Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

Sweet Home

本の返却の関係でダイバーシティの続きをそろそろ書かねば…と思った矢先に予約していた本がやって来るという罠。
海兵17期、秋山真之と同期同郷の山路一善の娘さんの本を見つけましてね(有名な方のようでした)。

読んでいたのですが、何という幸せ家族…
山路のイメージとはかけ離れとるー!
とりあえず山路が家でパパと呼ばれていたことに驚いたわ。


確かに山本五十六の家でも、妻礼子さんが子供たちに向かってお父さん(五十六)のことを「パパちゃん」と言ってたよ。
原敬の家でも、養嗣子貢さんが養子になる前、原家で預けられていた時に原敬の内縁の妻を「ママちゃん」と呼んでいた。
え、じゃあ、じゃあ、原敬の事も「パパちゃん」…?
原敬を…、パパ…?


原敬 


と思いきや、流石にそうは呼べなかったらしく(笑)
おじさんと呼んでいた。

原貢は原敬の姪の子供ですが、家庭の事情で原家に預けられてから養子になる迄期間があり、幼心に自分だけが苗字が違うのが悲しかったそうです。
そうであったため養子になった時は嬉しくて嬉しくて、何の衒いも躊躇いもなく原の「おじさん」を「お父さん」と呼んだ。
これには原もちょっとびっくりしたらしい。笑
原も子供好きだからなー嬉しかったんじゃないかなー

料亭に行ってもハーフ(半玉/10代初め~後半の半人前の芸者)にもってもてだったそうですよ。笑
半玉がみーんな原の側にいっちゃうと、加藤友三郎も言っている。笑
話が上手だから、楽しいの。
演説は貢に義理にも上手いとは言えないと言われる程のヘッタクソなんですけどね!(加藤にも言われとります)

上の写真は昨日の新聞に載っていた原。
恐らく首相就任後の撮影だと思われますが、初めて見た(多分)ので切り取っておいた。


それはいいのですが、山路家裕福やわ…
芝白金に3000坪の家。
門を入ってから玄関までは並木道になっている、家というか正に御屋敷…^^;
そして向い側には財部彪の家。
あー芝白金三光町か。目の前か。
住所調べたら山路の家、芝白金三光町519番でした。
財部の家も恐らく同等規模程度かそれ以上であったのではないかと思います。

しっかしアレだね。
山路と財部は相婿になる訳ですが、奥さんが…大分違う…
財部の妻は山本権兵衛の長女、山路の妻は次女ですが、うむ…
山路の妻・すえちゃん。

彼女がね、滅茶苦茶素敵な女性なのよ!
ママ大好きの子供目線からの母親像(しかも筆者は母が44歳の時の末っ子。第8子)なので、多少贔屓目に見ている所もあるだろうけど、それを差し置いてもめっちゃ素敵な女性である。
夫と子供への愛と優しさに溢れとるね。
こういう家庭に育つ子供は幸せだと思う。
凄いわー
理想的な「the 日本の母」だわ。


屋敷には行儀見習いのお手伝いさんが沢山いたものの、出来ることはすえさんがほぼすべて自分で行っていたそうです。
料理が大層上手だったらしい。
読んでいて、大正末期~昭和初期に主婦がこんなの作れたんだと驚きました。
主婦と言っても実父は海軍の長年の実力者で2度の首相経験者とか、夫が海外経験も豊富な海軍中将っちゅうのは、大分世間一般の主婦とは様子が違いますけれども^^;

上がっていたのはグラタン、タンシチュー、コールドミート、ローストビーフ等。
子供たちのおやつもほぼ手作りだったそうで、ゼリー、フルーツポンチ、プリン、ビスケット、クッキー、パウンドケーキ、カステラ、タピオカのプリン、パイ、お団子、お汁粉…など。

タピオカのプリン!?

