Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

ふりさけ見れば春日なる

去年12月に向井弥一のご子孫様から更に写真を頂いてしまった。
向井弥一のポートレートと、艤装中の戦艦三笠、三笠上甲板での回航員たちの集合写真。
去年はクリスマスプレゼントを頂きまくったような気がします。
後半は毎月が12月でした .:*・゜ ゚+。:.゚ヽ(*´∀`)ノ゚.:。 (こんな感じだった。笑)
誕生月なのですごく嬉しかった。

回航員の集合写真はどこかで見たことがるような気がするんだなあ。
どこで見たんだろう。
似た写真をそう勘違いしているだけなのか、よく分からない。山梨勝之進の遺芳録かなあ…
しかしひとりで写っている礼服姿のピシッとした向井が大変カッコ良い。
明治32年とか3年とか4年とかその辺りなので32歳とか3歳とか4歳なのだけれど、結構な髭が貯えられていても全然不自然じゃない不思議…
様になっていて格好いいんだよね。うん。カッコいい。カッコいいぞ向井^^


三笠での写真と言えば2葉探している写真がありまして。
探しているというか持っているのですが。
『坂の上の雲』がドラマ放映されていた頃に記念艦みかさでその関連で特別展が開かれた際に出ていた写真なので、ご覧になった方も多くいると思います。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141218.jpg


一部だけ。
秋山真之と広瀬武夫がワンフレームにいる写真。
広瀬がロシアにいた頃、軍事視察のため英仏独3ヶ国を旅行しますが、途中イギリスで秋山と合流しています。
これはイギリス、建造中の三笠を見学した時の写真で、上村彦之丞(朝日回航委員長)や釜屋忠道(11期)、臼井兼太郎(15期)、黒井悌次郎(12期)等も写っています。
同時に撮られた写真の一部がこちら。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141218_2.jpg


広瀬と秋山が一緒に写っているのが嬉しくて、写真用紙に印刷して部屋に張っている。笑
写真の持ち主が白井頼吉という造船士官で(多分他の人にも配られてるだろうけど)、この方の遺品に含まれているということは分かっているのだけれど何を見たらこの写真を確認できるのかが分からない。
数年前からちょこちょこ気が付いた時に調べてはいるのだけれど、どうも分からないんだよねえ。
記念艦みかさに聞いたら教えてくれるんだろうか。


広瀬の当時の行動を見ると、明治33年、

4/23 ロンドンから北イギリス(ニューカッスル)ヘ出発
    ・上村彦之丞、黒井悌次郎とアームストロング社来訪。初瀬、出雲、磐手を見学
    ・ニューカッスルで秋山真之、釜屋忠道と合流、エジンバラ、グラスゴー、バロー・イン・ファーネス等を共に視察
4/28 グレンジ(湯治場)止宿(ヴィッカース・アームストロング社バロー造船所へ向かう途中)
    ・白井頼吉、臼井兼太郎も一向に参加

出てくる名前と写っている人、合致してますね。
戦艦三笠はバロー・イン・ファーネス市にあるヴィッカース・アームストロング社のバロー造船所で製造されました。
5月2日にはロンドンに戻ってきているので、撮影時期は4月29日~5月1日の間だと思います。
4月末だろう。

そこから秋山と一緒にフランスに渡り、ドイツに出かけて別れています。
当時はフランスにもこのブログで名前が出てくる人が滞在していまして、駐在武官であった伊東義五郎、駐在員であった森山慶三郎、またイギリス駐在員であった山本英輔も旅行中でフランスにいた。
そういった人たちと一緒に視察に出て、みんなで寄せ書きして広瀬勝比古に葉書を送っています。
「将来は皆アドミラルになる豪傑たちの自筆なので大切にしてください」
という広瀬のコメント付き。


広瀬武夫、秋山真之


この葉書は去年末に放送されていた「滝廉太郎と廣瀬武夫」でも紹介されていました。


続きます


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パラべラム~堀悌吉(9)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


