Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(5)

衝撃の「東郷元帥の印象ない」発言から一夜(こらー
続きです。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。

天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。<略>
鈴木タカは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります。<略>


養育係冥利に尽きるだろう思います…
足立たか、後に鈴木貫太郎と結婚して鈴木たかになる女性で、いくらかエピソードがあるのですが、昭和31年10月の回顧(『昭和天皇の時代』文芸春秋編・出版/1989)からひとつだけしつまみ食い。

日露戦争後の論功行賞があった頃の話。
足立たかが迪宮と淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)のお供で御所に出ていた時、
「今日はおじじさまはお忙しいから、皇后さまの方に向かう様に」
とのこと、皇后に拝謁する為に人形の間という部屋で待っていたら、そこにぞろぞろと爺さん連中がやってきた。

それが金ぴかの盛装に勲章をつけた元老だったのですね。
原文には七元老とあるのだけれど、当時は5人だと思う…

伊藤博文、山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌。
黒田清隆と西郷従道はもう亡くなっているので。
もしかしたら桂太郎と西園寺公望が入っているのかな?


足立たかは、やってきたじーさんらにびっくりして場所を変えようとした。
そらーねえ…
紛れもなく当時の国を動かしていた人達(の集団)ですから、幾ら皇孫のお相手をしているとはいえ、23・4歳の女性では流石に怯む^^;
というか、そこそこ場数を踏んだおっさんでも怯むだろう。笑

これ、明治39(1906)年4月1日の話だと思います。
伊藤、山縣、大山がこの日に大勲位菊花章頸飾(内閣府/別窓)を受章していて、恐らく間違いない。


当時迪宮は満年齢で5歳、淳宮4歳、光宮は1歳とちょっと。
前年の日露戦争中は、号外を売り歩く鈴の音を聞いて、皇孫御殿で兄弟で鈴を鳴らして号外を配るごっこ遊びをしていた。
まあ、それ位の幼児である。かわいい。


伊藤博文、山縣有朋


入ってきたじーさんらを見てか、足立たかに背中を押されてか、淳宮と光宮は早々に場を変えてしまった。
けれど、迪宮だけはちょっと立ち止まって元老たちを見ていたそうです。
そうしたら伊藤博文が傍にやってきて、


「皇孫殿下にいらっしゃいますか」
といわれました。
「さようです」。
そこであいさつを遊ばしたんですよ。

殿下は「誰か?」ってお尋ねになられました。

「私は伊藤でございます。きょうはおじじさまから結構な頂戴物をいたしましたので、お礼に参りました」。
「そこにいるの誰か」
っておっしゃるので、つぎつぎに山県元帥からずっと七元老の名前を伊藤さんが申上げたんです。

殿下は「そうか」っておっしゃって、いちいちごらんになっておいでになりました。
みんな大きな方の中に水兵服を召した小さな殿下なのに、やっぱりプリンスとしての態度がご立派なものですから、伊藤さんが非常に喜ばれて、

「ああ、きょうは良い折りにお目にかかりました」
と喜んで、
「あとのお二方様も、どうぞこちらへいらしって頂きとうございます」
といわれたので、それからお二方をお連れしまして、七元老がごあいさつなさいました。
<略>

迪宮さまが、
「勲章がたくさんあるが、きょうはどれを頂いたのか」
とおっしゃる。


伊藤博文
(伊藤、明治40年の撮影。多分こんな感じだったかと)


伊藤さんが
「これを頂きました。まことに有難いことで」
と申されますと、
「そのほかに着いてる勲章は何か」
ってお尋ねになる。

たくさん着いておりましたのですよ。
「これは外国の勲章でございます」
とかいちいち申上げまして、山県さんなどはびっくりしていらっしゃるんです。<略>


山縣を驚かせたか。
確かに5歳で元老連中相手にこれは流石に凄いわ。

これから13年後の大正8(1919)年に出てきた、当時皇太子であった迪宮のヨーロッパ外遊を推進したひとりが山縣でした。
その理由のひとつが、皇太子の社交性(コミュニケーション力)の無さで、山縣が、
「拝謁しても御下問なども無く、まるで石地蔵のようだ」
なんて人に漏らす程だったのですね。

