Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

広瀬武夫の話、色々(3)

イケメンのおてかけさん、川上タケさん。
広瀬武夫がロシア留学に行く際に「更紗お土産でよろしく!」と口にする。

多分本当に軽い気持ち、冗談のひとつだったのだと思います。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/IMG_0575.jpg



だって広瀬が更紗を持って来た時、本人は何のことか分からなかった。
おーい。笑
暫くして5年前の約束を思い出し、「軍人は義理堅いなあ」と感心したという話が残っています。
ちなみにこの更紗は座布団になったそうです。

彼女は東京で行われた広瀬の葬儀にも出席していた記憶がある。
確かこの話はその時に語られていたもの。


**


お土産の話と言えば、広瀬は大鳥六三に双眼鏡を送っています。
これは前回サイトで更新した話と被ってしまうのだけれど。
読んで下さった方ごめんね。

大鳥は大鳥圭介の三男でして、広瀬とは講道館での柔道仲間。
六三には次兄・次郎もいるのですが、この方も柔道仲間です。
講道館柔道の嘉納治五郎が学習院の教頭をしていたことは以前書きましたが、これは大鳥圭介のスカウトでした。
嘉納は政府顕官からの信頼が厚い人物で、自らが主宰する学校・嘉納塾や講道館でその子弟を多く預かっていましたが、大鳥兄弟もその一例です。

仲間とは言え大鳥兄弟は5才と8才の年下なので、広瀬にとっては弟を見るような感じであったかと思います。
ちなみに広瀬と彼の末弟吉夫とは11歳差。
広瀬もこの兄弟とは仲が良かったようで遊びに来いと誘っていたり、一緒に泊まりの旅行に行ったりしています。


ロシアから帰国後、六三と再会した時に広瀬は
「土産を送ったのだけれどまだ着いていない。また他日送る」
そういう事を言っていて、これはロシア出発前に日本に向けて送ったのかと思います。恐らく船便だろう。
その荷物を広瀬はいつ受け取ったのか、はたまた受け取らなかったのか。
それも分からないのですが、ただその後忙しかったのかそのままになっていた。

それから明治37(1904)年2月に日露戦争が始まり、3月末に旅順口閉塞作戦で広瀬が戦死し…
そして4月6日、大鳥の元に小包が届くのですね。
送り主は朝日乗組みの分隊長・井原頼一少佐で2月19日付。
包みを開けると出て来たのは双眼鏡と広瀬からの書簡でした。

広瀬じゃないの?という話ですが、広瀬は19日から第1回旅順口閉塞作戦の実動に入っています。
前日に作戦本決まり。

作戦自体が生還を期せるかという感じですし、今送っておかないと、と思ったのだと思う。
ただばたばたしているので、後輩に書簡と双眼鏡を渡して発送を頼んだのかなと。



http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2015515.jpg


それが上の写真に移っていますが、こちら、ずっと大鳥六三の手元にあったかと言われたらさにあらず。
江田島の海軍兵学校、教育参考館に大鳥男爵家から寄贈されている。

大鳥六三は明治43年に自殺しています。
理由はよく分からない。鬱とか神経衰弱とかじゃないかなあ…
その後に家からということで教育参考館に寄贈されたのではないかと思います。

では今も教育参考館に?と思うのですが、私は見たことがない。
あるのかないのかもよく分からない。

海軍兵学校は敗戦時にGHQに接収されています。
その際に教育参考館の遺品等が接収されることを恐れて、大山祇神社と厳島神社に分けて奉納されている。
そうして4万点の内残りの2.5万点は果たして焼却処分です。
この双眼鏡もそうだったのではないかと思っているのですが、詳細を知っている方がおられたら教えてください…


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