山本五十六がロンドン海軍軍縮会議でなぜ猛然と妥協に反対したのかの理由はよく分からない。

恐らく純粋に軍事的視点から国防に問題が出るといった反対だったのだろうし、全権の交渉の仕方がまずいという思いも、政治家が海軍を蔑ろにしているという反感もあったと思う。

ただ、その後いわゆる条約派の提督となったのは確かで、それから日米開戦すべからず、に続いていく。
アメリカに駐在した時代と海軍次官やGF長官を勤めた時代、その間にロンドン海軍軍縮条約が挟まっているから一貫性を見いだせず、余計に理解に苦しむんだと思う。
A→Bなら分かるのだけど、A→B→Aに見えるんだよねえ…

山本五十六については三国同盟に反対した、日米開戦に反対だったという印象が強く、そのイメージに当て嵌めて予断で人物像を考えてしまう所があるのだろうなあ。


『天皇・伏見宮と日本海軍』(文芸春秋/1988)を見ると、著者野村實は、
山本がロンドンから日本に帰着した日に認めた故郷の知人宛ての書簡を見ても、この時まで条約に不満があったことは明らか、と記しています。
ただ帰ってきて目の当たりにした国内状況を見て、考えが変わったのではないかと。


山本が帰って着た頃(6月中旬)、日本では既に条約調印をめぐって統帥権問題が起こっています。

「政府は海軍軍令部(軍令機関)が承知していないのに条約に調印した、これは統帥権の干犯だ」

そう非難したのは野党政友会の犬養毅、そして鳩山一郎です。(4月末~5月初旬の帝国議会)
何でこんなことを言い出したかの理由はただ一点。
政権奪取の為の政府攻撃です。
全くの党利党略です。
政党が言い出すまで、海軍はこんなこと思いもよらなかったんですけどね。
軍部が伝家の宝刀「統帥権」の便利な使い方(拡大解釈)に気付く切欠を与えたのが”憲政の神様”犬養毅。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014911.jpg


犬養は尾崎行雄と並んで一般的に「憲政の神様」と言われ、5・15事件で海軍の青年将校に暗殺された首相として有名です。
犬養の死で以て戦前の政党政治は終わりを告げる。
これね、首絞めてるんですよ、自分で。
私にいわせりゃ党利党略に走った末の自業自得ですよ。
政党政治家が自ら政党の息の根を止めた。

犬養は個人としては清廉で高潔な政治家でした。
しかし晩年は森恪に引き摺られて晩節を汚した感があります。東郷平八郎と似た感じがある。

統帥権干犯問題が起こった時の犬養毅の言動はもっと知られるべきだと思います。
そして鳩山一郎は鳩山由紀夫の祖父です。本当にこの一族はなんなのか。


そして、この様子を見て加藤寛治ら軍令部の人間が統帥権干犯だと騒ぎ出した。(5月中旬)
この頃になると加藤軍令部長は兵力量の問題よりも統帥権問題に関して強硬になっていたようです。
これを纏めるのに財部彪海相、山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長、助力を仰がれた岡田啓介軍事参議官がどれだけ苦労したか。

当時の状況は、
「このままでは海軍省と軍令部が分裂する」
と山本英輔が心配のあまり省部の軋轢調整に乗り出すほどでした。

しかしながら、結果としてはこの騒ぎで海軍が真っ二つに分かれてしまった。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/71.jpg


山本五十六が帰国した時には既に加藤軍令部長と末次軍令部次長が更迭されていました。
そしてすぐに軍令部第1班長、第1課長も更迭され、軍令部は中枢ラインが一新された。
海軍省では山梨海軍次官が更迭となり、これは末次との喧嘩両成敗的な措置になります。
(財部も条約批准直後に海相辞任、堀は暫く据え置き)


帰国した山本がこの状況を見て、特に尊敬する先輩山梨勝之進、兄事する親友堀悌吉が置かれた苦境を見てどう思ったか。

野村實はロンドンから日本に帰着した日が、山本の考え方の転換点であったと述べています。
そりゃあ自分たちがロンドンで全権にやった同様の事を国許で軍令部がやってて、しかも海軍を割った訳だしな。
衝撃を受けたのではないかと思う。


