Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ひとくせ(加藤拓川)

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松山旅行で見つけた『加藤拓川』(畠中淳/松山子規会/S57年)をつまみ食いしながら読了。
いや、松山の郷土出版だけに正岡子規関係での出版物なのですよ。
私正岡子規にあんまり興味ない…
とはいえ加藤が新聞で発表した文章や書簡、加藤を知っている人の追憶や座談会も収録されていたので、これは結構面白いと思う。
この座談会の出席者がビッグネームでびっくりしたのです。
犬養毅、古島一雄、内田康哉、石井菊次郎、林権助、吉田茂…

<●><●>

古本屋で見た時こんな感じになった。笑
原敬の名前がちらほら出ている時点で買うか大分迷ったのだけれど、ここは決定打だったわ。

加藤、原とは私が想像していた以上に仲が良かったみたい。
というか、人生の転機に関わった重要人物のひとりとしてこの本では紹介されていた。
このあたりの関係は先日「青森と盛岡つながり」で書いたので、そちらをどうぞ。


司法省法学校を退学させられた学生のひとりに国分青崖がいるのですが、国分はこの時の仲間で明治11年に富士登山をした話を回顧していた。
登山メンバーは、国分、陸、福本、加藤。原はいてない。
国分曰く、その当時もっとも親しかったのはこの5名だったそうです。


原敬、加藤拓川、陸羯南


当時はまだ列車が東京横浜間しかなく、横浜からは徒歩。
しかも国分、下駄。
下駄で横浜から富士山まで歩き、更に登山し、その上大阪まで行った。
若いから出来る業である^^;
しかし神戸まで行った所で、余りに異様な風采を怪しまれて、大久保利通暗殺の嫌疑者か一味の者として警察に引っ張られた。笑
その後どうなったかは描かれていないので不明ですが、まあ嫌疑は晴れたんだろう。


上記追憶座談会で思わず笑ってしまったのは、加藤、下ネタに事欠かない人物であったらしい。
相当下ネタがあるらしい。
外交官では珍しい気がするし、加藤にそういう印象なかったわ。
この本には座談会2回分が収録されているのだけれど、1回目も2回目も伏字が(でも大して過激な内容でもない)。笑

石井には、
「奇談があるけど言わない方がいいよね」ァ '`,、ヽ(´∀`)'`,、'`,、
「記録には書けない」
とか言われ、加藤が松山市長を務めていた時の副市長には
「この前の座談会も猥談に始まり猥談に終わったけど、記録にしてはどうも困る…」^^;
とか言われ、
林権助には、こんな座談会、
「野郎ばかりならまだよいが、家族などがおられた時は本当に困ることがある」
とか言われ。笑

随分いたずら好きでもあり、上司が「加藤が苛めてきて仕様がない」と零すようなこともあったそうです。
思っていたよりも一癖二癖ある人物だったみたいで、思わず笑ってしまった。

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ダイバーシティ*原敬日記

お久しぶりの原敬日記。


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まさかダイバーシティで使うことになるとは思わなかったのだよ明智くん。
山本信次郎出とったわー
折角だから引用で使うことにした。
ホント、いろんな人が出ている日記だわ。

序に書くと、原敬も若い頃、17歳の時に受洗しているのです。
洗礼名はダビデ。
入信した理由は生涯語ったことがないようで不明とされています。

ただ原が入信した頃というのは、教会が布教の必要上無料で宿泊させたりしていたようで、生活の必要上伝道師養成所に入る東北人も多かったそうです。
また欧米人にコネを作れば将来何かの役に立ち、薩長の鼻を明かすこともできるだろうという考えを持つ人も多かったそうで。
原の入信理由は生活の為という事だけではなかったようですが。
ただ後年の原の書斎にはマリア像が掛けてあったそうですし、まあ、色々と思う所があったのだろうと思われます。

ただ原がクリスチャンだというのは何となく、…そうなの?という感があるのだよ…
本当に、そんな感じがしないので。
墓所からして禅寺ですし。

山本信次郎については、実は去年結構大きなニュースが出ていたのです。
このブログでは非公開記事にしていて、取り立てては書かなかったのですが、以下。


丁度サイトで前回更新した辺りの話が出ていますので、興味がある方はどうぞ。

山本はバチカンに宛てた書簡の中で「カトリック信徒の原敬が首相に就任したことに触れ、日本への法王使節派遣の「好機」と強調している」(毎日新聞)とあるのですが、冷徹なリアリストである原は、事国政外交に関しては、日本(と皇室)の利益を最優先にしますからね。
カトリックだからというのは、この場合原にとっては全く関係のないことだろう。
(一国の首相と軍人が生きている世界の違いを感じますな)

