Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

サイト更新(加藤友三郎銅像@広島市)

■サイト更新【 史跡:加藤友三郎銅像@広島市 】


すいません、財部君の事ばかりをしていて更新を忘れていました。笑
最近夜10時前頃には起きていられない程眠たくなることが多くて、眠気との戦いにもあっさり負けてしまう。

さて。
2か月程間が開いてしまいましたが、広島旅行の史跡関連の続きです。
今回は上記広島市に2006年に新しく建立された加藤友三郎銅像。
元々あった広島市の史跡ページ、①広島城(広島大本営跡)②加藤友三郎生誕地③加藤友三郎銅像跡地に新しく付け加える形で更新をしています。

呉と江田島を訪れた最後に広島に足を延ばしたため、本当に見学時間が少なかったのですよ。
駆け足で訪れたのは生誕地と今回更新分の銅像だけ。
ということで生誕地の項も写真を新しく加えた上で色々と書き加えましたので、宜しければご覧下さいませ。


新設の銅像は大きめの公園の中に建っていたのですが、タクシーの運転手さんに聞いても詳しい位置が分からず…
えええー時間ないのにーバスに乗り遅れるー(どんだけギリギリか
…と半ば諦めかけたその時、運ちゃん車内から道を歩いていたおばさんに場所を聞くという荒業に!
ナイスワーク!笑

「ああ、あのシルクハット」(※即答の返事)



(↑あのシルクハット)

地元の偉人なので名前も覚えてあげて。笑

そう言えば2・3週間程前に読売新聞でしたか、戦前比治山に建てられた銅像の除幕式の映像が見つかったというニュースが出ていました。
ご子孫様の家から出てきたそうです。
タイムリーね。


次の更新は江田島でいく予定。
海兵ページは今迄何度か原型が残る形で改訂してきましたが、今回もそんな形に…
自分で作ったものながら、全面的に変えてしまうのが内容的に少し難しい。うむー
まあしゃあない。
とは言え、新しい写真を増やして古い写真のサイズは若干大きめに、公式HP写真も出典を記せば利用OKになっていたのでそれもお借りした。
なのでまだ見やすいだろう(という言い訳)。

余り間を置かずに更新したいと思います。
関連記事

パラべラム~堀悌吉(余滴)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


『明治天皇と日露大戦争』という映画があります。
今年の初夏頃にデアゴスティーニから出てましたなー
解説だけ立読みするつもりでいたのに完全に忘れてて、気付いた時には書店からはもう姿が消えていた。笑

昭和32(1957)年封切の約半世紀前の大ヒット作ですが、いまだに評判がいい。
多分一番評価が高いのはエキストラによる行軍で、まだ昭和32年ですからね~
映画の為に練習した、ではなくて、軍隊経験者が兵隊さんのエキストラで出てる^^;
本物が出てる。
これだけでもちょっとみてみようかな、という気にはなる。
(※見たことない人はツタヤに置いてある)


主人公は明治天皇ですが、戦死者名簿に目を通しておられたりと割と細かい所にまで描写が及んでいます。
これは作られた美談等ではなく実際の話で、一兵卒に及ぶまで全員の名前を見ておられました。
読みが分からなければ調べるように、変わった苗字は由来を調べるように指示されたり、階級が上の方になると写真も併せてご覧になっていたと日野西侍従の回想にある。

あまり知られていませんが、陸海軍の忠勇を長く伝える目的で、戦争ごとに御府も建てられています。
日清戦争は振天府、日露戦争は建安府という、まあ倉庫ですが、戦争の記念品、戦利品を収めていた。
こちらにその戦死者名簿も収められていました。

映画の封切は戦後まだ12年しか経っていない頃で、作る側も見る側も戦前の教育を受けた人が殆ど。
こういうの、当たり前の知識だったのだろうなと思います。

この映画を見ながら同じく当時は知ってて当然だったのだろうなと思うのが軍歌で、戦闘場面の折々にゆかりのある軍歌が流れてます。
中々絶妙に、しかも自然に流れてきて、知っていれば分かるけれど、知らなかったら分からない(笑)
色々知識が試される(笑)(何の)