余談(余談だったのよ)長過ぎ。


続く。


うーん…
いい機会だからと思いつつ書いてるけど、
ロンドン海軍軍縮会議の話とか興味ある人いるのかという気がせんでもない。

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親族の輪

山本五十六と堀悌吉の話(どちらかと言うと堀の話)をもう少し書きたいのですが、その前に違う話。
話と言うほどのネタではないのだけれど。

系図繋がりと言うことで。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100017.jpg


調べていたらこういう本が引っかかったので『海軍王国の誕生』と一緒に借りた。
結構面白かった。
系図しか見てないけどな!(笑)


幾らか「え?」と思うような人の名前も見たわけです…


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100018.jpg


松方正義の家を中心とした閨閥図で見つけた谷村愛之助の名前。

谷村愛之助と言われても、多分殆どの方が誰それという位の認識しかないと思う。
薩摩生まれの海軍士官。15期である(そこか)
ハンモックナンバーは15期80人中の80番!中々ないよ!(笑)

明治24・5年の遠洋航海(加藤寛治・安保清種ら18期)の時に比叡に分隊士として乗組んでいます。
はい。
広瀬武夫も同艦に分隊士として乗組んでいまして、まさしく同期の同僚。
この遠洋航海に関し広瀬は『航南私記』という記録を残していますが、その中に名前が出てきます。

メルボルンに着いた際、広瀬は谷村と千坂智次郎ら数人と上陸して室内射的銃を買ったり、氷菓子を食べたりしている。
氷菓子はアイスクリームのことかと思われます。
千坂智次郎は14期、山形米沢の人。
米沢藩家老の次男で、先日「名士」で名前が出てきましたが、上泉徳弥がこの方の叔父宅に下宿していました。

谷村は明治33年に亡くなっていまして、理由はよく分からないのですが公務死だと思われます。
海軍葬が行われている。

谷村愛之助って、幕末、薩摩に同姓同名の方いますよね。(明治初年に死去)
お殿様の小姓だったり、側近だったり。何か関係あるのかしら…
というか私が勝手に海軍さんだと思いこんでるだけで、同姓同名の別人だったら笑う。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08100018.jpg


松方乙彦は松方正義の何番目か(正確な所が分からんw)の男児で、山本権兵衛の娘を妻にしています。
ということで義兄弟には財部彪(15期)、上村従義(30期、上村彦之丞養嗣子、西郷従道実子)、山路一善(17期)がいます。
本当は留学先のアメリカでフランクリン・ルーズベルトの従姉妹と結婚の約束をしていたのだけれど、周りに大反対され叶いませんでした。


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そしてもうひとり。
写し方がへたくそでごめーん。
左端に清河純一がいるよ!


//blog-imgs-49-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/rengoukantai.jpg


清河の娘ちゃんが岩崎弥太郎の孫に嫁いでる。

ということは、清河、広瀬武夫とは遠い親戚になるのねー
右端に加藤高明(岩崎弥太郎の長女が妻)が見えていますが、広瀬武夫の兄勝比古の妻が加藤の従妹になります。

広瀬の戦死後、日本で海軍葬が行われた際、勅使が差遣わされています。
それを総代として受けたのが加藤高明。
加藤は当時既に外務大臣経験者(伊藤博文内閣)でして、親族代表としてはこれ以上の人はいなかったでしょう。
ついでに岩崎の娘のひとりは幣原喜重郎に嫁いでいまして、加藤と幣原は義兄弟になる。

広瀬武夫の兄の娘婿が広瀬末人で、海兵39期。
同期の大親友に山縣正郷がいますが、末人の弟の妻が山縣の姉妹。
更に広瀬末人の長兄に阿南惟幾(最後の陸軍大臣)の姉が後妻として嫁いでおり、近い付き合いをしていたそうです。
阿南は豊後竹田出身、広瀬勝比古・武夫と同郷なんですな。
そういう関係もあってか、竹田の広瀬神社に顕彰碑があります。