山縣ほどの地位にあれば、皇太子に拝謁する機会は度々あったと思いますが、13年前とは違う意味でびっくりしていたんじゃないかと思います…


つづくー
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思想の殺戮

大正を読み直す

『「大正」を読み直す 〔幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川〕』

内容は昭和を考えるには大正からですよねということです(簡略化しすぎや…
昭和陸軍の、統帥権を利用した暴走の萌芽は大正のあちこちに転がってるのよという勉強をしていた身からすると、知ってますとしか言いようが…

昭和の全体主義の萌芽は大正時代にある、という話。
個人が持つ思想が明治末に国家により圧殺されるところから始まり、最後には個人が全体主義・国家主義を唱え出すようになる流れが描かれていました。
この本を読んでいてちょっと…というか、かなりびっくりしたことが。

「個人が持つ思想」とはこの本の場合は社会主義で、「国家による圧殺」とは大逆事件の事。


大逆事件(角川新版日本史辞典/1996)

著名なものとしては、1910(明治43)年幸徳秋水<略>らの当時の無政府主義者・社会主義者が明治天皇暗殺を計画したとされる大逆事件<略>がある。
’10、5月から全国的に多数の社会主義者が逮捕され、26人が起訴された。

非公開の公判を経て’11年1月18日大審院特別法廷において24名に死刑、2名に有期懲役の判決があったが、十分な確証のない者もあり、翌日天皇の特赦により死刑の半数は無期懲役に減刑された。

しかし、残り12名に対しては早々の24日11名、翌日管野の死刑が執行され、社会に衝撃をあたえた。


大逆罪は皇室に対する罪のことで、戦前では一番の重犯罪になります。
天皇・三后(太皇太后・皇太后・皇后)・皇太子・皇太孫に危害を加えた、または加えようとした、ということで皇室へ危害を加える=国家への反逆と見做された。

幸徳事件(所謂大逆事件)は、時の政府によるでっち上げだと言われます。
最近の研究ではこれが一致した見方で、事実そうだったと思われる(辞書の内容は古い)。

しかしそんな事件が全くなかったかと言われるとそうでもない。
起訴された26人全員が冤罪とは言い切れず、実際に明治天皇を暗殺しようと考えた人間は4人いた。
爆発物の製造実験をし、更にその材料も押収されているし、この人々は逮捕されている。


ただ幸徳秋水がこの計画に関わっていたかと言われたら、それはNO.
では計画を全く知らなかったかと言われたら、それもNO.
上記4人に相談はされたけれど、幸徳は反対した。
反対したから、計画からは除外されている(だけれども首謀者扱いで捕まった)。

4人の逮捕後、幸徳を含む22人が逮捕されますが、この人たち、天皇暗計画とは本当に無関係なんである。
逮捕の理由が上記4人の誰かとかつて親しかったとか、影響を与えたとか。
あいつならやっているはずだ、とか。

何の証拠もないまま社会主義思想の持ち主という理由で捕まっている。
まあ、政府は社会主義者を一掃するために、大逆罪という刀を振りかざして捕まえているので…
とにかく理由が分からないまま逮捕され、死刑判決を受けた人が多かったと思われる。

計画に反対してその後は関与しなかったにも関わらず天皇暗殺計画の”首謀者”扱いされた
幸徳については、この事件の担当検事自身が以下のように述べている。(『「社会」のない国、日本』より)


幸徳が此の事件に関係のない筈はないと断定した
証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するやうになつた


疑わしいという理由だけで逮捕され、非公開裁判にかけられた挙句死刑判決を受けて処刑される。
上記の通り大逆罪は戦前では最も重い罪で、裁判は非公開、三審ではなく、大審院で1回限りで結審します。
判決は覆らない。


私は知らなかったのですが、この時特赦で無期懲役になったひとり坂本清馬が戦後昭和36年に東京高裁に再審請求を行ったそうです。

38年にこの再審請求に関わる審尋が始まった。
この審尋の公開を弁護団が要請したものの、却下され非公開。
そして頭ごなしに再審請求人の思想を否定的に見る質問を裁判長が再審請求人にした挙句、再審請求は却下された。

