Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(17)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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財部彪はロンドンに出かける前、面会した東郷平八郎に対米7割固持を強い言葉で口にしたみたい。
それはロンドン海軍軍縮の紛糾後、元老西園寺公望が岡田啓介に
「何故あんなに東郷が強硬になったのか」
と尋ねた時に岡田がそう答えていて、それで6割の条約に強く反対したとあります。
多分それもひとつの理由だったんだろう。


また財部個人に対する反感も、やっぱりあったのじゃないかと思う。
有名な話ですが、財部はこの会議に夫人を同伴しています。
それに対して東郷は、
「戦(会議のこと)にかかあを連れて行くとは何事か」

当時海軍では駐在武官や重要な任務を帯びた武官などが夫人同伴で海外赴任することは白眼視されたそうです。(『自伝的日本海軍始末』高木惣吉/光人社/1971)
財部夫人の評判があまり良くないというのも、ネックだったんだろうなあ…
(※但し、謂れの無い誹謗中傷が多かったそうです)


しかしながらね、これですよ。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014830.jpg


お分かり頂けるだろうか。


斎藤実の隣にいる女性はなんなのさという話ですよ。
昭和2(1927)年のジュネーブ海軍軍縮会議、斎藤実全権は夫人同伴なわけだが。
(当時斎藤は朝鮮総督ですが、就任に際し現役復帰していて現役士官なのですよ、一応)
財部の夫人同伴への批判は聞くのに、斎藤に対してないのはなぜなのか。
ジュネーブ海軍軍縮会議は戦ではなかったのですか東郷さん。
私は大変納得いきません。
てゆーか財部と斎藤の人望の差と言われたらそれまでなんだけど。 orz
なんかもう、個人攻撃なんじゃないの?という気になってしまう…


それやこれやに加え、条約反対派や反財部派からあれこれと吹き込まれ、財部彪がロンドンから帰って着た頃には東郷は相当強硬になっていました。
条約に反対するだけではなく、財部の進退にも言及、批判をしていて、紛糾の度合いが余計に大きくなった。
海軍内部としても、政治的にも。



財部帰国時には統帥権論争が始まっていたこと、軍令部長加藤寛治が統帥権干犯の上奏を頻りと要求していたことは既に述べました。(14
実際に周囲の反対や制止を振り切り、加藤は政府を弾劾するような内容での乞骸上奏をしています。
(※乞骸(きつがい)=骸骨を乞う=退職を願う)
これは反対派は勢い付くよね。
東郷にしても同じだったみたい。

条約反対派は東郷にあれこれ吹き込んでもいて、また東郷の言葉の、自派に都合のいい所を世間に喧伝している。
元帥は条約にハンタイダーとか、そういう事を強調する。
こんな風になってくると部内は中々収まらないのですが、海軍省と軍令部で覚書を作ること、財部の辞職確約で何とか収めています。

こうした海軍での悶着を乗り越え、更に枢密院での一悶着を乗り越えた後、政府は漸く条約批准にたどり着きました。
(昭和5(1930)年10月2日。枢密院が審査の際にしたことはOdd Priority(2)参照のこと)


辿り着きはしたのだけれど、幾つかの深刻な問題が起こった。

・海軍が海軍省系と軍令部系+東郷平八郎に近い人たちにまっぷたつ(いわゆる条約派と艦隊派)
・11月14日浜口雄幸首相東京駅で狙撃 → 政党政治否定の動きが活発に → 5・15事件に


https://blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014100302.jpg (@東京駅


この条約が批准される数か月前に山梨勝之進海軍次官と末次信正軍令部次長が更迭。
間もなく加藤寛治軍令部長も交代し、批准された後は財部彪が海相を辞めています。
海軍省部のトップが全員交代するという結果的には喧嘩両成敗的な人事となった。

財部の海相辞任は、立場上止むを得なかったでしょう。
しかし本人が希望したとはいえ山梨が海軍省から去ったというのは本当に痛恨だったと思います。


当時軍務局長であった堀悌吉(久しぶり)は、政府の人間や海軍上層に何かアクションを取れるような立場でも、自分の意志で何かできるような立場でもないため、ここでは全然名前が出てきませんでした。
が、山梨次官を理論的に支えていたのはこの人であったし、あれこれの起案やチェックをしていたのも堀であったようです。


それにロンドン海軍軍縮会議の際の海軍の紛糾、この詳細が分かっているのは堀悌吉のお陰だそうで。

『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)によると、
堀は条約締結の経緯を記録として作成しており、それが「倫敦海軍条約締結経緯」として『堀悌吉資料集』に所収されている。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12110006.jpg


堀は昭和5(1930)年夏頃にこの条約関係で起きた出来事の要点を記していました。
それがどういう事か上達書類に紛れて、財部彪海相の手元にまで行ってしまった。(上写真の左側に書いてある)
一読した財部がこれを完成させた上保存したいと希望したため、正確な資料に基づき書き直し、山梨次官や関係諸官に見てもらって清書。
それに関係文書を添付して、軍務局と大臣官房に1通ずつ保管することにした。