タピオカが一般的なってきたのってこの15年程だと思うのですが、山路家では既に食べていた。

実父山本権兵衛が郷土のお菓子・かるかんが好きでね、道具を態々取り寄せて自分で作っていたんですよ。
中々思う様に作れなかったそうで、娘に作り方を聞いていた。
これが確かすえちゃんじゃなかったかと思う。

結婚前は嗜みとして琴や三味線を習っていたそうですが、イギリスに滞在している山路が洋楽を好きと知って、琴も三味線も燃やしてしまったり。
子供がどうしてと理由を質した時の答えが、
「パパと同じ趣味を持ちたい、同じ心になりたいと思ったのよ」
ですよ。

家に帰ったらこんな奥さんが子供と待ってるんやで…
帰るのが楽しみだったんじゃないかと思いますわ。

著者のお名前、鎮子さんですが、祖父山本権兵衛の命名だそうです。
桜が満開の時期に生まれたから桜子でどうだろうとお伺いを立てたら、
「桜はパッと咲いてパッと散るからやめよう」
鎮海要港部で生まれたから「鎮」の一字を取っての命名だった。

山本権兵衛の家も近いのですよ。芝高輪でエラい近いのよ。
山本は時には総領孫の満喜子を連れて朝は散歩をしていたのですが、その散歩コースにこの娘ちゃんたちの家がある訳ですよ。
タイガーが毎朝やって来る。笑
娘はいいけど婿の立場だと辛かろう。笑
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戦利品

松山における戦利品。


IMG_3845.jpg


図録と小冊子と古本。あと自分用のお菓子いくつか。しょぼい。
旅先で寄ったらあかんスポットの上位に入るのが古本屋なのですが、入ってしまったわ。
今回は時間もあったし。
そして加藤拓川の伝記見付けた。わーい。

加藤は明治大正期の外交官。
秋山好古とは同郷同年代の親友で晩年にいたるまで家族ぐるみでの付き合いがあった。


原敬、加藤拓川、陸羯南


司法学校では賄い征伐で原敬、陸羯南らと共に退学になっています。
加藤が外交官になったのは原敬の斡旋があったため。
で、その後甥っ子正岡子規を東京に呼ぶわけですが、上京した子規は後に陸羯南の日本新聞社に入社し、更に後年原敬の自慢の甥っ子・原達(抱琴)を弟子にするという。
不思議な縁ですな。

帰って来てから知ったのだけれど、加藤のお墓も松山にあるそうです。
そういや市長在任中に亡くなってたな。
やや郊外だったのでどのみち今回は参拝の時間はなかったかなという感じですが、次に松山に行く時は行きたいな。

というかさ、この伝記ペラペラ捲っていて気付いたのだけれど加藤夙川に住んどったんや…
えーそうなの…
大阪新報の社長になったり北浜銀行の非常勤取締役になったりしとるしなあ。
この辺りは原敬に推薦されたと思われます。
原も大阪で大阪毎日新聞の社長をしていたり、北浜銀行の頭取もしている。
北浜銀行の方はもろに原敬との繋がりだろう。

そして昭和40年代には秋山好古の次男が仁川に住んでいたことを今回坂の上の雲ミュージアムの展示で知りました。うそん。
夙川も仁川も自宅からランニングで行ける距離である。
仁川の方は住所の番地まで出ていて、昔のこととはいえちょっといいのかコレっちゅう。

私は寧ろ加藤が夙川のどのあたりに住んでいたのかが知りたいわ…
苦楽園か香櫨園かの辺りじゃないかと思うけど。
香櫨園の方かなあ…
香櫨園附近には日露戦争時の第4軍参謀長であった上原勇作の別荘があったのですよ。
詳しい番地は分からんが昔の地図見たら分かりそう。
地元に何か史料残ってないんか…
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思想の殺戮

大正を読み直す

『「大正」を読み直す 〔幸徳・大杉・河上・津田、そして和辻・大川〕』

内容は昭和を考えるには大正からですよねということです(簡略化しすぎや…
昭和陸軍の、統帥権を利用した暴走の萌芽は大正のあちこちに転がってるのよという勉強をしていた身からすると、知ってますとしか言いようが…

昭和の全体主義の萌芽は大正時代にある、という話。
個人が持つ思想が明治末に国家により圧殺されるところから始まり、最後には個人が全体主義・国家主義を唱え出すようになる流れが描かれていました。
この本を読んでいてちょっと…というか、かなりびっくりしたことが。

「個人が持つ思想」とはこの本の場合は社会主義で、「国家による圧殺」とは大逆事件の事。


大逆事件(角川新版日本史辞典/1996)

