Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

意外感

先日パインこと横須賀の料亭「小松」の初代女将の自伝を読みまして(『山本小松刀自伝』)。
パインに関しては「海軍料亭小松」のキーワードでググっておくれ。
びっくりやけど2番目ぐらいに私の作ったページ出てくるわ。
(もしご覧になっていたらobjectさん、あの扁額の字、米内光政でした。口絵に写真が載ってた…)

パインに遊びに来た海軍士官の話なんかが出てきていて面白く読んでいたのですが、その中に野元綱明の話が出ていました。
この名前、もう結構出てきているのでそろそろ御馴染みかも?
海兵7期、同期に加藤友三郎、島村速雄、坂本一、伊地知彦次郎等がいます。





一条という海軍士官とパインによく遊びに来ていたそうです。
一条実輝で合っていると思うのだけど(※本にはちゃんと名前は出ていました)、今調べたら一条は14期なのですよ。
同期もしくは期が近いのかと思っていたのだけど、は、離れすぎている気が…
急に記憶に自信がなくなってきた^^;
やんごとない生まれで品があったと書かれていたので多分合ってると思うのですが。
(分かる人突っ込んでw)

ふたりともお酒に強くて、コマツさん、話し相手飲み相手として付き合っていて付き合いきれず寝てしまったりすることもあったらしい。
びっくりしたのだけれど、
「少しの間でいいのでお蒲団の裾に入れてください」
とか言って。
え、そんなんあり?いいの?(笑)
一緒の布団に寝かせてくれとかそういう事ですよねえ(笑)

そんな感じで3人で雑魚寝的なこともしていたようで、ある時コマツさんが起きたら野元綱明が妙に神妙な顔をして
「女将お前は昨夜大変な寝言を言った」
とか言ってさー
中々教えてくれなくてヤキモキしていたら、一条さんが助け船を出してくれ、
「芸者の○○○(文言忘れた)とはどういうことか、スイカが80銭とは1個の代金かそれとも半分か」
そういうことを聞かれた。

とにかくお商売に関することを寝言(大声)で言っていたらしい。
それはこうこうと説明して笑いあったという他愛もない話ですが、何という明治の長閑さ。

個人的に野元は余りいい印象がないのです。
広瀬武夫や米内光政の上司であったことがあり、しかもふたりともウマが合わなかったようで。
米内に関しては関係者の伝記にさえ米内が嫌われていたことがはっきり書かれているしなあ…
そんな感じであったので、少しでもいい感じの印象が持てて良かったです。
そりゃあ嫌な面ばっかりである筈ないわな。


広瀬武夫の兄広瀬勝比古の話なども出ていましてね。
曰く、酒も強ければ遊びもする。
至って気軽な人で小唄も歌えば藤八拳も達者なので中々粋な話があったそうです。
そうなんだ。

勝比古兄ちゃんが藤八拳とかめっちゃ意外。
或る年には元旦から七草まで飲み通しで飲んでは寝、起きては飲みということもあったそうで。
うわーこれも意外やわー
どうしても弟の陰に隠れてしまい、温厚で静かな人という印象が強いのです。
実際海軍の中でも敵のいない人として知られていたそうですし。
誰と来ていたんだろう…
同期かな?やっぱり同期かな?(笑)(海兵10期、山下源太郎、石橋甫、名和又八郎等)

この方については家庭から見た話が多い感じなので、こういう話を見るとちょっと嬉しくなってしまう。笑
やっぱり海軍さんやったわー(笑)(当然ながら)
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固め修めし大八洲(2)

続き。

「はじめ」という名前ではもうひとり印象深い海軍さんがいまして、それが石橋甫。
私は何と読むのか長らく知らなかった…
心の中で「いしばしほ」って読んでた。笑。ほって。
海軍兵学校10期で広瀬武夫の兄勝比古と同期です。
山下源太郎、名和又八郎らも同期。

そんなに一般的に知られる提督ではないと思うのだけれど、航海の名手として知られた方です。
広瀬やもう少し下の代、恐らく山梨勝之進らの世代、もう少し下もかな~…
相当有名だったと思う。
明治期、優れた航海術で有名だった軍人は何人かいて、中でも新井有貫、三浦功、石橋甫。
新井と三浦は旧幕時代からの経歴。
山梨らの世代ではこういう人たちのようになるというのをひとつの目標にしていたそうです。


