Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

過ぎたるは猶

バトン」を書いて、久々に『上村将軍言行録』(昭和5年)を出してきた。
というのも『上村大将追悼録』(大正6年)、『言行録』と編者は同じである上、内容も被っている所がある気がして。
確かめたら被ってたわ。気付くのが遅すぎですねそうですね。節穴ですねそうですね。

『追悼録』が『言行録』に再録されている。
海軍兵学校15期辺りの日露戦争辺りの追悼ばっかり読んでいたので、幕末~維新辺りの話は記憶が完全に飛んでました。笑
全然覚えてねえわ。
ただ省略されている部分もあるので、元になる『追悼録』も見られて良かったです。


海軍の父山本権兵衛


「上村副長に鉄拳制裁」

こちらは『海軍の父山本権兵衛』(中村嘉寿/水産社/S17)から。
著者中村は山本と交流のあった薩摩生まれの国会議員(元はジャーナリスト)で、山本やその周辺から親しく色々な話を聞く事が出来た人物。
本人にようそんなこと聞いたな、と思うようなことも聞いていて、読み物としても結構面白い本。


上村といえば酒豪として知られ、しかもそれが結構乱暴な酒だった。
兄妹かのように仲が良かったと言われる海軍料亭小松の女将、コマツさんからも
「ずば抜けて酒に強かったが、酒癖もずば抜けて悪かった」
と言われるほど。oh…

若い頃からであったようで、海軍兵学寮にいた時も酒を飲んでの乱暴狼藉を随分繰り返していた。
監督官らが上村があと一度狼藉を働いたら放寮処分にするという協議をしていた矢先に、門限過ぎにいい気分で帰ってきた上村。うわー
締め出されていたんでしょう、窓ガラスを割って部屋に入ろうとしたらしい。
それを見かけた山本が、さっと手を伸ばして上村を引き上げ、事なきを得たという話があるそうです。


海軍の父山本権兵衛 


で、表題の上村副長に山本が鉄拳制裁、という話なのですが。
この話では山本が艦長、上村が副長なのですね。
調べたら両者が同艦勤務になったのは明治19~20年頃の天城艦しかなく、当時山本は艦長で上村は分隊長でした。


或る夜の事、提督は例の如く乱酔して陸から帰艦、乱暴を遣りだしたと見るや、
伯は何思ひけん静かに二言三言副長に囁やいて其の儘連れ立つて甲板の方に行かれた。

この様子をハムモツクの上から目撃した富岡少佐は、コレハ何事か起るぞ…
と内心怕々ながら就寝を装つて覗いてゐると、伯は提督を強か打擲したが、
提督は一言の抗争もせず、さるゝが儘に服従して居られた。


提督は上村、伯は山本。
富岡少佐は名前が載っており、富岡延治郎のこと。
富岡定恭の弟で、機関科なのですが本書では砲術長とある。

色々と間違いすぎている。笑
あれこれと齟齬がありますが、富岡も同時期に少機関士として天城艦に乗り組んでいるので、著者の記憶違いだろうと思います。

富岡は思いの外山本艦長の腕っぷしが強いのに驚いたのだけれど、


艦長の態度、其折檻の凡てが友情の迸りであり、
又之を甘受して只管自己の罪を悔いて居る副長の平生の傲岸にも似ぬところに、
味はひ尽せぬ友情美と感受性に富める点は、実に後世に教訓を垂れたものであり、
多くの学ぶ可き美徳である、といつも親しき人達に(※土原註:富岡が)話して居られたとの事である。


教訓云々はひとまず措いて、”漢”だなあという感じがします。笑
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帰りなん、いざ(2)

明治6(1872)年の所謂征韓論争で敗れた西郷隆盛が下野するや、同調する薩摩人が雪崩を打って官職を投げ打った。
当時海軍兵学寮の学生であった山本権兵衛も帰郷したひとり。
そして同様に海軍兵学寮生であった上村彦之丞も帰鹿しています。

『上村大将追悼録』の所収の言行録には当時の話の聞き書きがある。
ひとつは東郷吉太郎(東郷平八郎の甥)のもの。
もうひとつは谷山初七太郎・江口国彦(共著)のもの。

帰郷後、上村は西郷隆盛に会いに行くのですが、山本権兵衛同様そこでめちゃめちゃ怒られた。笑。
後者の話によると、武村の西郷邸(下写真が跡地、武屋敷跡)


鹿児島 


…を訪ねると先客がおり(恐らく桐野利秋、辺見十郎太だろうとのこと)、彼らとは別室にて面会してくれた。
上村は西郷が鹿児島に帰って活動?していることについて、意を得ないからはっきり説明してくれと議論をふっかけたらしい(笑)