まあ山本のリップサービスではとも思うけれど、山本は私が今見ている限りではそんなことが出来るような感じの人ではないのであった…^^;


***


2週間ほど前に犬用のレインコート買った。300円。安い。


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女子にはぴったりだったのだけれど、男子はつんつるてんのぴっちぴち(若干)…
それでもこれよりはいいと思うんだ…!(笑)

雨に濡れないというのは、人もわんこもとってもとっても快適。
もっと早くに見つけたかったー
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青森と盛岡つながり

借りてきた本に絡めてつれづれ。


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上写真はダイバーシティ関係で借りている外交官関係の本(内一冊はまったく関係ない)。
欲しい情報があまりないのでそのまま返すつもり。
そして珍田捨巳の本は早々に返却の憂き目にあったのであった…
ごめんねすてみん。


珍田捨巳は青森は弘前の人。クリスチャン。
肝の据わった外交官として知られた人物で、後に侍従長を勤めている。
山本権兵衛が内閣を組織した時に外相としての入閣を何度も依頼したけれども断られておる。
近代史では和初期では割と名前を聞く人物。
既出で、竹下勇関連で一度名前を出しております。

東奥義塾の出身。
東奥義塾の話って書いたことあったっけ?記憶が遠すぎて覚えていない。
同窓に陸羯南(ジャーナリスト)、一戸兵衛(陸軍)、佐藤愛麿(外交官)といった人々がおります。

陸羯南は今迄何度も触れている日本三大ジャーナリストのひとり。
司法省法学校(現東大法学部)での賄征伐事件に巻き込まれて退学処分になってしまった人物です。
この時一緒に退学になった同級生に原敬と加藤拓川がおり、後も親しく交わっていたようです。


原敬、加藤拓川、陸羯南


加藤拓川は正岡子規の叔父にあたる人物で、秋山好古とは幼馴染で家族ぐるみのお付き合い。
加藤は後に原敬の斡旋で外交官となるのですが、よくよく調べると加藤・原・秋山の在巴が重なっていた時期があり、三人がパリで顔を合わせることも少なからずあったのではないかと想像します。笑
ちなみに原と秋山がワンショットで写っている写真もあるのよ。
大正中期ですが。

加藤は甥っ子正岡子規を友人陸羯南に預けますが、子規の門弟に原敬の甥っ子・原抱琴がいるなど、結構面白いつながりがあります。
原の俳句はこの甥っ子の影響があったようですね。


珍田捨巳、一戸兵衛の1年後輩に藤田潜がいます。
東奥義塾出身だったかちょっとうろ覚えですが(調べんかい)、長く攻玉社の副社長を務めていた人物。
明治期の海軍軍人は海軍の予備校的位置づけであった攻玉社の出身者が多く、広瀬武夫もそのひとり。
勿論藤田も広瀬のことを知っており、広瀬がロシアへと出発する際は攻玉社の生徒を連れて見送りに行っています。
広瀬は攻玉社を卒業しても、新設された柔道部の部長をしていましたから、結構関わりはあったと思うよ。

この藤田の息子が海軍大将藤田尚徳で、海軍兵学校29期。
同期に米内光政、八角三郎、高橋三吉、佐久間勉(佐久間艇長)らがいます。
昭和14年、米内を海軍大将として残すため、高橋三吉と語らって自分達が予備役に編入されることを願い出た。敗戦前後を挟んで侍従長を勤めています。


米内光政_紅葉館
(盛岡出身者の集まり)


米内と八角は同郷盛岡の友人で、八角の父・彪一郎と原敬がこれまた友人であったのですよ(家が近所)。
八角彪一郎は早くに亡くなるのですが、それだけに原が結構三郎のことを気に掛けていてだな、海軍に行けと応援したのが原敬おじさんであった…
そしてさぶちゃんがみっつぁんもどうかと海軍に誘ったという中である。笑


原敬、栃内元吉、八角彪一郎 盛岡の友人ショット


原敬の友人・栃内元吉は栃内曽次郎(海兵13期)の兄(最終陸軍中将)。
栃内元吉の妹(曽次郎の姉)が八角彪一郎の妻になる。つまり栃内兄弟は八角三郎のおじさん。
(長い寄り道)


