Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(18)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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続き。

昭和5(1930)年、ロンドン海軍軍縮会議の影響で、喧嘩両成敗的に海軍省と軍令部の首脳が更迭となりました。
しかし当時軍務局長であった堀悌吉はすぐには更迭されず、暫くその職にとどまっています。
海軍大臣も次官も変わってしまって、軍務局長まで変わると、海軍省の中枢ラインが短期間に全員交代となってしまうので、業務に支障が出ると見られたんじゃないかな。
まあ軍務局長級では直接動いてどうこう、という地位ではないので、それも大きかっただろう。


堀が異動となったのは翌昭和6(1931)年12月1日。
12月1日かー。これは定例の人事異動かな。
転出先は第3戦隊、その司令官(旗艦那珂に坐乗、旗下に阿武隈と由良)。
異動直後の昭和7(1932)年1月には上海事件が起こっており、その関係で編成された第3艦隊(司令官は野村吉三郎)に編入、上海に派遣されています。
同年11月には第1戦隊の司令官に転補。
比較的閑職であったそうで、この時は病気で入院といったこともあり激務回避の意味もあったのでは、というのが堀の推測。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_08240237.jpg


そして翌昭和8(1933)年11月15日、中将に進級した後軍令部出仕。
そこで8か月ほったらかしにされた後、昭和9年7月に鎮海要港部司令官代理として朝鮮に赴任しています。


普通に見てかなり異常な異動です。
異動の間の軍令部出仕というのは大体1ヶ月になります。
準備だったり調整だったりの期間で、8か月という期間は本人からすると待命に等しかったと推察します。
しかも異動先が鎮海要港部。
その上司令官代理…
新任中将を持ってくる場所ではありません。

鎮海要港部司令官は一般的には馘首一歩手前、ここを最後に予備役に編入されるという役職です(米内光政はクビにはならんかったけど、この人はまあ特殊なので)。
日露戦争頃の舞鶴鎮守府長官みたいな感じ。
こんなんね、海軍としてもう堀を使う気はないって言ってるのとおんなじです。


この頃になると、堀も大体自分の運命を分かっていたようです。
本人でなくても海軍にいる人や海軍の事をある程度知っている人なら分かるわな。

しかもこの頃、もう大角人事が始まっています。
昭和8(1933)年3月に山梨勝之進、9月に谷口尚真、小林躋造が予備役入り。
昭和9(1934)年3月に左近司政三、寺島健が予備役入り。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141212.jpg


いずれも軍縮に貢献したり、軍政畑と関わりが深かったり、満州事変の際に軍拡に反対したり、軍令部の権限拡大に反対したり、の方々になります。
要するに軍令部とは相対していた人たちで、所謂条約派と言われる将官。
彼等が次々と予備役入りしていく中での、クビ一歩手前のポストへの堀の転出。


この時堀の事を一番心配したのが山本五十六だと思われます。
山本は第2次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉のために日本を発ちますが、その直前に伏見宮軍令部総長に直訴している。(昭和9年9月)
大角海相、軍令部第1部長・嶋田繁太郎(同期)にも同様の話をしていたようです。
曰く、

同期の堀と塩沢幸一についてはとかく誤伝が多い、それに惑わされず人事の公正を求める、

というもの。
山本は伏見宮から了解の言質を取り安心して出発したのですが、結果として反故にされた。


第3戦隊司令官に転補されて以降、堀に対する非難・批判・誹謗は酷かったようです。
軍艦を動かせば”その動かし方が弱腰だ”。
トラブルを避ける為に取った処置は”周章狼狽倉皇として逃亡した”。
”海軍軍人にあるまじき卑怯の振る舞いだ”。
事あるごとに、事がなくても所謂艦隊派とされる人物が堀をいちいち論って非難する。

終いには軍令部総長伏見宮が、
「堀は実施部隊の指揮官には不適当」
なんてことを言い出すようになった。
余りに酷い中傷は家庭にまで届き、堀の妻が神経衰弱になっています。
堀が大分杵築に帰省した折に地元の子供にも悪いことを言われる程で、相当すごかったのだと思う。


大角人事の様相を中沢祐(海兵43期)が山梨勝之進より聞いています。
それが以下。
時期は昭和9(1934)年の初めごろだと思う。


大角海相のうしろから、いろいろ強い示唆や圧力がかかっているんだよ。
具体的にいえば、伏見宮殿下と東郷さんなのだ。
東郷元帥が海軍の最高人事に口出ししたことを、私は東郷さんの晩節のために惜しむ

(『四人の軍令部総長』より)


海軍の人事は海相の専任事項なのですが、昭和8(1933)年の省部事務互渉規定改定以降それが変わってきます。
軍令部総長への相談・了解が慣例となってしまった(明文化はされず)。

省部事務互渉規定というのはあれだ。
実は既に話が出てきている。
大正4(1915)年、佐藤鉄太郎が軍令部次長であった時、部長島村速雄の留守中に軍令部の権限強化を画策して左遷された話を書きました。
この話なんですよ。
この話の続きなんです。
佐藤が実現しようとして失敗したことが、昭和8年に実現した。

互渉規定改定を高橋三吉軍令部次長が推し進めたのはよく知られていますが、
「自分がいるうちでないとできないだろうから、どんどんやれ」
と督励したのが、当時軍令部長であった伏見宮になります。