西郷は煙管の吸い口を目の辺りにぐりぐり当てて、暫く黙っていた。
これ、西郷が考えている時の癖だったそうです。
考えるというより普通に頭が痛かったんだろう…^^;


君等は一体何の為に帰来せしか、
これ男子として第一前約に背くにあらずや、
初め一身を捧げて海軍に従事すと誓いし言は今何くにかある。
君等は目下兵学校の書生にあらずや、
当に課業に是親しむべきの時なり、
何を以て約束を忘れ課業を抛ち倉皇として帰来せしか。


西郷は畳み掛けるようにして上村を叱った。
更に続けて言うには、山本権兵衛が上村以前に帰郷していたとのこと。


先きに山本(伯)も左近允と共に、還り来たれり。
故に同様説諭して、帰郷せしめたり。
君等は他日、日本の海軍を率ゐて国難に当るべきの人なり。
須らく其責任を知らざるべからず。


上村はこの説諭に応じて東京に帰ることにした。
また山本も左近允隼太も西郷の言に納得して帰京しました。
ただ左近允は一旦東京に戻ったものの再度帰鹿、西南戦争に参加して城山で戦没したようです。


西郷邸を辞した後、上村は実家に直帰はせずその隣家に宿泊。
すると翌日早朝から上村はいるかと門を叩く者がおり、隣家の主人が、
「西郷さんの所では」
と気を利かせて言ってくれた為、彼等は西郷宅を訪ねて行った。

後に彼らと会えば
「西郷先生の用で上京するんだって?」
と口々に言う。
西郷は尋ねてきた彼らに
「上村は西郷の要を帯びて再び上京する」
と伝えていたようなのですね。
実際のことを知ると、要らざる諍いが起こる。
上村の身に危険があるかもしれないという西郷の思慮だったようです。

上村は西郷の配慮もあって一週間程鹿児島に滞在した後東京に帰ります。
一方の山本は、西郷に説得されて直ちに東京に引き返そうと思ったらしい。
ただ出身郷中である加治屋町の二才(にせ)ら3・40人が、山本が帰ってきているから話を聞こうと集まった。

そこで山本は時局について一席ぶち、最終的には彼等に自重を促したそうです。
山本。笑
ところがそれで大喧嘩になってしまい、すわ血の雨かと思った時に助けてくれた人が居た。


貴島清


貴島清。
この場に居合わせたのですって。
「危険だから直ちに上京した方がいい。今夜の内に出発しろ」
そう言って逃がしてくれた。
山本は家にも帰らず、そのまま東京に戻っている。

上村も西郷の配慮がなければ山本同じような事態に陥っていたでしょうねえ。
西郷にしても貴島にしてもありがたい先輩だなと思う訳です…


官軍本営跡


西南戦争の大詰め、官軍が本営を置いていたのが旧薩摩藩の米蔵。
現在の鹿児島市役所の辺り。
今回初めて見た…のではないと思うのだけれど、昔の写真ないわー。
初めて?(聞くな
貴島は米蔵襲撃の際に戦死しとります。
そうか、この辺りで亡くなったのですね…


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お披露目

財部彪、故郷の都城(宮崎県)で挙式していたと思っていたのだけれど、東京で挙げていた。
財部彪顕彰会の伝記の記述も違うってどういうことー!ちょっとどういうことー!(笑)
私サイトで都城で挙式と書いたよ!?(笑)

ただおかしいとは思っていたのだよー(※これに限らずこう感じる所は意外と多い)
関係者皆が東京にいるのにわざわざみんな宮崎まで移動していたのかとか、さあ…
東京か。東京やんな、やっぱり…

うん、なんというか財部の結婚は急転直下で決まったね。
外堀埋められて最後は諦めたね、これ。
「致し方なし」だもんね。
そして広瀬武夫や向井弥一のふたりは勝手に友人の為と言って破談させようしたのではなく、財部に助けを求められての行動だった。
財部が山本権兵衛の長女と結婚したくなかった理由は、山本が権門勢家であるため。
…もあるのだけれど、これが第1の理由ではなかったわ。
それはここでは書きませんが、当時はとてもじゃないが口には出せなかったと思う。