著名なものとしては、1910(明治43)年幸徳秋水<略>らの当時の無政府主義者・社会主義者が明治天皇暗殺を計画したとされる大逆事件<略>がある。
’10、5月から全国的に多数の社会主義者が逮捕され、26人が起訴された。

非公開の公判を経て’11年1月18日大審院特別法廷において24名に死刑、2名に有期懲役の判決があったが、十分な確証のない者もあり、翌日天皇の特赦により死刑の半数は無期懲役に減刑された。

しかし、残り12名に対しては早々の24日11名、翌日管野の死刑が執行され、社会に衝撃をあたえた。


大逆罪は皇室に対する罪のことで、戦前では一番の重犯罪になります。
天皇・三后(太皇太后・皇太后・皇后)・皇太子・皇太孫に危害を加えた、または加えようとした、ということで皇室へ危害を加える=国家への反逆と見做された。

幸徳事件(所謂大逆事件)は、時の政府によるでっち上げだと言われます。
最近の研究ではこれが一致した見方で、事実そうだったと思われる(辞書の内容は古い)。

しかしそんな事件が全くなかったかと言われるとそうでもない。
起訴された26人全員が冤罪とは言い切れず、実際に明治天皇を暗殺しようと考えた人間は4人いた。
爆発物の製造実験をし、更にその材料も押収されているし、この人々は逮捕されている。


ただ幸徳秋水がこの計画に関わっていたかと言われたら、それはNO.
では計画を全く知らなかったかと言われたら、それもNO.
上記4人に相談はされたけれど、幸徳は反対した。
反対したから、計画からは除外されている(だけれども首謀者扱いで捕まった)。

4人の逮捕後、幸徳を含む22人が逮捕されますが、この人たち、天皇暗計画とは本当に無関係なんである。
逮捕の理由が上記4人の誰かとかつて親しかったとか、影響を与えたとか。
あいつならやっているはずだ、とか。

何の証拠もないまま社会主義思想の持ち主という理由で捕まっている。
まあ、政府は社会主義者を一掃するために、大逆罪という刀を振りかざして捕まえているので…
とにかく理由が分からないまま逮捕され、死刑判決を受けた人が多かったと思われる。

計画に反対してその後は関与しなかったにも関わらず天皇暗殺計画の”首謀者”扱いされた
幸徳については、この事件の担当検事自身が以下のように述べている。(『「社会」のない国、日本』より)


幸徳が此の事件に関係のない筈はないと断定した
証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するやうになつた


疑わしいという理由だけで逮捕され、非公開裁判にかけられた挙句死刑判決を受けて処刑される。
上記の通り大逆罪は戦前では最も重い罪で、裁判は非公開、三審ではなく、大審院で1回限りで結審します。
判決は覆らない。


私は知らなかったのですが、この時特赦で無期懲役になったひとり坂本清馬が戦後昭和36年に東京高裁に再審請求を行ったそうです。

38年にこの再審請求に関わる審尋が始まった。
この審尋の公開を弁護団が要請したものの、却下され非公開。
そして頭ごなしに再審請求人の思想を否定的に見る質問を裁判長が再審請求人にした挙句、再審請求は却下された。

理由。 


大正を読み直す 


なにこれ…
ちょっと何言ってんのか分かんない…

また、最高裁の大法廷が昭和42年に大逆事件の再審請求の特別控訴の棄却を全員一致で決定。
戦後の最高裁は戦前の大逆事件を追認した。
裁判所は坂本に対し死刑判決を受けるようなことをしたのだと認定した。

著者は震え上がるような恐ろしさを覚えたと書いているのだけれど、私も怖くて鳥肌がたった。衝撃的でした。


あと、私の中でごちゃごちゃになっていたのだけれど、幸徳秋水って結局社会主義なの?アナーキズムなの?どっちなの?という…
幸徳秋水が紹介される時ってどちらも書かれているように思うのですが、国史大事典を見ると、社会主義→無政府主義らしい。
うーん…政府からしたらどっちであっても、国体の否定であるから容認できるようなものではなかっただろう。


桂太郎 原敬


ちなみに時の政府は第二次桂太郎内閣です。
所謂桂園内閣の時代で、前の政権であった西園寺公望内閣は割と社会主義者に寛容だったんですね。

当時内相(治安の責任部署は内務省)であった原敬は、
きつく叩くと地下に潜って蔓延し、却って取締りしにくくなる、社会主義の蔓延を防ぐにはもっと根本的な社会政策が必要である
という旨を日記に記しています。(明治43年7月23日条)