皇族の権威を背景に海軍省を圧迫して改正させた。(井上成美が南雲忠一に脅されたのはこの時の事)
そして海軍軍令部が軍令部、軍令部長が軍令部総長と改まったのも互渉規定改定以降になります。
(軍令部軍令部と書いていますが、昭和8年迄軍令部の正式名称は海軍軍令部です)

堀本人の話によると加藤寛治も非道い中傷をし、また伏見宮に吹き込んでいたようです。
一例に曰く、

山下源太郎未亡人が某海軍軍人と怪しい仲という怪投書があったがその犯人は堀だろう。
(仲人四竈孝輔からの直話による)

加藤……(;△;
私ね、加藤は日露戦争頃までは結構好きなんです。
ひとえに広瀬武夫との関係で(というかそれしかねえ)。
良い所も結構ある人物だけれど、でもこれはあかん…

ただ加藤とみていると、末次信正に上手く利用されただけの側面が強く(それだけでもないようだけど)、
加藤の四天王といわれた加藤三吉らにしても上にいたのが偶々加藤だっただけ、という感じの様で、
事終わってしまうと人が寄りつかず、晩年は寂しい感じだったという話があります。


堀が書き記したこの頃の海軍の内情を見ると、本当に心が暗澹とします。(『堀悌吉』所収「海軍現役ヲ離ルル迄」)
明治期でも人間絡みの暗い話は色々あったと思うけど、ちょっと次元が違ってきてる感がある。
これが私の好きな海軍だとは思いたくないorz


堀が予備役入りとなったのは昭和9(1934)年12月。
当時ロンドンにいた山本五十六が、書記官榎本重治より夢に堀悌吉が出てきたと聞かされて、

「堀がやられた」

と直感したという有名なエピソードがあります。
また山本は『大海軍を想う』の伊藤正徳(当時時事通信の特派員)に

「堀を失ったのと大型巡洋艦の1割と、どちらが大切なのか」
「海軍の大馬鹿人事だ」

という事も述べている。


出発前相当の直言を総長にも大臣にも申し述べ
大体安心して出発せるに事茲に至りしは誠に心外に不堪、
坂野の件等を併せ考ふるに海軍の前途は真に寒心の至なり

如此人事が行はるゝ今日の海軍に対し之が救済の為め努力するも到底六かしと思はる、
矢張山梨さんがいはれし如く
海軍自体の慢心に斃るゝの悲境に一旦陥りたる後、
立直すの外なきにあらざるやを思はしむ

爾来会商に対する張り合いも抜け身を殺しても海軍の為なとと云ふ意気込はなくなってしまった
<以下略>

(昭和9年12月9日 堀悌吉宛山本五十六書簡 『堀悌吉』「海軍現役ヲ離ルル迄」より)


堀悌吉
(下部の写真が引用書簡)


堀の運命を聞いた山本は酷く気落ちして、海軍を辞めてしまおうとまで思ったようです。
しかしそんな山本を励まし、
「貴様まで海軍を辞めてどうする」
と強く慰留したのが堀でした。



現役を退いて後、堀は山本や古賀峯一といった海軍関係者たち(というか実質海軍)の斡旋で、海軍関連の軍事産業の会社に就職します。
日本飛行機や浦賀船渠(浦賀ドッグ)の社長を務め、他にも幾らかの企業に関わっている。

そして実業界に身を置いたまま、昭和12年日中戦争、15年日独伊三国軍事同盟、16年日米開戦。
昭和18年には山本と古賀のふたりの親友の戦死を立て続けに見、昭和20年の敗戦を迎えることになりました。

自分を疎んで追い出した海軍。
その古巣を複雑な思いを抱いて支えながら、国が急速に戦争に傾斜し、また敗戦に向かっていく様を見て、堀はどう感じていたんでしょうねえ…


開戦時の海相であった嶋田繁太郎(同期)の回想があります。
(『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(1)』、昭和42年の言)


開戦前の時期に堀などが海軍大臣として在任したとすれば、もっと適切に時局を処理したのではないかと思う


言っても詮無きことですが、戦前の昭和はあの時ああなら、この時こうならと思うポイントが多すぎる。
ロンドン海軍軍縮会議とそれを巡って起こった紛糾は、戦前期のひとつの大きな転換点だと思います。
海軍にとっても、国家全体にとっても。


最後に堀自身の言葉を。


今日から遡って当時を追憶し

「若しあの時、自分が尚、責任を頒ち得る立場に居たとしたならば、
或いは身命の危険に曝される様な場面があったかもしれないが、
三国同盟反対でも、時局収拾に関してでも、何かもっとしっかりした貢献が出来たのではなからうか、
たとへ天下の大勢既に決し、如何ともする事が出来なかった事由があったとするも、
何等かの形に於て、何等かの方向に自分の力を致す事が出来なかったものであらうか」

との様な考が浮ぶのを禁ずる事が出来ない。
是等の点は悔恨の念が永久に消え去らずに、何処にか心の奥底に潜む所以である。

「あなたは早く海軍をやめて置いてよかったな」

と云はれる時、それが全く善意の慰安の言葉である事は分かり切って居ても、
吾が心の奥底に存在する過去の恨が蘇へり動き出して、

「それはそうだとも」

と自分が合槌を打って謝辞を述ぶる時に、自ら自己を詐って居る様な気がしてならないのは、
以上に述べた様な所のものが、脳裏に存在するからであらう。

しかしこれは過去に対する未練でもなく、又勿論現在に対する自己満足でもない。
唯だ過ぎ去った時代に対する淡い思ひ出の副産物にすぎないとも云へよう。


(『堀悌吉』 「自伝」より)


