Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

親族の輪

山本五十六と堀悌吉の話(どちらかと言うと堀の話)をもう少し書きたいのですが、その前に違う話。
話と言うほどのネタではないのだけれど。

系図繋がりと言うことで。


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調べていたらこういう本が引っかかったので『海軍王国の誕生』と一緒に借りた。
結構面白かった。
系図しか見てないけどな!(笑)


幾らか「え?」と思うような人の名前も見たわけです…


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松方正義の家を中心とした閨閥図で見つけた谷村愛之助の名前。

谷村愛之助と言われても、多分殆どの方が誰それという位の認識しかないと思う。
薩摩生まれの海軍士官。15期である(そこか)
ハンモックナンバーは15期80人中の80番!中々ないよ!(笑)

明治24・5年の遠洋航海(加藤寛治・安保清種ら18期)の時に比叡に分隊士として乗組んでいます。
はい。
広瀬武夫も同艦に分隊士として乗組んでいまして、まさしく同期の同僚。
この遠洋航海に関し広瀬は『航南私記』という記録を残していますが、その中に名前が出てきます。

メルボルンに着いた際、広瀬は谷村と千坂智次郎ら数人と上陸して室内射的銃を買ったり、氷菓子を食べたりしている。
氷菓子はアイスクリームのことかと思われます。
千坂智次郎は14期、山形米沢の人。
米沢藩家老の次男で、先日「名士」で名前が出てきましたが、上泉徳弥がこの方の叔父宅に下宿していました。

谷村は明治33年に亡くなっていまして、理由はよく分からないのですが公務死だと思われます。
海軍葬が行われている。

谷村愛之助って、幕末、薩摩に同姓同名の方いますよね。(明治初年に死去)
お殿様の小姓だったり、側近だったり。何か関係あるのかしら…
というか私が勝手に海軍さんだと思いこんでるだけで、同姓同名の別人だったら笑う。


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松方乙彦は松方正義の何番目か(正確な所が分からんw)の男児で、山本権兵衛の娘を妻にしています。
ということで義兄弟には財部彪(15期)、上村従義(30期、上村彦之丞養嗣子、西郷従道実子)、山路一善(17期)がいます。
本当は留学先のアメリカでフランクリン・ルーズベルトの従姉妹と結婚の約束をしていたのだけれど、周りに大反対され叶いませんでした。


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そしてもうひとり。
写し方がへたくそでごめーん。
左端に清河純一がいるよ!


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清河の娘ちゃんが岩崎弥太郎の孫に嫁いでる。

ということは、清河、広瀬武夫とは遠い親戚になるのねー
右端に加藤高明(岩崎弥太郎の長女が妻)が見えていますが、広瀬武夫の兄勝比古の妻が加藤の従妹になります。

広瀬の戦死後、日本で海軍葬が行われた際、勅使が差遣わされています。
それを総代として受けたのが加藤高明。
加藤は当時既に外務大臣経験者(伊藤博文内閣)でして、親族代表としてはこれ以上の人はいなかったでしょう。
ついでに岩崎の娘のひとりは幣原喜重郎に嫁いでいまして、加藤と幣原は義兄弟になる。

広瀬武夫の兄の娘婿が広瀬末人で、海兵39期。
同期の大親友に山縣正郷がいますが、末人の弟の妻が山縣の姉妹。
更に広瀬末人の長兄に阿南惟幾(最後の陸軍大臣)の姉が後妻として嫁いでおり、近い付き合いをしていたそうです。
阿南は豊後竹田出身、広瀬勝比古・武夫と同郷なんですな。
そういう関係もあってか、竹田の広瀬神社に顕彰碑があります。


山縣正郷、大西瀧治郎(40期。広瀬武夫に憧れ海軍入り)と仲が良かったそうで、その流れから山本五十六、堀悌吉と雀卓を囲んだり、ポーカーやブリッジをして遊ぶ仲間だったそうです。
ゲームに熱中しすぎてかどうか、山縣が膀胱炎に罹った時、山本が見舞いに来て
「自分が膀胱炎に罹った時堀がしてくれたことと同じことをしてやる」
と言って同じようにしてくれたという文書(史料)が残っていると防研の調査官の人が教えてくれた。笑



あと系図の写真撮り忘れた。

随分前にあげたことのある写真です。
児玉源太郎一族の集合写真…


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に親族みたいな顔で寺内正毅が写ってるって書いたんですが、児玉の息子(秀雄)と寺内の娘が結婚してた。
みたいなじゃなくて、親族です…
超失礼。

見ててびっくりしたんだけど、親戚の輪に木戸孝允、山本英輔(権兵衛甥)、阿部信行、広田弘毅、原田熊雄、井上準之助、渋沢栄一がいる。
その上小松輝久(37期。元皇族、臣籍降下)までいる。
阿部信行がいるってことは井上成美(37期。阿倍の義弟)もその輪に入るってことだぜ…!