原敬日記 


しかしながらそれが山縣有朋、桂太郎ラインに叩かれまして、これが一因で西園寺内閣は退陣しております。
ついでに大逆事件の指揮を執ったのは後の首相、平沼騏一郎(当時法務省の検事)。

あと感心したのは吉野作造の民本主義について。
普通にイコールで民主主義、人民主権だと思っていたのですが、違うものだったのね…
ただこの本を読んでいて感じたのは、吉野の言う民本主義と民主主義、本人の中でさえごっちゃになってない?という…^^;
大杉栄から的確な罵倒的批判を受けていて、ちょっと驚いた。
私たちが学校で習う歴史って一体何なんだろうね。

このエントリーだけ題が違いますが、今回読んだ中で一番衝撃的だったのがこの本でした。
「思想の殺戮」という言葉は本書中に2度かな?出てくるのですが、明治末期の大逆事件はまさしく国家による思想の殺戮でしたわ…


***

ということで、読書感想文終わり!
後はもういいです(笑)
まあ、本屋で見かけたら「あ、あれか」と思ってください。笑
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積読消化

頑張って積読消化してるよー
なんかね、なんかね、嫂の話によると姪っ子ちゃんと一緒に庭を散歩しながら唱歌を教えたりダンスを教えたりしてたらしいよ!やだ…どうしよう…2828が止まらない…もはや床を転げまわってコピーを読んでます。(生あたたか~い目で見守ってやって下さい…
姪っ子ちゃんを滅茶苦茶滅茶苦茶可愛がってたからそんなこともあっただろうと思うけど実際家族からそんな話が出てくるなんて鼻血しか出ないよ私!
何の話って広瀬武夫の話だよ!(笑)

あーもう!めっちゃ妄想が広がるー!(え)(←ハイ

色々ほったらかしにしていたものを今更読んでるわけですが、八角三郎の原敬の追想記出てきたわ。
Sringsの岩手人脈を書いた後で見つけた文献。
八角の父が原の親友八角彪一郎。
ふたりとも岩手出身で家の付き合いがあって(近所)お互いよく知っている。
八角三郎に海軍行きを進めたのが原敬。

原さんね、司法学校受ける前に海軍兵学校を受験してるのよ。
落ちたんだけどね。
その話を八角三郎にしていた事が判明。笑
伝聞ではなくて本人から聞いてたんだ…へえ…
原が話した所によると試験をなめてかかっていたそうですよ。
ただ落第しまして、それで心を入れ替えたらしい。
受かっていたら何期だったのか、以前調べたことがあるのだけれどイマイチよく分からなかった。
中々表に出てこないプライベートの話は読んでいて面白いです。

八角が「お前も海軍はどうか」と誘ったのが米内光政。
その米内しゃま、おからが好きだったそうで。
学生時代、米内光政大好きな友人がいてねー専攻は室町だったけど。
文献調査関係の授業で片っ端から米内光政の文献調べていた(※感心した先生が一緒になって調べ出すという展開を迎える)。
一緒に盛岡も行ったぜ。お墓参りもしたぜー
で、米内さんがおから好きだったからおからのお菓子作ってよと言われておからのケーキを作ったことがあるのだけれど、そのレシピが出てきてさあ。(※おいしい)
久しぶりに作った訳よ。





結構材料が余ったのでもう1度作ったのだけれど、オーブンにタネ入れた後になんか…
まだ小麦粉の入ったボールが…ある……
偶にあるね、こういう事…orz

そして月末にちょっと呉行ってくるわ呉。
大変久しぶりです。
2泊位したかったけど、諸藩の事情…諸般の事情で1泊になった。
またちょっと慌ただしい感じの旅程になりそうだけど、今回は第六潜水艇の慰霊碑にも行きたいなあと。
そして何か美味しいものが食べたいなあ。

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パラべラム ~ 堀悌吉(4)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


NHKの山本五十六特番の再放送ですが、8月30日の午後2:00~3:50にあるそうです!