ただ、昭和9(1934)年頃には官房で保管していた方が無くなっていた。
それを耳にしたのが古賀峯一。
ちょっと心配になってね、当時軍務局長であった吉田善吾に軍務局で保存している書類を見たいと申し入れた所、


時代も変化してきたから、このような記録があると海軍部内の統制上好ましくないというので、近く焼却することに決まった
(『堀悌吉』芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)


えっ。


https://blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08240238.jpg


古賀はロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省の高級副官でした。
これまた名前は全然出てきませんでしたが、堀と一緒にあれこれの会議に立ち会ったり、出張したり。
当時の海軍の状況をよく知っているひとり。
古賀は内心驚きながら、

「ちょっと見たい所があるから貸して欲しい」
「なら用が済んだら焼いてくれ。俺の方で焼却済みにしておくから」

古賀は書類を持ち出して、すぐに堀悌吉の元に持ってきたそうです。
そしてそのまま堀に預けた。
書類は堀が海軍を辞めた後に勤めた会社や防空壕など転々と持ち歩いた為、焼却にも戦災にも遭わずに一級史料として現存することになりました。


しかし

時代も変化してきたから、このような記録があると海軍部内の統制上好ましくないというので、近く焼却することに決まった

これですよ。

私もこの部分を見た時はちょっと驚いた。
これ、もしかしたら同時期に結構な数の「好ましくない」重要書類が焼却されているのではないですか。

敗戦直前直後に、陸海軍が真の極秘書類などをほぼ焼却したのはよく知られていますが、
その時以外でもその時々の当事者にとって都合が悪いという理由で、ないことになった「歴史」が随分あるんでしょうね…


続く


**


間には挟まなかったのだけど、ちょっと言わせてorz

東郷元帥や、伏見宮博恭王、加藤寛治、末次信正といった人物、また先輩・同世代の予備役後備役を納得させるような、
また加藤友三郎のように力尽くで押さえつけるような力量(経験や人望)が、財部にはありませんでした。
残念ながら、沸き立つ後輩を押さえつけるような力量もなかった。

見ていると財部も少し頑なな所があるので、状況に適するフレキシブルさに欠けていたのではとも思う。
部内、特に海軍首脳に理解を求める動きを、どの位していたのかなーと。

ただ財部自身も初めは他の海軍首脳と同じように対米7割堅持だったのは、見てきた通り。
会議に出席する前から、海軍と政府の肚が割れていたのも見てきた通り。
一番肝心な所で、足並みが揃っていなかった。
意思疎通の悪さは財部だけでなく、政府側の人間も大概酷いので、紛糾の理由を財部だけに帰するのは酷だと思う。
ただ、あの時期の海軍大臣として、財部彪が力量不足であったというのは真実でしょう。

でもね、海軍がふたつに割れたのって財部のせいですか?
私はこれが聞きたい。
当時海軍のトップであったという点では、確かに財部の責任だよ。
でもね、

「一枚板だった海軍を条約派と艦隊派に分裂させてしまった、財部の責任は大きいですよ」

これ『歴代海軍大将全覧』にある財部の項目、半藤一利のコメント。
納得できない。
財部も岡田啓介も「元帥の晩年に傷をつけたくない」って腫物を触るように気を使ってた東郷平八郎まで担ぎ出して、一部政治家と結託して統帥権干犯問題まで言い出して、海軍を割ったのは誰なんだよ。
財部なの?


『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)を見ると、
東郷は、条約に徹底的に反対することで、また条約締結後も破棄を強く言い続けることで、
少しでもいい条件で、条約締結後に生じる国防の欠陥の補充策を引き出そうとした。

「条約締結は認めてやる。だが政府は海軍軍備を少しでも多く補充しろ」

東郷の条約絶対反対の姿勢は、その駆け引きの道具だったってことだよ。
(この時に東郷の手足になったのが”東郷の私設副官”小笠原長生で、その猛烈な運動には加藤寛治がドン引きしたほど)

どうなわけ?これ。
東郷は担がれただけという意見もあるけれど、これそうですか?



『歴代海軍大将全覧』の財部の項目、
他に書くことないのかと思う位財部夫妻の悪口のオンパレードなわけだが、
秦郁彦が財部の婚姻の際に広瀬武夫が反対したという話を振っている。

曰く、広瀬が財部の婚姻について山本権兵衛宅に直談判に行った際、それを聞いていた山本夫人が
娘は山本の娘であるためにいい人と結婚できないのでしょうか
と泣き、それ見た広瀬がハッとして直談判の内容を撤回して山本宅を去った。
(このパターンの話は私は他に見たことない)

その話の後、対談者4人で財部夫人に対する悪評を言い合い、その揚句に

「元はといえば広瀬が権兵衛夫人の涙に負けたのが悪かったんです。
あのとき、広瀬が断っていたら、いね子は山路一善の嫁になったでしょう。」(秦)


何で広瀬が悪いんだよ。

それに広瀬が断ったところで何の関係もなかったろうよ。
読めば読むほど腹立つ本である。
(この本と著者連が好きな人はごめん。私は無理だ)
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栴檀(4)

