Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ダイバーシティ こぼれ話(3)

え?3?
という感じですが、3ですん。
2は昨日までの昭和天皇の周辺の話です(と言い張る)。

「ダイバーシティ」を書き終えてから『昭和天皇の時代』(文芸春秋編・出版/1989)という本を見つけてしまったのだった…
オムニバスで、昭和天皇に関する回顧などが掲載されている書籍。
前に紹介した足立たかの回想もこちらから引用したのですが、後藤武男の「天皇外遊と三人男」が収録されていて、これもう少し早く知りたかった…
あーあ…(笑

後藤については、「ダイバーシティ(4)-3」で名前を出しました。
時事新報の記者で大正10年の皇太子御外遊の際、その殆どの行程に随伴している人物です。


昭和天皇、竹下勇、沢田節蔵 
エッフェル塔からパリを見下ろす。
左端から設計者のエッフェルさん、竹下君、殿下、殿下にチョコレートの食べ過ぎを注意した沢田さん。


皇太子がエッフェル塔を見学に行った際、山本信次郎にお土産を買っておいてと頼む場面があります。
しかしながら山本も傍にいた人も手持ちが足りず、財布を持っておらず…
困り果てた時に後藤が持っていた(会社の)お金を借りている。

皇太子が買い物に出掛ける時に一緒に車に乗せてもらったり、名前も覚えられていて、
「新聞記者は大変だね」
と何度か声を懸けられたそうです。

皇太子外遊の話については、サイトで掲載した所なので詳細はここでは触れません。
そっち読んで(丸投げー
サイトの方は外遊の行路、皇太子のテーブルマナーが非常にまずかった旨を書きましたが、その辺りの話が出ていました。


この無格好のマンナーをながめて、びっくりしたのが、御用掛として供奉してきた海軍大佐山本信次郎であった。
彼は断然皇太子の無作法を改めさせようと決心したのである。
彼はこの午餐会(※土原註:御召艦香取での高級士官とのランチ)が終わってから、早速皇太子を別室におよびして、ヨーロッパ・マンナーを教え込むことにした。
<略>

皇太子は「アア、ソウ」と喜んで学んだ。
山本大佐はそれから食事のたびに、皇太子の様子を傍にいてながめていた。そして、もう少しでもマンナーに反するような節があったら、食後必ず厳重に注意してあげた。


山本信次郎 


山本大佐は艦内でフランス語を教える役だった。
皇太子はフランス語の発音が下手だったので、皇太子が泣顔をされるまで叱った。
「そんなフランス語は通じません」
と無遠慮に申上げた。

山本大佐は今まで皇太子にはれ物にさわるようにしていた宮内省の役人と反対に、ビシビシと仕込むことに決心したのである。


マンナーを教えていたそうです。マンナー(しつこい
迪宮裕仁親王、川村家に里子に出された時は「自分の孫と思え、遠慮するな」と言われ、乃木希典にも生活態度からして甘やかされないよう教育されてきました。
この時位までは迪宮の立場を忖度して特別視しないように、と配慮されていたようです。

ただ東宮御学問所の辺りからか、皇太子に勝ってはならない、皇太子に1番は譲る、という様になっていた様子。
周囲の御学友はそう言い含められていた。

またこの後藤の回顧を見ると、東郷平八郎と珍田捨巳は、皇太子の日常生活については極めて無指導だったという意見を書いていて、これはひとつの意見としてありだな、と思いました。
ただ珍田が皇太子と関わったのは外遊の時からなので、その前任者、浜尾新だろう。
というか皇太子の日常生活云々は、御学問所総裁の東郷でなくて、東宮大夫の浜尾新の管轄だろう。



シンガポールにつくまで、軍艦の甲板ではデッキゴルフをされた。
多くの宮内省や高級士官たちは、皇太子のためにわざと負けてやっていた。
皇太子は自分はいつも勝つものだと思うていた。
これは皇太子を誤まらしめるものだと、御用掛西園寺八郎と山本大佐は感じたのである。


西園寺八郎は西園寺公望の養嗣子です。
実父は長州藩最後の藩主である毛利元徳。
皇太子外遊を推進した若手式部官で、外遊直前に外遊に反対する人間に襲撃されております。


デッキゴルフをするとき、西園寺と山本は、皇太子をどしどし攻め立てた。
皇太子は二人に向ってとても勝てなかった。
西園寺は皇太子に柔道の相手をしていた。
宮内省の他の人々は、皇太子を投げるものが一人もいなかった。
皆で負けてやっていたのである。

