Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

名士

初めに訂正…

先日広瀬武夫の書簡に1か所だけ海軍の隠語が使われてるよ!
と書いたけど、もう2か所あるよ!とご指摘いただきました…orz
確 認 し ろ よ (自分で言う…)
ロシアから帰る時に「m(モテる)とf(振る)を実験する機会だと考えてる(笑)」って嫂に言ってたわー。
アリアズナちゃんからの書簡の広瀬訳に書かれている言葉(武夫ノNヲ御一覧)がインパクト大で全然気が回ってなかった…
でももしかしたらまだスルーしている海軍隠語があるかも^^;
…スルーって4・5回は通して読んでるんだけど…(節穴…)


***


以前上泉徳弥の伝記を読む機会がありました。
読むといっても他にも見たい伝記が複数あったので、見たい時代をピックアップしていくだけだったんだけど。
どういう時代に何をしていたかという話より同僚下僚の回想が面白くて、そればかり見てた…(あーあ)


上泉徳弥


上泉は私は名士だと思うんですわー。
海軍的な意味で。
色々と武勇伝がありますが軍艦の艦橋で葉巻に火をつけた伊藤博文(当時首相)を叱り飛ばしたり、傍若無人な薩摩出身の海軍さん(海軍大臣の息子)に腹を立て頭上に放尿したり。
日露戦争前は海相や軍令部長といったトップが考えている事が分からないので、開戦開戦と騒いで煙たがられたり。

結構エキセントリックで、ボタンを掛け違えるとかなりめんどくさい人だったと思うのだけれど、なぜか憎めない^^;
育ての親ともいえる義兄が故郷米沢で聖人と言われるような篤行の人物だったそうですが、なにがどうしてこうなったのか不思議な所ではある。



海軍兵学校12期です。
12期といえば今まであれこれと触れてきましたが、江頭安太郎、山屋他人、有馬良橘、林三子雄らがいたクラス。
私が15期の次に好きなクラスだ!(どうでもいい)

山屋他人が海兵入学前から上泉を知っていまして、当時の回顧をしています。(『謙譲の人 海軍大将山屋他人の足跡』 枝栄会/2005/非売品)
ふたりとも攻玉社に入っていた。
山屋曰く、


上泉君で思い出されることは「三ツ児の魂百まで」というが、同君は少年時代から頗る異彩を放っていた。


1)
上泉自室でランプを引っ繰り返し机一面油だらけ → 油気を抜くため火をつけて燃やす 
 → 近藤真琴(攻玉社社長)に見つかる → 停学 → 停学中、できたばかりの土手を図らずも滅茶苦茶に
 → 近藤仕返しかと思い激怒 → 退校処分の詮議 → 保証人のおかげで助かる

2)
大きな松竹梅の絵の入った白傘(※ダサい)を平気で使う
 → 破れたので、90センチの鍔広の麦わら帽子に絵を縫い付けて被る
 → 珍帽子(山屋の言)も破れ廃棄止む無し
 → 下宿先(千坂智次郎の叔父宅)の蔵にあった陣笠(家紋入り)を頂戴する


兎に角同君は豪傑肌の変り種であった。


陣笠ってお代官様が被っているようなアレよ…^^;
そら大分変ってると思うわ。
千坂智次郎は14期、同じく米沢出身です。

攻玉社時代は、上泉は運が悪いというか巡りが悪いというか、そんな感じだったようで、近藤真琴からはあまり良くない意味で目を付けられていた雰囲気^^;
山屋の談話はもうひとつあるけど、それは略。


この山屋の話は昭和11年8月のもので、近藤真琴伝編纂の為の談話。
山屋は編者にちゃんと上泉の許可と校閲を得なさいよ、と注意していたそうです。
上泉は

大分昔の事だし、細かい点は違う所もあるけど大筋は一緒。
近藤先生の伝記の中に名前が載るなんて光栄^^

という旨の返事をしています。
おおらかですな。


『上泉徳弥伝』、見ていると山本英輔の回想が結構面白かった。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/1b6c83c5e7ec8a6206b8b493f2b197c5.jpg
昭和5年の特別大演習観艦式 in 神戸。


山本英輔、山本権兵衛の甥ですが、艦隊派でしてね。
ロンドン海軍軍縮条約なんかにも反対していて、ぶっちゃけあまりいい印象はない訳です。
その一方で海軍で航空機に一番初めに目を付けて採用を上申したり、割と開けた人であったと思うんだ…
そんなこんなで自分の中でちょっと整合性が取れない人物でもあります。
ただ随分前に防衛研究所の史料閲覧室に行った際、調査官の方と(なぜか)山本英輔の話になり色んな話を聞かせてもらった。
結構印象変わった…(いい方に)


それはいいんですが、山本は上泉の下僚だったことが幾らかあったようです。
結構仲が良かったみたい。

上泉、大酒豪でした。
さ、酒癖はどうだったのか…^^;
毎日相当飲んでいたようで、山本は「大酒飲みの寿命は短いのに」的な事を回顧で言っていて、それは上泉は早じn(自重)

艦隊勤務の時も午前2時頃まで深酒をしているので
「早く寝なさい」
とか叱って酒宴を切り上げさせてたらしい。
部屋が開いていると思って覗いたら、酔っぱらってお腹丸出しで床に寝てたり。
子供か(笑)
上泉12期、山本24期なんですけどね!

