Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

真田山陸軍墓地(2)@大阪

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この史跡は5回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

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真田山陸軍墓地(1)の続き。

維新後、新政府は軍の陸軍の中核を大阪に置きました。
新政府っちゅうか大村益次郎ですね。いずれ西日本でなにがしかが起こるだろうと見越してのことだったといわれています。
当たってるよ蔵六さんすげえ。

当時どういった機関が置かれたかというと、造兵司、兵学寮、陸軍屯所、軍事病院、陸軍教導団等など。
ちなみにこの兵学寮には児玉源太郎や寺内正毅などがいました。
以前触れた通り大村は明治2年、京都滞在時に襲撃され、その治療の為に大阪に運ばれそこで亡くなっています。
京都から大阪に移動する際、大村を運んだ人々の中に当時兵学寮の学生であった児玉や寺内がいた。

後年になると大阪城には第4師団の司令部が置かれ(※明治21年以前は大阪鎮台)、城の南には歩兵第8連隊、城の西には砲兵工廠(規模は東洋一)が置かれるなど、大阪城を取り囲むように軍事施設の密集していた。
うん。軍事都市でしょ。

昭和20(1945)年に大阪は大空襲に遭っていまして、軍事施設は殆ど残っておらず、軍都の名残はなくなっている。
が、先日写真を出した第4師団司令部はまるまま、砲兵工廠はレンガ造りの遺構がほーんのわずかだけ残っています。
真田山陸軍墓地も大阪に現存している貴重な軍事施設(?)のひとつになる。


 


大阪城のすぐ南にある難波宮跡の西側の正面に大村益次郎卿受難報国の碑(サイトブログ)があります。
そこからちょっと離れた所に作られた真田山陸軍墓地。
大阪大空襲の際は北浜から海が見える程街が焼け、まさしく灰燼に帰したそうですが、陸軍墓地は大した被害もなかったようです。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080326.jpg


墓地と隣り合っている三光神社は爆撃で消失しています。
現在の本殿は戦後の再建ですが、当時の鳥居は残されている。
右上(神社入り口) 左側に3分の1程になった鳥居の足、
左上(本殿) 右側に1本、左側に3分の1になった鳥居の足が見えます。
長崎にも原爆で飛ばされた片足鳥居というのがありました。
片方の崩れた鳥居が道路の脇に寝かされていて、あれもインパクト絶大だった…

上写真の鳥居はどれだかがどこかの神社から移ってきたらしいんだけど、調べていないのでちょっと分からない。
陸軍墓地の方はよく残ったもんだと思います。



(入り口。宰相山公園を目指しましょう)


ちょっと入り辛い。
陸軍墓地という標識がなく、また人が常駐しているわけでもないので、初めて訪れた時はかなりうろつきました。
その上部外者が入っていいのか分からない。
後から知ったのですが、普段からこういう状態のようで、入りたい人は勝手に門を開けて入る。
施錠はされていないので、24時間ご自由にどうぞ状態。

それ大丈夫なのかな、と思うことしきりですが、やっぱり不心得者がいます。
2・3年前だったか、何基かの墓石が根こそぎ折られたり墓碑が剥がされるという事件がありました。
○ね。(ナチュラルにそう思ってしまう…)
戦前から桜の名所のひとつだったそうで(というか江戸時代からそうだったらしい。桜ノ宮と土佐藩邸とここ)、現在でも花見してもいい所のようですが、最低限のルールは守れ(殴り書き)


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080350.jpg


門扉をくぐった所。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05020748_R.jpg


新しく解説版ができてた…(今年の春設置されたばかり)
以下要点。

●日本最古の陸軍墓地(明治4年設置)
●陸軍墓地は戦前、全国で80箇所以上つくられたが、それらの中で最大規模
●墓は徴兵令施行以前~大東亜戦争終結後に建てられたものまでが含まれる
●個人墓碑(約5100基)、合葬碑、納骨堂(約8200人)がある
●現在大阪市が管理(国より国有財産無償貸与)


箇条書きにしたらよく分かるな。
「日本最古で最大の陸軍墓地(しかもよく残っている)」というのが、こちらの大きな特徴です。
陸海軍が認めた”英霊”を祀る靖国神社とは違い、陸軍墓地では軍務中の死者、例えば病没した軍関係者も葬られている。
軍人だけではなくて、軍夫とかもね。

日清戦争の時に捕虜になった清国人や、第1次世界大戦の際に捕虜になったドイツ人のお墓もあります。
俘虜っていう字が、墓石からは削られているんだよね(戦前)。
亡くなった方の名誉を慮ってみたい。