山縣正郷、大西瀧治郎(40期。広瀬武夫に憧れ海軍入り)と仲が良かったそうで、その流れから山本五十六、堀悌吉と雀卓を囲んだり、ポーカーやブリッジをして遊ぶ仲間だったそうです。
ゲームに熱中しすぎてかどうか、山縣が膀胱炎に罹った時、山本が見舞いに来て
「自分が膀胱炎に罹った時堀がしてくれたことと同じことをしてやる」
と言って同じようにしてくれたという文書(史料)が残っていると防研の調査官の人が教えてくれた。笑



あと系図の写真撮り忘れた。

随分前にあげたことのある写真です。
児玉源太郎一族の集合写真…


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117_5.jpg


に親族みたいな顔で寺内正毅が写ってるって書いたんですが、児玉の息子(秀雄)と寺内の娘が結婚してた。
みたいなじゃなくて、親族です…
超失礼。

見ててびっくりしたんだけど、親戚の輪に木戸孝允、山本英輔(権兵衛甥)、阿部信行、広田弘毅、原田熊雄、井上準之助、渋沢栄一がいる。
その上小松輝久(37期。元皇族、臣籍降下)までいる。
阿部信行がいるってことは井上成美(37期。阿倍の義弟)もその輪に入るってことだぜ…!

ビビるわー


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名士

初めに訂正…

先日広瀬武夫の書簡に1か所だけ海軍の隠語が使われてるよ!
と書いたけど、もう2か所あるよ!とご指摘いただきました…orz
確 認 し ろ よ (自分で言う…)
ロシアから帰る時に「m(モテる)とf(振る)を実験する機会だと考えてる(笑)」って嫂に言ってたわー。
アリアズナちゃんからの書簡の広瀬訳に書かれている言葉(武夫ノNヲ御一覧)がインパクト大で全然気が回ってなかった…
でももしかしたらまだスルーしている海軍隠語があるかも^^;
…スルーって4・5回は通して読んでるんだけど…(節穴…)


***


以前上泉徳弥の伝記を読む機会がありました。
読むといっても他にも見たい伝記が複数あったので、見たい時代をピックアップしていくだけだったんだけど。
どういう時代に何をしていたかという話より同僚下僚の回想が面白くて、そればかり見てた…(あーあ)


上泉徳弥


上泉は私は名士だと思うんですわー。
海軍的な意味で。
色々と武勇伝がありますが軍艦の艦橋で葉巻に火をつけた伊藤博文(当時首相)を叱り飛ばしたり、傍若無人な薩摩出身の海軍さん(海軍大臣の息子)に腹を立て頭上に放尿したり。
日露戦争前は海相や軍令部長といったトップが考えている事が分からないので、開戦開戦と騒いで煙たがられたり。

結構エキセントリックで、ボタンを掛け違えるとかなりめんどくさい人だったと思うのだけれど、なぜか憎めない^^;
育ての親ともいえる義兄が故郷米沢で聖人と言われるような篤行の人物だったそうですが、なにがどうしてこうなったのか不思議な所ではある。



海軍兵学校12期です。
12期といえば今まであれこれと触れてきましたが、江頭安太郎、山屋他人、有馬良橘、林三子雄らがいたクラス。
私が15期の次に好きなクラスだ!(どうでもいい)

山屋他人が海兵入学前から上泉を知っていまして、当時の回顧をしています。(『謙譲の人 海軍大将山屋他人の足跡』 枝栄会/2005/非売品)
ふたりとも攻玉社に入っていた。
山屋曰く、


上泉君で思い出されることは「三ツ児の魂百まで」というが、同君は少年時代から頗る異彩を放っていた。


1)
上泉自室でランプを引っ繰り返し机一面油だらけ → 油気を抜くため火をつけて燃やす 
 → 近藤真琴(攻玉社社長)に見つかる → 停学 → 停学中、できたばかりの土手を図らずも滅茶苦茶に
 → 近藤仕返しかと思い激怒 → 退校処分の詮議 → 保証人のおかげで助かる

2)
大きな松竹梅の絵の入った白傘(※ダサい)を平気で使う
 → 破れたので、90センチの鍔広の麦わら帽子に絵を縫い付けて被る
 → 珍帽子(山屋の言)も破れ廃棄止む無し
 → 下宿先(千坂智次郎の叔父宅)の蔵にあった陣笠(家紋入り)を頂戴する