理由。 


大正を読み直す 


なにこれ…
ちょっと何言ってんのか分かんない…

また、最高裁の大法廷が昭和42年に大逆事件の再審請求の特別控訴の棄却を全員一致で決定。
戦後の最高裁は戦前の大逆事件を追認した。
裁判所は坂本に対し死刑判決を受けるようなことをしたのだと認定した。

著者は震え上がるような恐ろしさを覚えたと書いているのだけれど、私も怖くて鳥肌がたった。衝撃的でした。


あと、私の中でごちゃごちゃになっていたのだけれど、幸徳秋水って結局社会主義なの?アナーキズムなの?どっちなの?という…
幸徳秋水が紹介される時ってどちらも書かれているように思うのですが、国史大事典を見ると、社会主義→無政府主義らしい。
うーん…政府からしたらどっちであっても、国体の否定であるから容認できるようなものではなかっただろう。


桂太郎 原敬


ちなみに時の政府は第二次桂太郎内閣です。
所謂桂園内閣の時代で、前の政権であった西園寺公望内閣は割と社会主義者に寛容だったんですね。

当時内相(治安の責任部署は内務省)であった原敬は、
きつく叩くと地下に潜って蔓延し、却って取締りしにくくなる、社会主義の蔓延を防ぐにはもっと根本的な社会政策が必要である
という旨を日記に記しています。(明治43年7月23日条)


原敬日記 


しかしながらそれが山縣有朋、桂太郎ラインに叩かれまして、これが一因で西園寺内閣は退陣しております。
ついでに大逆事件の指揮を執ったのは後の首相、平沼騏一郎(当時法務省の検事)。

あと感心したのは吉野作造の民本主義について。
普通にイコールで民主主義、人民主権だと思っていたのですが、違うものだったのね…
ただこの本を読んでいて感じたのは、吉野の言う民本主義と民主主義、本人の中でさえごっちゃになってない?という…^^;
大杉栄から的確な罵倒的批判を受けていて、ちょっと驚いた。
私たちが学校で習う歴史って一体何なんだろうね。

このエントリーだけ題が違いますが、今回読んだ中で一番衝撃的だったのがこの本でした。
「思想の殺戮」という言葉は本書中に2度かな?出てくるのですが、明治末期の大逆事件はまさしく国家による思想の殺戮でしたわ…


***

ということで、読書感想文終わり!
後はもういいです(笑)
まあ、本屋で見かけたら「あ、あれか」と思ってください。笑
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固め修めし大八洲(7)

読んでるよーと声を掛けて頂いて嬉しいです。
拍手をしてくださっている方もありがとうございます^^
反応があるとやる気が出るわー(現金)

そして伊藤博文の話になると熱くなる。
大好きなんです伊藤博文。近代の政治家で一番好きだ。

前回の話、非常に単純化してます。
さすがにあそこまで簡単な話ではないのだけれど、バサッと大枠を掴んで。
歴史は大きな流れが分かると細かい所も分かりやすいから。

日清戦争後~日露戦争前の政治の大きな課題は、軍拡の費用をどこから持ってくるか、です。
大体において地租増徴案がネックになって内閣が倒壊し、議会が解散されている。


**


大隈重信、板垣退助の隈板内閣が成立したのは明治31(1898)年。
成立間もなく…というか、内閣成立前より旧進歩党派と旧自由党派で分裂、結果4か月で内閣空中分解。
その後に組閣したのが山縣有朋です。
これは前々回触れた第2次山縣内閣で、33年に文官任用令と軍部大臣武官制度を導入した内閣になります。

で、この内閣の時に地租が上がってるのね。
民党はどうしたという話ですが、旧自由党系の憲政党(星亨)が政府と提携している。
山縣と憲政党が妥協して地租を2.5%から3.3%に引き上げています。


https://blog-imgs-72-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20155602.jpg (下の→)


但しこれは明治32(1899)年から5年間、つまり明治37(1904)年までの時限立法だった。
これでとりあえずは財源確保!
これ以上は何にもなし!…かと言われたらそうではない。

