Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

サイト更新 堀悌吉

■サイト更新 近代 【Parabellum~堀悌吉 1-10】

山本五十六のハナシなんかも絡めつつというあの話ですが、連載開始日からそろそろ1年経とうとしている事に驚愕しました。笑
実際には堀悌吉の話というよりは大正10年と昭和4年の2回の海軍軍縮会議の話と言った方が正確です。

連載終了時にも書きましたが、いつかは書かないといけないのかなーと思っていた海軍軍縮の話、あと海軍の人員リストラの話、財部彪の話が書けて私は大変満足しました。
特に財部のことはこれは本当にいつか書きたいと思っていたことだったので、個人的には色々と充足感があります。
人はそれを自己満足という。笑
…知っとるわ!(笑)

内容はブログ掲載時でも結構書き込んでいたので、特に書き加えることも修正する点もなく…
ほぼそのまま…というか、そのまんまです。
まあ…あの、うん。余り有名でないだろう集合写真をいくつか付け加えました。その程度。
よく見たら山本五十六写ってるわと思うのが1点あった。
自分でもよく気付いたと思います。笑

全19話で今回の更新分はその前半部になります。
色変えたりの操作が煩わしいのでそのままアップしましたが、後半部はまだ未アップですのでもう少しお待ちください。


***

今日は台風一過…
というほどいい天気でもないのですが。

昨日は朝から晩まで(というか今朝まで)何らかの警報が出ているという、私の住む地域では超珍しい感じでした。
テレビで散々脅されても朝起きたら快晴とか普段通りとか、大体そういうパターン。
JR以外の電車もまず止まらんでえ。全く普段通り。
「出勤時は雨でも昼にはやむと思ってたー」と皆言い合っていた。
こういう時何が困るって犬の散歩とこういう時は本当に酷くなる癖っ毛ですよorz
周りからはパーマをあてていると本気で思われている。
うぬー。 
関連記事

パラべラム~堀悌吉(余滴)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


『明治天皇と日露大戦争』という映画があります。
今年の初夏頃にデアゴスティーニから出てましたなー
解説だけ立読みするつもりでいたのに完全に忘れてて、気付いた時には書店からはもう姿が消えていた。笑

昭和32(1957)年封切の約半世紀前の大ヒット作ですが、いまだに評判がいい。
多分一番評価が高いのはエキストラによる行軍で、まだ昭和32年ですからね~
映画の為に練習した、ではなくて、軍隊経験者が兵隊さんのエキストラで出てる^^;
本物が出てる。
これだけでもちょっとみてみようかな、という気にはなる。
(※見たことない人はツタヤに置いてある)


主人公は明治天皇ですが、戦死者名簿に目を通しておられたりと割と細かい所にまで描写が及んでいます。
これは作られた美談等ではなく実際の話で、一兵卒に及ぶまで全員の名前を見ておられました。
読みが分からなければ調べるように、変わった苗字は由来を調べるように指示されたり、階級が上の方になると写真も併せてご覧になっていたと日野西侍従の回想にある。

あまり知られていませんが、陸海軍の忠勇を長く伝える目的で、戦争ごとに御府も建てられています。
日清戦争は振天府、日露戦争は建安府という、まあ倉庫ですが、戦争の記念品、戦利品を収めていた。
こちらにその戦死者名簿も収められていました。

映画の封切は戦後まだ12年しか経っていない頃で、作る側も見る側も戦前の教育を受けた人が殆ど。
こういうの、当たり前の知識だったのだろうなと思います。

この映画を見ながら同じく当時は知ってて当然だったのだろうなと思うのが軍歌で、戦闘場面の折々にゆかりのある軍歌が流れてます。
中々絶妙に、しかも自然に流れてきて、知っていれば分かるけれど、知らなかったら分からない(笑)
色々知識が試される(笑)(何の)


実はですね、製作顧問として堀悌吉がこの映画に関わっています。
映画監督から考証を頼まれている。
このエントリを書くために一応確認と思ってレンタルしたのですが、名前は出てなかった。
『不遇の提督堀悌吉』(宮野澄/光人社/1990)を見ると、同期の広瀬彦太と一緒に現場であれこれ聞かれたりしていたみたい。

このことについてやや詳細が書かれている書籍、私の手元にあるのは『不遇の提督堀悌吉』だけなんです。
小説で申し訳ない。
日本海海戦の東郷ターン撮影の際のカメラの回し方は堀のアイデアだったという話は『堀悌吉』(大分県先哲叢書)にも出ていたのですが。

出典は恐らく広瀬彦太編集の『堀悌吉君追悼録』(堀悌吉君追悼録編集会/1959)。
確認したかったのですが所蔵が大学図書館だけで貸出し無理やった…
(そして同時に頼んだ『加藤友三郎元帥』に至っては「広島に行ってください」って言われた。酷い。笑)
今の段階ではこれ以上確かめようがない。誰か詳細を知らないか。

小説の方では三笠艦橋(勿論セット)での撮影の様子を見て、広瀬彦太が
「玉木がいない」
と叫ぶシーンがあるんです。
あーと思うよね…

今まで何度か書いてきましたが、堀や広瀬彦太ら海兵32期は日露戦争の真っ最中に卒業、余り間をおかず各艦に配乗されています。
三笠に配乗された候補生は11名で、クラスヘッドであった堀悌吉もここ。
広瀬彦太はどの艦だったのか私は知らないけれど、同じく同期であった玉木信介も三笠。


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07260322.jpg


使い回し写真でごめんね。
右後ろに写っている白い服の候補生が玉木信介。
日本海海戦で勝利をおさめ、帰港した佐世保で三笠は爆沈しますが、その時に亡くなった堀たちの同期。
本当に色んな思いがあったのだと思う。