兎に角同君は豪傑肌の変り種であった。


陣笠ってお代官様が被っているようなアレよ…^^;
そら大分変ってると思うわ。
千坂智次郎は14期、同じく米沢出身です。

攻玉社時代は、上泉は運が悪いというか巡りが悪いというか、そんな感じだったようで、近藤真琴からはあまり良くない意味で目を付けられていた雰囲気^^;
山屋の談話はもうひとつあるけど、それは略。


この山屋の話は昭和11年8月のもので、近藤真琴伝編纂の為の談話。
山屋は編者にちゃんと上泉の許可と校閲を得なさいよ、と注意していたそうです。
上泉は

大分昔の事だし、細かい点は違う所もあるけど大筋は一緒。
近藤先生の伝記の中に名前が載るなんて光栄^^

という旨の返事をしています。
おおらかですな。


『上泉徳弥伝』、見ていると山本英輔の回想が結構面白かった。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/1b6c83c5e7ec8a6206b8b493f2b197c5.jpg
昭和5年の特別大演習観艦式 in 神戸。


山本英輔、山本権兵衛の甥ですが、艦隊派でしてね。
ロンドン海軍軍縮条約なんかにも反対していて、ぶっちゃけあまりいい印象はない訳です。
その一方で海軍で航空機に一番初めに目を付けて採用を上申したり、割と開けた人であったと思うんだ…
そんなこんなで自分の中でちょっと整合性が取れない人物でもあります。
ただ随分前に防衛研究所の史料閲覧室に行った際、調査官の方と(なぜか)山本英輔の話になり色んな話を聞かせてもらった。
結構印象変わった…(いい方に)


それはいいんですが、山本は上泉の下僚だったことが幾らかあったようです。
結構仲が良かったみたい。

上泉、大酒豪でした。
さ、酒癖はどうだったのか…^^;
毎日相当飲んでいたようで、山本は「大酒飲みの寿命は短いのに」的な事を回顧で言っていて、それは上泉は早じn(自重)

艦隊勤務の時も午前2時頃まで深酒をしているので
「早く寝なさい」
とか叱って酒宴を切り上げさせてたらしい。
部屋が開いていると思って覗いたら、酔っぱらってお腹丸出しで床に寝てたり。
子供か(笑)
上泉12期、山本24期なんですけどね!

自転車こいで艦に帰ってきたーと思って見てたら、そのまま直進して海に落ちたこともあったらしい。
ちょっとww

色んな意味で面白い伝記でした…


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Changing(4)

続き。

(以下引用は『冬籠』>[一、綾部の冬籠]>(3)~より)(別窓)


秋山真之は大本教云々という前に、浅野和三郎という人物が初対面で結構好きになったのだと思う。
浅野の経歴を見ても、理論的に説明ができる、という点においても。
とは言えそれから遠くない将来に決裂するわけだけど。

秋山が大本教に入信した結果、どういうことになったか。


秋山さんが先鞭をつけてから、 大本部内には海軍士官の来訪が一時に頻繁になった。
大部分は軍艦「吾妻」の乗組員で、皆秋山さんから勧告された結果であるのはいうまでもない。
暮の二十日過ぎから翌大正六年の正月七日頃迄、大本部内は一時海軍村を形成する有様であった。
<略>
佐官級もあれば、尉官級もあり、将校もあれば技術官もあったが、何れも元気旺盛の猛者ばかり、
降り出した大雪を事ともせず、又大晦日や元日のお構えもなく、ドシドシ詰めかけて来た。



布教しとるがな…^^;
はい、秋山の影響を受けて大本教に入信した海軍関係者は多くいたといわれます。
これには当局者もかなり困惑、迷惑したと読んだことがあるけれど、本当にそうだっただろう。