BS1 山本五十六の真実 (別窓、外部リンク)

もう少し後かと思ってた。危なかった…^^;
MVさんありがとうございます。

「パラべラム」の続きはサイトに持って行くかと思ったのだけれど、それだけ再放送が近いならブログでちまちま更新する。
堀さん傑材なのに山本五十六の親友というレベルでの紹介で終わるばかりなのが悔しいのである。





続き。


堀が軍務局第一課の課員になった当時、大正7(1918)年の海軍大臣は加藤友三郎、次官は栃内曽次郎。
軍務局長は井出謙治で、軍務局第一課長は山梨勝之進でした。

海軍省軍務局第一課。
海軍省で中心になるのが軍務局、海軍軍事行政の話がここに集約される。
その中でも第一課は軍政系統の枢要中の枢要で、本当に仕事ができる優秀な人が集められる。
第一課長→軍務局長→次官→大臣というのがひとつの出世コースになります。

前回書いた堀への誹謗中傷がどれだけ謂れのないものか、こうした所に堀を持ってきた人事局と海軍大臣が彼をどう見ていたか。
配属された部署からおおよその見当が付きます。


栃内曽次郎も井出謙治も、山梨勝之進もこのブログではもう結構名前が出てきています。
栃内は岩手出身。
15歳上の兄が栃内元吉(陸軍)で、この人は盛岡の作人館で原敬と同室になった縁から生涯に亘る友人であったことは「岩手人脈(2)」で触れました。
井出と山梨は今は特にいいですか。



当時海軍は88艦隊(戦艦8・巡洋戦艦8)の建造に邁進していました。
ただね、当時の日本はホント~にビンボーなので、財政的に無理がかかりまくってるんですよ。

シベリア撤兵もできず出兵費用かかりっぱ(シベリア出兵大正7年~)、原敬が首相の頃には株価が大暴落(T8)。
その上に世界大戦終結の反動で大戦景気が一転、戦後恐慌に陥ります(T9~)。
海軍軍縮会議(T10)を挟んだものの、そこに追い打ちをかけたのが関東大震災(T12→震災恐慌に)。

不況と言えば昭和初期の印象が強いですが、実はそれは大正からの財政問題が連綿と続いた結果ですわ~
大正期は大戦景気の数年を除けば慢性的な不景気、不況です。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014826.jpg 大戦景気の頃の成金


大正初期の段階で日露戦争時の借金の利子さえ払えない状態に陥っており、世界大戦がなかったら日本は確実に財政破綻してました。
財政問題に限らず対21ヶ条の要求やシベリア出兵で国際的にも孤立しかけていて、実に危うい綱渡りをしているのが大正という時代。
いつもすれすれの所で不思議と救われている。


こうした状況の中での88艦隊計画。
海軍の状況を見ると、どうしても達成したい、その理由も気持ちも分かるんです。
戦勝国なのに、海戦では大勝利だったのに、その後の建艦技術の発展の速さについて行けず、海軍は三流・四流になってしまっていた。
(詳細は「H'sシップヤード」(の日露戦争後・大正期の話)をどうぞ。当時の建艦について)
でも無理なんだよorz

大正10年の海軍費 → 国家予算の3割

海軍だけで国家予算の3分の1を使ってる!
国家は海軍だけで成り立ってるんじゃないんだよ~

大正7年の時点で、既に陸海合わせた軍事費が国家予算の半分なんです…
その上88艦隊が完成したら、その維持費だけで国家予算の半分が必要とされた。
艦隊の!維持費!だけで!

そらー無理ですわ。
どう考えても無理ですわ。


ただ建艦競争に財政的に苦しめられたのは日本だけではありませんでした。
他の欧米各国も同じで、それでいっちょ話し合おうぜ、とアメリカからお誘いが来たのが大正10(1921)年の夏。

同年秋にアメリカワシントンで開催される海軍軍縮会議に出席する全権代表に、原敬首相は加藤友三郎海相を指名しました。
この辺りの話は「Odd Priority(の3)」と「原敬と加藤友三郎」に書いたのでそちらをどうぞ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014826_2.jpg


この会議のためにワシントンに赴いた海軍の全権委員は加藤寛治。
随員は山梨勝之進、末次信正、野村吉三郎、永野修身、上田良武ら各大佐。
堀悌吉中佐、佐藤市郎少佐、桑原寅雄大尉、三戸由彦機関大尉、武井大助主計少佐、榎本重治海軍省参事官がいます。


続く。
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