この連載の初めの頃、堀の海軍軍人としての志がどんなものであったかを何度か書きました。
曰く、


身を海軍において、国家を外敵より防衛し、
国内安泰維持、民族平和的発展及び人文増進に貢献出来得る様に
努力する事を天職として心得て行かうと決心したのである。 
(同上)


本当にこの人が海軍の要路に残っていたらと思わざるを得ない。


***


ということで、半分以上が軍縮会議で占められた(ごめん)堀悌吉の話はこれでおしまいです。
18回という自分でもちょっとびっくりの長さになってしまいましたが、ここまで読んで下さった方には(そんなにいる様に思えない…笑)、お礼申し上げます。
というか、間が空き過ぎて「何の話だったっけ?」になってしまって申し訳ない。
書いてる人間でさえ忘れかけてるっちゅうね。どうなのよそれっちゅうね…orz

個人的には、いつかは話の展開から書かないといけないハメに陥るんだろうなあと思いつつかすりながらも何年も巧妙に避け続けてきたロンドン海軍軍縮会議の話(長い)を書けて良かったです。
これから「以前書いたからそれ読んで」って言える。笑

あとこれもいつかはと思っていた私涙目(…)の財部彪の話、軍縮の後で進んでいたリストラの話が書けて満足です。
財部に関しては批判はされるけれどその背景に触れられることはほぼないし(まず批判ありきっぽい)、日露戦争時代に活躍した将官たちがリストラにあっていたこともまず言われない。 
このふたつの話は、あんまり触れられることがないように思うんです。
というか一般書レベルでは私は見たことないわー
寄り道の多い連載でしたが、そういう話も書けて良かったかなと思う。

堀の話はこれで終わりですが、あと1回だけ余滴として。
まあおまけです、おまけ。

という訳で続きます。笑




今日は滅茶苦茶寒かったですね。
私の住むあたりでも明日の天気予報で雪マークが出てるー(棒)
…。……。…………。
12月に雪(マーク)とか。
いやあ1月2月でも雪降るとか、特に近年は滅多にないのでちょっと驚き。
明日は雪の進軍なのか。
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パラべラム~堀悌吉(14)

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この話は19回シリーズです。
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ロンドン海軍軍縮会議をめぐる話は、大きく3段階に分けられる。

今までの話① ロンドン。日英米の交渉で妥協案成立、全権が政府にこれでいいかと連絡(請訓)
今までの話② 国内。回訓案を廻り 政府と海軍、海軍部内での紛糾
今からの話  議会紛糾、統帥権干犯論争。政友会と軍令部系軍人、東郷平八郎を中心とする軍人が結託


・昭和5(1930)年4月1日に回訓案が閣議で可決、その日の内にロンドンへ打電
・東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王 → 政府が決めた以上あれこれ言う筋合いにない
・加藤寛治軍令部長、末次信正次長 → 回訓後もまだ不満を口にし行動 → 浜口激おこ → 部内処理で一応解決





日本での回訓を廻る散々なすったもんだが一段落した後、4月22日、ロンドンでは条約調印の運びとなりました。
まだ国内で批准しないといけないけれど、とりあえずは一段落。

条約調印の3日後に総選挙後の特別議会(第58議会)が開かれ、貴族院衆議院に於いて幣原喜重郎外相が条約の経過について演説をしています。
大体の内容


・補助艦保有量は全体から見ると減ったが、我が国本来の要求と殆ど差異なし
・潜水艦保有量は主張していた保有量より相当縮小したが、英米2国との均衡は保たれる
・国防の安全は十分に保障されている





このあほー!!
なんて事言うんだ幣原ーー!!!

元々外交官とは思えないこの政治センスの無さ。


沸騰した鍋に漸く蓋をした直後、その時にこういう事を部外の、それも海軍を抑えた側の人間が言ったらどうなるか。
収まらぬ腹を収めた海軍がどう思うか。
それを慮る位の配慮がないのか。
いくらなんでも無神経すぎます。

ただね、この演説、海軍を全くスルーしていた訳ではありません。
幣原外相、吉田茂外務次官やその他の人々、山梨勝之進次官が集まった時に、演説の草稿だといって示されている。
その中に海軍としては不都合な字句があり、その場で気付いた幾らかを修正した。

海軍側はもう一度草案を熟読する機会を与えられると思っていたのだけれど、幣原はこれで海軍は了承したと考え、いきなり貴族院で演説してしまった。
山梨「えっ」
このコミュニケーションの(以下ry 
これにはまだ反対だと言い募る軍令部に加え、政府の方針に従えと言っていた伏見宮博恭王がブチ切れました…
あーあ…



4月下旬に帝国議会が始まると、最大野党政友会が政府攻撃を始めます。

【9】で書いたように、軍令部の同意を得ずに政府が条約調印したのは統帥権の干犯だと言い始めた。
政府と海軍とのごたごたを見て、倒閣に乗じるいい機会だと捉えたのが政友会の幹事長、森恪(つとむ)。
ちなみに森は瓜生外吉海軍大将の娘婿です。


