Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

戦利品

松山における戦利品。


IMG_3845.jpg


図録と小冊子と古本。あと自分用のお菓子いくつか。しょぼい。
旅先で寄ったらあかんスポットの上位に入るのが古本屋なのですが、入ってしまったわ。
今回は時間もあったし。
そして加藤拓川の伝記見付けた。わーい。

加藤は明治大正期の外交官。
秋山好古とは同郷同年代の親友で晩年にいたるまで家族ぐるみでの付き合いがあった。


原敬、加藤拓川、陸羯南


司法学校では賄い征伐で原敬、陸羯南らと共に退学になっています。
加藤が外交官になったのは原敬の斡旋があったため。
で、その後甥っ子正岡子規を東京に呼ぶわけですが、上京した子規は後に陸羯南の日本新聞社に入社し、更に後年原敬の自慢の甥っ子・原達(抱琴)を弟子にするという。
不思議な縁ですな。

帰って来てから知ったのだけれど、加藤のお墓も松山にあるそうです。
そういや市長在任中に亡くなってたな。
やや郊外だったのでどのみち今回は参拝の時間はなかったかなという感じですが、次に松山に行く時は行きたいな。

というかさ、この伝記ペラペラ捲っていて気付いたのだけれど加藤夙川に住んどったんや…
えーそうなの…
大阪新報の社長になったり北浜銀行の非常勤取締役になったりしとるしなあ。
この辺りは原敬に推薦されたと思われます。
原も大阪で大阪毎日新聞の社長をしていたり、北浜銀行の頭取もしている。
北浜銀行の方はもろに原敬との繋がりだろう。

そして昭和40年代には秋山好古の次男が仁川に住んでいたことを今回坂の上の雲ミュージアムの展示で知りました。うそん。
夙川も仁川も自宅からランニングで行ける距離である。
仁川の方は住所の番地まで出ていて、昔のこととはいえちょっといいのかコレっちゅう。

私は寧ろ加藤が夙川のどのあたりに住んでいたのかが知りたいわ…
苦楽園か香櫨園かの辺りじゃないかと思うけど。
香櫨園の方かなあ…
香櫨園附近には日露戦争時の第4軍参謀長であった上原勇作の別荘があったのですよ。
詳しい番地は分からんが昔の地図見たら分かりそう。
地元に何か史料残ってないんか…
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思想の殺戮

大正を読み直す

『「大正」を読み直す 〔幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川〕』

内容は昭和を考えるには大正からですよねということです(簡略化しすぎや…
昭和陸軍の、統帥権を利用した暴走の萌芽は大正のあちこちに転がってるのよという勉強をしていた身からすると、知ってますとしか言いようが…

昭和の全体主義の萌芽は大正時代にある、という話。
個人が持つ思想が明治末に国家により圧殺されるところから始まり、最後には個人が全体主義・国家主義を唱え出すようになる流れが描かれていました。
この本を読んでいてちょっと…というか、かなりびっくりしたことが。

「個人が持つ思想」とはこの本の場合は社会主義で、「国家による圧殺」とは大逆事件の事。


大逆事件(角川新版日本史辞典/1996)

著名なものとしては、1910(明治43)年幸徳秋水<略>らの当時の無政府主義者・社会主義者が明治天皇暗殺を計画したとされる大逆事件<略>がある。
’10、5月から全国的に多数の社会主義者が逮捕され、26人が起訴された。

非公開の公判を経て’11年1月18日大審院特別法廷において24名に死刑、2名に有期懲役の判決があったが、十分な確証のない者もあり、翌日天皇の特赦により死刑の半数は無期懲役に減刑された。

しかし、残り12名に対しては早々の24日11名、翌日管野の死刑が執行され、社会に衝撃をあたえた。


大逆罪は皇室に対する罪のことで、戦前では一番の重犯罪になります。
天皇・三后(太皇太后・皇太后・皇后)・皇太子・皇太孫に危害を加えた、または加えようとした、ということで皇室へ危害を加える=国家への反逆と見做された。

幸徳事件(所謂大逆事件)は、時の政府によるでっち上げだと言われます。
最近の研究ではこれが一致した見方で、事実そうだったと思われる(辞書の内容は古い)。

しかしそんな事件が全くなかったかと言われるとそうでもない。
起訴された26人全員が冤罪とは言い切れず、実際に明治天皇を暗殺しようと考えた人間は4人いた。
爆発物の製造実験をし、更にその材料も押収されているし、この人々は逮捕されている。