浅野和三郎には正恭という兄がいます。
この方が海軍軍人で、15期、広瀬武夫と同期になります。
前に浅野和三郎が海軍機関学校の英語教官として17年間奉職していたと書きましたが、『神の罠』の松本健一によると当時の状況や兄の勤務先を慮るに、これは兄の斡旋であったのではないかとのこと。
それを擲って、しかも新興宗教に入るということで、この兄も大反対した。

ただ、どういう心境の変化があったのか、後に正恭も入信しています。
そしてこの人も部下や同僚を勧誘しまくった。
田中宏巳『秋山真之』にも触れている箇所がありますが、呉工廠勤務から海軍技術本部出仕になり大した仕事もないまま予備役に編入された。
大本教の布教活動が問題視されたのは疑いないとありますが、その通りだと思います。
当局の目の届く所、かつ窓際、ということだったのだと思う。
もし秋山が長生きして大本教と離れずにいたら同じような感じになってたのかなあ…
ちょっと分からないけど。


ついでなので。
15期には竹下勇がいます。
広瀬と親友ということで今まで頻繁に登場している竹下勇ですが、この方非常に武道、武術が好きで日本刀コレクターでもあった。
広瀬は講道館柔道の前に起倒流柔術を習っていたのですが、その道場に連れて行ったのがこの竹下です。
尚武の地、薩摩出身だし、そもそもそういうのが好きだったんだろうね。

合気道が世に出たのも竹下の力添えがあってのことなのですが、合気道の開祖植芝盛平は大本教の信者だった。
大本教の本拠地綾部にいた植芝を竹下に紹介したのが浅野正恭なんですよ。
これ、単に武道が好きな同期に武道の達人を紹介しただけなのか、という感じですが。
普通だったら一種の勧誘活動だったんじゃないかと思うよねー
でも違う。
大正15年頃の話で、5年前に第一次大本事件が起こっており、浅野兄弟は既に大本教を離れています。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/95b70dbcdf4138341881dba324810d9c.jpg
清は山本権兵衛の息子、英輔は甥


植芝は竹下の希望で上京し、島津公爵(旧藩主)、山本権兵衛、西園寺八郎(公望の婿養子)といった名士の前で武術の実演をしています。
山本権兵衛なんかはかなり感心して、薩摩人は支持を惜しまない、とまで言い出した。
そこから青山御所で侍従武官や側近に武道を教えるところにまで話が発展しています。(実際教えていた)

ただこの時点でこの方々、植芝が大本教ということは知らなかったようで、結構な騒動になったみたい(警察、検察、内務省、宮内省といった周囲が)。
植芝としては不愉快なことが多く、上京して綾部に帰りというのを2・3度繰り返した所、山本権兵衛と竹下の口添えで警察からの監視はスルー。
山本清が借家を準備してくれたり、山本権兵衛が援助してくれたりと、上京した際は山本家の人々がかなり植芝を助けていたようです。

更に武術繋がりで15期にはなかなかすごい人がいまして、柳生新陰流の達人、下條小三郎。
上写真、植芝の左側の人。
そして「しもじょう」ではなく「げじょう」です。読めん。
柳生厳周の高弟でして、竹下、浅野に植芝を紹介され、植芝に柳生新陰流を教えることになった人。
色んな人いてるわ~


上写真の右側に山本英輔が写っていますが。


六月九日には山本海軍大佐が参綾した。
『秋山さんが是非行けといわれましたから参りました。尤も、出張先ですから余り暇がありません』
この時分の秋山さんは、誰を捉えても熾かんに綾部行きを勤めたものらしい。
この秋山氏が僅々一箇月後には、口を極めて大本攻撃をやったと思うと奇妙な感がする。


ハイ。
秋山の勧めで大本教を訪れておりました。
しかしながらこの時から山本とは一度も会っていないと浅野は書いているので、この人は入信はしなかったんだろう。
『秋山真之』(秋山真之会編/S8)には山本から見た秋山と宗教に関する観が載っています。


将軍は宗教に入り切るには、余りに理性があり過ぎる。
宗教に没入してしまひたいにしても、最後の一分といふ所で入りきれずに悩んでゐたのではないかと思ふ。


最後の最後に理性が勝ってしまう、それは浅野和三郎も同じことを思っていたようです。


続く。


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