この映画、当時本当にヒットしたそうです。
会う人会う人が「良かった」と言って薦めてくるけれど、山梨勝之進はあんまり乗り気がしなかったそうです。
ただそんなに良いのならと映画館に足を運んで、実際に見たら涙が止まらなかったと本人が回想してる。
良かったらしい。

山梨さんは明治33(1900)年、三笠回航委員として渡英しています。
就航する前から関わったフネで、青年時代の肝脳を捧げたと自分で言っている程思い入れがある。

出ている人もね、みんな知ってるんですよ。
知っている人ばっかり。
明治天皇にも会ったことがある、山本権兵衛の副官を務めていた時期もあるので伊藤博文や小村寿太郎の所にも何回もお使いに行った。
日露戦争前には朝日艦で広瀬武夫と用談をしていることも、本人の口から伝わっています。
秋山真之に至っては第1次世界大戦の視察旅行のお供で8か月間一緒にいた。

堀にとっても山梨にとっても、本当に感慨ひとしおの映画であったのだと思います。



***



http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141215.jpg


これ何年か前に前ブログで一度出したことある写真。
とある本の中表紙に書かれていたのに気づいて超ビビる
思う存分撫で擦るというセクハラをはたらいてから返却した。笑

河野三通士は同郷杵築の友人のようです。
『英文毎日』の主筆を勤めたことのある人物で、ジャーナリストか。
堀が予備役編入後の昭和10年4月に来阪した際、河野と大阪湾を巡航したのだそうで。
そこに偶々居合わせたのが水野義人という大学生。

えっ。

えー…あの水野?
はい。あの水野です。
分からん人は阿川弘之の『山本五十六』を読みましょう(丸投げ)(笑)
事故死の多いパイロットの適性判断の為に、航空本部長時代の山本五十六が雇った観相見(手相・観相)です。
これがまた滅茶苦茶当たる。(当たるから航空本部の嘱託になったんだけど…)

堀はこの時に水野に観てもらい、現在の状況を当てられた上で、これからはそんなに悪くないということを告げられている。
こんなところで名前を見る人とは思っていなかったので少し驚いた。


***


大正6年海軍小演習の集合写真で、加藤亮一(主計)と思われる人がいました。
紹介で日本飛行機初代社長と書いたのですが、加藤の次に社長になったのが堀悌吉だった。
あ、同じ会社だったのか(笑)
堀の方は日飛、日飛、と覚えていたので、繋がっていなかった。笑
大分県先哲叢書『堀悌吉』によると、加藤の退任のタイミングを見ると、堀を入れるために辞めたんじゃないかという話。


***


ワシントンとロンドンの海軍軍縮で多くの海軍士官が予備役入りを余儀なくされました。
人員整理の必要性の有無に関係なく、リストラされた方には恨みが残る。
ワシントンの時は責任者である海相加藤友三郎ではなく、井出謙治にその矛先が向いたということはパラべラム(15)でも書きました。
堀も同じで、とある造船官から恨み節を聞かされたりしたそうで。


山梨勝之進の同期に宮治民三郎という人物がいます。
作家江藤淳の母方の祖父ですが(父方の祖父は江頭安太郎)、この方もワシントン会議後に予備役に編入された。
江藤には『一族再会』という家族の系譜を描いた本がありますが、その中でも一種強烈な印象が残っています。

宮治は海軍大演習で素晴らしい出来栄えを叩きだし、軍令部長に呼び出されて直々に褒められるような優秀な水雷屋であったそうです。
潜水学校の校長を最後として予備役入りしたのだけれど、これからという一番充実した時にまさかの宣告。
辞める積りも辞めたくもなかったのに辞めさせられた、そういう話を戦後に訪ねてきた孫江藤に語っている。
戦後ですよ。
余程の無念だった。
同じ思いを抱いて海軍を去らざるを得なかった人は、多くいたと思います。

加藤友三郎でさえ、同期の吉松茂太郎に

「友の野郎、あいつばかり偉くなりやがって、昔からの仲間である俺を邪魔にしやがる」

みたいな事を言われてしまう。
吉松は温厚で有名な人だったそうで、その人にしてこの言い草。(※吉松は軍縮以前に予備役入)

辞めさせられた人たちの思いは、まあなんというか。
海軍に残った人間への恨み節では収まらないだろうし、推して知るべし、でしょう。
ロンドン海軍軍縮会議の際、多くの予備役後備役の将官が決起会や会合を開いていたというのは、そういう感情の話もあったのだと思う。


予備役入りとなった時は潜水学校の校長だった宮治。
大東亜戦争が始まった時に、後輩たちの様子を見に行ったらこう言われた。

「大丈夫、教えられたとおりの事をしています」

えっ
宮治が辞めてから何年経ってんの…(※17・8年)

「馬鹿野郎!この戦は負けだ!」

そう怒鳴り散らして帰ってきた。そら負けてもしゃーないわ…
ただ日本も伊400とか伊401とか終戦間際にすっごいの作ってたんだけどね(本当にすごい)、本当に終戦間際過ぎて全然間に合わなかった。
こんなの作る事をもっと早くに許容できる組織だったら、歴史の推移も色々と変わっていたと思う。
(※12/21にナショジオで放送されます。『日本軍の極秘潜水艦』)

何時の時代も技術はすごいんだよ、日本。
何がダメってマネージメントが全然あかん。今も昔も。
経営が技術をダメにする。
伊藤博文や山本権兵衛がいなかったのが当時の日本の悲劇でしょう…


