Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

堀悌吉、山本五十六、マリる。

(題w)

前回上げた系図ですが、あれを作るために借りた四竈孝輔の『侍従武官日記』。
中を見てみると向井弥一と侍従武官であった時期がほぼ重なっていることに気付き、とりあえず初めから読むことに。
結果としては結構面白かった。
堀悌吉と山本五十六の出現率半端ない。笑

堀と山本の仲人が四竈孝輔になります。
堀は初婚も再婚も四竈の世話になっている。


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大正7年5月25日条。


堀悌吉君、山口千代子嬢と目出度結婚の式を挙ぐ。
正媒酌人として式に列す。(<略>)

午後三時半堀君幷に夫婦にて自宅出発。水交社に赴き百般の準備を為す。
中庭にて新夫婦の撮影(<略>)、


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午後五時挙式。
副媒酌細川源三郎君夫婦と共に媒酌の大役を務む。但し何等の面倒なく万事水嶋氏斡旋に従ふのみ。

午後六時半より小食堂に披露の宴あり。
来会者主客合わせて三十四名なり。
正媒酌の故を以て着席後直に本日の祝辞を述べ、山口与三郎氏続て主人側として挨拶を為す。
三鞭酒に及んで広瀬海軍少将、本日の来賓総代として立って礼辞幷祝辞を述ぶ。

食事終り別席に於て余興長唄(<略>)の演奏あり。極めて座興に適す。
午後九時解散。

客人其の他全部を見送りたる後、堀夫婦と共に自動車にて堀邸(青山高樹町十二番地寓居)に赴き、新郎新婦の更衣を見届け、午後十一時帰宅す。
首尾能く本日の式典を結了す。



文中、三鞭酒とあるのはシャンパンの事です。
広瀬海軍少将…
もしかして勝比古さんか!と息巻いたのだけど(笑)、当時既に予備役。
広瀬姓で少将の方を調べたら広瀬勝比古の他に広瀬順太郎、広瀬弘毅のふたりがいたのだけれど、彼らも既に予備役である…
誰か分からん。


そして堀が式を挙げた直後の同年6月10日条の日記に山本に縁談が出てきます。


横須賀武田君夫人より三橋礼子嬢の写真を送り来る。
礼子嬢は水野礼司君の従妹にて、山本五十六君の配偶に如何ならんとの話起こりたればなり。<略>
夜に入り山本、堀両君の来遊を需め、朝到来の写真に就いて相談を為す。
進捗の模様あり。


薦めてきたのが堀であったから山本は話を受けたみたい。
本当に大親友である。
15日に堀が山本の釣書きを届けてきたので会津若松の三橋家に送付を水野氏に頼み、30日に山本が会津行き。話本決まり。
で、翌7月28日に山本が郡山まで新婦を迎えに行き、翌月8月31日に挙式。
早い…この時代はこんなもんだったのか。



山本五十六君の婚儀幷に披露宴を築地水交社にて挙ぐ。
午後三時より三橋夫人、礼子嬢及び夫婦にて水交社に赴き、三時半前庭にて新婚夫婦幷に式典列席親族一同の写真撮影。


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午後四時五十分永嶋式にて挙式。
約四十分にて本日の慶典を終る。
午後六時半より披露宴あり。
山本君は昨年旧長岡藩の名家山本家(<略>)を相続したるの故を以て、本日山本家側の来賓としては牧野子爵及び山本帯刀氏戦没当時其の従者たりし渡辺法学士等を始め高野家の主なる一族出席。
三橋家よりは湯野川、音川、宮嶋、黒井等出席す。


ここで前作った系図が活躍する。笑

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黒井って黒井悌次郎じゃないの?


山本五十六は新居を青山高樹町に構える訳ですが、堀悌吉の新居も青山高樹町な訳です。
更に四竈孝輔の家も近所だったようです。

『父山本五十六』(山本義正/恒文社/2001)には、会津から出てきた礼子さんを気遣って仲人の四竈家の側に、とあります。
四竈の家も、堀の家も近かったからだろうと思われます。
奥さん同士もすごく仲良かったみたい。

四竈の日記を見ていると、堀、山本はこの当時頻繁に四竈家に出入りしています。
四竈は当時侍従武官で、基本的には宮城勤務、東京勤務なのですが、天皇の代理として出張が多い。
東京から遠方の地方に出かけることもあり、また数か月海外に出かけることもあり。