自転車こいで艦に帰ってきたーと思って見てたら、そのまま直進して海に落ちたこともあったらしい。
ちょっとww

色んな意味で面白い伝記でした… 
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(18)岩手人脈 2

東條英機の父は東條英教といいまして、南部藩の出身になります。
安政2(1855)年生まれ、小村寿太郎、犬養毅、出羽重遠、井口省吾らと同年になります。
同じく南部藩出身の原敬はその翌年生まれで、彼らが12・3歳の頃に明治維新を迎えた。

野辺地尚義の件で触れましたが、維新の際、南部藩ははからずも”朝敵”となってしまいまして、その藩の子弟であった彼らも苦難の道を歩むことになります。
東北諸藩出身者は、総じてその藩と維新の経緯から大した出世が見込めない風があった。
日露戦争後の明治39年に海軍兵学校に入った井上成美(宮城・仙台)でさえ、宮城出身だから出世はできないと人から言われている。
その30年前、35年前はどうであったかなんて、まあ書かなくても想像に難くない。


ただ盛岡の子弟は大変ながらもまだラッキーだったんじゃないかと。
南部藩には作人館という藩校がありまして、維新時に一旦休校になったか廃校になっていたものの、明治3年に再校したようです。
そこに入って勉強したのが東條英教であり、原敬であった。
作人館にしても旧制盛岡中学にしても、近代史において盛岡出身の人材輩出が多かったのは教育が充実していたからじゃないかと密かに思ってます。


http://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0138.jpg http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010337.jpg


東條と原、同年代の事もあり、上京までのステップはほぼ同時期。
東條はストレートに陸軍の方に進んだようですが、原は海兵を受験して落ちたり、司法学校を賄い征伐で辞めざるを得なくなったり。
若い頃は苦難苦学の道を歩んでいただけに、躓きなく陸軍で歩んでいる東條は原にとっても眩しい存在だったみたい。
郷里の後輩に陸海軍への進路を進めるような書簡を郷里の友人(八角彪一郎)に出しています。
東條は盛岡出身者の期待の星だったようですな。


ただ原もその後は井上馨、陸奥宗光らに見出されて政府高官になり、そして伊藤博文に誘われて立憲政友会に入ることになり、岩手県出身の出世頭といえば東條英教と原敬になっていた。
そういうこともあって、旧主家の世話係というか教育係というか、ふたりはそんなものを務めるような立場になっていました。

南部家が旧藩に縁のある有識者に顧問を頼むようになったのが明治38年で、東條を通して原が依頼された。
明治38年といえば忙しい時期でんがな~^^;
原は既に政友会の重鎮になっていまして、日露戦争後の戦後経営を巡って桂太郎と取引したり…
多忙であまり気乗りしなかったようですが、結局は引き受けている。
で、その時に岩手出身の有力者に協力を依頼して、顧問団を作ったみたいです。

その当時のメンバーにどういう人がいたのかというのは私には分かりませんが、多分前回紅葉館関係で名前を出した人たちとほぼ重なると思われます^^;
大正10(1911)年に原敬が東京駅で暗殺された後は、田舎館愛橘、鹿島精一が中心になっていたようです。(東條は大正2年没)
で、現役を退いた後らしいけど、山屋他人もそれに加わっている。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010336.jpg


上はその関係者が写っている写真。鹿島以外は海軍軍人。

栃内曽次郎には兄・栃内元吉がいまして、この方は陸軍中将にまでなっています。
15歳離れており、兄というよりは実質父親のようだった模様。
この兄は明治3年に作人館に入り、そこで原敬と同室であった縁から終生の親友でした。
開拓使として北海道にいたものの、西南戦争の際は屯田兵として従軍しています。
栃内曽次郎が札幌農学校から攻玉社、海兵に進んだというのは、この兄について行っていたから。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010340.jpg


また原が作人館にいた際に得た友人には八角彪一郎がおり、この八角の妻・きよが栃内元吉の妹(曽次郎の姉)になる。
その八角の子供が八角三郎。
栃内から見たら八角三郎は甥っ子になります。
山屋他人も八角の叔父にあたるそうです。
山屋との関係は色々確認できるところはしたんだけど、どの線で繋がるのかはトレースできなかった…
単に私が情報不足なだけで、緒方竹虎と高橋文彦さんの本に書かれているので嘘ではないと思う。