森恪


回訓で既に決着した兵力量問題を統帥権干犯問題へとすり替え、政治問題化したのがこの人物になります。
その森の話に乗り、議会で政友会を非難したのが犬養毅であり、鳩山一郎だと以前触れました。
そして軍令部もまたこの統帥権干犯問題へのすり替えに乗った。

議会閉会後に財部彪海相が帰国するのですが、その頃には加藤寛治が統帥権干犯で上奏したいと頻繁に主張しています。
国防に不安がある旨の言質を引き出すために頻りに政友会幹部が岡田啓介を訪問したり、
加藤寛治の帷幄上奏を森恪が事前に知っていたりと、この頃軍令部と政友会は確実に繋がっていました。

そしてややこしい統帥権論争が、更にややこしくなったのが5月中下旬の財部彪の帰国。
世間一般的には軍縮が望まれていましたので、財部の帰国は熱狂的に歓迎されました。

が、条約反対派がどうであったかは推して知るべし。
彼らが財部海相を批難の的にするのは当然と言えば当然でした。
この動きに反財部勢力が加わっています。



財部は山本権兵衛の娘婿である点から海軍薩派の後継的立場にいるように見られますが、実際はそこまでの力はない。
シーメンス事件で引退させられた山本の後ろ盾がありそうなものですが、山本はそういうことはしない。
この軍縮会議の際、紛糾しているから助けて欲しいと他から頼まれても、
「その立場にない」
一蹴である。
いつに限らず本当にそういう人なんである。
後の結果を知っているだけに、この時ばかりはその潔さに泣けてくる。

財部彪を支持していたのが山本権兵衛ではないとすると、海軍における財部の支持者(支持基盤)は誰かという話になります。
それが東郷平八郎なんです。
東郷元帥なんですよ。
だから困るんだよ。



財部の前任海軍大臣は加藤友三郎でした。
加藤はね、今まで何度か触れてきましたが熟考果断、深謀遠慮、
加藤寛治が大臣の首を挿げ替えようと人に持ちかけたことがある程の独断専行ぶりであったけれど、
頭脳の明晰さと半端ない腹の据わり方で海軍省内を掌握、
日露戦争時の連合艦隊参謀長であったという敬意を払われる経歴もあり、
ワンマンながら海軍のカリスマでした。
冷静だけれど、中身は大分熱い人だったようで、人望もあったようです。


https://blog-imgs-49-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/rengoukantai.jpg


加藤友三郎と言えば、小説から日露戦争時の参謀長であったというイメージが一般的には強いと思います。
が、実際には海軍省での勤務が長い人でね、明治20年代~日露戦争前に7・8年軍務局に勤務している。
日露戦争後は軍務局長、海軍次官を合わせて3・4年、大正4(1915)年からは8年海相(現職総理兼海相として死去)を勤めていて、艦隊勤務より陸上勤務の方が長いと思う。
海軍軍人としては絵に描いたようなエリートコース、軍政(と軍政実務)のまさにエキスパート。

この加藤の時代に海軍省や軍令部といった海軍中央官衙に中堅が育つんですよ。
それが加藤の支持層になっている。
それにこの人は井上良馨や東郷平八郎といった元帥を含む先輩や島村速雄といった同期同僚らからの信頼も厚い。
ワンマンなので、やっぱり反発はある。
あるけれど、ほぼオールラウンドに支持者がいる。


続く





なんだか急に寒くなってきました。
まだ9月だというのに厚手の毛布出してきた。
去年は10月でも暑かった記憶があるのだけど。
今年は本当に変な気候ですねえ…
天保の大飢饉かよ、と密かに突っ込んだり(※夏が来なかった)
体調を崩されないよう皆さんもお気を付け下さい。
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パラべラム~堀悌吉(13)

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・昭和5(1930)年4月1日に回訓案が閣議で可決、その日の内にロンドンへ打電
・東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王 → 政府が決めた以上あれこれ言う筋合いにない


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131226142448ebf.jpg


これで円満解決かと思いきや、まだ加藤寛治は不満たらたらで「上奏したい」の一点張り。
上奏して昭和天皇に何を言うかの想像は大体出来るわけですよ^^;
勿論条約反対の事だろうと条約賛成派の人は思う訳で、回訓決定以前にも上奏は何度か阻止されている訳です。
加藤の邪魔をしていたのが岡田啓介軍事参議官であったり、鈴木貫太郎侍従長であったり。

ただ回訓打電の翌日は上奏が許可されている。
その時は露骨な反対上奏ではなく、心配していた周囲もややほっとした…

のも束の間。


同日、末次信正軍令部次長が黒潮会(海軍の記者クラブ)に不穏の文章を発表しようとし、それを察知した海軍省側に未然に抑えられるという事件が起こっています。
浜口雄幸首相がこの事を知り、海軍政務次官と末次を招致して回訓に関して諒解を求めた上、綱紀粛正の点から注意するという事態に陥った。
その時は末次も反省の辞を述べたのですが。