見ていると当時まだ揺籃期であった飛行機の墜落事故の状況確認等に行くという話が頻繁に出てくる。
主の留守宅は用心が悪いと、堀と山本が用心棒がてら四竈の家に顔を出していたということもあったみたいですな。
(当時海軍軍人の留守宅を狙った窃盗が流行っていたそうです)


で、そんなこんなの時に四竈さんちで
「今度海軍でボーナスが出る」
と堀と山本が話したのですが、前例がなかった為四竈の奥さん・竹子さんが信用せず、
「本当に出たら1割上げる」
と返した所本当にボーナスが出てしまい(…)、その1割を渡す結果となった。

ただふたりが帰った後に、頼んでもいない茶箪笥が送られてきたそうで。
運んできた人に仔細を尋ねると
「今しがた男性ふたりが茶箪笥を買い上げて、こちらにお届けしろと」
渡したボーナスが茶箪笥になって帰ってきたという話があります。

この話が四竈の日記にあってちょっと驚いたんだ…


夜堀、山本両君来遊につき兼て約束の年末賞与の内一割五分を提出す。
両君午後打揃い辞去されしが暫くありて立派なる茶箪笥一台霞町の道具屋より届け来る。
兼て我が家の茶箪笥破損し居りたるを知られたればなり。

年末賞与として海軍高等武官一般に一ヶ月分俸給を給与せらる。
物価騰貴の此際有難き仕合なり。

(大正7年12月17日条)


別に作り話だとか、そういうことは思ってなかったけど、実際に史料で見つけると嬉しくなってしまう。笑


***

台風、なんだかエラいことに…
今日帰ってくる筈だった人が途中で帰ってこれずに三重(よりによって三重…)のどこかの体育館でお泊りになったのだけれど、
私の地元は昼過ぎに雨が上がってそのままである(※大雨洪水暴風高潮警報出たまんま)。
こういう時、神戸と大阪でじゃんじゃん雨降ってても地元晴れとか曇り空とかがざらにあるので、いつもの通りと言えばいつもの通り。

でも地元、避難準備しなさいっていうのがでかでかとヤフーに出てるんだけど…^^;
大分北部で、やっぱり地元はあまり関係ない。
というか雨すら降ってないという地元クオリティ。
皆さんお気を付け下さい。


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Naval Tribe

(誰も待ってない気がするけど)お待たせしました。

頑張りました。


以前分からなかった所と間違いを修正しました。
兄弟姉妹については最低限しか記していません。

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/kakeizu_kaigun.jpg


参考文献は『海軍王国の誕生』(松野良寅/我妻榮記念館/1997)と『侍従武官日記』(四竃孝輔/芙蓉書房/1980)。
主として前者。

前者と後者で系図に違いがありまして。
前者は上から3段目忠直と4段目のやよ女が親子だけど、後者では兄弟になっている。
私ではちょっと分からんなあ…
山形県米沢出身の人々が主になっている系図で、前者は出版が地元米沢の記念館なのでこちらを採用。


『海軍王国の誕生』を読んでて驚いたのだけれど、山下源太郎と平田東助が親戚だった。
そして平田東助の甥が伊東忠太。
平安神宮、明治神宮、築地本願寺の設計をした建築家。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201489.jpg


山縣有朋の小田原の別荘・古稀庵の設計もしている。
古稀庵の建物は関東大震災後に茨城県矢板に移されてます。(上写真)

平田東助の妻が山縣有朋の姪なんだよね。
平田とはあまり仲がいい訳ではなかったみたいですが、そういう関係もあったのかしら…
(※平田はばりばり山縣派。このブログでも名前だけは既出。伊東巳代治3


あとよく分からなかった黒井悌次郎のラインが繋がりました。
こう見たら山本五十六、妻・礼子の親族からの広がりが半端ない^^;

妻の従兄弟の父が山下源太郎、その義兄弟に上泉徳弥、山中柴吉、四竃孝輔。
その四竃の義甥に山口多聞、奥宮正武。
妻の伯父の義兄が黒井悌次郎。

う~ん。
綺羅星の如き親族ですなあ…^^;

短いけど今日はここまで~
眠い!