ただ幸徳秋水がこの計画に関わっていたかと言われたら、それはNO.
では計画を全く知らなかったかと言われたら、それもNO.
上記4人に相談はされたけれど、幸徳は反対した。
反対したから、計画からは除外されている(だけれども首謀者扱いで捕まった)。

4人の逮捕後、幸徳を含む22人が逮捕されますが、この人たち、天皇暗計画とは本当に無関係なんである。
逮捕の理由が上記4人の誰かとかつて親しかったとか、影響を与えたとか。
あいつならやっているはずだ、とか。

何の証拠もないまま社会主義思想の持ち主という理由で捕まっている。
まあ、政府は社会主義者を一掃するために、大逆罪という刀を振りかざして捕まえているので…
とにかく理由が分からないまま逮捕され、死刑判決を受けた人が多かったと思われる。

計画に反対してその後は関与しなかったにも関わらず天皇暗殺計画の”首謀者”扱いされた
幸徳については、この事件の担当検事自身が以下のように述べている。(『「社会」のない国、日本』より)


幸徳が此の事件に関係のない筈はないと断定した
証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するやうになつた


疑わしいという理由だけで逮捕され、非公開裁判にかけられた挙句死刑判決を受けて処刑される。
上記の通り大逆罪は戦前では最も重い罪で、裁判は非公開、三審ではなく、大審院で1回限りで結審します。
判決は覆らない。


私は知らなかったのですが、この時特赦で無期懲役になったひとり坂本清馬が戦後昭和36年に東京高裁に再審請求を行ったそうです。

38年にこの再審請求に関わる審尋が始まった。
この審尋の公開を弁護団が要請したものの、却下され非公開。
そして頭ごなしに再審請求人の思想を否定的に見る質問を裁判長が再審請求人にした挙句、再審請求は却下された。

理由。 


大正を読み直す 


なにこれ…
ちょっと何言ってんのか分かんない…

また、最高裁の大法廷が昭和42年に大逆事件の再審請求の特別控訴の棄却を全員一致で決定。
戦後の最高裁は戦前の大逆事件を追認した。
裁判所は坂本に対し死刑判決を受けるようなことをしたのだと認定した。

著者は震え上がるような恐ろしさを覚えたと書いているのだけれど、私も怖くて鳥肌がたった。衝撃的でした。


あと、私の中でごちゃごちゃになっていたのだけれど、幸徳秋水って結局社会主義なの?アナーキズムなの?どっちなの?という…
幸徳秋水が紹介される時ってどちらも書かれているように思うのですが、国史大事典を見ると、社会主義→無政府主義らしい。
うーん…政府からしたらどっちであっても、国体の否定であるから容認できるようなものではなかっただろう。


桂太郎 原敬


ちなみに時の政府は第二次桂太郎内閣です。
所謂桂園内閣の時代で、前の政権であった西園寺公望内閣は割と社会主義者に寛容だったんですね。

当時内相(治安の責任部署は内務省)であった原敬は、
きつく叩くと地下に潜って蔓延し、却って取締りしにくくなる、社会主義の蔓延を防ぐにはもっと根本的な社会政策が必要である
という旨を日記に記しています。(明治43年7月23日条)


原敬日記 


しかしながらそれが山縣有朋、桂太郎ラインに叩かれまして、これが一因で西園寺内閣は退陣しております。
ついでに大逆事件の指揮を執ったのは後の首相、平沼騏一郎(当時法務省の検事)。

あと感心したのは吉野作造の民本主義について。
普通にイコールで民主主義、人民主権だと思っていたのですが、違うものだったのね…
ただこの本を読んでいて感じたのは、吉野の言う民本主義と民主主義、本人の中でさえごっちゃになってない?という…^^;
大杉栄から的確な罵倒的批判を受けていて、ちょっと驚いた。
私たちが学校で習う歴史って一体何なんだろうね。

このエントリーだけ題が違いますが、今回読んだ中で一番衝撃的だったのがこの本でした。
「思想の殺戮」という言葉は本書中に2度かな?出てくるのですが、明治末期の大逆事件はまさしく国家による思想の殺戮でしたわ…