西園寺は皇太子をドシンドシンと投げつけてしまった。
若い皇太子は
「もう、西園寺御免だよ」
と悲鳴をあげたのである。


西園寺八郎、小松輝久、山本信次郎、漢那憲和
@香取甲板。漢那憲和(兵27)は御召観香取の艦長


ビリヤードでも西園寺、山本のふたりは、皇太子を容赦なくやっつけた。
ポーカーやトランプには二荒芳徳伯も加わったが、この人もお座なりに負けて上げるということを決してしない人物である。
どうかして、皇太子に、自己を発見させ、自己の信念を強めるようにさせ、自己の創意を生かすように努めさせるのに苦心した。


山本信次郎、西園寺八郎、二荒芳徳、竹下勇、奈良武次


軍艦生活の中に、皇太子の個性の発展に、非常に苦心したのは、実に西園寺、山本、二荒の人々であった。
彼等は皇太子の真の補導役になり、友になり、父親のようにもなって導いたのである。
皇太子もこの三人を尊敬もし、師事もし、よく言うことをきかれた。

私は帰国してからも、これらの人々を、「皇太子の三人男」と呼んだのであった。


当時20歳の皇太子にとって、この軍艦生活は結構なカルチャーショックであったのではないかと思います。
人を見る目や、価値観なんかが色々と変りそう…
ただ若い頃にこういう人達が傍にいたというのは、非常に幸せなことだと思います。
そして後年の昭和天皇のこの回顧に繋がるのですね。


昭和十二、三年頃までに、外遊の三人男は、ことごとく死んだり、宮内省を去ってしまった。
天皇と膝詰めで話をしたり、戯談(じょうだん)を言って腹から笑わしたりするものもなくなってしまった。
三人男に代わるのに、近衛文麿や木戸幸一などが君側の臣となったが、近衛、木戸でも西園寺八郎や山本信次郎ほどの親しみは、天皇にはなかったのではないかと思う。

私は天皇にとって西園寺や山本がいかに大切な男であるかを痛感したのであったが、惜しいかな、彼らは早く世を去ってしまった。


官の側からでない、多少関わりのあった民間人の意見として、興味深い見方だと思います。


***


これにてダイバーシティのこぼれ話は終了です。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
疲れたー(笑
関連記事

ダイバーシティ こぼれ話

ダイバーシティ関連で本編には書かなかったけれど、面白かった話。


①『竹下勇日記』

山口多聞、山本信次郎を通じて竹下勇の長女香ちゃんとの縁談を申し込んでいた。
断られた。
竹下は自身の考えを述べた上で先方に再考を促していたけれど、こういう場合ってどういう風に断りを入れるのだろう…

そして香ちゃん、聖心女子学院に通っていた。
そう言えば山路一善の娘たちも聖心女子学院だったなあ…何かあるの?


②『沢田節蔵回顧録』

沢田節蔵は外交官。
大正10年の皇太子御外遊の供奉員のひとりで、昨日更新したサイトでも名前を何度か出したのだけれど、回顧録にあった外交官の先輩の話が面白かったです。

井上馨の養嗣子勝之助の話が出ていて、この方外交官でイギリス大使(大正2~5年)を勤めていたのだけれど、その夫人・末子さんが大変な才媛であったそうです。
勝之助と結婚する3・4年程前に英国留学し、リバプール大学の教授宅にホームステイ。
英語を英国のハイソ同様に駆使し、話にしても手紙にしても社交に、外交官であった沢田らが到底及びもつかない程練達されていたそうです。
イギリス海軍司令長官夫人がイギリス人秘書を使っていると思っていた程だったのですって。
凄い。
原敬が
「井上夫人がもし男であったら、自分よりも早く首相になっただろう」
と零していたそうで、それも凄いわ。

へーと思って井上末子をググったら「近代日本とフランス」という国会図書館の企画ページに出てきていた(西園寺公望ー青春の巴里:別窓)。
以下要旨。

井上勝之助が退職して英国留学することを祝う書簡に、末子夫人の仏語能力について言及がある。
末子は英・仏・独語に通じた才媛として知られ、社交界の花としてその美貌を謳われた。
西園寺は井上の退職に伴い夫人が帰国するだろうことを惜しみ、
「欧土にて上等交際にハ仏語、仏文は不可欠なもの」であり、
「仏国巴黎ニ於て極々上等の仏語、仏文等御勉強相成候様」井上に勧めている。
勝之助の退職は大隈重信外相の認める所にならず、イギリス留学は出来なかったが、末子はパリで語学を研修することとなった。


凄いわ井上夫人。
というか西園寺、勝之助より奥さんの方を引き止めているような感じが…^^;