真田山陸軍墓地


続きます。

なんちゅうか、陸軍墓地は実質このエントリからスタートなんだが…^^;
(1)はいらんかったなーorz
というか、写真を見ていると結構あるんですよね…
似たような写真ばっかりというのはあるのだけれど、ブログで更新するのはちょっとどうかなあと思わんこともない。
ただ、サイトでいっぺんに更新するよりブログでぼちぼち更新した方が多くの方の目に触れるかと思いまして。
うん、正直多くの人に知って欲しい所なんだ…

そういうこともありまして、読み辛いかもしれませんが暫くお付き合いください。
で、多分サイトの方にそのまま移行します。笑


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大村益次郎@大阪

司馬遼太郎の『花神』に、緒方洪庵の息子が幼かった頃に塾頭であった大村に背負ってもらう(子守りで)場面があります。
私はそこが大好きでなんですが、その場面に出てくるひとりが緒方惟準(これよし)になります。
名前を知っている方も多いんじゃないかな~

この方、維新前にオランダ留学、帰国後(慶応4年)は明治天皇の侍医となり、維新後にはボードウィンと大阪府病院医学校、大阪軍事病院を設立。
その後は中央に出仕して軍医養成や医務制度を作るのに尽力した。
大阪鎮台の軍医長やったり、軍医本部の次長やったりと、特に大阪の医学の発展の基礎を作った人である。
すごい人なんである。うむ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2011_10160055.jpg (京都木屋町)


明治2(1869)年9月4日、大村は京都で遭難します。
宿にいる時に7人の刺客に襲われ重傷を負ったけれども、辛うじて一命を取り留めた。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140420.jpg 
大村の定宿があった場所は現在さつきという京料理店になっています。
桂小五郎と幾松のロマンスで有名な幾松のすぐ隣。


当時大阪府立医学校病院勤務であった緒方は大村遭難の報を聞いてすぐに京都に行くつもりだったそうですが、ボードウィンが止めた。
京都からきた病状報告を見て、そんなに深刻な状況だとは思わなかったみたい。

とはいえ大村の傷は右額に縦12センチ、頭から左額にかけて9センチ、これらは皮膚と筋肉が削がれて骨が露出している状態。
ついでに動脈も切られていて中々血が止まらない。
右手に加え、右腕・右膝もそれぞれ長さ10センチ±α、深さ1センチ+αで斬られていて、結果としてはこの足の傷が致命傷になっています。
なんでこれを重体だと思わなかったんだ…

ただ、大村自身がボードウィンらの診察を希望したようで、また京都では治療が手に負えなくなったということもあるようで、約1ヶ月後に大阪に搬送されています。
この時、京都から大阪へ、川を下って移動する際に大村の担架を担いだのが児玉源太郎、寺内正毅、長谷川好道といった後年の大物になります。


ボードウィンらが大村の診察をした際、足の傷は化膿が進み、腐敗臭がしていた。
即刻大腿切断の必要があると診断したものの、当時は政府高官の大手術には勅許が必要だったそうです。
東京大阪間の電信も列車もない時代で、両都の往復には少なくとも10日かかった。
勅許を得て切断手術は行われたものの、その時には既に手遅れになっていまして、手術の9日後に大村は亡くなっています。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080362.jpg


亡くなった病院があった辺り、現在大阪医療センターになっています。
司馬遼太郎が亡くなった病院ですが、この一角に大村の記念碑が建っている。
右端に人が写っていることから分かると思いますが、これめっちゃ大きいんです…
この写真は信号の向こう側から撮ったもの。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080364.jpg


建立は昭和15(1940)年で、発起人は畑俊六やら林銑十郎やら東条英機やら。
陸軍軍人や関西の政財界の著名人がずらずらーっと名を連ねている。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0420.jpg


地図ちょっとちょん切りすぎた…
阪神高速のすぐ北(上)に大阪城があります。


切断された大村の右足は、大村本人の希望により師・緒方洪庵の傍に埋葬されています。
北区の龍海寺。
こちら、緒方家の菩提寺なんですって。


地図_大阪キタ_太融寺


緒方は江戸で没しておりそのまま江戸で埋葬されました。
こちらに納められているのは緒方の髪になります。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080447.jpg


緒方と緒方夫人のお墓は一段高い所にあるのですが、そのすぐ隣に大村の足塚があります。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080454.jpg