東奥義塾出身者、佐藤愛麿の養子が特に敗戦時のソ連関係で有名な外交官・佐藤尚武。
日露戦争直後のロシア公使館に配属されております。
当時、当然ながらまだサンクトペテルブルグでも広瀬武夫を知っている人がいた。
佐藤の初めての下宿先が広瀬が下宿していた家であったり、街中の古本屋の親爺に
「広瀬さんは真面目でいい人だった」
とか言われてんぜ。笑
この親父さんは広瀬行きつけの古本屋さんで、広瀬がロシアを引き上げる際に持って帰れない書籍を全部タダで貰っている。
ついでに鰹節2本も貰っている。笑


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沢田節蔵。外交官。
大正10年の皇太子外遊に供奉員として参加した人物としてしか知らん。
ごめん。笑
ぺらぺら見ていたらこの方もクリスチャンだったわ…

よくよく考えると、昭和天皇は
幼少期の養育掛に足立たか(鈴木貫太郎の後妻)
青年期~の御用掛に山本信次郎
侍従長として珍田捨巳
で、周囲にずっとクリスチャンがいるのね。
こういうのって、特に取り沙汰とかはされなかったのかしら。
まあ、人物を見ての選定だったと思いますけれども。

沢田は『皇太子殿下御外遊記』を二荒芳徳と共著で出版した人物で、回顧録を見ると背表紙の文字は、専門家に依頼して聖武天皇の文字から探してもらったとありました。
まさかそんな所から引っ張ってきているとは思わなかったので、少し驚いた。笑

(沢田は鳥取の人です…)
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Sweet Home

本の返却の関係でダイバーシティの続きをそろそろ書かねば…と思った矢先に予約していた本がやって来るという罠。
海兵17期、秋山真之と同期同郷の山路一善の娘さんの本を見つけましてね(有名な方のようでした)。

読んでいたのですが、何という幸せ家族…
山路のイメージとはかけ離れとるー!
とりあえず山路が家でパパと呼ばれていたことに驚いたわ。


確かに山本五十六の家でも、妻礼子さんが子供たちに向かってお父さん(五十六)のことを「パパちゃん」と言ってたよ。
原敬の家でも、養嗣子貢さんが養子になる前、原家で預けられていた時に原敬の内縁の妻を「ママちゃん」と呼んでいた。
え、じゃあ、じゃあ、原敬の事も「パパちゃん」…?
原敬を…、パパ…?


原敬 


と思いきや、流石にそうは呼べなかったらしく(笑)
おじさんと呼んでいた。

原貢は原敬の姪の子供ですが、家庭の事情で原家に預けられてから養子になる迄期間があり、幼心に自分だけが苗字が違うのが悲しかったそうです。
そうであったため養子になった時は嬉しくて嬉しくて、何の衒いも躊躇いもなく原の「おじさん」を「お父さん」と呼んだ。
これには原もちょっとびっくりしたらしい。笑
原も子供好きだからなー嬉しかったんじゃないかなー

料亭に行ってもハーフ(半玉/10代初め~後半の半人前の芸者)にもってもてだったそうですよ。笑
半玉がみーんな原の側にいっちゃうと、加藤友三郎も言っている。笑
話が上手だから、楽しいの。
演説は貢に義理にも上手いとは言えないと言われる程のヘッタクソなんですけどね!(加藤にも言われとります)

上の写真は昨日の新聞に載っていた原。
恐らく首相就任後の撮影だと思われますが、初めて見た(多分)ので切り取っておいた。


それはいいのですが、山路家裕福やわ…
芝白金に3000坪の家。
門を入ってから玄関までは並木道になっている、家というか正に御屋敷…^^;
そして向い側には財部彪の家。
あー芝白金三光町か。目の前か。
住所調べたら山路の家、芝白金三光町519番でした。
財部の家も恐らく同等規模程度かそれ以上であったのではないかと思います。

しっかしアレだね。
山路と財部は相婿になる訳ですが、奥さんが…大分違う…
財部の妻は山本権兵衛の長女、山路の妻は次女ですが、うむ…
山路の妻・すえちゃん。

彼女がね、滅茶苦茶素敵な女性なのよ!
ママ大好きの子供目線からの母親像(しかも筆者は母が44歳の時の末っ子。第8子)なので、多少贔屓目に見ている所もあるだろうけど、それを差し置いてもめっちゃ素敵な女性である。
夫と子供への愛と優しさに溢れとるね。
こういう家庭に育つ子供は幸せだと思う。
凄いわー
理想的な「the 日本の母」だわ。