ビビるわー 
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『逍遥選集』より

今借りてる『逍遥選集』に森鴎外が出てきてさ…
別に探しているわけでもないのに、続く時は本当に続くのだ。なぜだか。


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森鴎外は坪内逍遥にケンカを売ったことがある。(没理想論争)
ケンカを売られたのは坪内だけではないのだけど、鴎外のやり方はコスい上にしつこい…
なんというか、溝に落ちた犬を更に棒で滅多打ちにするような印象を受けますわー
要するに相手が立ち上がれなくなるまで完膚なきまで叩きのめす感じ。

坪内逍遥も途中で森と論争するのが嫌になってね、最後は「もういーよ」という感じになった。
大御所大人の対応である。

そんな感じなので、『逍遥選集』(12巻/春陽堂/S2)に森鴎外が亡くなった時の文章が載っていたのが意外だった。
鴎外が亡くなった直後の文章でもあり公表されているものでもあるので、悪い事にはあまり触れず、褒め言葉の方が多いだろうとは思うけど…
森鴎外に対する評価は結構高かったみたいだ。
でもやっぱりこういうことが書いてある。


壮年時代には、随分よく怒りもし邪推もし、誤つて間の者のいつた事をも信じたりして、
それがため偏屈な人のやうに思われた事もあつた。
又非常に勝気であつた結果、我が強く、場合によつては非常に傲慢である如く思われたこともあつた。
<略>
其相接する誰れをも、先づ少なくとも知識の上に於て、征服せなければやまないといふ態度が(※土原註:大隈重信と)似てゐる。

(「森鴎外」)


^^;
偏屈で我が強く時により非常に傲慢…
周囲からそう思われたという書き方だけど、逍遥自身も(も、というか、が、か)そう思ってたんだと思う^^;

私が中高生の頃に持っていた”文豪”のイメージって、もっとこう…
人格者的なイメージだったわ~
ただ高校の国語で習った『舞姫』がほぼ自伝というのを見てドン引きはしたのだけど、脚気論争の話を知った時の驚きはそれ以上だった。
というかその頃は森鴎外の本職が軍医ということさえ知らんかったのだよ明智君(誰)

森鴎外だけではないけど、色んな人がいるな、とは思う。そらそうか。
想像するよりも普通の人だったり、驚くほどのクズだったり。
純粋にすごいなと思う人は多いけど。





『逍遥選集』、態々お取り寄せで借りたんだけど見たい情報は全くなかった。
というか、本が違ってたみたい。
そりゃあかんわ…(笑)
ただ思い出話というか、追想記があったのでそれがまだ救い。


坪内逍遥は私のサイトでも既に2度程名前が出てきています。
直接坪内を扱ったのではなく、交流関係の中でかする程度という感じですが。
ひとつは「広瀬武夫と愛知人脈」、もう一つは「などでたゆとう」です。

後者は山田美妙の話ですが、当時文壇の大御所であった坪内にその品行をぼろっかすに非難され、美妙は明治初期の文壇スターダムから転落してしまった。

前者は八代六郎と加藤高明との関係で、この人たち、同郷で同じ学校(尾張藩が作った名古屋洋学校(英語教育中心))に通っていました。
一番の兄貴分は加藤高明で、八代は海軍に進むかどうかを加藤に相談している。
加藤は海軍はマッスルジョブみたいだから止めとけば?と止めたんだけどね、結局は海軍に進んだ。
また同窓にはジャーナリストであった三宅雪嶺もいます。

八代も加藤も三宅もそれぞれ広瀬武夫と関係がある人物で、これはまた面白いな~と思うのよ…
ちなみに前者から先輩、親戚、遠洋航海の同乗者となります。

『逍遥選集』、 折角なのでちょっと引用してみます。
この本を借りることはもう二度とないだろうと思うけど、コピー迄は必要ないっちゅうこともある。笑

書かれたのは内容からみて大正13年か14年です。


其頃の同窓で、今でも逢ふ機会さへあれば、昔ながらの心持で話のできるのは、八代大将だけだらう。
八代君は私より齢は一つ下だが、世間知らずの凡槍(ぼんやり)の私とは違つて、其時分から級中で独り嶄然としてゐた。
率直で磊落で闊達で、文豪趣味もあつたが、武張つた事にも深い同情を寄せて、柔術なぞをも習つてゐたやうだ。