***


判明の変遷


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


財部と若槻はひと目で分かる。
前列3人は名前が入っていたので、谷口もその時に自動的に判明。
長らくこの3人しか分からなかった。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉


この連載を始めてから改めて見て、堀悌吉が写っていることに気付く。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉、左近司政三、古賀峯一


サイトの「追憶(2)」に載せる左近司政三の写真を拡大加工した後にこの写真を見て同人であることに気付く。笑
中将の礼服を着ているので調べれば分かるだろうとは思ってたけど、そこまでする気はなかったのでラッキー。

そして大正6年海軍小演習の写真に古賀峯一が写っているのが判明した後、この写真を見てあれ?同じ人?
あとは左のふたりですが、調べる気はない(笑)
海軍の軍縮関係者だろう。


***


堀悌吉は阿川弘之の『山本五十六』の印象がとても強いです。
堀という人物を知ったのがこの小説だったからというのがあるのだろうなあ。

「山本五十六の親友」という話で終わってしまうことが多い気がしますが、見ていると「こんな人もいたのだな」と思います。
この連載の初めの方でも触れましたが、「戦争善悪論」とかね、見た時は流石にびっくりした。

こうした内容を文書として報告してしまう(学校の課題で)辺り、軍人としては相当特異であったと思います。
大正から昭和期の軍人としては誤解を受けやすい面もあったのでは?
大分県先哲叢書『堀悌吉』には、思想的に海軍での居場所を探すのが難しかったのでは?という旨の言葉がありましたが、本当にそうだったのだと思う。

「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」と言われたり、海軍の至宝と言われたり、先の見える本当に聡明な人であったそうです。
先が見えすぎて、多分話が飛躍するのだと思う、話していて禅問答のようになってしまうこともあり、常人には誤解されやすい、理解され辛い点もあったみたい。

秦郁彦の本だったと記憶していますが(軍人の列伝だったと思う)、大失敗を迎える前には良心が駆逐されていく過程が必ずあるという旨の言葉があって、堀悌吉や山梨勝之進を見ているとその言葉をいつも思い出します。
大東亜戦争が負け戦だったからそう思うというのもあると思うけど。


パラべラムはこれにておしまいです。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
というか長かった。お疲れ様でした^^

あー…
終わって良かった…(笑)
関連記事

パラべラム~堀悌吉(18)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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続き。

昭和5(1930)年、ロンドン海軍軍縮会議の影響で、喧嘩両成敗的に海軍省と軍令部の首脳が更迭となりました。
しかし当時軍務局長であった堀悌吉はすぐには更迭されず、暫くその職にとどまっています。
海軍大臣も次官も変わってしまって、軍務局長まで変わると、海軍省の中枢ラインが短期間に全員交代となってしまうので、業務に支障が出ると見られたんじゃないかな。
まあ軍務局長級では直接動いてどうこう、という地位ではないので、それも大きかっただろう。


堀が異動となったのは翌昭和6(1931)年12月1日。
12月1日かー。これは定例の人事異動かな。
転出先は第3戦隊、その司令官(旗艦那珂に坐乗、旗下に阿武隈と由良)。
異動直後の昭和7(1932)年1月には上海事件が起こっており、その関係で編成された第3艦隊(司令官は野村吉三郎)に編入、上海に派遣されています。
同年11月には第1戦隊の司令官に転補。
比較的閑職であったそうで、この時は病気で入院といったこともあり激務回避の意味もあったのでは、というのが堀の推測。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08240237.jpg


そして翌昭和8(1933)年11月15日、中将に進級した後軍令部出仕。
そこで8か月ほったらかしにされた後、昭和9年7月に鎮海要港部司令官代理として朝鮮に赴任しています。


普通に見てかなり異常な異動です。
異動の間の軍令部出仕というのは大体1ヶ月になります。
準備だったり調整だったりの期間で、8か月という期間は本人からすると待命に等しかったと推察します。
しかも異動先が鎮海要港部。
その上司令官代理…
新任中将を持ってくる場所ではありません。

鎮海要港部司令官は一般的には馘首一歩手前、ここを最後に予備役に編入されるという役職です(米内光政はクビにはならんかったけど、この人はまあ特殊なので)。
日露戦争頃の舞鶴鎮守府長官みたいな感じ。
こんなんね、海軍としてもう堀を使う気はないって言ってるのとおんなじです。


この頃になると、堀も大体自分の運命を分かっていたようです。
本人でなくても海軍にいる人や海軍の事をある程度知っている人なら分かるわな。

しかもこの頃、もう大角人事が始まっています。
昭和8(1933)年3月に山梨勝之進、9月に谷口尚真、小林躋造が予備役入り。
昭和9(1934)年3月に左近司政三、寺島健が予備役入り。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141212.jpg


いずれも軍縮に貢献したり、軍政畑と関わりが深かったり、満州事変の際に軍拡に反対したり、軍令部の権限拡大に反対したり、の方々になります。
要するに軍令部とは相対していた人たちで、所謂条約派と言われる将官。
彼等が次々と予備役入りしていく中での、クビ一歩手前のポストへの堀の転出。


この時堀の事を一番心配したのが山本五十六だと思われます。
山本は第2次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉のために日本を発ちますが、その直前に伏見宮軍令部総長に直訴している。(昭和9年9月)
大角海相、軍令部第1部長・嶋田繁太郎(同期)にも同様の話をしていたようです。
曰く、