会見後の記者会見で、政府を批判。
しかもその3日後、参議院内での講演で再度軍縮批判をぶち上げた。


浜口怒り心頭。



軍令部、特に末次は請訓が届いた直後に新聞紙上に独断で「海軍反対」と発表した前科があります。(【10】
注意して、反省したと思ったらその舌の根も乾かない内にこれだよ!
そらそうだ。反省なんかしてないもん…

軍人は政治不関与という決まりがあります。
思うだけならまだしも、新聞紙上や公式の場で政府の反対意見を発表する等もっての外。
しかも政府が既に決定してしまったことに対してです。
それに海軍首脳で回訓案を検討して政府に返した時、加藤も末次も何も言わなかったよね。(【12】

誰がどう見てもこれは軍人としての規を超えている。


これは政府内で大きな問題になりまして、最終的に岡田の方にあいつどうにかしろと話が行っています。
浜口より話を聞かされた山梨が、首相は末次を次長の地位から引かせるべく何らかの手段をとるかもしれない、と岡田に言う程だったので、浜口の怒りは相当大きなものだったと思われます。
ただ山梨次官の根回しで、この時は部内限りの処分ということになり、軍令部長よりの戒告ということで決着となった。(4月中旬)
しかしこの約2ヶ月の6月、末次は次長更迭となっています。


末次信正、伏見宮、東郷平八郎


条約反対派の領袖は立場から言っても加藤寛治でしたが、実際に加藤を操っていたのは末次信正であったと言われています。
思えばワシントン会議の頃からそうでした…
岡田などが加藤を説得し、納得させても、軍令部に行って戻ってきたらもう話が変わっている。
そういうことが再三だった。


加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


条約を纏めたい方からすると、まさにこんな感じだったかと。(※)
この事については、堀悌吉も「海軍現役ヲ離ルル迄」(昭和20年3月執筆。『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)所収)に記しています。
ちょっと長いけど、堀さん出てくるの久しぶり(…)なので引用する。


自分の軍務局長時代は所謂倫敦会議時代だが、時の次官は又山梨中将であつた。
末次中将は軍令部長加藤寛治大将の下に次長として帷幄の府に立て籠り、策謀を事として居た。

即ち此の機会に於て宿敵山梨氏を首めとし左近司(土原註:政三)氏等をも一挙に蹴落とさんとし、
同時に末次の周辺には志を同じうする者共の一派が集まって来て居た。
凡ての騒乱変動は殆んど此の点より出発して居る。

陋劣陰険の奸手段を用ゐて新聞記者を買収し、
御調子者で芝居気の多い加藤大将を煽動して風無き所に波瀾を起し、
東郷元帥や殿下(土原註:伏見宮)を渦中に捲き入れ、
海軍先輩某々等の財部大臣に対する反感を利用して諸種の論議を醸成せしめ、
之を政治上の駈引きの種として政党に売り込み、
所謂統帥権問題と謂ふ様なものを拵へ上げて国中を騒がせ、
後日国家の大患を来すべき悟る能はずして、唯だ自己等の立場を造り固めるに汲々として居た。

当時末次氏は鼻孔出血で時々休んだことがあるが、其の間に加藤軍令部長が納得して凡そ納まりかけて居た事情も、
末次次長が出勤すれば直ちに変更せられ紛擾を起すといふ如き事実は一再に止まらない。

自分等は彼等の斯う云ふ遣り方に悩まされ
而も彼等の勝手な捏造にかかる批難の的となって居た<略>


末次は元々軍令畑の人で、風采もよく弁も立ち、まさに名将然としており、
その上ワシントン会議以降の日本海軍の基本戦略であった対米邀撃漸減作戦の第一人者で、人を納得させる所が大きかった。
(末次がロンドン条約に頑強に反対したのはこの作戦に支障をきたすというのが理由にあったみたい)

以前紹介した小柳資料でもそういった言葉が散見されまして、下の人々からの評判はとても良かったそうです。
ただそういった言葉の後、ほぼ全部に「軍人の分を超えすぎた」という旨の一文が付いていた。



末次更迭は山梨勝之進も次官を辞めるからということで、交換条件的、喧嘩両成敗的に行われている。(同日)

山梨勝之進はそのまま行けば確実に海軍大臣になっていただろう逸材でした。
末次が、「山梨のような知恵のある人物にはかなわない」、山梨をそう評した事は、大分以前に書いたことがあります。
加藤、末次といった、いわゆる「艦隊派」と言われた一派から見ると、一番邪魔だったのが山梨だった。


山梨勝之進


部内の心ある人と同様に、こんな人事をする海軍に若槻礼次郎は随分思う所があったようです。
自伝『古風庵回顧録』に記述がある。


海軍部内を纏めるについて、次官の山梨勝之進などは、もつとも尽力した一人であつた。
しかし当時省内の要職にあつた人たちは、軍縮条約に同意したという理由かどうか判らんが、
後にみな外に出され、予備に廻され、海軍では用いられなかつた。<略>
軍縮会議に際して、内でその仕事をしたとか、向うへ行つて働いたとかいう理由で、
海軍がその人たちを冷遇したということを聞く私は、心中不愉快にたえなかつた。

一ぺん山梨に会つた。
私は山梨に対して、

あんたなどは、当たり前に行けば、連合艦隊の司令長官になるだろうし、海軍大臣にもなるべき人と思う。
それが予備になつて、今日のような境遇になろうとは、見て居て、実に堪えられん、