そしてこの井上勝之助の後にイギリス大使に赴任してきたのが先日来名前が出ている珍田捨巳になります。
沢田曰く、

小村外相の顧問米人デニソン氏の手伝いをつとめて英語公文起草にかけては省内随一といわれた幣原さんでさえも、珍田大使の英文には兜を脱いでおられ、

「珍田さんは公文書がお上手であると同時にラブレター書きも巧みで、公私の使い分けを心得ておられる。われわれ後輩には真似ができないねー。」

と話しておられたほどであった。


そうなんだ。
幣原喜重郎は外務省で「国宝級」と言われるほどの英語力があったそうなのですが、凄い人がいたんですねえ。
沢田が言うには、珍田は英語のオフィシャルとプライベートの使い分けが大変上手な方であったそうです。

ちなみに幣原は大阪門真の出身。
門真市立歴史資料館にちょっとした展示がされているということを昨年知りまして。
来月1年待ったシーボルト展がやっとこさ関西に来るので、そのついでにちょっくら行ってくる。
楽しみにしてたんだ。
展覧会では神戸で面白そうな展覧会がぼちぼち始まっていますので、そちらも楽しみにしております。

そして沢田もクリスチャンであった…
山本信次郎とは仲が良かったようで、婦人を伴っての海外赴任の際に就学中の子供を山本家に預けていました。

つづきまっせ。
関連記事

サイト更新(ダイバーシティ・山本信次郎/完)

サイト更新の御案内です。

近代 【ダイバーシティ(4)-2】<完>
 【4】東宮御学問所御用掛
  2)皇太子の御外遊 
   1.大正十年、皇太子の外遊
   2.供奉員として
   3.外遊中のエピソード

今回ちょっと長めですが、山本信次郎の話はこれにて終了になります。
自分ではもう少しぱぱっと終わる予定だったのだけれど、思いの外長引きました。
いつもの事ですかそうですか。
お時間がありましたら遊びに来て頂ければ幸甚です。

(※思いの外長くなったので、2ページに分割の上、各章に題名をつけました)

***


今回は山本が東宮御学問所御用掛であった時の大イベント、大正10年の皇太子のヨーロッパ旅行の話になります。
なぜ皇太子(後の昭和天皇)がこの時期に海外旅行に行ったのかという話は、以前サイトに掲載した「『竹下勇日記』を読む」でも触れています。
こちらも併せてご覧頂ければ分かり易いと思いますので、よろしければどうぞ(今回の更新ページにリンクを貼っております)。

いやー…
私この辺りの話大好きでね…良いよね…
最初は純然たる竹下勇目的だったんですけどね。

この時の供奉員の皆さん、本当に本当に大変だったと思う。
それまでの箱入りから一種スパルタでビッシバッシと教育する相手が皇太子
供奉員のひとりは皇太子の勘気に触れて下船命令がでたらどうしようと思っていたらしい。笑

しかし皇太子(20)だって大変だったと思うのよ?
軍艦に放り込まれて初めての海外旅行。
周りには当然おっさんしかいない。
しかも爺ちゃんや父ちゃん位の供奉員に結構な割合で取り囲まれて怒られる。
そら泣くわ。(笑)

ただこの外遊、昭和天皇にとっては非常に思い出深いものであったようです。
還暦をお迎えになった時の記者会見で、60年を振り返って一番楽しく感銘が深かったとおっしゃられている。

今回サイトで『陛下、お尋ね申し上げます』という昭和天皇の記者会見集を引用したのですが、ぽつぽつこの時の旅行の話が出ています。


<昭和45年9月16日>
私のそれまでの生活がカゴの鳥のような生活でしたが、外国に行って自由を味わうことができました。
そのことが最も印象深いことでした。
カゴの鳥のように何も知らない私を外国に連れて行ってくれた随員の世話で、外国でも何一つ困ることなく無事に使命が果たせ、旅行が出来ました。
今もあの時の経験が役立ち、勉強になって、今日の私の行動があると思っています。

<昭和54年8月29日>
その時の旅行は、それまでの私の生活では経験しない初めてのことであったので、相当苦労はしましたが、閑院宮はじめ、珍田その他の随員の親切な指導によって無事に帰れました。


何故か私が我がことのように嬉しい。
供奉員として随伴した人々が聞いたら泣いて喜んだと思う。

しかし「カゴの鳥のような生活」という言葉はかなり印象的です。
弟宮である高松宮も海軍兵学校に入った時の特別待遇がかなり不満であったそうですし。
皇太子だと余計でしょう。