実はですね、製作顧問として堀悌吉がこの映画に関わっています。
映画監督から考証を頼まれている。
このエントリを書くために一応確認と思ってレンタルしたのですが、名前は出てなかった。
『不遇の提督堀悌吉』(宮野澄/光人社/1990)を見ると、同期の広瀬彦太と一緒に現場であれこれ聞かれたりしていたみたい。

このことについてやや詳細が書かれている書籍、私の手元にあるのは『不遇の提督堀悌吉』だけなんです。
小説で申し訳ない。
日本海海戦の東郷ターン撮影の際のカメラの回し方は堀のアイデアだったという話は『堀悌吉』(大分県先哲叢書)にも出ていたのですが。

出典は恐らく広瀬彦太編集の『堀悌吉君追悼録』(堀悌吉君追悼録編集会/1959)。
確認したかったのですが所蔵が大学図書館だけで貸出し無理やった…
(そして同時に頼んだ『加藤友三郎元帥』に至っては「広島に行ってください」って言われた。酷い。笑)
今の段階ではこれ以上確かめようがない。誰か詳細を知らないか。

小説の方では三笠艦橋(勿論セット)での撮影の様子を見て、広瀬彦太が
「玉木がいない」
と叫ぶシーンがあるんです。
あーと思うよね…

今まで何度か書いてきましたが、堀や広瀬彦太ら海兵32期は日露戦争の真っ最中に卒業、余り間をおかず各艦に配乗されています。
三笠に配乗された候補生は11名で、クラスヘッドであった堀悌吉もここ。
広瀬彦太はどの艦だったのか私は知らないけれど、同じく同期であった玉木信介も三笠。


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07260322.jpg


使い回し写真でごめんね。
右後ろに写っている白い服の候補生が玉木信介。
日本海海戦で勝利をおさめ、帰港した佐世保で三笠は爆沈しますが、その時に亡くなった堀たちの同期。
本当に色んな思いがあったのだと思う。


この映画、当時本当にヒットしたそうです。
会う人会う人が「良かった」と言って薦めてくるけれど、山梨勝之進はあんまり乗り気がしなかったそうです。
ただそんなに良いのならと映画館に足を運んで、実際に見たら涙が止まらなかったと本人が回想してる。
良かったらしい。

山梨さんは明治33(1900)年、三笠回航委員として渡英しています。
就航する前から関わったフネで、青年時代の肝脳を捧げたと自分で言っている程思い入れがある。

出ている人もね、みんな知ってるんですよ。
知っている人ばっかり。
明治天皇にも会ったことがある、山本権兵衛の副官を務めていた時期もあるので伊藤博文や小村寿太郎の所にも何回もお使いに行った。
日露戦争前には朝日艦で広瀬武夫と用談をしていることも、本人の口から伝わっています。
秋山真之に至っては第1次世界大戦の視察旅行のお供で8か月間一緒にいた。

堀にとっても山梨にとっても、本当に感慨ひとしおの映画であったのだと思います。



***



http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141215.jpg


これ何年か前に前ブログで一度出したことある写真。
とある本の中表紙に書かれていたのに気づいて超ビビる
思う存分撫で擦るというセクハラをはたらいてから返却した。笑

河野三通士は同郷杵築の友人のようです。
『英文毎日』の主筆を勤めたことのある人物で、ジャーナリストか。
堀が予備役編入後の昭和10年4月に来阪した際、河野と大阪湾を巡航したのだそうで。
そこに偶々居合わせたのが水野義人という大学生。

えっ。

えー…あの水野?
はい。あの水野です。
分からん人は阿川弘之の『山本五十六』を読みましょう(丸投げ)(笑)
事故死の多いパイロットの適性判断の為に、航空本部長時代の山本五十六が雇った観相見(手相・観相)です。
これがまた滅茶苦茶当たる。(当たるから航空本部の嘱託になったんだけど…)