埋葬したというものの、こちらの足塚の存在は長い間秘匿されていて知られることはありませんでした。
『緒方惟準伝』(中山沃/思文閣出版/2012)によると昭和12(1937)年、陸軍軍医中将飯島茂が毛利家所蔵の文書『従三位大村君事績(写本)』からこの事実を明らかにしたそうです。
で、これによって昭和14年に阪大医学部学友会などの有志によってこの碑が建てられたとのこと。

緒方惟準伝にこの碑の裏面にある碑文が載っていたので引用します。


大村兵部大輔公事を以て京都に在り、
明治二年九月凶徒の襲う所と為り前額右膝等数所を創せらる、
十月二日大阪病院に入り加療す、廿七日右大腿戴断術を行う、
肢を旧師緒方洪庵先生の旁に瘞む、大輔の希望に従うなり、
惜しいかな経過不良、十一月五日溘然逝く、
星霜已に七十、方今国家多事、天下皆偉人を思う、
大阪医界有志の者胥碑を建て遺蹟を明らかにせんと欲す、
以て追慕の至情を表すなり。

昭和十四年十一月五日 陸軍軍医中将飯島茂撰並書



原文は漢文のようです。
書き下されてて大変助かります。笑

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大村益次郎先生寓地址・福沢諭吉誕生地

地図_大阪キタ_適塾


旧除痘館から大村益次郎先生寓地跡までぼちぼち歩きます。
2・30分位かなあ…寄り道しながら歩いていたのでよく分からない。

場所は西区江戸堀、フコク生命ビルの前。
大阪市立科学館・国立国際美術館を挟んで斜交いに福沢諭吉の誕生地があります。
科学館を目指していけば早い。


「大村益次郎先生寓地址」


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190378_R.jpg


寓居だと思ってた。寓地ですかそうですか。

大村益次郎が適塾に入ったのは弘化3(1846)年のこと。
その翌年に長崎に留学して、さらにその翌年に適塾に戻ってきた。それが緒方洪庵が道修町に除痘館を作った前年のこと。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0416.jpg


こんな感じ。
塾生の時は適塾に寝泊まりしていたのだけど、戻ってきてからは塾頭になっていまして塾外に下宿していました。
それがここ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190375_R.jpg 


石碑の隣に設置されている解説版によると、嘉永2(1849)年から倉敷屋作衛門宅の座敷に住んでいたとあります。
ただ、こちらにいたのは短期間で(家人が煩わしかったらしい)、すぐに引っ越すことに。
引っ越し先はここから随分離れた大阪城の目の前、谷町台地の方(名付けて漏月庵)になります。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0416_02.jpg


漏月庵の方にも石碑があったそうなんですが、今は無し。
空襲で無くなったんじゃないかなあ…よく分からん。

大村益次郎についてはもう少し書きたいことがありますがそれは後回しにしまして。
この石碑から歩いて数分の所にあるのが福沢諭吉誕生地。


地図_大阪キタ_適塾


場所は堂島リバーフォーラムの西の端!


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190379_R.jpg


こちら、3つの石碑が建っています。
手前が「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」、『学問のすすめ』より。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190380_R.jpg


手前にあるのが中津藩蔵屋鋪之跡で、中心にあるのが福沢諭吉誕生地。
福沢は大阪生まれでした。
中津ではない。

初代記念碑は金属製で戦争中に供出され、2代目は戦争が終わって数年後に建立、そして現在のは3代目。
字は小泉信三。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190381_R.jpg


幕末明治の大教育家福沢諭吉先生こゝに生る。
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)。
こゝは旧豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。
先生の父百助は一面に於いて、経学者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀会計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。
彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時
「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」
と語ったと伝へられてゐる。
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを仏門に入らしめる以外にはなかったのであらう。
当時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見し得たであらうか

昭和29年1月  慶應義塾社中建之
            題字 小泉信三
            撰文 高橋誠一郎
            書  西川 寧



特に書く必要もない気がしますが、福沢も適塾の生徒でした。
まーいろいろやらかしてますな、塾生の時代は。
万引きしたり、よそで万引きと間違われたのに腹を立てぶち殺すといって脅して商売やめさせたり。
どうなのよそれ…(と真面目に)

…この書きっぷりで大体お察しかと思いますが、福沢諭吉は好きじゃないんだ…
昔書いたこともあるけど、やってる事見てたらなんでこれが人格者扱いされるんだよと思うんだなあ。


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(13)江戸へ

高野長英の後釜として宇和島に入った大村益次郎。
適塾の緒方洪庵に紹介されてですが、宇和島で大村を招聘すべく動いていたのは二宮敬作と大野昌三郎という人物だったようです。