***

ということで、読書感想文終わり!
後はもういいです(笑)
まあ、本屋で見かけたら「あ、あれか」と思ってください。笑
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積読消化

頑張って積読消化してるよー
なんかね、なんかね、嫂の話によると姪っ子ちゃんと一緒に庭を散歩しながら唱歌を教えたりダンスを教えたりしてたらしいよ!やだ…どうしよう…2828が止まらない…もはや床を転げまわってコピーを読んでます。(生あたたか~い目で見守ってやって下さい…
姪っ子ちゃんを滅茶苦茶滅茶苦茶可愛がってたからそんなこともあっただろうと思うけど実際家族からそんな話が出てくるなんて鼻血しか出ないよ私!
何の話って広瀬武夫の話だよ!(笑)

あーもう!めっちゃ妄想が広がるー!(え)(←ハイ

色々ほったらかしにしていたものを今更読んでるわけですが、八角三郎の原敬の追想記出てきたわ。
Sringsの岩手人脈を書いた後で見つけた文献。
八角の父が原の親友八角彪一郎。
ふたりとも岩手出身で家の付き合いがあって(近所)お互いよく知っている。
八角三郎に海軍行きを進めたのが原敬。

原さんね、司法学校受ける前に海軍兵学校を受験してるのよ。
落ちたんだけどね。
その話を八角三郎にしていた事が判明。笑
伝聞ではなくて本人から聞いてたんだ…へえ…
原が話した所によると試験をなめてかかっていたそうですよ。
ただ落第しまして、それで心を入れ替えたらしい。
受かっていたら何期だったのか、以前調べたことがあるのだけれどイマイチよく分からなかった。
中々表に出てこないプライベートの話は読んでいて面白いです。

八角が「お前も海軍はどうか」と誘ったのが米内光政。
その米内しゃま、おからが好きだったそうで。
学生時代、米内光政大好きな友人がいてねー専攻は室町だったけど。
文献調査関係の授業で片っ端から米内光政の文献調べていた(※感心した先生が一緒になって調べ出すという展開を迎える)。
一緒に盛岡も行ったぜ。お墓参りもしたぜー
で、米内さんがおから好きだったからおからのお菓子作ってよと言われておからのケーキを作ったことがあるのだけれど、そのレシピが出てきてさあ。(※おいしい)
久しぶりに作った訳よ。





結構材料が余ったのでもう1度作ったのだけれど、オーブンにタネ入れた後になんか…
まだ小麦粉の入ったボールが…ある……
偶にあるね、こういう事…orz

そして月末にちょっと呉行ってくるわ呉。
大変久しぶりです。
2泊位したかったけど、諸藩の事情…諸般の事情で1泊になった。
またちょっと慌ただしい感じの旅程になりそうだけど、今回は第六潜水艇の慰霊碑にも行きたいなあと。
そして何か美味しいものが食べたいなあ。


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パラべラム ~ 堀悌吉(4)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


NHKの山本五十六特番の再放送ですが、8月30日の午後2:00~3:50にあるそうです!

BS1 山本五十六の真実 (別窓、外部リンク)

もう少し後かと思ってた。危なかった…^^;
MVさんありがとうございます。

「パラべラム」の続きはサイトに持って行くかと思ったのだけれど、それだけ再放送が近いならブログでちまちま更新する。
堀さん傑材なのに山本五十六の親友というレベルでの紹介で終わるばかりなのが悔しいのである。





続き。


堀が軍務局第一課の課員になった当時、大正7(1918)年の海軍大臣は加藤友三郎、次官は栃内曽次郎。
軍務局長は井出謙治で、軍務局第一課長は山梨勝之進でした。

海軍省軍務局第一課。
海軍省で中心になるのが軍務局、海軍軍事行政の話がここに集約される。
その中でも第一課は軍政系統の枢要中の枢要で、本当に仕事ができる優秀な人が集められる。
第一課長→軍務局長→次官→大臣というのがひとつの出世コースになります。

前回書いた堀への誹謗中傷がどれだけ謂れのないものか、こうした所に堀を持ってきた人事局と海軍大臣が彼をどう見ていたか。
配属された部署からおおよその見当が付きます。