雪嶺君も其時分から知り合ひだが、級が違つてゐたのと、君が寡黙であるのとで、親しく物を言ふやうになつたのは、
むしろ東京大学を出てからであつたやうに思ふ。

県の選抜生の中に加はつて帝国大学の前々身一つ橋の開成学校の試験を受くべく、
明治九年の秋に、東京に出た際には、
<略>
其時、現首相の加藤高明君も、先輩ではあるが、やはり同県出身の開成学校生であつたので、乗込んでおられた。

同君は、やはり齢は私より一つ若いのだが、十七八歳で以て立派に二十五とも見られた程の老成振であつたから、
乗船の際も、其夏期の休暇の毎に名古屋へ帰省し、一同が又東上する折々も、いつも君が宰領役をしてくれられたものだ。
さういふ関係上、同窓ではないのだが、何かと君のお世話になつたのであつた。
<略>


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0088.jpg


八代君は海軍へ、私は開成学校へ行く先きが違つてゐたので、出京と共に疎遠になつたが、
出京の初めには最も君と親しくした。

君の知友で岐阜県の後藤斎吉といふ人が、<略> 此人にも八代君の紹介で親しくなり、
一しょに写真を撮つたり何かしたが、
其頃の記憶は、其写真の朦朧となつたと同じに、
今は薄れて、容易くは思ひ出せない。


(「学生時代の追憶」) 
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寺内正毅の書簡発見!860点!

寺内元首相の資料860点発見 乃木大将からの私信など  
(ソース:共同通信 2014/1/16)  

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117.jpg

乃木希典…!
話題にすると向こうから話題がやって来る人だ…(笑)
大磯の寺内家から書簡類が見つかったとのこと。その数約860点!
860点!
うわあ…
近代では2010年に岩倉具視関係文書が1700点ほどばばーんと出てきていましたが、これはそれに次ぐなあ…
上記ニュースを見ると、名前が出ているのが伊藤博文、森鴎外、桂太郎、乃木希典。
バリバリ長州閥の人だけに長州出身者が多そうだけど、これだけのニュースでは判断がつきませんな。
他にどういった情報が流れているのかググってみたのですが、どこの新聞社も共同通信が配信している記事をそのまま出していたので、詳細は待て後日という感じなんでしょうか。

常識的に考えて、陸軍関係者の名前はものすっごく上がると思います。
山縣有朋とか山縣有朋とか山縣有朋とか。笑。
児玉源太郎のも多いだろうし、原敬もあるだろうなー
秋山好古とか井口省吾とか、あの辺りの名前も結構出てくると思う。
ただ寺内に関しては山本四郎さん編纂の『寺内正毅関係文書』(首相以前)があって、そこに出ている史料とかも含まれるんだろうか。
どのぐらいの資料が新発見なんだろう。
記事では乃木希典の名前が出ていますが、なんでも乃木大将が自害する直前に和歌を認めて寺内に贈っていたとのこと。
ニュースに出ていた写真はその和歌でした。

今回発見の史料は山口県立大学に寄贈されるそうです。
ちょっと調べてみたんですが、寺内正毅・寿一の父子2代で私設文庫ができる程の書物を蔵したようで、現在それを管理しているのが山口県立大。
同大のHPによると近世以来の寺内家の蔵書、正毅個人の蔵書および収集図書・資料・受贈図書などの和漢書、洋書、文書があるとのこと。
資料点数は約2万(!)。
それを思うと一番良さ気な所に移るのかな?
大学なら散逸しないだろうし…
どんなものがあるのかと思うけど、目録作るだけでも結構大変そう^^;


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寺内正毅は原敬の1代前の総理大臣になります。
大正7(1918)年の米騒動で内閣交代したのね。
長州閥、バリバリの山縣閥で、山縣閥と言えば桂太郎と寺内正毅。
山縣が後継者視していたのは桂ですが、桂は明治後期~大正初期に山縣と袂を分かちます。
政権運営の必要から桂自身が政党を作ろうとしたのが原因で、政党を敵視する山縣はこれに激怒した。
ちなみに桂が組織しようとした政党は立憲同志会となり、民政党の前々身になります。