高野長英が宇和島に滞在した際、藩士数人に蘭学を教えていたと書きましたが、大野昌三郎はその中のひとり。
大村が滞宇していた際の身元保証人というか、後見というか、そういう立場だったということを読んだことがある気がする。
記憶曖昧ですんまそ^▽^;


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140323_05.jpg


大村は約3年程宇和島に滞在していますが、高野同様軍事関係での登用で蒸気船や砲台を作ったりしてますなあ…
ちなみに砲台を作る際は高野が記した本を参考にしたそうです。

提灯張りをしていた町人嘉蔵(後、前原巧山)と共に純国産の蒸気船を作った話は非常に有名なので、ご存知の方も多いかと思います。
嘉蔵さん、手先が器用で町のなんでも屋のような感じだったそうですが、技術を買われて後宇和島藩のお抱えになってますな。藩士になったのか。
精米機やミシン等も作っていたそうで、そりゃ蒸気船を作れる理解力と技術力があるならその位は作れただろうと思ってしまう^^;
勉強しろということで長崎に3度、そして薩摩にまで留学させてくれており、藩の嘉蔵への期待の程が窺い知れます。


大村と同時期に長崎に滞在していた時もあり、その時は二宮敬作も長崎に赴いています。
大村と二宮はほどなく宇和島に帰る訳ですが、その際二宮はシーボルトの遺児・イネを宇和島に連れて帰っている。
高野長英と同じく大村は宇和島藩の軍制改革に関わる傍ら蘭学を教授していましたが、そこの学生になったみたい。


二宮敬作。
シーボルトの高弟で、高野長英とは兄弟弟子です。
シーボルトよりの信頼が厚く、彼よりイネの面倒を見て欲しいと頼まれたということは前に触れました。

二宮は自らが医学の手ほどきをした後、イネを岡山の石井宗謙という医師の元に修業に出します。
石井はシーボルトの弟子でして、二宮はそれを信頼して預けたということだったのでしょう。
イネは7年程岡山で産科医としての勉強をしていますが、石井に暴行された挙句妊娠してしまい、長崎に帰ることになった。
二宮が長崎にいたイネを連れて宇和島に帰ったというのは、その後の話になる。

ウィキのイネの段をちらっと見たのですが、「フィクション設定では暴行されたことになっているが真相は不明」となってるなあ…
うーん、これ、多分史料あるよ…史料というか、資料というか。
私もこの手の話がなんで伝わってるのか、不思議だったんですよねえ。
普通だったら秘匿しておきたい筈の話で、出所はどこなのかとずっと思っていたのだけれど、何年か前に吉村昭の本を読んでたら載っていた。
イネと石井の間にできた娘本人が「長崎学」の古賀十二郎(『長崎ぶらぶら節』で渡哲也が演じた)に話したことで、長崎図書館の書庫にあるそうです。

ちなみにイネの娘・タダ(高子)は、後二宮敬作の甥・三瀬諸淵と結婚します。
三瀬は大村益次郎の下で学んだ語学力に優れた人だったそうで、シーボルトが30年ぶりに再来日(安政5(1859)年)した際にはその下で勉強し、シーボルトが江戸に向かう際には共について行っている。
そこでちょっと問題が起こってますが、そこは割愛^^;


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140323_04.jpg


そんなこんなで数年を宇和島で過ごした大村益次郎、当時は村田蔵六ですが、藩主伊達宗城の参勤交代について江戸に向かうことになります。
そして江戸で塾を開いた。
それが鳩居堂。
正直な所鳩居堂と聞くと京都寺町、本能寺の近くにある書画文房具店しか思い浮かばん…
何か関係あるのかと思いきや、何の関係もないみたい。笑

ちなみに江戸に出た後、大村は眼病に罹ったそうです。
その時に診てもらったのが大槻俊斎。
伊東玄朴らとお玉が池種痘所を立ち上げ
高野長英が脱獄した際に立ち寄り刀を持って行かれた蘭学仲間
高野と大村、直接会ったことはないですが何かと繋がりがあって面白い。
てゆーか、ほんと狭い世界だわー^^;

戦前に出た大村の伝記の復刻版に鳩居堂の入門者名簿が載ってるらしいんだけど、私が確認できる範囲ではその本がないんだ…
なので2・3人ほどしか知らない。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140324_02.jpg