と云つた。
すると山梨は、

いや、私はちつとも遺憾と思つていない。
軍縮のような大問題は、犠牲なしには決まりません。
誰か犠牲者がなければならん。
自分がその犠牲になるつもりでやつたのですから、私が海軍の要職から退けられ、今日の境遇になつたことは、少しも怪しむべきではありません、

と云つた。


続きます


***

※註

本人曰く「俺は8割感情で行く男だ」の加藤寛治(18期クラスヘッド)が全くの単純で末次に操られていたのかと言われたら、どうもそうでもないようです。
【10】で当時艦政本部長であった小林躋造が、「妥協案位の割合なら国防もやりようがある」という旨の発言をしたと書きました。
そのことに対して小林は加藤から声を掛けられています。
曰く、

「貴様、あの席上であんな論をなすのは怪しからん、しかし、事実は貴様のいった通りだよ」


『岡田啓介』(岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)よりの引用ですが、同書には、万々承知の上での強硬論だった節がないでもない、とあります。
これ研究の余地があるんじゃないのと思う(メジャーな分野なので既にありそうだけど)と同時に、もしそうだったら余計タチ悪いよねっていう…

上記の引用、言われたのが小林ということで『海軍大将小林躋造覚書』を確認したのだけれど、それらしい言葉は見つからなかった。
見逃したかなー^^;
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パラべラム~堀悌吉(12)

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大好きな岩手県の雄安倍貞任の御命日です。
今日は前九年の役が終了した日ですな。(1062年)
そういえばこちらのブログに移ってから平安時代の話を書いた覚えがないなあと…^^;
気が向いた時にでもぼちぼち書いて行けたらという感じですか。
ちなみに安倍晋三首相は安倍貞任の弟宗任の子孫になります。すげー。

パラべラム、沢山の方に読んでいただいているようでありがとうございます。
いやー何だか怖くなってきた。笑。
言っときますけど学術研究等の参考にはなりませんぞ。
ここは個人の趣味のサイトですからな。為念。
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ロンドンからやって来た請訓に大反対!の軍令部。
そんな事は関係なく妥協案を受け入れるつもりの政府。
その間に挟まれる海軍省。

山梨勝之進次官が非公式軍事参議官会議の後、海軍の意見として「米国案の妥協は受諾できない」と浜口雄幸首相に伝えたのが昭和5(1930)3月24日。
浜口がそれに「政府は会議の成功を望んでおり、決裂させるようなことは無理」と返したのも同日です。

翌25日、海軍ではもう一度集まって会議したものの(岡田啓介軍事参議官、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長、小林躋造艦政本部長、山梨勝之進海軍次官、堀悌吉軍務局長)、纏まりがつかない。
その報告を山梨次官より受けた浜口首相の返事は、
「妥協はする、不退転の決意である」
やっぱり意見は変わらない。

更に3月27日に浜口は昭和天皇に拝謁していて、妥協に関する同意を得ているんですね。
天皇のゴーサインに勝る支援はなかったでしょう。


浜口雄幸 岡田啓介


浜口は拝謁後、加藤軍令部長と岡田と会見しています。
この頃には財部彪海相の意志が岡田や山梨次官にはっきり伝わっていたようで、岡田自身が堀軍務局長、古賀峯一高級副官に対して
「大臣の意志がはっきりした以上、省部協力して大臣の意のある所に動かざるを得ない」
と述べている。

その上浜口と会談し、昭和天皇に拝謁して浜口がその決意を更に固めたのを見ている訳です。
分かってはいたけど、妥協以外の道がないということは、一段とはっきり悟ったことでしょう。
その中で浜口に更に三大原則を説明し(7割必要)、更に閣議に出させろとゆする寛治。
なんたるつわもの(一蹴された)。


この頃、侍従長であった鈴木貫太郎も動いていました。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/suzuki.jpg


「何割ないと国を守れない」じゃなくて、「与えられた兵力で国防を考えるのが軍令部の役目」、そうした事を言っている。
実は鈴木、前職が軍令部長でした。
つまり加藤寛治の前任者で、余計に思う所があったのだと思う。
ただ、
「侍従長でなければ諫めることもできるのだけど」
との本人の言葉通り、天皇の側近という立場上何かしら目立って動くということはできません。

加藤寛治が会いに来て妥協不可を力説しても冷静にあしらって加藤を落胆させたり。
伏見宮に面会して、海軍巨頭会議での発言は余程注意を要す、皇族と言う立場と影響力を考えて欲しい、会議決裂の及ぼす影響は大きい、そういった事を言上している。
言上と言うか、釘刺しに近いと思う…


そういうことがあったからなのか、どうなのか。
岡田と山梨が「請訓を丸飲みする、但し政府には条件を付ける」と決め、
加藤は激しく元帥・軍事参議官会議(ほぼ妥協反対)を開くべき!上奏する!と主張していた頃(岡田に一蹴される)、
面会にやって来た岡田に伏見宮はこう言った。(3月28日)


①海軍の主張(7割)は正当なもの、回訓が出る迄は押すべし
②しかし政府が決めたら従うより他なし。2個師団増設問題のようにしてはならぬ。軍事参議官会議は開かぬ方がいい
③請訓通りになれば加藤は軍令部長を辞めるか?辞めさせぬ方がいい
出張で当分不在になるが、その間にもし参議官会議が開かれたら、適当な時期に発表してくれ
 (『岡田啓介』岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)