同志会は桂の死後に立ち上がった政党ですが、この時の同党のトップに立ったのが加藤高明です。
加藤は元々政友会寄りの政治家でしたが、桂とも加藤とも仲の良かった山本権兵衛が「ちょっと手伝ってやってよ」と両者を仲介。
そうしたら紹介した山本が驚くほど桂と加藤は意気投合してしまった。
そういう話がある。

桂の死後は寺内正毅が後継者的な位置に立つ訳ですが、まあ…
この方は一介の武弁ってやつですな。長いこと陸相も務めていますが、そんな感じ。
えー、おいおい…というような話も随分…うん。随分ありますが、個人としては生真面目ないい人だったらしい。…らしい…


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内閣が成立した際につけられた内閣のあだ名?は「ビリケン内閣」。
寺内の顔かたちがビリケンさん(通天閣のあいつ)に似ていたからで、「非立憲」にもかけている。誰うま。
ついでに言えば加藤友三郎内閣は「残燭内閣」、米内光政内閣は「こめない内閣」と呼ばれた。
こっちは中々手酷い。

山口市のお土産に「銘菓舌鼓」というお菓子がありますが、寺内がちょっと関係しています。

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写真横になっててごめん…^^;
元々『舌鼓』だったけれど、食べた寺内があまりのおいしさに「銘菓にしたらいいのに」と言った所名前が『銘菓舌鼓』になった。
これ、山口市でしか買えなかったんだよなー
新幹線でも買えたらしいんだけど、今はどうなんだろう。
おいしくて、家へのお土産用と自分用を購入。毎日旅館で食べてた。笑。

***

立寄ったセブンイレブンで巻き寿司の試食を渡されてびっくりしました。
お金払う時にレジでお寿司と割り箸を渡された。ここで食べるの?今ここで?^^;
クリスマス前にはケーキの試食も渡されたんですが、なんか最近のコンビニ色々とすごいよね…
クリスマスケーキとかお節の予約どうですかーって近所の家を一軒一軒店員さんが回っててちょっとびっくりしました。
でもクリスマスのケーキはケーキ屋で買いたい。
お節もお寿司も家で作るし。
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乃木希典殉死の検案書発見(青森)

久々に歴史関連のニュースです。近代。
ビックネームの中でも乃木希典はコンスタントに話題を提供してくれますな…
「○○発見」というネタでは定期的とも言っていい程だよ^^; 


平内で乃木大将殉死の検案書発見 (東奥日報 2014/1/5) 別窓


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乃木希典の遺体を検視した警察医の報告書「乃木将軍及同夫人死体検案始末」の写しとみられる文書が、佐々木多門(平内出身の銀行家・経済学者)の生家に残されていたことが判明。

乃木の検視報告書は当時の政府・軍部が伏せてしまい、原本の存在は今も明らかになっていないそうです。
原本の写しや出版物が国会図書館や東京の乃木神社に数点現存しているのみ。
今回発見の文書には従来の写しにはなかった内容が含まれていて、乃木希典の研究者ら曰く、
「状況をより正確に記録した貴重な資料」
とのこと。

結構長い文です。上記リンクからどうぞ。
発表媒体が新聞社で発表から既に10日経っているので、興味がある人は早めに確認した方がいいと思います。

***

平内って青森県だよなあ。東京からこれまた随分遠い所で見つかったもんだ。
で、佐々木多門って誰なんだろう…
このニュースを読むと床次竹二郎の顧問だったり、一戸兵衛(青森出身)と親しかったらしく、そうなら結構社会的地位があった人なんだろう。
…と思って手元にある辞典を捲ってみたのだけれど載っていない。
本の返却ついでに図書館で近現代人名事典と国史大辞典を捲ってみたのですが載ってない。
ウィキペディアを見たら載ってた。

その情報によるとこの方、高橋是清と床次竹二郎の懐刀であったようです。
え?
何言ってんのかよく分かんないwww (※高橋と床次は政敵)
生年は慶応2(1866)年で、広瀬武夫や秋山真之より2歳年上。
明治14(1881)年頃は東京の共立(きょうりゅう)学校に通っていたとのこと。へー。
共立学校は『坂の上の雲』でも出ていましたが、秋山真之や正岡子規が高橋是清から英語を学んだ学校です。
もう2・3年遅かったら同窓だった訳だ。
どうやら英語の達人だったようで、そこからつらつら書かれていた経歴はすごかった。