同期の堀と塩沢幸一についてはとかく誤伝が多い、それに惑わされず人事の公正を求める、

というもの。
山本は伏見宮から了解の言質を取り安心して出発したのですが、結果として反故にされた。


第3戦隊司令官に転補されて以降、堀に対する非難・批判・誹謗は酷かったようです。
軍艦を動かせば”その動かし方が弱腰だ”。
トラブルを避ける為に取った処置は”周章狼狽倉皇として逃亡した”。
”海軍軍人にあるまじき卑怯の振る舞いだ”。
事あるごとに、事がなくても所謂艦隊派とされる人物が堀をいちいち論って非難する。

終いには軍令部総長伏見宮が、
「堀は実施部隊の指揮官には不適当」
なんてことを言い出すようになった。
余りに酷い中傷は家庭にまで届き、堀の妻が神経衰弱になっています。
堀が大分杵築に帰省した折に地元の子供にも悪いことを言われる程で、相当すごかったのだと思う。


大角人事の様相を中沢祐(海兵43期)が山梨勝之進より聞いています。
それが以下。
時期は昭和9(1934)年の初めごろだと思う。


大角海相のうしろから、いろいろ強い示唆や圧力がかかっているんだよ。
具体的にいえば、伏見宮殿下と東郷さんなのだ。
東郷元帥が海軍の最高人事に口出ししたことを、私は東郷さんの晩節のために惜しむ

(『四人の軍令部総長』より)


海軍の人事は海相の専任事項なのですが、昭和8(1933)年の省部事務互渉規定改定以降それが変わってきます。
軍令部総長への相談・了解が慣例となってしまった(明文化はされず)。

省部事務互渉規定というのはあれだ。
実は既に話が出てきている。
大正4(1915)年、佐藤鉄太郎が軍令部次長であった時、部長島村速雄の留守中に軍令部の権限強化を画策して左遷された話を書きました。
この話なんですよ。
この話の続きなんです。
佐藤が実現しようとして失敗したことが、昭和8年に実現した。

互渉規定改定を高橋三吉軍令部次長が推し進めたのはよく知られていますが、
「自分がいるうちでないとできないだろうから、どんどんやれ」
と督励したのが、当時軍令部長であった伏見宮になります。

皇族の権威を背景に海軍省を圧迫して改正させた。(井上成美が南雲忠一に脅されたのはこの時の事)
そして海軍軍令部が軍令部、軍令部長が軍令部総長と改まったのも互渉規定改定以降になります。
(軍令部軍令部と書いていますが、昭和8年迄軍令部の正式名称は海軍軍令部です)

堀本人の話によると加藤寛治も非道い中傷をし、また伏見宮に吹き込んでいたようです。
一例に曰く、

山下源太郎未亡人が某海軍軍人と怪しい仲という怪投書があったがその犯人は堀だろう。
(仲人四竈孝輔からの直話による)

加藤……(;△;
私ね、加藤は日露戦争頃までは結構好きなんです。
ひとえに広瀬武夫との関係で(というかそれしかねえ)。
良い所も結構ある人物だけれど、でもこれはあかん…

ただ加藤とみていると、末次信正に上手く利用されただけの側面が強く(それだけでもないようだけど)、
加藤の四天王といわれた加藤三吉らにしても上にいたのが偶々加藤だっただけ、という感じの様で、
事終わってしまうと人が寄りつかず、晩年は寂しい感じだったという話があります。


堀が書き記したこの頃の海軍の内情を見ると、本当に心が暗澹とします。(『堀悌吉』所収「海軍現役ヲ離ルル迄」)
明治期でも人間絡みの暗い話は色々あったと思うけど、ちょっと次元が違ってきてる感がある。
これが私の好きな海軍だとは思いたくないorz


堀が予備役入りとなったのは昭和9(1934)年12月。
当時ロンドンにいた山本五十六が、書記官榎本重治より夢に堀悌吉が出てきたと聞かされて、

「堀がやられた」

と直感したという有名なエピソードがあります。
また山本は『大海軍を想う』の伊藤正徳(当時時事通信の特派員)に

「堀を失ったのと大型巡洋艦の1割と、どちらが大切なのか」
「海軍の大馬鹿人事だ」

という事も述べている。


出発前相当の直言を総長にも大臣にも申し述べ
大体安心して出発せるに事茲に至りしは誠に心外に不堪、
坂野の件等を併せ考ふるに海軍の前途は真に寒心の至なり

如此人事が行はるゝ今日の海軍に対し之が救済の為め努力するも到底六かしと思はる、
矢張山梨さんがいはれし如く
海軍自体の慢心に斃るゝの悲境に一旦陥りたる後、
立直すの外なきにあらざるやを思はしむ

爾来会商に対する張り合いも抜け身を殺しても海軍の為なとと云ふ意気込はなくなってしまった
<以下略>

(昭和9年12月9日 堀悌吉宛山本五十六書簡 『堀悌吉』「海軍現役ヲ離ルル迄」より)


堀悌吉
(下部の写真が引用書簡)


堀の運命を聞いた山本は酷く気落ちして、海軍を辞めてしまおうとまで思ったようです。
しかしそんな山本を励まし、
「貴様まで海軍を辞めてどうする」
と強く慰留したのが堀でした。



現役を退いて後、堀は山本や古賀峯一といった海軍関係者たち(というか実質海軍)の斡旋で、海軍関連の軍事産業の会社に就職します。
日本飛行機や浦賀船渠(浦賀ドッグ)の社長を務め、他にも幾らかの企業に関わっている。

そして実業界に身を置いたまま、昭和12年日中戦争、15年日独伊三国軍事同盟、16年日米開戦。
昭和18年には山本と古賀のふたりの親友の戦死を立て続けに見、昭和20年の敗戦を迎えることになりました。