ただ結婚したらしたで結構楽しそうな感じではある。
そして都城へも帰っていた。
お墓参りと親族や知り合いへ奥さんを紹介するため。新婚旅行に近かろう。


5月15日に東京で挙式をしています。
ただ本当にもう読めないのですよ。薄すぎて…





「広瀬」とあるのが見えて、非常に気になる。
恐らく向井の話も書かれているだろう。
友情から自分の意志に添うように尽力してくれたということが書かれていると思われる。
読みたいけれど、もう一度国会図書館に行ってもこれは読めない気がする。
どうかなあ…コピーのコピーだからなあ…

そして16日に披露宴を開いていて、そこで東京近辺にいる同期や懇意にしている知人を呼んでいる。
招待状を三十人程に出していて、二十数人が出席してくれた。
竹下勇、中野直枝、山中柴吉、木村剛、町田駒次郎、松井健吉、広瀬武夫とやっぱり同期が多い。
やーん竹下君もいるー(落ち着きなはれ)
向井の名前は出ていなくて、これは他用があったのだと思う。
何も無ければ向井は絶対に来てくれそうだし。
そして秋山真之もいました。あっきー呼ばれてたわ(笑)

仁礼景一も出席者のひとり。
仁礼景一…名前は既出なのですが、お、覚えてる?^^;

海軍大臣をつとめた仁礼景範の長男で、アナポリス出。
初めは医学の為にアメリカ留学をしていたのですが、何があったか途中でアナポリスに私費留学している。
卒業期は18期卒業相当という扱いのようです(18期…加藤寛治、安保清種らのクラス)。
広瀬とは同僚であった時期があり、それが18期の遠洋航海、比叡乗組み。
え?という感じですが、この時は18期らと同等扱いではなく比叡分隊士として乗組んでいます。

「仁礼等如キハ我吾ガ妻ヲ胴上ゲスルニ至レリ」

とかいう一文があって笑えるんだけど。
イネちゃん胴上げされてる…
そしてもう「吾が妻」だよ!「吾が妻」!照れがないな財部!(笑)

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相違

前回の。

×諸先輩に相談した後、向井弥一と広瀬武夫を訪ねるもふたりとも不在^▽^;
諸先輩に相談した後、向井弥一と広瀬武夫を訪ねるもふたりとも不在^▽^;

諸先輩に相談してない!いきなり向井と広瀬だった。
縁談持ってきた上村彦之丞から逃れるために(笑)
「とりあえず先輩に相談してから」
と言ってピンポイントで向井と広瀬に会いに行ってた!(笑)

しかしこれ…向井と広瀬がマジいい人なのだけれど…

ただ一般に知られている話と全然違う点がありましてね。
この話、恐らく『ロシヤにおける広瀬武夫』に描かれていることが実際にあったこととして受け止められていると思う。
でも実際にはかなり違っている事が今回判明しました。

向井と広瀬、確かに財部の為に動いている。
でも山本権兵衛宅には出掛けてないわ。
しかも『ロシアにー』で描かれていた時期、明治30年正月になっているけれど実際には4月。
この正月っていう話、実はずっと気になっていたのです。

何故かというとね、時期について書かれている資料、実はひとつもない。
何を根拠に島田先生、正月にしたんだろうとはずっと疑問に思っていた。
執筆の際に読める関係者の史料は全部読んだと書いてあっただけに、当然ながら財部日記もその範疇にあると思っていましたが、読んでなかったんですかね(読んでいたけど、の可能性もあるけど)。

『ロシヤにー』、実は細かい点でちょこちょこ間違いがある。
でもこれは細かくないで。
広瀬武夫の話にも非常に大きな影響が出る。
何でかというとね、広瀬は明治30年3月初旬に軍令部異動(留学準備の為)になっている。

ご存知の方も多いと思うのですが、広瀬のロシア留学の際、この財部の縁談は必ずといって良いほど出されるエピソードです。
それはこういう流れになっている。

 財部の縁談を山本本人に抗議→山本に一目置かれる→軍令部異動・留学生仮選抜の一助に

しかしながら実際には

 軍令部異動・留学生仮選抜→財部の縁談のため尽力

順番がスイッチしたら話の前提が狂ってくる。
狂うどころか山本宅に赴いてもいないという。
話自体がなかった。帝人事件か。

昔からこの人柄エピソードで選抜されたというのは…
①そんな理由で多額の予算をつけて国外に送る人間を選抜するとは到底思えない。他に実績的な理由がある筈
②広瀬に失礼だと思う
と云い続けてきましたが、個人的には合ってたなと思う。
これ以外にも山本がロシア派遣の留学生候補として広瀬に注目していた資料も、実は見つけているので。