とはいえ、ウィキなので、他に何か紙ベースでの確認がしたい所である。
今まで何度か書いてきましたが、ウィキを鵜呑みにしてはなりませぬ。正しい項目も沢山あるだろうけど。
最近では原敬の項目で間違いを見つけたよ…
原の養嗣子の貢さんが原の「実の甥」になってた。
試しにリンクが張ってあった貢さんの項目を見たら、こっちもやっぱり「甥」、そしてご丁寧にも「姉妹の子」という表記が。
いやいやいやいや…どこから出て来たんだよそれ(笑)
兄の娘の次男だよ!(笑) 
つまり姪の子だ。
だから貢さんから見たら原敬は叔父じゃなくて、大叔父(じいちゃんの弟)になる。
貢さん、養嗣子になる前は原の事を「おじさん」って呼んでいたから、紛らわしかったんだろうとは思うけど…

そう言えば、加藤高明の項目でもそういうのがあった。
加藤は元々「総吉(ふさきち)」と言ったんですが、「そうきち」って振り仮名が振ってあった。
別に書く必要ないのに書いた上間違ってるって一体……^^; 
先入観だろうなあ…
今はどうなってるのか知らんけど。
ついでに言えば加藤総吉君のあだ名は「ふーさん」でした。

加藤高明は広瀬武夫の嫂春江の従兄だということは以前書きました。
この春江の父が加藤の優秀さに目を付けて、愛知から東京へと引っ張り出した。
特に英語は愛知で教えられる人がいない位よく出来たみたい。
加藤は当時祖父母と暮らしていましたが、その祖父母と実父を春江の父は随分説得したらしい。
勿体ないって。東京で勉強させてやれって。
上京してからは安井家(春江の実家)に下宿したり、家を出ても休み毎に遊びに行ったりしていたそうで、若い時分は恐らく春江女子とも随分交流があったはずです。
年が離れているので、「お兄様」的ポジションだったと思うけど。
加藤に改名を勧めたのもこの春江の父で、恐らく加藤はこの安井氏には足を向けて寝られなかったと思う。

ウィキぺディア、本当に便利だけど、自分での確認は怠れない。

***

カテゴリーに新しく「スクラップノート」を追加しました。
前ブログで「管理」としていたカテゴリーですが、名称を変えてみた。
歴史関連の新聞記事・ニュース、自分用ウェブ上スクラップノートということで非公開にしています。
タイトルは全員が閲覧可ですが、内容は管理人オンリーですので悪しからず。
fc2は前ブログみたいにカテゴリーそのものを隠すということが出来ないみたい。
不格好だ…orz
この記事読みたいパスワード教えて、というご要望には応えかねますのでご了承ください。
ごめんね。
ネットで見られる記事にはリンクを張りますが、早ければ数日で元記事は消えていきます。
気になる内容は早めの確認が大事。

もうひとつ、(私的に)めっちゃすごいニュースをついさっき見つけたよ!
これは明日書きます!
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余滴(2) 軍縮会議をめぐる人々

軍縮会議の辺りで省いた話。

●幣原喜重郎 

http://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/sidehara.jpg しでっち

幣原喜重郎、ユーモア溢れる人であったことでも知られている。
連載中引用した文章は短いけれど、そこはかとなくそういう感じが流れているのは分かる。

ものすごく英語が堪能で、そりゃ外交官だから当然だけど、外交官の中でも頭ひとつ抜けていた。
ワシントン海軍軍縮会議時、駐米大使であった幣原の部下であった石射猪太郎(当時書記官)の回顧録によると、若い書記官の間で先輩を評するのに、

 鬼に金棒 … 外交官の力量を十分に持ち、しかも外国語に達している
 金棒を持たぬ鬼 … 力量はあるが、外国語がつたない
 鬼の留守な金棒 … 外国語以外取り柄がない

としていたけれど、幣原は掛け値なく「鬼に金棒」で、その英語は国宝級だったとか。
下僚があれこれの書類(英文)を出しても、跡形もなく修正されて、こんなに直すなら初めから大使が作ればいいのに!と陰で不満をこぼされる^^;
同じようなことで吉田茂がお冠だったというのをどこかで見た事がある。