自分を疎んで追い出した海軍。
その古巣を複雑な思いを抱いて支えながら、国が急速に戦争に傾斜し、また敗戦に向かっていく様を見て、堀はどう感じていたんでしょうねえ…


開戦時の海相であった嶋田繁太郎(同期)の回想があります。
(『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(1)』、昭和42年の言)


開戦前の時期に堀などが海軍大臣として在任したとすれば、もっと適切に時局を処理したのではないかと思う


言っても詮無きことですが、戦前の昭和はあの時ああなら、この時こうならと思うポイントが多すぎる。
ロンドン海軍軍縮会議とそれを巡って起こった紛糾は、戦前期のひとつの大きな転換点だと思います。
海軍にとっても、国家全体にとっても。


最後に堀自身の言葉を。


今日から遡って当時を追憶し

「若しあの時、自分が尚、責任を頒ち得る立場に居たとしたならば、
或いは身命の危険に曝される様な場面があったかもしれないが、
三国同盟反対でも、時局収拾に関してでも、何かもっとしっかりした貢献が出来たのではなからうか、
たとへ天下の大勢既に決し、如何ともする事が出来なかった事由があったとするも、
何等かの形に於て、何等かの方向に自分の力を致す事が出来なかったものであらうか」

との様な考が浮ぶのを禁ずる事が出来ない。
是等の点は悔恨の念が永久に消え去らずに、何処にか心の奥底に潜む所以である。

「あなたは早く海軍をやめて置いてよかったな」

と云はれる時、それが全く善意の慰安の言葉である事は分かり切って居ても、
吾が心の奥底に存在する過去の恨が蘇へり動き出して、

「それはそうだとも」

と自分が合槌を打って謝辞を述ぶる時に、自ら自己を詐って居る様な気がしてならないのは、
以上に述べた様な所のものが、脳裏に存在するからであらう。

しかしこれは過去に対する未練でもなく、又勿論現在に対する自己満足でもない。
唯だ過ぎ去った時代に対する淡い思ひ出の副産物にすぎないとも云へよう。


(『堀悌吉』 「自伝」より)


この連載の初めの頃、堀の海軍軍人としての志がどんなものであったかを何度か書きました。
曰く、


身を海軍において、国家を外敵より防衛し、
国内安泰維持、民族平和的発展及び人文増進に貢献出来得る様に
努力する事を天職として心得て行かうと決心したのである。 
(同上)


本当にこの人が海軍の要路に残っていたらと思わざるを得ない。


***


ということで、半分以上が軍縮会議で占められた(ごめん)堀悌吉の話はこれでおしまいです。
18回という自分でもちょっとびっくりの長さになってしまいましたが、ここまで読んで下さった方には(そんなにいる様に思えない…笑)、お礼申し上げます。
というか、間が空き過ぎて「何の話だったっけ?」になってしまって申し訳ない。
書いてる人間でさえ忘れかけてるっちゅうね。どうなのよそれっちゅうね…orz

個人的には、いつかは話の展開から書かないといけないハメに陥るんだろうなあと思いつつかすりながらも何年も巧妙に避け続けてきたロンドン海軍軍縮会議の話(長い)を書けて良かったです。
これから「以前書いたからそれ読んで」って言える。笑

あとこれもいつかはと思っていた私涙目(…)の財部彪の話、軍縮の後で進んでいたリストラの話が書けて満足です。
財部に関しては批判はされるけれどその背景に触れられることはほぼないし(まず批判ありきっぽい)、日露戦争時代に活躍した将官たちがリストラにあっていたこともまず言われない。 
このふたつの話は、あんまり触れられることがないように思うんです。
というか一般書レベルでは私は見たことないわー
寄り道の多い連載でしたが、そういう話も書けて良かったかなと思う。

堀の話はこれで終わりですが、あと1回だけ余滴として。
まあおまけです、おまけ。

という訳で続きます。笑




今日は滅茶苦茶寒かったですね。
私の住むあたりでも明日の天気予報で雪マークが出てるー(棒)
…。……。…………。
12月に雪(マーク)とか。
いやあ1月2月でも雪降るとか、特に近年は滅多にないのでちょっと驚き。
明日は雪の進軍なのか。
関連記事

パラべラム~堀悌吉(17)

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この話は19回シリーズです。
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財部彪はロンドンに出かける前、面会した東郷平八郎に対米7割固持を強い言葉で口にしたみたい。
それはロンドン海軍軍縮の紛糾後、元老西園寺公望が岡田啓介に
「何故あんなに東郷が強硬になったのか」
と尋ねた時に岡田がそう答えていて、それで6割の条約に強く反対したとあります。
多分それもひとつの理由だったんだろう。


また財部個人に対する反感も、やっぱりあったのじゃないかと思う。
有名な話ですが、財部はこの会議に夫人を同伴しています。
それに対して東郷は、
「戦(会議のこと)にかかあを連れて行くとは何事か」

当時海軍では駐在武官や重要な任務を帯びた武官などが夫人同伴で海外赴任することは白眼視されたそうです。(『自伝的日本海軍始末』高木惣吉/光人社/1971)
財部夫人の評判があまり良くないというのも、ネックだったんだろうなあ…
(※但し、謂れの無い誹謗中傷が多かったそうです)


しかしながらね、これですよ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014830.jpg


お分かり頂けるだろうか。


斎藤実の隣にいる女性はなんなのさという話ですよ。
昭和2(1927)年のジュネーブ海軍軍縮会議、斎藤実全権は夫人同伴なわけだが。
(当時斎藤は朝鮮総督ですが、就任に際し現役復帰していて現役士官なのですよ、一応)
財部の夫人同伴への批判は聞くのに、斎藤に対してないのはなぜなのか。
ジュネーブ海軍軍縮会議は戦ではなかったのですか東郷さん。
私は大変納得いきません。
てゆーか財部と斎藤の人望の差と言われたらそれまでなんだけど。 orz
なんかもう、個人攻撃なんじゃないの?という気になってしまう…