堀はこの時に水野に観てもらい、現在の状況を当てられた上で、これからはそんなに悪くないということを告げられている。
こんなところで名前を見る人とは思っていなかったので少し驚いた。


***


大正6年海軍小演習の集合写真で、加藤亮一(主計)と思われる人がいました。
紹介で日本飛行機初代社長と書いたのですが、加藤の次に社長になったのが堀悌吉だった。
あ、同じ会社だったのか(笑)
堀の方は日飛、日飛、と覚えていたので、繋がっていなかった。笑
大分県先哲叢書『堀悌吉』によると、加藤の退任のタイミングを見ると、堀を入れるために辞めたんじゃないかという話。


***


ワシントンとロンドンの海軍軍縮で多くの海軍士官が予備役入りを余儀なくされました。
人員整理の必要性の有無に関係なく、リストラされた方には恨みが残る。
ワシントンの時は責任者である海相加藤友三郎ではなく、井出謙治にその矛先が向いたということはパラべラム(15)でも書きました。
堀も同じで、とある造船官から恨み節を聞かされたりしたそうで。


山梨勝之進の同期に宮治民三郎という人物がいます。
作家江藤淳の母方の祖父ですが(父方の祖父は江頭安太郎)、この方もワシントン会議後に予備役に編入された。
江藤には『一族再会』という家族の系譜を描いた本がありますが、その中でも一種強烈な印象が残っています。

宮治は海軍大演習で素晴らしい出来栄えを叩きだし、軍令部長に呼び出されて直々に褒められるような優秀な水雷屋であったそうです。
潜水学校の校長を最後として予備役入りしたのだけれど、これからという一番充実した時にまさかの宣告。
辞める積りも辞めたくもなかったのに辞めさせられた、そういう話を戦後に訪ねてきた孫江藤に語っている。
戦後ですよ。
余程の無念だった。
同じ思いを抱いて海軍を去らざるを得なかった人は、多くいたと思います。

加藤友三郎でさえ、同期の吉松茂太郎に

「友の野郎、あいつばかり偉くなりやがって、昔からの仲間である俺を邪魔にしやがる」

みたいな事を言われてしまう。
吉松は温厚で有名な人だったそうで、その人にしてこの言い草。(※吉松は軍縮以前に予備役入)

辞めさせられた人たちの思いは、まあなんというか。
海軍に残った人間への恨み節では収まらないだろうし、推して知るべし、でしょう。
ロンドン海軍軍縮会議の際、多くの予備役後備役の将官が決起会や会合を開いていたというのは、そういう感情の話もあったのだと思う。


予備役入りとなった時は潜水学校の校長だった宮治。
大東亜戦争が始まった時に、後輩たちの様子を見に行ったらこう言われた。

「大丈夫、教えられたとおりの事をしています」

えっ
宮治が辞めてから何年経ってんの…(※17・8年)

「馬鹿野郎!この戦は負けだ!」

そう怒鳴り散らして帰ってきた。そら負けてもしゃーないわ…
ただ日本も伊400とか伊401とか終戦間際にすっごいの作ってたんだけどね(本当にすごい)、本当に終戦間際過ぎて全然間に合わなかった。
こんなの作る事をもっと早くに許容できる組織だったら、歴史の推移も色々と変わっていたと思う。
(※12/21にナショジオで放送されます。『日本軍の極秘潜水艦』)

何時の時代も技術はすごいんだよ、日本。
何がダメってマネージメントが全然あかん。今も昔も。
経営が技術をダメにする。
伊藤博文や山本権兵衛がいなかったのが当時の日本の悲劇でしょう…


***


判明の変遷


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


財部と若槻はひと目で分かる。
前列3人は名前が入っていたので、谷口もその時に自動的に判明。
長らくこの3人しか分からなかった。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉


この連載を始めてから改めて見て、堀悌吉が写っていることに気付く。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉、左近司政三、古賀峯一