この八角三郎に海軍に行け!と勧めたのが父の親友・原敬でして、それでお前もどうだと誘った親友が米内光政になります。
八角と米内は盛岡中学の同級生でした。
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(17)岩手人脈

岩手・盛岡から野辺地尚義を頼って上京してきた少年、それが山屋他人でした。
上京時期の詳細は分からないようですが、どうも明治12(1879)年、13・4歳頃の事みたい。
同じく盛岡・南部藩の原敬も上京していますが、こちらは明治4年という随分早い段階です。
まあ原の方が丁度10歳年上になるので、そんなもんかと。

野辺地を頼ったのは、野辺地が山屋の叔父(母方)にあたるからで、上京後はそちらに身を寄せていたようです。
で、その野辺地から紹介された先が攻玉社になる。


山屋他人_野辺地尚義


攻玉社の創始者・近藤真琴は大村益次郎の鳩居堂で学んでいました。
野辺地とはこれまた兄弟弟子だったんですね。
ブルータスお前もかー(笑)

攻玉社入学の経緯については、「親戚に近藤先生の知り合いがおり、その口利きで攻玉社に入った」と山屋自身も回顧しています。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140331.jpg https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140324.jpg


東京都港区にある攻玉社跡。
元々慶応義塾があった場所ですが、慶応の移転に伴いその土地を譲ってもらって攻玉社ができた。
芝新銭座ですが、この辺り、江川塾があった所になります。

韮山代官の役所が韮山と江戸の2か所にあったということは以前触れました。
江戸屋敷は本所にあったのですが、江川英龍(この連載で触れた太郎左衛門)の息子の代に、幕府が新銭座に土地を与えています。
そこが江川塾の砲術練習場になった。
大山弥助(巌)なんかが江川塾の門人であった時代はここで教えを受けていた。
慶応義塾とはすぐ近くであったそうで、福沢はこの江川塾の土地を借りていたこともあります。


とまれ、近藤自身が海軍に文官として奉職し、しかもこの方海軍兵学校(の前身の前身)の立ち上げから関与しており、兵学校の教官を務めてもいました。
その近藤に感化されて海軍に入る学生が多くなり、更にその人々が攻玉社で教え、更にその感化を受けて学生が海軍に進もうとする、という一種のループであったみたい。
海軍の方でも近藤には諸々の信頼があったようで、割と攻玉社を大事にしていたようです。

海軍もその歴史の前半では攻玉社出身の士官が非常に多い。
『攻玉社百年史』によると、日清戦争に従軍した海軍将校の約3分の1強。
日露戦争では約5分の1が攻玉社出身になります。
明治維新前後生まれ、つまり広瀬武夫らの世代であると多くの人が攻玉社出身、即ち同世代の海軍士官なら殆どの人が海兵以前の顔見知りということになる。


山屋他人も例に漏れません。
山屋は12期生として卒業しますが、入学当初の人数20人中攻玉社出身者は実に15人。
12期には有名人が幾人かいまして、まずクラスヘッド(主席)の江頭安太郎、有馬良橘、林三子雄、あと上泉徳弥もこのクラスです。
この内江頭、林、上泉が攻玉社で、有馬は三田英学校の卒業生になる。

ちなみに江頭安太郎は大正の早い段階で亡くなるのですが、その10年程後に江頭の三男に山屋の五女が嫁いでいまして。
彼らのひ孫が皇太子妃雅子様になります。


紅葉館は支配人野辺地尚義が岩手・盛岡出身ということもあり、初めの頃は盛岡からきたお女中さんが多かったようです。
そんな感じなので、岩手県出身者も結構利用していたみたい。

原敬も仕事の関連で結構ここを訪れていたようです。
仕事のみならず母親の喜寿、米寿祝のパーティーを紅葉館で開催したり。
あと家が近かったことがあったみたいよー(笑)


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140331_02.jpg


日露戦争後は中老会という岩手の在京県人会が紅葉館で開かれるようになり、そのメンバーが鹿島組(鹿島建設)の鹿島精一であったり、田中館愛橘(物理学者)であったり。
山屋他人、栃内曽次郎、後には原敢二郎、米内光政、八角三郎といった人々が参加して、年2回程飲み会が開かれていたそうです。


米内光政_紅葉館


栃内、原、米内、八角、いずれも海軍軍人です。
近代史を見ていると岩手は人材が多いですね~。
総理大臣になったのは、原敬(盛岡)、斎藤実(水沢)、米内光政(盛岡)、あと岩手に入れていいのかどうか、東條英機。
東條は昔から微妙だそうです…
先の戦争に関係して色々事情があることもあるようですが、父は盛岡だけど東條自身は東京生まれ東京育ちなんだよねえ…


続く!
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