それやこれやに加え、条約反対派や反財部派からあれこれと吹き込まれ、財部彪がロンドンから帰って着た頃には東郷は相当強硬になっていました。
条約に反対するだけではなく、財部の進退にも言及、批判をしていて、紛糾の度合いが余計に大きくなった。
海軍内部としても、政治的にも。



財部帰国時には統帥権論争が始まっていたこと、軍令部長加藤寛治が統帥権干犯の上奏を頻りと要求していたことは既に述べました。(14
実際に周囲の反対や制止を振り切り、加藤は政府を弾劾するような内容での乞骸上奏をしています。
(※乞骸(きつがい)=骸骨を乞う=退職を願う)
これは反対派は勢い付くよね。
東郷にしても同じだったみたい。

条約反対派は東郷にあれこれ吹き込んでもいて、また東郷の言葉の、自派に都合のいい所を世間に喧伝している。
元帥は条約にハンタイダーとか、そういう事を強調する。
こんな風になってくると部内は中々収まらないのですが、海軍省と軍令部で覚書を作ること、財部の辞職確約で何とか収めています。

こうした海軍での悶着を乗り越え、更に枢密院での一悶着を乗り越えた後、政府は漸く条約批准にたどり着きました。
(昭和5(1930)年10月2日。枢密院が審査の際にしたことはOdd Priority(2)参照のこと)


辿り着きはしたのだけれど、幾つかの深刻な問題が起こった。

・海軍が海軍省系と軍令部系+東郷平八郎に近い人たちにまっぷたつ(いわゆる条約派と艦隊派)
・11月14日浜口雄幸首相東京駅で狙撃 → 政党政治否定の動きが活発に → 5・15事件に


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014100302.jpg (@東京駅


この条約が批准される数か月前に山梨勝之進海軍次官と末次信正軍令部次長が更迭。
間もなく加藤寛治軍令部長も交代し、批准された後は財部彪が海相を辞めています。
海軍省部のトップが全員交代するという結果的には喧嘩両成敗的な人事となった。

財部の海相辞任は、立場上止むを得なかったでしょう。
しかし本人が希望したとはいえ山梨が海軍省から去ったというのは本当に痛恨だったと思います。


当時軍務局長であった堀悌吉(久しぶり)は、政府の人間や海軍上層に何かアクションを取れるような立場でも、自分の意志で何かできるような立場でもないため、ここでは全然名前が出てきませんでした。
が、山梨次官を理論的に支えていたのはこの人であったし、あれこれの起案やチェックをしていたのも堀であったようです。


それにロンドン海軍軍縮会議の際の海軍の紛糾、この詳細が分かっているのは堀悌吉のお陰だそうで。

『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)によると、
堀は条約締結の経緯を記録として作成しており、それが「倫敦海軍条約締結経緯」として『堀悌吉資料集』に所収されている。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12110006.jpg


堀は昭和5(1930)年夏頃にこの条約関係で起きた出来事の要点を記していました。
それがどういう事か上達書類に紛れて、財部彪海相の手元にまで行ってしまった。(上写真の左側に書いてある)
一読した財部がこれを完成させた上保存したいと希望したため、正確な資料に基づき書き直し、山梨次官や関係諸官に見てもらって清書。
それに関係文書を添付して、軍務局と大臣官房に1通ずつ保管することにした。

ただ、昭和9(1934)年頃には官房で保管していた方が無くなっていた。
それを耳にしたのが古賀峯一。
ちょっと心配になってね、当時軍務局長であった吉田善吾に軍務局で保存している書類を見たいと申し入れた所、


時代も変化してきたから、このような記録があると海軍部内の統制上好ましくないというので、近く焼却することに決まった
(『堀悌吉』芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)


えっ。


//blog-imgs-57-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08240238.jpg


古賀はロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省の高級副官でした。
これまた名前は全然出てきませんでしたが、堀と一緒にあれこれの会議に立ち会ったり、出張したり。
当時の海軍の状況をよく知っているひとり。
古賀は内心驚きながら、

「ちょっと見たい所があるから貸して欲しい」
「なら用が済んだら焼いてくれ。俺の方で焼却済みにしておくから」

古賀は書類を持ち出して、すぐに堀悌吉の元に持ってきたそうです。
そしてそのまま堀に預けた。
書類は堀が海軍を辞めた後に勤めた会社や防空壕など転々と持ち歩いた為、焼却にも戦災にも遭わずに一級史料として現存することになりました。


しかし

時代も変化してきたから、このような記録があると海軍部内の統制上好ましくないというので、近く焼却することに決まった

これですよ。

私もこの部分を見た時はちょっと驚いた。
これ、もしかしたら同時期に結構な数の「好ましくない」重要書類が焼却されているのではないですか。

敗戦直前直後に、陸海軍が真の極秘書類などをほぼ焼却したのはよく知られていますが、
その時以外でもその時々の当事者にとって都合が悪いという理由で、ないことになった「歴史」が随分あるんでしょうね…


続く


**


間には挟まなかったのだけど、ちょっと言わせてorz

東郷元帥や、伏見宮博恭王、加藤寛治、末次信正といった人物、また先輩・同世代の予備役後備役を納得させるような、
また加藤友三郎のように力尽くで押さえつけるような力量(経験や人望)が、財部にはありませんでした。
残念ながら、沸き立つ後輩を押さえつけるような力量もなかった。