第2次山縣内閣の次、第4次伊藤博文内閣でも増税案(建艦補充費用捻出等の為)が提出されていますし、その次の桂太郎内閣では地租増税の5年制限を無期限にする案を議会に提出しています。
当然野党第一党である政友会(自由党系憲政党が母体)は猛反対します。
それを伊藤博文が政友会総裁の立場ではなく、国家の元老の立場から、無理やり政友会に受け入れさせている。
明治36(1903)年。


桂太郎


ちょっとね、私もよく分からないのだけど、この5年時限立法の地租増徴継続案。
ネットで見ていたらちゃんと5年後の明治37年3月末で終わることになっていて、その直前に日露戦争が始まったので結局延長されたという記述がある。
桂内閣と政友会の妥協がすっ飛ばされてんだが。
流れが繋がらない…
結局5年間では終わらなかったことは確かなので、結果としては一緒と言っちゃ一緒なのだけれど。
サイトに移す時にはちゃんと調べときますわー
すまーん。


日清戦争が終わってもロシアの脅威に対抗するために軍拡に次ぐ軍拡が継続され、当時の政治の課題はその軍拡費用をどこから持ってくるかでした。
具体的には地租増徴、消費税などの間接税の導入・増税が挙げられる。
今まで書いてきた通り。
じわじわじりじり国民にかけられる税金が上がっていく。


そして明治37(1904)年2月、日露戦争が始まります。
ではその戦費はどこから調達してくるか。
よく知られているのは高橋是清の外債調達ですが、勿論これだけではありません。
国民にはさらに税金がかけられる。


日露戦争中、桂内閣は2度にわたって「非常特別税」という臨時増税を導入しています。
戦争が始まってしまうと流石に政府と議会が反目しあうような状態ではありません。
まさしく挙国一致の様相で、反対も出ずにスムーズに可決。

具体的には地租、所得税、営業税、酒税、砂糖税の増徴、石油消費税、毛織物消費税などの新設。
塩と煙草は専売になった。
煙草の話は生方敏郎(明治15年生、ジャーナリスト)の『明治大正見聞史』にも出ています。
曰く、政府の専売になると不味くなることは分かっていたがみんな我慢した、云々。
非常時だからねえ…

そして臨時増税なので、この非常特別税にも時限がありました。
日露講和が成立した翌年末まで。
制限があるし、そしてまさしく皇国の興廃この一戦にあるから、税金がどんどん上がってもみんなが我慢した。
(この話はまだ続きがあるのですが、それは後に回します。本当に違う話になってしまう)


日露戦争ってね、こういう中で遂行された戦争なんです。
日露戦争で活躍した軍艦も、こういう中で作られた。
ドラマ『坂の上の雲』で、

国民が爪に火を灯す暮らしをして軍艦を作った

という旨の言葉があった。
確か広瀬武夫のセリフだったと思うのだけれど、これ、本当そう。
明治天皇が宮廷費を出し、文武官が俸給の1割を返納し、国民が度重なる増税に耐えて、本当にみんなでお金を出し合って作った軍艦。
いつの時代の軍事費も国民のお金で賄われています。
それに違いはないのだけれど、こういう経緯を知っているから、余計に明治の、日露戦争頃の軍艦が私はいとおしい。


それがやね、まだろくに戦いもしない明治37年の5月に触雷で沈むわけです。(開戦は2月)
戦艦6艦の内の2艦、八島と初瀬が1日で沈んだ。
第1艦隊、即ち連合艦隊の基幹になる戦闘部隊の構成艦です。一番肝心な所。
戦闘力何割減で後どうしようということもあったと思うけれど、これ国民に対してどうやって言い訳するの?