ひとつの本に引っ張られすぎるというのは、やはり問題がある。


***


しかし当惑して相談してきた親友の縁談をぶち壊そうと動く向井弥一と広瀬武夫。
30歳という若さからくる行動力(と義憤)もあると思うけれど、打ち震えるわ。
下手したら自分も上から悪感情持たれる可能性のある話ですよ。

出世も棒に振るかもしれないし、広瀬自身、結構微妙な時期なのです。
軍令部に異動したものの、特に何もしてない時期。
軍令部長から暫くぶらぶらしてていいよとか言われて、「え?」みたいな。
軍令部に出仕しているけれど、どこの課にも所属していない。
多分留学させて大丈夫かどうかの様子を見られていた、そういう時期。

そんな中で、向井と一緒に本当に尽力してくれた。


向井広瀬両氏ノ真実ナル友情ニハ実ニ感激ノ外ナシ


財部彪はこういう風に書き記しているけれど、これは本当にそうだったと思うし、そうだと思う。


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パラべラム~堀悌吉(15)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


お久しぶりの続きです。
前回はこちら→ パラべラム14



一方、財部彪は元々軍令系の人です。
それが明治42(1909)年12月、いきなり海軍次官に抜擢されたことは「紐解『財部彪日記』」でも書きました。
それまで一度も海軍省での勤務経験ないんですよ、財部。
軍令部の方でさえ部課長の経験がない。

薩摩派、岳父が山本権兵衛ということで、周囲から色々と余所では聞けない話を聞いていたと思いますが、実際に実務を執るとなるとかなり大変だった。
何せ経験がないもんで、財部本人もへろっへろになった。
それでも海相斎藤実を支えながらどうにかこうにかやっていくわけです。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149172.jpg


で、仕事を覚えてスムーズに行ける、余裕も随分出てきて3年目位、という時に起きたのがシーメンス事件。
大正3(1914)年1月に浮上した海軍の収賄事件で山本権兵衛内閣が倒壊します。
大隈重信内閣で新しく海相になった八代六郎は、汚職事件の責任を取らせる形で山本権兵衛と斎藤実を予備役に編入しました(引退させた)。
財部もその煽りを食って待命となります。(巻き添え…

約1年続いた待命の後、大正4年2月に第3艦隊司令官として復帰。
それ以降は各地鎮守府・要港部で長官・司令官を歴任しており、中央官衙に帰ってきたのが大正12(1923)年。
海軍大臣としてでした。

これねー…複数の意味で大きなネックなってると思う。
これは難しかったと思うよー

まず海軍省での実務経験、下積みが全然ない。
財部は海軍大臣になるまで海軍省での勤務が実質3年しかないんですよ。
しかも仕事覚えた頃に強制終了。

次に、加藤友三郎海相の下、省部で人が育つ時期に財部は地方に出ている。
その時点で中央官衙での人の繋がり、信頼を繋ぐ機会が激減する訳です。


そもそもね、財部は海軍部内では評判が悪い訳ですよ。

一番の原因は昇進が異常に早かった点にあると思います。
若い頃から本当に早くて、日露戦争の中盤には既に大佐です。
2期上、3期上のクラスヘッドと同じくらいのスピードで昇進していて、親王並みだということで「財部親王」なんて影口を言われていた程。

次官就任に際しても、前任が海兵7期の加藤友三郎で、間7期をすっ飛ばして実務経験のない15期の財部彪です。
8期から14期にはすごい人、沢山いますよ。
山下源太郎(10)、村上格一(11)、山屋他人(12)、江頭安太郎(12)、栃内曽次郎(13)、野間口兼雄(13)、鈴木貫太郎(14)、佐藤鉄太郎(14)、その他。
特に江頭を飛ばしているということに誰が納得するだろうか。
私もできん。

3期飛ばして軍務局長になった堀悌吉でも嫉妬されたり憎悪されたりです。
しかも財部の場合は薩派、岳父山本権兵衛。
外からどう思われるかは推して知るべしと言うべきか。

だからね、回顧録なんかでみんな言うんだよ。
財部は苦労が足りてないって。苦労してないからって。
経験が足りてないってみんなが見てる。

そもそもそんな状態なのに大正の核になる時期に中央での勤務がないというのは、色んな意味でやっぱり厳しかったと思う。
その上地方に出ていることで大正10年ワシントン会議の際の加藤のやり方を間近で学べなかったというのも、財部の為には残念だっただろう。


後ね、時代の制約と言うか、時代の流れと言うものあってだな。
大正10年にワシントン条約が成立して、ネイバル・ホリデイ、軍縮時代となります。
この条約に沿って日本は既存の軍艦、建造計画のあった軍艦が廃棄されました。