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Here I am(7) 大正6年海軍小演習

サイト移行の為下ろします
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器量

*****

この話は3回シリーズです。若干加筆の上サイトに纏めて移行済み。
そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 大正、昭和 よりどうぞ。
題は 加藤友三郎の話 に変わっています。

*****


山梨遺芳録より (第10回)


秋山真之と佐藤鉄太郎の理論が元になっている対米7割論と88艦隊計画。
明治40年代から固持し続けて来たこれらを没にするというのが大正10(1921)年の海軍軍縮。

※対米7割論…アメリカの7割の兵力(主力艦の総トン数)があれば太平洋を越えて来た米国艦隊に日本が攻撃されても勝機はあるという理論

帝国国防方針(仮想敵国:陸軍→ロシア、海軍→アメリカ)もこれらを織り込んで考えてある筈なので、対英米6割を飲む、飲めるとなると、海軍的にはじゃあ今までの話って何だったの?となる訳で。
それに軍縮になるというと大規模な人員整理も伴う訳で。


当然海軍内部からは猛烈な反対があった。
どうも軍令部あたりの少壮士官が多かったようですが、その急先鋒になったのが加藤寛治になります。
カトカンは既に中将で、少壮とは程遠いんだけど…^^;
そしてその加藤の下にいたのが末次正信。


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加藤寛治はこの軍縮に専門委員として参加しています。
同じ加藤ではあるけれど、この条約に参加しないと海軍どころか国家が危うくなると高度な政治的判断を下した加藤友三郎とはものの見方が随分違っていて、この人は海軍至上で国防のためには7割は絶対堅持。絶対に譲れない。

加藤寛治は自分の事を「俺は8割感情で動く男だ」と評していますが、
もうまさしくそうだとしか思えない行動を取っていて、どうあっても加藤(友)が加藤(寛)の意見を容れないのを見て、
もの凄いスタンドプレーをぶちかまします。

加藤(友)に無断で本国の井出謙治次官や安保清種軍令部次長に絶対反対の極秘電報を打ったり(末次が起案)
更に加藤(友)無断で、以下のような発表をしたり。

「もし対英米7割が認められないなら、日本は会議を脱退する」

おい…

これには流石に加藤友三郎もブチ切れた。
本当に血の気の引く音が聞こえたんじゃないかと思う。
やり過ぎとか越権行為なんてもんじゃないよこれ。
一体何考えてんの…
この時ばかりは加藤(友)もポーカーフェイスをかなぐり捨てて「日本に会議失敗の責任を負わせる気か」と怒鳴りつけたという話が残っている。

加藤寛治日記にこの時の記述はないかと思ったけれど、簡潔過ぎて分からない。
こういう事をしてしまう加藤(寛)に加藤(友)は、
「君ももう中将なのだから、少しは下の者を抑えることを覚えたらどうか」
みたいなことも言っているのですが、それが果たしてどれほど伝わったか。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312261424493fd.jpg 


全権大使は加藤、幣原喜重郎、徳川家達の3人でした。
しかし幣原が病気で倒れ入院、徳川はお飾りで役に立たず、加藤がひとりで多くの決断を行っていた。


加藤友三郎は独裁者型の優れた指導者であったように思います。
普段からやり方が随分独断専行であったようで、加藤寛治はそれが余りに過ぎると憤り、大臣の首をすげ変えようと名和又八郎に話を持ちかけた事がある。(※相手にされずに終わる)
すげえな寛治。

ただ、加藤(友)は自分の判断に全責任を負うというスタンスでいて、それがこの軍縮会議の時のスタンスでもあった。
頭脳の明晰さ、腹の据わり方、判断の正しさ。
熟考果断の人で、ワンマンでも尊敬されカリスマ的であったというのは、そういう所にあるようです。
加藤寛治だって楯ついていても随分尊敬していたようだし。
(加藤友三郎の死去後、海軍はどうなるのだろうという感想を人に漏らしている)


対英米7割という海軍のコンセンサスを押しのけ、自分の判断で6割の比率を受け入れること。
成功させないと国際的・経済的に国家が危機に陥る会議での全責任を負うこと。
これだけでもひとりの肩に乗せるにはかなりヘビーですが、そこに強硬反対派の代表である加藤寛治の抑制が加わる。

神経戦の会議から帰って来て、次の日の会議の準備をし、自説を曲げない寛治の説得をする。
精神的にも肉体的にも、ものすごいストレスであったと思われます。
元々体の調子が悪かった(大腸癌だった)上にそういう状況で、加藤友三郎は帰国後斎藤実に
「アメリカでは死ぬかと思った」
と語っている。
実際、神経をすり減らすことが多すぎて、止められているのにウィスキーでも飲まないとやってられなかった。