栃内曽次郎も井出謙治も、山梨勝之進もこのブログではもう結構名前が出てきています。
栃内は岩手出身。
15歳上の兄が栃内元吉(陸軍)で、この人は盛岡の作人館で原敬と同室になった縁から生涯に亘る友人であったことは「岩手人脈(2)」で触れました。
井出と山梨は今は特にいいですか。



当時海軍は88艦隊(戦艦8・巡洋戦艦8)の建造に邁進していました。
ただね、当時の日本はホント~にビンボーなので、財政的に無理がかかりまくってるんですよ。

シベリア撤兵もできず出兵費用かかりっぱ(シベリア出兵大正7年~)、原敬が首相の頃には株価が大暴落(T8)。
その上に世界大戦終結の反動で大戦景気が一転、戦後恐慌に陥ります(T9~)。
海軍軍縮会議(T10)を挟んだものの、そこに追い打ちをかけたのが関東大震災(T12→震災恐慌に)。

不況と言えば昭和初期の印象が強いですが、実はそれは大正からの財政問題が連綿と続いた結果ですわ~
大正期は大戦景気の数年を除けば慢性的な不景気、不況です。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014826.jpg 大戦景気の頃の成金


大正初期の段階で日露戦争時の借金の利子さえ払えない状態に陥っており、世界大戦がなかったら日本は確実に財政破綻してました。
財政問題に限らず対21ヶ条の要求やシベリア出兵で国際的にも孤立しかけていて、実に危うい綱渡りをしているのが大正という時代。
いつもすれすれの所で不思議と救われている。


こうした状況の中での88艦隊計画。
海軍の状況を見ると、どうしても達成したい、その理由も気持ちも分かるんです。
戦勝国なのに、海戦では大勝利だったのに、その後の建艦技術の発展の速さについて行けず、海軍は三流・四流になってしまっていた。
(詳細は「H'sシップヤード」(の日露戦争後・大正期の話)をどうぞ。当時の建艦について)
でも無理なんだよorz

大正10年の海軍費 → 国家予算の3割

海軍だけで国家予算の3分の1を使ってる!
国家は海軍だけで成り立ってるんじゃないんだよ~

大正7年の時点で、既に陸海合わせた軍事費が国家予算の半分なんです…
その上88艦隊が完成したら、その維持費だけで国家予算の半分が必要とされた。
艦隊の!維持費!だけで!

そらー無理ですわ。
どう考えても無理ですわ。


ただ建艦競争に財政的に苦しめられたのは日本だけではありませんでした。
他の欧米各国も同じで、それでいっちょ話し合おうぜ、とアメリカからお誘いが来たのが大正10(1921)年の夏。

同年秋にアメリカワシントンで開催される海軍軍縮会議に出席する全権代表に、原敬首相は加藤友三郎海相を指名しました。
この辺りの話は「Odd Priority(の3)」と「原敬と加藤友三郎」に書いたのでそちらをどうぞ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014826_2.jpg


この会議のためにワシントンに赴いた海軍の全権委員は加藤寛治。
随員は山梨勝之進、末次信正、野村吉三郎、永野修身、上田良武ら各大佐。
堀悌吉中佐、佐藤市郎少佐、桑原寅雄大尉、三戸由彦機関大尉、武井大助主計少佐、榎本重治海軍省参事官がいます。


続く。


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陸奥宗光・小松帯刀墓所跡@大阪(2)

*****

この史跡は2回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

*****


再来年の大河ドラマが真田幸村で『真田丸』www
笑った私は悪くない。多分。
真田丸て先日このブログで紹介した真田幸村 出丸城跡(心眼寺)のことでっせ。

大阪市天王寺区にある史跡巡りシリーズ(いつからだ)。
陸奥宗光・小松帯刀墓所跡(1)の続き!