サイト移行の為下ろします。
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海軍兵学校15期!(3)

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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題は 「We are!」 に変えています。

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広瀬武夫が学生であった際の大変化その2は海軍兵学校が東京築地から広島県の江田島に移転したこと。
これが明治21(1888)年夏の話。
移転の理由は、東京は繁華・華美で誘惑が多すぎる、教育上不都合な点が多いとか、そういう感じ。


江田島の新校舎着工は明治19年になります。
『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』(水交会/秋元書房/S46)によると、21年には講堂や砲台、官舎などは出来上がっていたそうです。
しかしながら肝心の生徒館がまだできていなかった^^;

生徒はどこで生活をしていたかと言うと、生徒学習船、東京丸。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07020023.jpg


神戸の小野浜造船所で艤装された船。

ちなみにこの小野浜造船所、東京丸の艤装の前は大和を建造していました。
あの戦艦大和の初代艦です。
その時の監督官が東郷平八郎でして、神戸にはその記念碑も残っています。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140703.jpg


花隈にある東郷井。

揮毫は財部彪(15期)、裏の撰文は小笠原長生(14期)になります。
こちら、戦前に神港倶楽部という施設があり、東郷はこちらに約1年逗留して小野浜造船所に通っていた。
毎朝顔を洗うのに使った井戸があったところから「東郷井」。
財部の命名。

この石碑、もしかしたらなくなるかもしれない。
もしくは移転する可能性がある。
現在川崎重工の健康保険組合保健会館の前にあるのですが、この建物、売却計画が出ているようです。
地元は残して欲しいという要望だけれど、現時点ではどうなるのかよく分からない状態。


15期、近藤常松の話によると、生徒は明治21年の夏休みに高砂丸で江田島に送られた。


当時江田島には校長官舎、甲、乙、丙号の官舎、将校集会所、事務所、柔剣道場を兼ねたる運用索具室、
簡単なる船体模型室、重砲台などがあつたのみで、生徒館も講堂もなかつた。
海岸にカツターを六七隻釣つたダビツトがあり、その側今の機橋のある処に東京丸と云ふ船が学習船として繋いであつた。

私共はこの東京丸へ入れられたが、一番上がハリカン甲板(デツキ)で簡単な診療所、喫煙所等設けられ二番目三番目の甲板は中央にパスセージがあり、
その両側に講堂兼温習室があつた、講堂には四角の窓がある丈で勿論電気はなく、中は薄暗かつた。
船底となる四番目の甲板に釣床、衣服箱があつた。
賄所を海岸近くに設けてあつた。

(『海軍先輩の逸話、訓話集 其7』/海軍省教育局/S10)


機関学校から来た生徒たちは別だったんですね。陸上生活だったのか。
というか、…講堂なかったの?^^;
『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』の説明文には明治21年4月には物理、水雷、運用の3講堂が落成とあるんだけど…
同書には東京丸の平面図も載っているのですけれど、これには確かに船内に講堂が10室あるわ~
そして近藤の回顧と東京丸の平面図から察するに4番目の甲板(最下甲板)で全員が寝ていたのかな、という感じ。


さらに近藤はこんな話もしている。


日曜などに外出しても別に行く処はなく古鷹山に登るか、久枝 の五六軒先にあつた風呂屋の二階を倶楽部にして、此処で休むかしたものだ。
酒保などゝ云ふ気の利いたものはなく(後に御粗末なものが出来たが)
次長(※土原註:三浦功大佐)が心配されて広島から菓子を取り寄せたり、或は牡丹餅を作つて呉れたりもしたものだ。
村には何も無く百姓が作る芋位なもの<略>



海軍兵学校_古鷹山



確かに生徒を華美から遠ざけるというのが、移転の大きな理由だったんですけど…
東京からいきなり何にもない島っちゅうのはあれだなー!
外出しても別に行く所もないしって、ほんと休日の楽しみがないよね!^^;

東京だったらね、広瀬的には講道館に行ったり、甘い物食べに行ったりできたんだけど。
他の人だって似たようなもんだっただろう。
上京して学校に通っている友人に会ったりもできただろうし。


生徒ノ楽ハ、矢張日曜日ニテ、此日朝ヨリ酒保ニ出掛ケ、矢鱈菓子ヲ喰ヒ餅ヲ喫スルカ、
又ハ外出シ、農家ヲ借リテ、鶏ノ汁ニ、白飯唐芋ナリ何ナリ、手当リ次第喰散スヨリ外ニ、何モ無之、
其他ハ手紙ノクルノミニ候。
 (明治21年10月10日付 広瀬武夫書簡)


広瀬でさえこの書きぶり…^^;
休みの楽しみと言えば酒保でおやつを買うか、外出先の農家でご飯を食い散らかすか。
あとは手紙…のみ!

日本一栄えている都市東京からの移動、しかももう20歳超えてますからねえ…^^;
人によっては本当に辛かっただろうな~(笑)

ちなみに江田島にいる時に広瀬は古鷹山に100回以上登ったという話が残っています。


続く。 
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