見ていると財部も少し頑なな所があるので、状況に適するフレキシブルさに欠けていたのではとも思う。
部内、特に海軍首脳に理解を求める動きを、どの位していたのかなーと。

ただ財部自身も初めは他の海軍首脳と同じように対米7割堅持だったのは、見てきた通り。
会議に出席する前から、海軍と政府の肚が割れていたのも見てきた通り。
一番肝心な所で、足並みが揃っていなかった。
意思疎通の悪さは財部だけでなく、政府側の人間も大概酷いので、紛糾の理由を財部だけに帰するのは酷だと思う。
ただ、あの時期の海軍大臣として、財部彪が力量不足であったというのは真実でしょう。

でもね、海軍がふたつに割れたのって財部のせいですか?
私はこれが聞きたい。
当時海軍のトップであったという点では、確かに財部の責任だよ。
でもね、

「一枚板だった海軍を条約派と艦隊派に分裂させてしまった、財部の責任は大きいですよ」

これ『歴代海軍大将全覧』にある財部の項目、半藤一利のコメント。
納得できない。
財部も岡田啓介も「元帥の晩年に傷をつけたくない」って腫物を触るように気を使ってた東郷平八郎まで担ぎ出して、一部政治家と結託して統帥権干犯問題まで言い出して、海軍を割ったのは誰なんだよ。
財部なの?


『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)を見ると、
東郷は、条約に徹底的に反対することで、また条約締結後も破棄を強く言い続けることで、
少しでもいい条件で、条約締結後に生じる国防の欠陥の補充策を引き出そうとした。

「条約締結は認めてやる。だが政府は海軍軍備を少しでも多く補充しろ」

東郷の条約絶対反対の姿勢は、その駆け引きの道具だったってことだよ。
(この時に東郷の手足になったのが”東郷の私設副官”小笠原長生で、その猛烈な運動には加藤寛治がドン引きしたほど)

どうなわけ?これ。
東郷は担がれただけという意見もあるけれど、これそうですか?



『歴代海軍大将全覧』の財部の項目、
他に書くことないのかと思う位財部夫妻の悪口のオンパレードなわけだが、
秦郁彦が財部の婚姻の際に広瀬武夫が反対したという話を振っている。

曰く、広瀬が財部の婚姻について山本権兵衛宅に直談判に行った際、それを聞いていた山本夫人が
娘は山本の娘であるためにいい人と結婚できないのでしょうか
と泣き、それ見た広瀬がハッとして直談判の内容を撤回して山本宅を去った。
(このパターンの話は私は他に見たことない)

その話の後、対談者4人で財部夫人に対する悪評を言い合い、その揚句に

「元はといえば広瀬が権兵衛夫人の涙に負けたのが悪かったんです。
あのとき、広瀬が断っていたら、いね子は山路一善の嫁になったでしょう。」(秦)


何で広瀬が悪いんだよ。

それに広瀬が断ったところで何の関係もなかったろうよ。
読めば読むほど腹立つ本である。
(この本と著者連が好きな人はごめん。私は無理だ)
関連記事

パラべラム~堀悌吉(15)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


お久しぶりの続きです。
前回はこちら→ パラべラム14



一方、財部彪は元々軍令系の人です。
それが明治42(1909)年12月、いきなり海軍次官に抜擢されたことは「紐解『財部彪日記』」でも書きました。
それまで一度も海軍省での勤務経験ないんですよ、財部。
軍令部の方でさえ部課長の経験がない。

薩摩派、岳父が山本権兵衛ということで、周囲から色々と余所では聞けない話を聞いていたと思いますが、実際に実務を執るとなるとかなり大変だった。
何せ経験がないもんで、財部本人もへろっへろになった。
それでも海相斎藤実を支えながらどうにかこうにかやっていくわけです。


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で、仕事を覚えてスムーズに行ける、余裕も随分出てきて3年目位、という時に起きたのがシーメンス事件。
大正3(1914)年1月に浮上した海軍の収賄事件で山本権兵衛内閣が倒壊します。
大隈重信内閣で新しく海相になった八代六郎は、汚職事件の責任を取らせる形で山本権兵衛と斎藤実を予備役に編入しました(引退させた)。
財部もその煽りを食って待命となります。(巻き添え…

約1年続いた待命の後、大正4年2月に第3艦隊司令官として復帰。
それ以降は各地鎮守府・要港部で長官・司令官を歴任しており、中央官衙に帰ってきたのが大正12(1923)年。
海軍大臣としてでした。

これねー…複数の意味で大きなネックなってると思う。
これは難しかったと思うよー

まず海軍省での実務経験、下積みが全然ない。
財部は海軍大臣になるまで海軍省での勤務が実質3年しかないんですよ。
しかも仕事覚えた頃に強制終了。

次に、加藤友三郎海相の下、省部で人が育つ時期に財部は地方に出ている。
その時点で中央官衙での人の繋がり、信頼を繋ぐ機会が激減する訳です。


そもそもね、財部は海軍部内では評判が悪い訳ですよ。

一番の原因は昇進が異常に早かった点にあると思います。
若い頃から本当に早くて、日露戦争の中盤には既に大佐です。
2期上、3期上のクラスヘッドと同じくらいのスピードで昇進していて、親王並みだということで「財部親王」なんて影口を言われていた程。

次官就任に際しても、前任が海兵7期の加藤友三郎で、間7期をすっ飛ばして実務経験のない15期の財部彪です。
8期から14期にはすごい人、沢山いますよ。
山下源太郎(10)、村上格一(11)、山屋他人(12)、江頭安太郎(12)、栃内曽次郎(13)、野間口兼雄(13)、鈴木貫太郎(14)、佐藤鉄太郎(14)、その他。
特に江頭を飛ばしているということに誰が納得するだろうか。
私もできん。