岡田と山梨大喜び。

もーそらー宮様のお墨付きですよ。
本当にホッとしたと思います。


 ※2個師団増設問題
  大正元年。陸相が帷幄上奏で単独辞任、陸軍が後任を出さなかった為内閣が成立せず倒壊した。
  陸軍が我が都合で倒閣させたと大問題に



岡田は加藤寛治を相手にする一方で、閣議に提出する兵力拡充案を山梨らに考えろ、としています。
これが上の「条件」で、米案の兵力量では配備に不足を感じるのでその補充が必要、軍縮で制限される分野と違う分野を補充してくれ、ということ。
その拡充案が閣議で承認され、その後に回訓案が出来上がります。
それが4月1日。

閣議に案を上程する前、浜口首相は岡田、加藤を呼び、回訓案の説明しています。
それに対し、
 岡田 政府が決定した以上、海軍は最高の方法を考えたい
 加藤 不満であり同意できない 
 山梨 案を海軍首脳に図る。閣議上程はそれから願います

海軍に回訓案を持ち帰り、上の3人、小林艦政本部長、野村吉三郎練習艦隊司令官、大角岑生横鎮長官、末次信正次長、堀悌吉軍務局長で会議。
幾らか修正した後閣議に回しました。
はい。この時加藤も末次もいるわけですが、異論は唱えていません。
軍令部も回訓案を了承した、とみなされた。

閣議においては外相が幾らか訂正を加えた後、問題なしと言うことで、浜口首相、幣原喜重郎外相、山梨次官の発言や説明の後、閣議は満場一致で回訓原案可決。

その日の内にロンドンに打電されました。
はー…ひと段落。


加藤寛治、東郷平八郎、岡田啓介


伏見宮は最終的には政府の決定従えとのことでしたが、もうひとりの海軍の大御所、東郷平八郎はどうだったのでしょう。
回訓が打電された日、山梨次官が経過・結果説明のために東郷元帥の元を訪れています。

山梨に向かって、東郷曰く


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず、
今更彼是申す筋合にあらず、
此の上は部内の統一に力め愉快なる気分にて上下和衷協同
内容の整備は勿論士気の振作訓練本来の使命に精進すること肝要
 (『岡田啓介』)


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず
今更彼是申す筋合にあらず



政府が回訓を決定した以上は、それでやらざるを得ない。
今更あれこれと言う筋合いのものではない。

これですよ。
宮様も東郷元帥も、政府が決めた以上は仕方ないと言ってるんです。
回訓案を承認した。

これがどうして大騒ぎになるのか。


続く


上の写真の解説。

2014_09150284.jpg 
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パラべラム~堀悌吉(11)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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岡田啓介(当時軍事参議官)は条約妥協に関する紛糾が始まってから声を掛けられたのではありません。

ロンドンで会議が始まる以前から、牧野伸顕内大臣から「会議決裂は困る」と洩らされたり(内府から=聞く方からしたら天皇の意向である)、
元老西園寺公望からも、海軍は荒れるだろうからその纏め役になって欲しい、と頼まれていました。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014913.jpg


岡田の軍縮に対する考え方は、


大体軍備というものはきりのないもので、どんなに軍縮をやったところでこれでいい、これでもう大丈夫だという、そんな軍備はありゃせん。
いくらやってもまだ足らん、まだ足らんというものだ。
<中略>

わたしは当時からいい意味での完全な軍縮は出来ん、きっと軍備の競争はなにかの形で残ると思っておった。
だから成るべく、ばかな、出来もせぬ争いをやめてしまって、争いを出来るだけ小さくしたほうがいい、と考えていたわけだ。

米英を相手に戦争すべからずという、そんな『べからず』じゃない。
戦うだけの支度が出来ればいいが、そんなことはいくらがんばっても国力の劣る日本には出来ない。
出来ないならば成るべく楽にしていたほうがいいというわけだ。
どっちも頭がおさえられておれば、こっちは、自然と対抗出来る別の方法も考えられるというものだ。
(『岡田啓介回顧録』 岡田啓介/毎日新聞社/1950)


こんな感じ。
「妥協丸飲みもやむなし」も海軍次官山梨勝之進に意見を問われた際の岡田の言葉になります。
そして、


ロンドン会議のまとめ役として、奔走するのに、わたしは出来るだけはげしい衝突を避けながらふんわりまとめてやろうと考えたものだ。
反対派に対しては、あるときは賛成しているかのように、なるほどとうなずきながら、まあうまくやってゆく。
軍縮派に対して、強硬めいた意見をいったりする。

要するに、みんな常識人なんだから、その常識がわたしの足がかりなんだ。
いくら激している人間にも常識的な一面はあるんだからね。そこを相手にする。
狂人だったら別だ。ただ逃げる、これがわたしの兵法だ。

加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


こんな感じで、岡田は山梨次官(とそれを支える堀悌吉軍務局長や古賀峯一高級副官)を支え、軍令部長加藤寛治、浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相、伏見宮・東郷平八郎の海軍大御所といった人々の間を駆け回った。



政府から請訓が示されたのが昭和5(1930)年3月15日。
それから約10日後の24日に非公式軍事参議官会議(伏見宮、東郷、岡田、加藤、末次、山梨、堀)が開かれまして、妥協可否についての海軍側の結論が出ます。