初瀬は触雷の際に犠牲者が出ています。
だから隠せなかった。
ただ八島の方は全員無事でしたので、日露戦争後まで触雷で沈没したという事実は隠匿されています。

士気の低下が懸念されたこともあったと思う。
けれど、国民に対して申し開きできないという理由も絶対にあったはず。


つづく。


***


前回大隈重信の改進党と書いていましたが、進歩党です。
当時すでに改名してた。すいません。 
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固め修めし大八洲(6)

戦艦八島の話が政治の話に移り変わりつつあるよ。どうして。

明治27年の日清戦争で日本は勝利を収めます。
戦後の下関条約で得たものは澎湖諸島・遼東半島・台湾の割譲、あと賠償金2億両。
が、三国干渉(ドイツ、フランス、ロシア)で遼東半島は返還することになります。

この一事で政府や国家上層のロシアに対する警戒感が非常に高まった。
陸海軍という当事者のみならず、政治家も軍拡と近代化が急務であると強く認識するようになります。


ただ軍拡も近代化もお金が必要なんですよ。はい。
実際、日清戦争で得た賠償金の7~8割が軍事費で消えている。
それでも足りない。
なら税金を上げるしかない。
当時所得税もあるんですが、これは年収300円以上の人間が対象で数としては少ない。一握りです(2%)。
それでやっぱり税収の主軸である地租が対象になる(国家歳入の大部分でした)。

地租払っている層ってね、選挙権を持っている層なんです。
当時、選挙権は直接国税(地租、所得税、営業税)15円以上を払っている25歳以上の男子に限られます。
国民の1.1%。(世界的に見ても少ない数ではないそうです)
この人たち、自由党とか改進党とか、いわゆる民党の支持基盤なんである。
つまりこういう構図になる。


政府や軍、国家首脳…国際情勢怖すぎ。軍拡したい→地租上げたい
民党…地租増徴は支持基盤を失う。民力休養を掲げて党勢を拡張したい


これがまたえらいこっちゃという感じなのですわー。
何故かと言うに、当時、日清戦争後~明治30年代前半ですが、議会の半分~3分の2が民党なんですよ。
こんなん、政府の言い分通すの無理やで。

ではどうするか。
進歩党の大隈重信や自由党の板垣退助を取り込んで、政党と提携しようとする動きが出てきます。
当然ながら。
ただそれがうまくいかない。

政党の方もね、自分たちの意見を容れないと内閣の政権運用がスムーズにいかないことが分かっています。
だから、政府の足元を見てどんどん要求をエスカレートさせていく。
山縣有朋が政党嫌いになる理由分かるわ。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201555.jpg


しかし山縣のカウンターパートである伊藤博文はもう少し柔軟だった。
対立してもどうしようもできないなら、政党を取り込むしかない。

「だったら自分で政党を作ったらいい」


出た結論はこれで、出来た政党が立憲政友会になります(明治33年)。


ただ伊藤がここに行きついたのは、本当にせっぱつまっていたからだと思います…
政党に増税案を否決されて第2次伊藤内閣(M29)では総辞職、第3次(M31)では議会解散。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201556.jpg http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20155602.jpg


そうしている間にも隣国清国がどんどん列強の食い物にされていく。
膠州湾をドイツに取られ、旅順大連をロシアに租借され…
それを横目で見ながら政権運営している伊藤(伊藤に限らないけど)は滅茶苦茶焦る。
怖すぎる。
当時出された増税案は軍事的な危機を実際に目の当たりにしてのものでした。


ただもう政党との対立が激し過ぎ、にっちもさっちもいかなくなって、1回政党にやらせてみろや(やらせて失敗させろ)、ということになった。
そこで成立したのが隈板内閣。明治31年。
広瀬武夫さんがロシアに行って半年ぐらいの頃。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20155603.jpg http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20155604.jpg


しかし政党の内閣になっても軍拡は必要な訳ですよ。
政党側がどう言い募っても、結局その方向に進まざるを得ない。
ただ「民力休養」で地租減税をずっと叫んできた手前もあるし、支持基盤が支持基盤なので、地租増徴は出来ません。

じゃあどうするの?