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014511.jpg 
伊藤博文と陸奥宗光像(山口県下関市、春帆楼)


陸奥宗光_天王寺史跡


向かって右側が夕日岡阡表、真ん中が清地蔵、左側にあるのが原敬が建てた陸奥宗光顕彰碑。
その足元にあるのは陸奥宗光の父の歌碑になります。

夕日岡阡表は碑が大きいのと、字が細かいのでよう読みまへん…
『陸奥宗光 歿後百年記念講演集』にその拓本の写真が載っていました。
台座を除いた高さが3.2mですって。
撰文は陸奥宗光で、明治10年9月建立。
陸奥の父が亡くなって数か月後に建てられたものになります。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05110308.jpg
右下の写真が昭和4年ころの夕陽岡(ママ)の墓所の様子


陸奥の父は伊達宗広(千広)といい、紀州藩の財政を一手に握っていた人です。
陸奥はええとこのぼんぼんでした。
ただ藩内部の政争に敗れて父が入牢、一族が城下から追放されています。
幕末になると政治情勢の変化で、入牢したり許されたり一家が浮沈を繰り返していた。
時世といえば時世ですな。
この辺りは岡崎久彦の『陸奥宗光とその時代』にも詳しく描かれていましたので、そちらをどうぞ。

陸奥がその前半生で故郷和歌山をあまり好きでなかったというのは、政争で家族が相当シビアな状況に遭わされたことが大きかったみたい。
特に父の失脚は幼少期の出来事で、藩に対する忠誠とか愛とか、そんなものが芽生える前の話だったこともあるようですな。
結局藩を出て坂本龍馬に付いて行っちゃったもんねえ…
それに坂本の下にいる時は土佐出身とか言ってたし。


陸奥宗光_天王寺史跡


『陸奥宗光 歿後百年記念講演集』(陸奥陽之助編/朝日新聞出版サービス/1997)を見ると、陸奥宗光の孫陽之助氏いわく、


思うところがあり、一九五三年(昭和二十八年)秋、祖父の父伊達千廣を始め先祖九人の遺骨を父廣吉の終焉の地、鎌倉の寿福寺の「矢倉」の地下に移送した。
宗光の墓石も共に運んだ。



ただ、こちらに墓所があった頃の名残が残っていて、それが前回・今回と紹介している碑になります。

左上写真は清地蔵(さやじぞう)といい、陸奥宗光の娘・清子(さやこ)が21歳の若さで亡くなったのを悼み、等身大の地蔵を建てたとのこと。
元々はお墓の前に建っていたそうです。
で、正面から見て左側に建っているのが陸奥宗光追慕碑。原敬が建てたもの。


陸奥宗光_天王寺史跡


三十六宮苑色多 霓裳曲罷流霞酔 紅塵百丈長安道 金馬門前独花看   福堂

 余深受福堂陸奥伯知遇相従有年今茲
 値其十周忌辰乃鐫伯平生得意之詩于
 石建諸墓側以表追慕之意
    明治四十年八月 内務大臣原敬拝誌  廣群鶴鐫



福堂は陸奥宗光の号です。
原敬の碑文から建立の理由が分かりますな。


原敬


明治23(1890)年、農商務大臣になった陸奥の秘書になったのが原で、その時から7年ほどの付き合いになります。(明治30年に陸奥が死去するまで)
陸奥が農商務大臣を辞めた時は進退を共にし、また陸奥が外相になった時には原はその要請で外務省入り。
後に陸奥の下で外務次官になっています。


原敬は引き立ててくれた陸奥に大きな恩を感じており、亡くなる前は毎日のように陸奥の病床に駆けつけています。
陸奥は既に危篤状態だったみたいで、原としては堪らなかったみたい。
ああもうこれが最期だと思うと平気な顔で話し続けることもできないし、陸奥が病をおして話し続けるのを見るのも辛い。
話したそうにしている様子に、もっと枕元にいてあげたいと思うけど、涙がこみあげてきて居た堪れない。
そういうことが陸奥が亡くなった日の原敬日記に書かれている。
原敬は割と淡々と日記を記す方でして、ここまで感情が吐露されている所は珍しい。


陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養嗣子となっています。
古河は古河財閥の創業者でして、足尾鉱毒事件を起こした古河鉱業がよく知られている。(陸奥が農商務大臣の時代)
潤吉が社長になった際は原敬もその後見として副社長になっています。
また後年には古河(と三井)に政友会の党費を預けていたり、後々まで何かと関わりがありました。


陸奥宗光_天王寺史跡


空蝉の殻は何処に朽ちぬとも 我魂やどるかた岡こぞこれ 自得翁


自得も陸奥の父、伊達千広の号です。
ちなみにこちらを夕日丘と名づけたのもこの方。


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