあとも思うのだけれど、さすがに1年前…
否定するのも肯定するのも微妙だわあ…


あとここ。


財部日記


財部の結婚式当日の日記。
薄すぎて読めないよ!でも広瀬って書いてある(※根性)
この日ともう1日について、職員の方と交渉したら、本当に特例ですよって現物を見せてもらえた…!

B6サイズほどの小さい日記帳だったよ。
そこにめっちゃ細かい字で書いてあるの。明治30(1897)年、119年前の日記。
上写真の薄い所は青の万年筆っぽく、急に濃くなっている後半部分は毛筆。なぜ。

もう1日の薄いところは、鉛筆(きっと先の丸まったやつ)でした…
職員の方に「これは読めないですね」と言わしめた!(笑)

上写真の話は、広瀬とあるから、向井弥一の名前も出てくるのかと思ったのだけれど、そうではなかった。笑
巳丑会(クラス会)のみんなで何か贈るから、何が欲しい?ということを広瀬が代表して聞いてきたという内容。
置時計か、盃か、花瓶のどれかがいいと返事したんですって。
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プリペア

そろそろ財部彪日記を見に行くための準備をしなければならないのだが。
前回見に行く際にかなりの下調べをしたので、何となく気持ちがたる~ん。
何と云ふことでせう。

とはいえ見たいと思うところはあってですね!
特に気になっているのは明治32年の部分。
広瀬武夫がロシア駐在、そこへ朝日回航委員の竹下勇、イギリス駐在員の財部彪がやってくる。





その時の記念写真が上のものですが、前列中心に座っているのが上村彦之丞です(中心…
来露したこの御一行様の面倒を主に見ていたのが広瀬でして、ロシアを発つ時も駅でお見送りをしている。

その時にね、上村がちょいちょいと広瀬を呼んで突然ほっぺたにチューするのですよ!
ほっぺにちゅー!(代わってー!)(こらこら

いやー…
私、この話は長らく島田謹二さんの作り話かと思っていたのですがね、竹下勇がとある席の回想で語っておるのですよ。
見てたんか竹下君。
それならきっと財部君も見てるはず。
それにこの一行と広瀬がどういう話をしていたのかとか、そういうのも財部日記からなら分かるのじゃないかと思う。
広瀬書簡を見ていると、広瀬はこの頃、ちょっと悩み多き時期であった節があるので、そういった話を聞いてないかとも思う。

あと財部の縁談の所かなあ…
ほんっと複写物が薄すぎて辛い。
原本見せてもらえないか聞いてみたいのだけど、ちょっと無理そうだよなあ。
1日、2日分だけなのだけれど。

あーやっぱり準備しとかんといかんわ。笑
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サイト更新 広瀬武夫人物関連数珠繋ぎ13

■サイト更新 広瀬武夫【数珠を繋ぐ13】

第13回。
内田良平(柔道)→末永節(扶桑)→国木田独歩→押川春浪→
川上俊彦・常盤(汁粉)→生方敏郎→広瀬中佐銅像→辰野隆→
上泉徳弥→財部彪→田中義一→江頭安太郎・安保清種→三宅雪嶺→広瀬武夫


前回のサイト更新時にも書きましたが、江頭・安保・三宅のセットで扱うつもりが、思いの外三宅雪嶺が長くなってしまい…
というものです。
今回はちょっと短め。

『広瀬中佐壮烈談』という戦前に出版された本があるのですが、それに三宅の広瀬武夫人物評が載っている。
原文を探しまして『断雲流水』までは突き止めた。
この本、志賀重昴との共著になります。
出版年と共著者を慮るに恐らく『国会』(新聞です)に掲載されたのではないかと思うのですが、それ以上は分からなかった…

今回テーマにした広瀬武夫『航南私記』の舞台になった明治24~5年の遠洋航海(海兵18期)時には民間人が数5・6名程便乗しており、三宅雪嶺はその内のひとり。
当時の農商務大臣榎本武揚が植民に意がありその旨を承けたとのことで、探検に志あるものが便乗を許されたそうです。

その中に松岡好一という人物がおりまして、三宅と同じくジャーナリスト。
三菱の高島炭鉱における労働者の非人道的な労働状況を『日本人』で告発したところ、当時『朝野新聞』の記者であった犬養毅がこれに反論、決闘を申し込んだことがある(この時の介添人が三宅と志賀でした)。
決闘には至らなかったのですが、周りを巻き込んで結構な大論争になった。
日本では明治22(1889)年に決闘が禁止されるのですが、この事件が法律制定の一因になったそうです。