3期飛ばして軍務局長になった堀悌吉でも嫉妬されたり憎悪されたりです。
しかも財部の場合は薩派、岳父山本権兵衛。
外からどう思われるかは推して知るべしと言うべきか。

だからね、回顧録なんかでみんな言うんだよ。
財部は苦労が足りてないって。苦労してないからって。
経験が足りてないってみんなが見てる。

そもそもそんな状態なのに大正の核になる時期に中央での勤務がないというのは、色んな意味でやっぱり厳しかったと思う。
その上地方に出ていることで大正10年ワシントン会議の際の加藤のやり方を間近で学べなかったというのも、財部の為には残念だっただろう。


後ね、時代の制約と言うか、時代の流れと言うものあってだな。
大正10年にワシントン条約が成立して、ネイバル・ホリデイ、軍縮時代となります。
この条約に沿って日本は既存の軍艦、建造計画のあった軍艦が廃棄されました。

その時に海軍士官のリストラも行われているのね。
そりゃそうだよね。
軍艦の数が減るのだから、それに乗り組む人数だって減る。
対米比率やその後の軍艦の廃棄の話にはなるのに、この話はあまり出てこない気がします。

ではどういう層が首切りにあったか。
【6】で紹介した「加藤全権伝言」(大正10年)で、加藤友三郎自身がそのことを井出謙治次官に伝えています。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_09190015.jpg


淘汰スルニシテモ配員上多少ノ困難アリトスルモ
成ルヘク上級者ヲ多ク淘汰シ下級者ヲ多ク残シタシ



士官の中で対象になったのは将官クラス、佐官クラスです。
この時期に将官になっているのは、日露戦争時代の中堅層、日露戦争を支えた世代。
あれ、と思われる方も多いと思います。
そうなんですよ。
『坂の上の雲』に出てくるあんな人やこんな人がオン・ザ・リザーブ・リスト!引退!

クラスで言うと13~22・3期が核で、25・6期位迄かなー…
具体的に名前を挙げれば、こんな人たち。

栃内曽次郎(13)、佐藤鉄太郎(14)、千坂智次郎(14)
小栗孝三郎(15)、中野直枝(15)、布目満造(15)
舟越楫四郎(16)、森山慶三郎(17)、山路一善(17)
佐藤皐蔵(18) 、下村延太郎(18)


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


やだー!
なんか聞いたことがある人ばっかりなんだけど!
聞いたことある人ばっかり挙げたからなんだけど!(笑)
大正11年中旬~12年に待命になっている人は大抵そうだと思う。

佐藤鉄太郎の名前があることに意外感を持つ方も多いかと思います。
個人的には、生きていたら秋山真之もこの時の整理の対象になっていたと思う。
ふたりとも加藤友三郎に左遷されてます。
佐藤は軍令部の権力を拡大しようとして加藤の逆鱗に触れ、軍令部次長から海大校長へ。
秋山は大陸政策に深入りしすぎて軍務局長から欧州視察旅行に飛ばされた。
ハイ。
あっきーの視察旅行、慧眼を讃える話しかほぼ聞かないわけですが、これは事実上の左遷です。


軍人恩給はそんなに手厚くなかったようで、大将と言えど現役を退いてしまうと大変だったようです。
それまでについていた特典的待遇も無くなるし。

『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)には、26期の南郷次郎が、自分は経済的には困らないからと整理対象であった同期の代わりに予備役になったという話があります。(※)
それだけ大変なことだし、人員整理は好む好まざるに関わらず人の恨みを買う。
加藤友三郎がいくらカリスマ的であったといっても、そしてどんな理由があったとしても、首を切られた側からはやっぱり恨まれる。

ただ山梨勝之進の話によると、この時はその怨嗟の矛先は加藤ではなく次官であった井出謙治に向いている。(加藤には怖くて…^^;)
加藤は井出を自分の後継者に考えていた節があるのですが、結局それは実現せずに終わっています。
ワシントン会議の処理が傷となり、結局は最後に山本五十六を付けて欧州に視察旅行をさせるだけで終わってしまった。
ロンドンの時でも、山梨勝之進次官が犠牲となった訳ですが、ワシントンの時も同じだった…
こうなってくると、加藤のワンマンは良かったのか悪かったのか。
評価が分かれるところだと思います。


続く!
変な所で話途切れるけど

******

(※)

南郷次郎は嘉納治五郎の甥で、講道館2代目館長。関西の嘉納財閥の一族。
嘉納治五郎の生家(=南郷の母の実家)は神戸御影の現菊正宗酒造・白鶴酒造で、幕府の御用聞きを勤めるような大変な名家でした。
嘉納治五郎自身も学校を経営していたり、講道館を経営していたりで、つまり家が大変なお金持ちだったので海軍辞めても困らない。

広瀬武夫は柔道繋がりで南郷とは仲が良く、というか南郷の母とも仲がよく、息子が世話になっているからとお菓子やなんやをよく持たされていた。
南郷の方が9歳年下で、広瀬は弟を見るような感じで南郷を可愛がっていたみたい。
南郷が海兵を受験する前、造船所を見に行きたいと広瀬に依頼したことがあり、それに対する広瀬の返事が残っています。
横須賀水雷隊攻撃部第2水雷隊時代。明治28年だと思う。
一般には知られていないもので、一応内容は未公開になるのか。私も写真でしか見たことがない。



≫続き に拍手の御返事があります~ 
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