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広瀬武夫は新井と同じ艦に乗り込んだことがあります。
日清戦争の途中から広瀬は扶桑乗り組みになりますが、その時の艦長が新井だった。
そして広瀬は鹵獲した鎮遠の回航委員にもなっているのですが、委員長が新井だったんですね。
鎮遠は破損が酷くて日本まで直接航海が出来なかった。
それで修理のために旅順まで鎮遠を持って行くのですが、それを引き受けたのが旅順口根拠地知港事であった三浦功でした。

石橋については広瀬の書簡に名前が出ていた記憶があります。
ちょっと探しきれなかった…
運用の大家とか航海の大家とか、そんな風に書いてあった気がする。
自分で作ってる人名索引から漏れているorz
…三浦だったかな…

で、こんな(?)石橋ですが、山梨勝之進が八島にいる頃航海長だった。
航海士の時に航海長だったそうなので、直属の上司だったのか。
近くで見ていてめっちゃ無造作に、早く、しかも正確に海図に艦の位置を記していく手際の良さに驚いたと山梨が回顧している。


つづく 
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インパクト

今週末にサイトを更新するつもりでいます。
それに出てくるとある海軍さんの写真、家にないかと思って探したのだけれどなかった。
ありそうな気がするのだけれど、テキトーに見ていたからスルーしたのかなあ。


とある海軍さんとは坂本一のこと。
以前海軍の糧食関係で名前を出しました。
海門の兵員がパン食に不満をもってサボタージュしたというあれね。

ブログからの転載は3ヶ月開けるのをめどにしているのだけれど、あれは途中でぶち切っているので早めに続き(というか完全版)をアップしておこうと思っています。
ということで次回の更新分は陸海軍、特に海軍さんのご飯の話です…


そこで坂本一が2度登場します。
そうなんだと思ったのだけれど、この方、日露戦争の際の八島の艦長だったのね。
八島ですね。旅順沖で触雷して沈みましたね…
ううう…

『戦袍余薫懐旧録』という海軍軍人の回顧録集がある。
これに沈没した各艦乗組みであった人々の回顧録もあれこれと載っている。
海兵15期でこれまた触雷で沈んだ初瀬乗組みであった小林恵吉郎の回顧も収録されているので、「Here I am」を書いている時に内容を確認しました。

その際、その前後も幾らか確認したのですが、その際に八島もあったなあと。
確認したものの、更新分には全く役には立ちませんでした。笑
そして東郷平八郎に報告に行き、紅茶を勧められて号泣した人がこの人だった。


もうひとつ、軍艦の沈没話ではすごく印象に残っている話があって、それが「大島の遭難」。
題を見た際、えっと思う。
当時の大島艦長は広瀬武夫の兄、広瀬勝比古でした…


//blog-imgs-72-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2015414.jpg


寄稿者は中川繁丑。
この方、島村速雄と吉松茂太郎の伝記を書かれてます。
ふたりとも海兵7期。ついでに書くと坂本一も同期になる。

中川、日露戦争当時は大島乗組みの先任分隊長だった。
大島の沈没は触雷ではなく、赤城の衝突により船体に大穴が開いたため。
原因は赤城側の不注意と、命令伝達方法にちょっと無理があったようで連携が上手くいかず、要するに不運が重なった。

これはいよいよダメだと総員退艦、総員カッターに乗り込んだけれども、広瀬艦長が来ない…
中川が艦橋に迎えに行ったところ、
「艦と運命を共にする」
艦を沈めてしまう責任を深く感じていたそうです。
それを「総員艦長待ちです」と説得して連れだし、大島から離れた途端に彼女は沈んだ。

これ5月中旬の話。
愛弟武夫(仲のいい兄弟でした)を亡くして1ヶ月半後に艦を失う不運。
広瀬勝比古には短期間に来たこの衝撃があまりに大きかったようで、それからは急激に老いの兆しを見せ、病弱になったそうです。

そうか…
勝比古さん、死ぬつもりだったんだね…
私にとっても衝撃だった。 
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