幣原は石射との間に面白い話があります。
石射書記官が幣原大使のお供で夜行列車でボルティモアに行った時の話。

夜行列車で夕食後、寝るにはまだまだ間があるので、大使と雑談でも暇をつぶすものだと思っていたら、
やおら大使が立ち上がり、コンパートメントの窓のブラインドを下ろしてしまった。
そして石射にもドアをロックしろと。

「食事したばかりで寝るにはまだ早いのに…戸を締め切ってどうするのだろう」
とハテナを飛ばしつつ、石射は言われたとおりにロックする。

そうしたらニヤニヤしながら近づいてくる幣原大使。
え、何…と引き攣る石射くん。

何かをするのかと思えば、幣原大使は鞄に仕舞っていたウイスキーを取り出したのでした。
当時アメリカは希代の悪法、禁酒法時代でね、見られるのはまずいということだったらしい。 
なーんだ。何かされるのかとドキドキしたよ!^^;
ただこの時のことを石射は幣原にからかい倒されていて、曰く、

「コンパートメントを締め切った時の君の不安気な表情ったらなかったね。
僕がウィスキーの瓶を取りだした時の君の表情は、やっと安心したって言うものだったよ。
君は僕からソドミーを狙われたと思って心配したに違いない。
君のうぬぼれには呆れた


幣w原ww このいけずwww
ソドミーが分からん人は自分で調べてなー(笑)
なんでこんなネタばっかり引っ掛るのか自分でも不思議なんだよ(笑)

そう言えば、幣原の奥さんは岩崎弥太郎の娘なんである。
と言うことは岩崎の長女を妻にした加藤高明の義弟と言うことで、更に加藤の従妹を妻にした広瀬勝比古とも婚姻関係を通してちょっと遠い親戚と言うことになる。
広瀬武夫、結構遠い所まで繋がっていく。
てか、岩崎家と繋がってるというあたりがね、もうね…


*『外交官の一生』 石射猪太郎/中公文庫/2007


●カトカン日記

ワシントン海軍軍縮会議時の加藤寛治の日記は、『続・現代史資料5 海軍』(伊藤隆他編/みすず書房/1994)に収録されています。
というか、題がすごく分かりにくいんだけど、この本は加藤寛治日記と加藤寛治文書なんだよね…
もう少し題名のつけ方を考えて欲しい。

この日記、海軍さんらしく日本語と英語が入り混じっているのだけれど、W海軍軍縮会議の時はそれが甚だしい。
で、所々の日本語をピックアップしていくと、
大正11年1月1日か2日だったと思うけど、「大臣大いに歌う」っていう記述がある。
大臣は勿論海軍大臣加藤友三郎のこと。
えー友さん歌ったのか。大いに歌ったのか。何歌ったの。想像出来ん(笑)
で、さらにその数日後、「大臣の顔色very bad」
この書き方に思わず笑ったのだけど、いや…それカトカン、あんたのせいじゃないのか…


●孫

なんでーこんなーにーかわいいのかよー

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140112_2.jpg http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140112.jpg

いい写真だと思う。特に加藤寛治。
斎藤実の方はブランコを押してあげている写真もある。あれもいい^^


***


『山梨遺芳録』より のシリーズはこれにておしまい。
と言うことで、ブログ移転記念もこれにて終了。

頑張ったよ!(自分で言う)
楽しかったのはもしかしたら私だけじゃ…という気がしないでもない^^;
どちらかと言うとブログよりもサイト向きだなーと思いながら書いてました。
多分特段手直しもせずそのままサイトに載ります。笑。
長いし、携帯・スマホから御覧頂いていた方にはさぞかし読みにくかっただろうと思いますが、その辺りはご容赦。
お楽しみいただけたなら幸いです。

ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました!

***


fc2ブログ、携帯とスマホ用テンプレートも設定できる。
どうせならと選んでみたんですが、実際にご利用の方はどんな感じなんでしょう。
いや、私PCでしかネットはしないもので…
個人的にシンプルで明るめが好きなので、どちらもそんな感じのテンプレートを選びました。
携帯の方は以前と対して変わらないと思うのですが、スマホの方はカテゴリーの親しか表示されてないようだったのでさっき変更した。
使い勝手?が良い感じだったら良いんですが。

あとこちらに移ってから備え付けの拍手に変えましたが、間に広告が入るため、コメント欄が結構下の方に…
分かり辛いorz
ちょっと使い辛いという感じでしたら、今まで使っていたWeb拍手もサイドバーに貼り付けていますので、そちらも利用下さい。
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