屋敷には行儀見習いのお手伝いさんが沢山いたものの、出来ることはすえさんがほぼすべて自分で行っていたそうです。
料理が大層上手だったらしい。
読んでいて、大正末期~昭和初期に主婦がこんなの作れたんだと驚きました。
主婦と言っても実父は海軍の長年の実力者で2度の首相経験者とか、夫が海外経験も豊富な海軍中将っちゅうのは、大分世間一般の主婦とは様子が違いますけれども^^;

上がっていたのはグラタン、タンシチュー、コールドミート、ローストビーフ等。
子供たちのおやつもほぼ手作りだったそうで、ゼリー、フルーツポンチ、プリン、ビスケット、クッキー、パウンドケーキ、カステラ、タピオカのプリン、パイ、お団子、お汁粉…など。

タピオカのプリン!?

タピオカが一般的なってきたのってこの15年程だと思うのですが、山路家では既に食べていた。

実父山本権兵衛が郷土のお菓子・かるかんが好きでね、道具を態々取り寄せて自分で作っていたんですよ。
中々思う様に作れなかったそうで、娘に作り方を聞いていた。
これが確かすえちゃんじゃなかったかと思う。

結婚前は嗜みとして琴や三味線を習っていたそうですが、イギリスに滞在している山路が洋楽を好きと知って、琴も三味線も燃やしてしまったり。
子供がどうしてと理由を質した時の答えが、
「パパと同じ趣味を持ちたい、同じ心になりたいと思ったのよ」
ですよ。

家に帰ったらこんな奥さんが子供と待ってるんやで…
帰るのが楽しみだったんじゃないかと思いますわ。

著者のお名前、鎮子さんですが、祖父山本権兵衛の命名だそうです。
桜が満開の時期に生まれたから桜子でどうだろうとお伺いを立てたら、
「桜はパッと咲いてパッと散るからやめよう」
鎮海要港部で生まれたから「鎮」の一字を取っての命名だった。

山本権兵衛の家も近いのですよ。芝高輪でエラい近いのよ。
山本は時には総領孫の満喜子を連れて朝は散歩をしていたのですが、その散歩コースにこの娘ちゃんたちの家がある訳ですよ。
タイガーが毎朝やって来る。笑
娘はいいけど婿の立場だと辛かろう。笑
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戦利品

松山における戦利品。


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図録と小冊子と古本。あと自分用のお菓子いくつか。しょぼい。
旅先で寄ったらあかんスポットの上位に入るのが古本屋なのですが、入ってしまったわ。
今回は時間もあったし。
そして加藤拓川の伝記見付けた。わーい。

加藤は明治大正期の外交官。
秋山好古とは同郷同年代の親友で晩年にいたるまで家族ぐるみでの付き合いがあった。


原敬、加藤拓川、陸羯南


司法学校では賄い征伐で原敬、陸羯南らと共に退学になっています。
加藤が外交官になったのは原敬の斡旋があったため。
で、その後甥っ子正岡子規を東京に呼ぶわけですが、上京した子規は後に陸羯南の日本新聞社に入社し、更に後年原敬の自慢の甥っ子・原達(抱琴)を弟子にするという。
不思議な縁ですな。

帰って来てから知ったのだけれど、加藤のお墓も松山にあるそうです。
そういや市長在任中に亡くなってたな。
やや郊外だったのでどのみち今回は参拝の時間はなかったかなという感じですが、次に松山に行く時は行きたいな。

というかさ、この伝記ペラペラ捲っていて気付いたのだけれど加藤夙川に住んどったんや…
えーそうなの…
大阪新報の社長になったり北浜銀行の非常勤取締役になったりしとるしなあ。
この辺りは原敬に推薦されたと思われます。
原も大阪で大阪毎日新聞の社長をしていたり、北浜銀行の頭取もしている。
北浜銀行の方はもろに原敬との繋がりだろう。

そして昭和40年代には秋山好古の次男が仁川に住んでいたことを今回坂の上の雲ミュージアムの展示で知りました。うそん。
夙川も仁川も自宅からランニングで行ける距離である。
仁川の方は住所の番地まで出ていて、昔のこととはいえちょっといいのかコレっちゅう。

私は寧ろ加藤が夙川のどのあたりに住んでいたのかが知りたいわ…
苦楽園か香櫨園かの辺りじゃないかと思うけど。
香櫨園の方かなあ…
香櫨園附近には日露戦争時の第4軍参謀長であった上原勇作の別荘があったのですよ。
詳しい番地は分からんが昔の地図見たら分かりそう。
地元に何か史料残ってないんか…
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