あと同じく今回、『われらの摂政宮』というこの外遊の取材を許された時事新報記者の本を読んでいたのですが、昭和天皇のご学友に副島種忠がいて少し驚きました。
そうだったんだ。
副島種忠は副島種臣の孫になります。

原敬は鎌倉の腰越に別荘を持っていたのですが、その別荘と副島家の別荘が近くで行き来があった。
原の養嗣子貢がイギリスに留学する際、副島さんちの種忠君もイギリスに行くから同じ船に乗れば?と原のとーちゃんが言うのでそういうことになり、そしてふたりを上海まで送ってくれたのが副島種忠のとーちゃんでした。
そうかーそうかー昭和天皇の御学友だったんかー
関連記事

サイト更新(ダイバーシティ・山本信次郎)4-1

サイト更新の御案内です。

近代 【ダイバーシティ(4)-1】

こ、今回で終わると思ったや…(終わらんかったんやな)
多分次回で終わる。多分。笑

山本信次郎の伝記を読んでいて、一番驚いた所は今回書いた所でした。
こういう経歴の人が軍人の中にもいたのだなというのが今回の題名になっている。笑
昭和天皇が皇太子時代に外遊した時に、山本が仏語通訳を務めたことは知っていたのだけれど、流石にここまでとは思わんかったわー。
つらつら思うに私、山本の名前を今迄何度か見ている筈なのに、ぜんっぜん引っかかってなかったというのが良く分かった。笑
(興味がなかったらそんなもんである…

しかしこの方、東郷平八郎に随分と可愛がられた人物のひとりなのではなかろうか。
今回伝記からも引用したのだけれど、東郷は山本がクリスチャンであるからといって嫌な顔をしたことが無かったそうです。
東郷は彼の信仰よりも人柄の方を見ていたのだと思いますが。
しかしながら伝記には、信仰の事などまるで知らないのにキリスト教を攻撃する某将軍、といった表現も同時に出てきていたので、非難は結構あったのだと思います。
伝記から見て感じる程順風でもなかったのかなあ…
何とも言えない…


そして思うのだけれど、秋山真之と宗教の話をしたことがあったのだろうか、この方…
ちょっと興味がある所ではありますなあ。

あとちょっと章の編成を変えましたが、内容は変わっておりません。

そんなこんなですが、お時間がありましたらお立ち寄りくださいませ。
関連記事

ダイバーシティ*原敬日記

お久しぶりの原敬日記。


20170709_2 


まさかダイバーシティで使うことになるとは思わなかったのだよ明智くん。
山本信次郎出とったわー
折角だから引用で使うことにした。
ホント、いろんな人が出ている日記だわ。

序に書くと、原敬も若い頃、17歳の時に受洗しているのです。
洗礼名はダビデ。
入信した理由は生涯語ったことがないようで不明とされています。

ただ原が入信した頃というのは、教会が布教の必要上無料で宿泊させたりしていたようで、生活の必要上伝道師養成所に入る東北人も多かったそうです。
また欧米人にコネを作れば将来何かの役に立ち、薩長の鼻を明かすこともできるだろうという考えを持つ人も多かったそうで。
原の入信理由は生活の為という事だけではなかったようですが。
ただ後年の原の書斎にはマリア像が掛けてあったそうですし、まあ、色々と思う所があったのだろうと思われます。

ただ原がクリスチャンだというのは何となく、…そうなの?という感があるのだよ…
本当に、そんな感じがしないので。
墓所からして禅寺ですし。

山本信次郎については、実は去年結構大きなニュースが出ていたのです。
このブログでは非公開記事にしていて、取り立てては書かなかったのですが、以下。


丁度サイトで前回更新した辺りの話が出ていますので、興味がある方はどうぞ。

山本はバチカンに宛てた書簡の中で「カトリック信徒の原敬が首相に就任したことに触れ、日本への法王使節派遣の「好機」と強調している」(毎日新聞)とあるのですが、冷徹なリアリストである原は、事国政外交に関しては、日本(と皇室)の利益を最優先にしますからね。
カトリックだからというのは、この場合原にとっては全く関係のないことだろう。
(一国の首相と軍人が生きている世界の違いを感じますな)

まあ山本のリップサービスではとも思うけれど、山本は私が今見ている限りではそんなことが出来るような感じの人ではないのであった…^^;


***


2週間ほど前に犬用のレインコート買った。300円。安い。


20170709


女子にはぴったりだったのだけれど、男子はつんつるてんのぴっちぴち(若干)…
それでもこれよりはいいと思うんだ…!(笑)

雨に濡れないというのは、人もわんこもとってもとっても快適。
もっと早くに見つけたかったー
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)