こんなことになって東郷平八郎元帥がなんと仰るか。

条約反対派がそんな伝家の宝刀を抜いても、加藤友三郎は、
「元帥は何もかもご存じだよ」
と言って笑うだけだったといいます。

ここがロンドン海軍軍縮会議時とは大きく違っているところで、ワシントンの時は関係者への根回しと海軍省部のトップの状況認識・情報共有と信頼関係がすごかった。


ワシントン海軍軍縮会議の時は、見ていると海軍省と軍令部のトップに人を得ていた感があります。
海軍省の方は海相が加藤友三郎で次官が井出謙治。
井出は加藤大臣がいない間の留守番でしたが、このふたり、見事な連係プレーだった。
加藤は情報を井出をパイプにして本国に流しています。
それも、本来なら正規ルートである筈の外務省を通さず、井出を通してまず首相・外相といった政府首脳、そして海軍上層部に情報を回して理解・了解を得ている。

そして何より軍令部長であった山下源太郎が加藤との信頼関係にあり、
諸々の状況から見て対英米6割でもやむなしと加藤の方針に同意していたことが大きい。


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軍令部次長の安保清種はどちらかというと加藤寛治に賛成であったようですが、それに軍令部の少壮士官も6割には反対していたけれど、その軍令部の中にあって上下を緩衝していたのが第1班長斎藤七五郎になります。
これは斎藤自身が自分の役目はバッファーだと友人に語っていて(伝記)、随分苦しい思いもしたみたいですが。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131228.jpg http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2013122802.jpg


そんな部内状況で、東郷元帥も加藤友三郎全権を信頼し満腔の同情をし、だから井出からは「安心して下さい」と連絡が来る始末(?)。
本当に元帥がなんと仰るかなんてレベルの話じゃなかったんですね…


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/69.jpg


井出は潜水艇の先駆者として知られる人物ですが、こういう所もクローズアップして欲しいと思う。
加藤友三郎は井出を後継の海相にしたかったのではないかと思います。
ただどうもこの時の風当たりが強すぎて(加藤友三郎があまりに敵なしの為)、そうは出来なかったみたいだけど。 
山梨曰く、  

この人は、大臣の腹心で頭は鋭く、胆力があり、押しのきく傑物であった。
この人が失脚せずに、中央にひかえていたら、海軍の歩みもちがっていただろうと思う。


ワシントンの際は随員、ロンドンの際は次官で、両会議に深く関わった山梨勝之進からすれば、そりゃあ後者は歯がゆいことだらけだったに違いない。
歯がゆいというか、何故もっとうまくできないのかと歯噛みするような思いだったと思います。
ワシントンの時とは何から何まで違い過ぎた。
まあその話はまた気が向いたら書きたいと思います。
気が滅入るので正直言うとあまり触れたくないorz


知っている提督が沢山出て来たので、広瀬との関係を挙げてみる。笑。

加藤寛治 … 大親友のひとり 
山下源太郎 … M24-5の遠洋航海時の同僚。宿泊先で同じベッドで寝てる。何故。広瀬兄と仲良し(同期)
井出謙治・安保清種 … 戦艦朝日での同僚。朝日を盛りたてる為に頑張ってた3人トリオ
斎藤七五郎 … 第1回・2回旅順講閉塞作戦の指揮官のひとり


山下は日露戦争の際は軍令部、作戦の中心にいた人です(その下に財部彪)。
「米沢海軍」と言われたほど多くの人材を海軍に出した米沢の出身。
婚戚関係がエラい事になっていて、

宮島誠一郎(米沢藩)の
長女 上泉徳弥(12期 米沢) ←広瀬と柔道仲間
三女 山下源太郎(10期 米沢) ←広瀬兄と同期
四女 山中柴吉(15期 山口) ←広瀬と同期
五女 四竃孝輔(25期 仙台) ←山梨と同期
に嫁いでいる。

山下の養嗣子・友彦の伯母が黒井悌次郎(13期 米沢)の妹で、山下源太郎の媒酌人になったのも黒井。
さらに友彦の従姉妹が、山下五十六(32期 長岡)の妻。その媒酌人が四竃孝輔。
四竃は山本五十六の莫逆の友・堀悌吉(32期 大分)の媒酌人でもある。
で、さらに四竃の兄の三女は山口多聞(40期 東京)に、四女は奥宮正武(58期 高知)に嫁している。

さらに山本五十六の妻方の親戚には南雲忠一(36期 米沢)がいるそうで。
これは『聯合艦隊司令長官山本五十六』が映画になった頃に山本のお孫さん(お名前が山下から取って源太郎だった)が仰っていました。
インタビュアーもびっくりしてたけど、確かに結構びっくりするよね…



はい。
結構続きましたが、『山梨遺芳録より』のシリーズはとりあえずここでおしまいです。
…と言いたい所ですが、余滴として後2回、この連載では省いた話を更新します。
もう少しだけ続く。笑。


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