この松岡氏ですが『航南私記』にも名前が見えておりまして、それがオーストラリアで行方不明になったという内容。
出身地安曇野市の説明によると、


南洋航海後に、シドニーで在留邦人の相談相手をして領事館の必要を感じ、
政府に設置要請をするために帰朝し、領事館はタウンスビルに設置されました。
木曜島で日本居留民団長となり、香港で宮崎滔天・平山周等と中国問題を討議し、旅館「日本館」を経営し日中親善に努めました。
台湾では総督の依嘱を受け、機密通信事業に従事して政治活動を行いました。
1916年(大正5)、日刊新聞「南国報」を発行するため、一時帰国しましたが、翌年の 1917年(大正6)、神戸にて病気のため亡くなりました。


ほう…
ただ三宅雪嶺の話によると(思ひ出す人々)、


メルボルン上陸後、或る日本人に文身術を習ひ、これを土地の人に施し、失敗して木曜島に逃げ、真珠採取者の間に斡旋した。


なんかエラい話が違うんやけど。笑
そしてメルボルンではなく正しくはシドニーです。

しかしながら少尉候補生として参加した安保清種も三宅と似たようなことを書いているのですね(銃後独話/昭和14年)。

安保曰く、当時海外渡航はお金もかかる上旅行免状など色々と手続きも面倒だった。
そこで軍艦に便乗してオーストラリアに到着したらどこかで逃亡しよう、それが便乗者の魂胆だったとある。
おい。笑
もっとも逃亡と言っても全然行方不明という訳でもなく…
安保は上陸した時に逃亡組が間借りしているアパートを訪れた。
彼等はオーストラリア人に内地で覚えて行った刺青(簡単なもの)を施して生活していたそうです。
珍しいから結構儲かっていたらしい。
彼等は訪れた安保に


「中々儲かつて面白いですよ」
と笑つて済し込んで居る逃亡組には私も笑つてしまつた。
明治二十四年の事であり、のんきなものだと、今でも、をかしく思ふ。


大らかで逞しいですな。

実際に逃亡したのは松岡ひとりですけれども、シドニー滞在は明治24年12月9日~29日。
そこそこ期間があるので、色々あったのではないかと思います。
しかし少尉以上の人々が全くこのことを知らなかったとは思えないのだけれどなあ…

しかし安曇野の「南洋航海後に、」の説明…
この書き方だとちゃんと日本に帰ってきてからまたオーストラリアに行ったみたいじゃん。笑。

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6月に勉強会

広瀬武夫の勉強会があるらしい…!
速攻で手を挙げて申し込んだよー
ということで来月東京に行ってきます。

というか、実は同じ日程で昨日教えていただいた秋山真之の新出書簡を見に行こうと思っていたんだが!
ごめーんあっきー!
広瀬の新出30通を取ってしまった!(笑)


 会場が国会図書館と近いんだぜ…


IMG_2306.jpg


これはもう財部君に呼ばれているとしか…!(広瀬とちゃうんか)
もう一回行ってくるわ!
一応と思って通年許可証作っといてよかった~役に立ちそう。

来週竹田市である広瀬神社の例大祭と広瀬武夫顕彰会の総会には出られないのです。
スケジュール的にorz

昨日広瀬武夫顕彰会からついた文書で出席の可否を問われていたのですが、返信用はがきが入ってなかった(笑)
一応事務局の方にご連絡して(顔も名前もばれておるのだ…)、欠席の旨をお伝えしたのですが、その時に地震についてお伺いしてみた。

そんなに大きな被害は出ていないよ、とのこと。
大分の話は全然ニュースにならないので、現地の方の声を聴いてひとまずほっといたしました。
竹田は備蓄などの災害対策を行政が率先していたため、今回の地震でも対処が早かったという話を
ツイッターであったのですが見まして、そういうこともあったのかなと。

ただやはり無傷ではおられないと思うので、少しでも早く、熊本ともども復旧されますようにと願うばかりです。


**


海軍つながりでー

戦艦「大和」をデジタル撮影へ 2週間かけて広島・呉市が潜水調査(別窓)

調査機関が今月10日から2週間なので今日は丁度折り返し地点ですか。

・ハイビジョンカメラで沈んでいる船体を撮影
・レーザー光線で大きさや厚みを計測、船体の飛散状況等も調査する

…そうです。
映像は解析した上で今秋までに大和ミュージアムで公開の予定だそうで。
調査結果を踏まえて展示資料も変えるみたい。

「今回の潜水調査では遺品や船体部品は引き揚げない」
という一文があるのだけれど、”では”って事はいずれはってこと?


も1個ニュース。

京都国立博物館所蔵の刀、実物の龍馬遺品と判明(別窓)

疑問視されていたけれど、本物だそうです。


**


パイン絡みでまたテレビ局からメール来たー
断りましたけど(やっぱり)、情報7daysってビートたけしと安住さんのやんね?
びっくりやわ…
なんで私のとこにくるのん?
私みたいな適当なレポじゃなくて、もっときれいな写真ときっちりしたレポ上げてらっしゃる方だって沢山いるでしょうに。
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