海軍「米国からの妥協案をそのまま受諾するのは無理」

…。
……… (^▽^)?
……この辺りなんとも理解しがたい…
階級的にも他と比べて力のない山梨と堀がいる程度では大勢に影響がなかったんだろう。


ただ前回書いたように浜口雄幸首相の肚は決まっていて、「妥協」の一択。
海軍の否に対し浜口は、

「妥協する。政府は会議の成功を望んでいる。会議決裂させるようなことは無理。再考しろ」


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149112.jpg


もうこの頃にはね、浜口、軍令部側に対する怒りを腹に据えかねていて、

外国との交渉案件に関し現役軍人が恣に自己の意見を喧伝するか如きは綱紀粛正の問題として別に処理する必要あり
(『浜口雄幸』(波多野勝/中公新書/1993)より引用)

浜口激おこ。
公文書でこういう言葉を残すってよっぽどです。
確かに加藤や末次はやり過ぎだ。


まず軍縮は軍が俎上に上るとはいえ外交問題であること、また経済的な観点から内政問題でもある。
そもそも兵力量なんて軍が独断で決められるもんじゃありません。
内政外交を鑑み、国力を総合、俯瞰して、政府が決めるものです。
7割じゃないと国防に責任が持てない、だから会議が決裂しても構わない?
それは軍令部が決める事じゃない。
国の向かう方向を決めるのは軍令機関ではなく政府です。

それを勝手に新聞紙上に「海軍は反対だ」とぶちまけ、
昭和天皇の側近に会っては反対だと言い(天皇に伝わることを期待している)、
帷幄上奏で昭和天皇に意見を申し上げたいと運動する(阻止される)。

そら浜口怒るで…
外相幣原喜重郎にしても、妥協択一で初めから肚が決まっており、海軍の意見を重視する気はあまりなかったみたい。


(※土原註:英米相手の会議を)思い切ってまとめるより仕方ない。
海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とてもまとまりゃせん。 
(『外交五十年』 幣原喜重郎/中公文庫/1986)


話聞く気ねえw


この頃、幣原は浜口と相談した上海軍抜きで回訓を作り始めていました。


この項の書き方だと、軍令部ばっかりが悪者、みたいな書き方ですが、中々そうとばかりも言えなくてですね…
あっちもこっちも、どうしてもうちょっとうまくできないのだろう、と後世の人間から見ると思うことばかりなんである。


海相不在で、浜口雄幸が海軍大臣臨時事務管理になっていることは何度か触れました。
この臨時事務管理になっている間、浜口は一度も海軍省に足を運んではいません。
軍事参議官らとも会っていないし、もちろん東郷平八郎などとも会ってない。

これ、海軍から見た時、どうでしょうね。
当時艦政本部長であった小林躋造の述懐があります。(昭和8年)


首相は海軍大臣事務管理を兼ぬるに至つても、一辺も海軍省に来たではなし、
又一度も東郷元帥や軍事参議官等と膝を交へて国事を談じた事もない。
海軍との連絡は日参夜参する山梨次官に一任して、顧みざる観がないでもなかつた。<略>
之を海軍の有象無象より見れば「彼奴増長してやがる」「傲慢だ」の感なきにしもあらずであつた。

浜口氏の周囲に居た連中が野人揃ひで、かゝる礼儀をも馬鹿馬鹿しいと考へたからでもあらうが、
若し浜口氏が努めて海軍の巨頭に会はれ、虚心坦懐に我国の当面せる内治外交上の困難を説明されたなら、
海軍巨頭も大に諒解されたでもあらふ。
  
 (『海軍大将小林躋造覚書』伊藤隆・野村實編/山川出版社/1981)


東郷平八郎と会って欲しいということは、山梨次官も浜口首相に何度か懇願していました。
しかし浜口は断った。

・元帥の事は尊敬しているし、元帥が「総理の考えはどうか」と尋ねてくれば、喜んで説明する
・しかし私は天皇陛下、国民、議会に対し全責任を負う立場の総理である
・私の方から進んで元帥に説明することはできない

そう言われてしまうと、山梨としてはもう二の句が継げない訳で。


それに日本とロンドンでのやり取りの電信、確か60数通あったそうですが、海軍に渡されたのはその内17通ほど。(※)
海軍としては自分たちの組織に関わる話で、しかも国家安危に関わる!と臨んでいるのに、政府が情報を独占して経過を教えてくれない。

流石にこれはどうよと思う。
幣原にしたって「海軍の連中に話を聞いたって」という態度で、海軍としては面白かろうはずがない。
馬鹿にしてるのかと立腹されても仕方ない。
というか山梨さん気の毒。



コミュニケーション不足がロンドン海軍軍縮会議の際に揉めた大きな原因と前に書きましたが、まさにそんな感じでしょ?
海軍に譲歩を望むなら、浜口ももう少し譲歩すべきだったんじゃないのと思ってしまう訳です…


続く

***

※訂正 9/15 高木惣吉の『自伝的日本海軍始末記』より

2月17日~3月12日までの全権電77件の中で、16通は全く海軍に見せず、
17通は浜口から山梨に天下り式に手渡された

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「≫続き」に拍手の御返事があります
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