有名な中では、後、海軍中将にまでなった伊藤雋吉がいます。
『陸海将校の書生時代』(墨堤隠士/大学館/M37)には江戸に出て林洞海、江川太郎左衛門の塾に入り、後鳩居堂に入ったとある。
とはいえこの本、広瀬武夫の部分を見ている限りでは嘘と創作が多いので大丈夫かと思う所がないでもないですが、当時の蘭学(洋学)吸収熱ってこんなもんだったんだろうと思います。

また鳩居堂に入門した中には野辺地尚義という人物がいる。
南部藩、岩手の人です。


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(11)宇和島へ

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014031703.jpg

大村益次郎(当時は村田良庵)が大阪の適塾に入ったのは、弘化3(1846)年、23歳の時。
当時の塾頭は村上代三郎という兵庫の人で、この人は後に大鳥圭介(兵庫)と一緒に江戸に出ています。
村上は伊東玄朴の塾に入ったようですが、大鳥は坪井信道の高弟(坪井の娘婿)の塾に入っている。

…坪井信道、覚えてる?^^;
佐久間象山が蘭学を勉強する切っ掛けを与えた人で、緒方洪庵の先生
高野長英とも知り合いで、酷い目に遭ったという話に触れました。

また大鳥は江川太郎左衛門亡き後の江川塾に学び、後にそこの教授になっています。
その頃の江川塾の生徒に大山弥助(巌)やら黒田了介(清隆)がいる。


『われ徒死せず』(福本龍/国書刊行会/2004)を見ると、大鳥が入塾した時の塾頭は伊藤慎蔵(精一)だったそうです。
あ、そうなんだー
伊藤は長州萩の人。
恐らく同郷ということもあったのでしょう、大村とは仲が良かったみたい。
しかしながらこの方酒好きで何らかの失態があったらしく、それが原因で一度適塾を破門されている。
それを緒方洪庵に取り成したのが大村だったみたい。


実はこの方、我が地元にちょっと関連のある人だったりする。
奥さんが西宮の北の方、名塩の出身なんだ…
緒方洪庵の妻八重も名塩出身で、そのあたりから何らかの関係があるのかと思うのだけれど、調べたことはない。
色々な経緯から、八重の実父のバックアップを得て名塩で蘭学塾を開いています。
あちこちから塾生がやってきて、結構隆盛したらしい。
大阪港にロシアのプチャーチンが来航した時には、その通訳を務めたりもしている。
多分大村辺りの引きで、長州に仕官しないかという誘いがあったのだけれど、それを断っています。
そこでその誘いに乗っていたら、間違いなく陸軍あたりの軍医になってただろうと思われる。


村田は適塾で1年学んだ後長崎へ1年留学、その後再度適塾に戻ってきて塾頭を務めましたがそれも2年程で、郷里に帰って病院を開業しています。
ただ、「今日は暑いですね」と挨拶すれば「夏は暑いのが当たり前です」と返してくるような人なので、医者としての腕は抜群にいいのに病院は流行らなかった。笑


そしてやって来た嘉永6(1853)年。
日本史的にはペリー来航という重大事件が起きた年ですが、大村にとってもひとつの転機になった年です。
なんかね、ちょっと時間軸が分かりづらいと思って簡単に年表作ってみた。

大きい画像でごめん…
どれ位の縮尺がいいのか、いまだによく分からんorz

(1)
http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140320_03.jpg

(2)
http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140320_04.jpg


右側の欄にこの連載で書いてきた事を大雑把に詰め込んでみた感じ。
当たり前ながら、色んな事が同時並行で起きています…
てゆーかお玉が池種痘所開設がふたつあるorz
安政5年が正しいです。

大村益次郎が宇和島藩に招聘された年は、ペリーが来航した年。
それを受けて韮山代官江川太郎左衛門が品川台場を築造に着手したのは、この連載の初めに触れました。
で、江川に付き従ったのが斎藤弥九郎であり、その巡検の際は従僕として桂小五郎もついて行った。


大村は宇和島に高野長英(岩手)の後継として迎え入れられた。
宇和島藩、当時のお殿様は伊達宗城ですが、元々外国事情に関心が深かったようです。
高野長英はその著者『戊戌夢物語』が咎められ蛮社の獄の犠牲者になるわけですが、伊達宗城はこれを読んで一度著者に会いたいといい、伊東玄朴の仲立ちで2度程会ったことがあるそうな。

高野が脱獄して4年後、その所在を知った伊達宗城が手を回して高野を宇和島に迎え入れています。
それが嘉永元年、年表(2)の上から4行目。


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