その時に海軍士官のリストラも行われているのね。
そりゃそうだよね。
軍艦の数が減るのだから、それに乗り組む人数だって減る。
対米比率やその後の軍艦の廃棄の話にはなるのに、この話はあまり出てこない気がします。

ではどういう層が首切りにあったか。
【6】で紹介した「加藤全権伝言」(大正10年)で、加藤友三郎自身がそのことを井出謙治次官に伝えています。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_09190015.jpg


淘汰スルニシテモ配員上多少ノ困難アリトスルモ
成ルヘク上級者ヲ多ク淘汰シ下級者ヲ多ク残シタシ



士官の中で対象になったのは将官クラス、佐官クラスです。
この時期に将官になっているのは、日露戦争時代の中堅層、日露戦争を支えた世代。
あれ、と思われる方も多いと思います。
そうなんですよ。
『坂の上の雲』に出てくるあんな人やこんな人がオン・ザ・リザーブ・リスト!引退!

クラスで言うと13~22・3期が核で、25・6期位迄かなー…
具体的に名前を挙げれば、こんな人たち。

栃内曽次郎(13)、佐藤鉄太郎(14)、千坂智次郎(14)
小栗孝三郎(15)、中野直枝(15)、布目満造(15)
舟越楫四郎(16)、森山慶三郎(17)、山路一善(17)
佐藤皐蔵(18) 、下村延太郎(18)


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


やだー!
なんか聞いたことがある人ばっかりなんだけど!
聞いたことある人ばっかり挙げたからなんだけど!(笑)
大正11年中旬~12年に待命になっている人は大抵そうだと思う。

佐藤鉄太郎の名前があることに意外感を持つ方も多いかと思います。
個人的には、生きていたら秋山真之もこの時の整理の対象になっていたと思う。
ふたりとも加藤友三郎に左遷されてます。
佐藤は軍令部の権力を拡大しようとして加藤の逆鱗に触れ、軍令部次長から海大校長へ。
秋山は大陸政策に深入りしすぎて軍務局長から欧州視察旅行に飛ばされた。
ハイ。
あっきーの視察旅行、慧眼を讃える話しかほぼ聞かないわけですが、これは事実上の左遷です。


軍人恩給はそんなに手厚くなかったようで、大将と言えど現役を退いてしまうと大変だったようです。
それまでについていた特典的待遇も無くなるし。

『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)には、26期の南郷次郎が、自分は経済的には困らないからと整理対象であった同期の代わりに予備役になったという話があります。(※)
それだけ大変なことだし、人員整理は好む好まざるに関わらず人の恨みを買う。
加藤友三郎がいくらカリスマ的であったといっても、そしてどんな理由があったとしても、首を切られた側からはやっぱり恨まれる。

ただ山梨勝之進の話によると、この時はその怨嗟の矛先は加藤ではなく次官であった井出謙治に向いている。(加藤には怖くて…^^;)
加藤は井出を自分の後継者に考えていた節があるのですが、結局それは実現せずに終わっています。
ワシントン会議の処理が傷となり、結局は最後に山本五十六を付けて欧州に視察旅行をさせるだけで終わってしまった。
ロンドンの時でも、山梨勝之進次官が犠牲となった訳ですが、ワシントンの時も同じだった…
こうなってくると、加藤のワンマンは良かったのか悪かったのか。
評価が分かれるところだと思います。


続く!
変な所で話途切れるけど

******

(※)

南郷次郎は嘉納治五郎の甥で、講道館2代目館長。関西の嘉納財閥の一族。
嘉納治五郎の生家(=南郷の母の実家)は神戸御影の現菊正宗酒造・白鶴酒造で、幕府の御用聞きを勤めるような大変な名家でした。
嘉納治五郎自身も学校を経営していたり、講道館を経営していたりで、つまり家が大変なお金持ちだったので海軍辞めても困らない。

広瀬武夫は柔道繋がりで南郷とは仲が良く、というか南郷の母とも仲がよく、息子が世話になっているからとお菓子やなんやをよく持たされていた。
南郷の方が9歳年下で、広瀬は弟を見るような感じで南郷を可愛がっていたみたい。
南郷が海兵を受験する前、造船所を見に行きたいと広瀬に依頼したことがあり、それに対する広瀬の返事が残っています。
横須賀水雷隊攻撃部第2水雷隊時代。明治28年だと思う。
一般には知られていないもので、一応内容は未公開になるのか。私も写真でしか見たことがない。



≫続き に拍手の御返事があります~


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