はい。
他の税金が導入されました…
酒と砂糖に消費税が新しくかかることになりました。

自分たちの都合の悪い所からは税金を取らずに、直接国税を払えない層から広く薄く税金を取る。
こんなんね、まさしく党利党略ですよ。
これには政権与党内からも批判の声が上がったみたい。


隈板内閣は日本で初めての政党内閣と言われますが、内実は本当に酷いものだった。
急場拵えの提携、内閣であったので統一される際に進歩・自由2党の理念の一致も合意もない。
閣僚ポストの配分で対立し、猟官運動は過熱し、党利党略で消費税。
結果4か月で内閣倒壊。

国民に「政党=党利党略でしか動かない」というイメージを一番最初に植え付けたのはこの内閣です。
初っ端がこれだったというのは、なんというか、本当に…orz


つづく。 
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固め修めし大八洲(5)

戦艦八島の続き。


議会で戦艦の建造費全額削除されること2年あまり、第4議会の時点で明治26年。
日清戦争いつから始まるか知ってるか。
明治27年だ…

ただ戦争が始まる年月日なんて当時の人には分からんので、国際情勢の変化に鑑みて心配だけはものすごく募る。
一番心配したのは恐らく明治天皇だと思われ、流石に政府と議会の間に入りました。

曰く、

国防を揺るがせにすれば100年の悔いを残すことになる。
そこで私が内廷費から30万円を6ヶ年出すことにする。
文武官僚も特別の事情がある者を除いて俸給の1割を6ヶ年国庫に返納し、それを建艦費に宛てなさい。


政府と議会の政争終了。

……。
んー…
議会もね、本気で国防をゆるがせにする気はないとは言うんですよ。
八島と富士の建艦を急がないといけないという事だって、本当は分かっている。
前回民党は「民力休養、政費節減」をスローガンに政府に対したと書きました。
これは嘘ではない。
嘘ではないけれど、これだけが理由でもない。

明治憲法下で議会(政党)が持っている政府への対抗策は予算協賛権です。
だから政府(藩閥)に反対しようとすると、それを振りかざすことになる。
軍艦が必要でこんな事をしている場合ではないというのを分かっていてこういう事をする。
その上政党が権力を握ると、政党人は陸海軍大臣の席まで猟官運動の対象にするんですよ。


この時から数年後の明治33年、再度首相となった山縣有朋が軍部大臣現役武官制度を作ります。
陸海相の補任資格を現役士官に限るという制度で、 大正期から戦前期にかけての度重なる悪用で非常に悪名高い制度として知られている。
で、昭和であんなことになったのは制度を作った山縣のせいだとまでいう奴がいる。
勉強不足も甚だしい。

山縣の肩を持つ気はないけれど、山縣が生涯に渡って政党を嫌い抜き、国家を危うくするものだと信用しなかった理由は分かる。
軍人として政治家として、こんなことする政党を信用できるか?という話ですよ。
特に当時の海軍拡充計画で作られた三景艦だって、いざ使ってみたら結構大きな欠点がある訳です。
八島と富士はそれを補完して定遠鎮遠と真っ向勝負をするための艦だったのに。
藩閥に対抗するために予算を全額削除。


現役武官制度の本来の目的はね、一般にイメージされるような軍の政治介入、進出ではない。
軍事が政争に巻き込まれたり、党利党略に利用されるのを防ぐためだった。
逆なのよ…

そもそもなぜこの制度が作られたのか、その理由に触れないで結果から制度と制度を作った人間を批判するのはどうなのよと私は思う訳です。
確かに山縣は非難批判されるようなことを結構している。
してますよ。確かに。ええ、色々と。
しかし流石に昭和の責任を山縣に押し付けるのは違うだろう…
山縣になら何してもいいと思われている風はあると思う。


その話はさておき。
明治天皇の所謂建艦詔勅で八島と富士は急いでイギリスに発注されました。
が、やっぱり間に合わなかった…
起工が明治27年日清戦争の真っ最中、竣工が明治30年。


戦艦八島


日露戦争が始まった際、日本が持っていた戦艦は八島、富士、敷島、初瀬、朝日、三笠の6艦。
後者4艦は明治33~5年にかけての竣工。


前に八代六郎が八島の副長であった際の話を書きました。
曰く、

「八島は日本一の艦である」

当時明治33年です。
同年竣工の艦もまだ日本には回航されてないので、当時八島と富士は紛れもなく「日本一の艦」だったことになります。


つづく。

いやー終わらんー
語りたいことが沢山ある…見てくれている人は興味あるのかこんな話…^^; 
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