サイトの「追憶(2)」に載せる左近司政三の写真を拡大加工した後にこの写真を見て同人であることに気付く。笑
中将の礼服を着ているので調べれば分かるだろうとは思ってたけど、そこまでする気はなかったのでラッキー。

そして大正6年海軍小演習の写真に古賀峯一が写っているのが判明した後、この写真を見てあれ?同じ人?
あとは左のふたりですが、調べる気はない(笑)
海軍の軍縮関係者だろう。


***


堀悌吉は阿川弘之の『山本五十六』の印象がとても強いです。
堀という人物を知ったのがこの小説だったからというのがあるのだろうなあ。

「山本五十六の親友」という話で終わってしまうことが多い気がしますが、見ていると「こんな人もいたのだな」と思います。
この連載の初めの方でも触れましたが、「戦争善悪論」とかね、見た時は流石にびっくりした。

こうした内容を文書として報告してしまう(学校の課題で)辺り、軍人としては相当特異であったと思います。
大正から昭和期の軍人としては誤解を受けやすい面もあったのでは?
大分県先哲叢書『堀悌吉』には、思想的に海軍での居場所を探すのが難しかったのでは?という旨の言葉がありましたが、本当にそうだったのだと思う。

「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」と言われたり、海軍の至宝と言われたり、先の見える本当に聡明な人であったそうです。
先が見えすぎて、多分話が飛躍するのだと思う、話していて禅問答のようになってしまうこともあり、常人には誤解されやすい、理解され辛い点もあったみたい。

秦郁彦の本だったと記憶していますが(軍人の列伝だったと思う)、大失敗を迎える前には良心が駆逐されていく過程が必ずあるという旨の言葉があって、堀悌吉や山梨勝之進を見ているとその言葉をいつも思い出します。
大東亜戦争が負け戦だったからそう思うというのもあると思うけど。


パラべラムはこれにておしまいです。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
というか長かった。お疲れ様でした^^

あー…
終わって良かった…(笑)
関連記事

パラべラム~堀悌吉(16)

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この話は19回シリーズです。
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前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


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大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


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こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)
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栴檀(6)

サイト移行の為下ろします。
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パラべラム~堀悌吉(15)

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この話は19回シリーズです。
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お久しぶりの続きです。
前回はこちら→ パラべラム14



一方、財部彪は元々軍令系の人です。
それが明治42(1909)年12月、いきなり海軍次官に抜擢されたことは「紐解『財部彪日記』」でも書きました。
それまで一度も海軍省での勤務経験ないんですよ、財部。
軍令部の方でさえ部課長の経験がない。

薩摩派、岳父が山本権兵衛ということで、周囲から色々と余所では聞けない話を聞いていたと思いますが、実際に実務を執るとなるとかなり大変だった。
何せ経験がないもんで、財部本人もへろっへろになった。
それでも海相斎藤実を支えながらどうにかこうにかやっていくわけです。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149172.jpg


で、仕事を覚えてスムーズに行ける、余裕も随分出てきて3年目位、という時に起きたのがシーメンス事件。
大正3(1914)年1月に浮上した海軍の収賄事件で山本権兵衛内閣が倒壊します。
大隈重信内閣で新しく海相になった八代六郎は、汚職事件の責任を取らせる形で山本権兵衛と斎藤実を予備役に編入しました(引退させた)。
財部もその煽りを食って待命となります。(巻き添え…

約1年続いた待命の後、大正4年2月に第3艦隊司令官として復帰。
それ以降は各地鎮守府・要港部で長官・司令官を歴任しており、中央官衙に帰ってきたのが大正12(1923)年。
海軍大臣としてでした。

これねー…複数の意味で大きなネックなってると思う。
これは難しかったと思うよー

まず海軍省での実務経験、下積みが全然ない。
財部は海軍大臣になるまで海軍省での勤務が実質3年しかないんですよ。
しかも仕事覚えた頃に強制終了。

次に、加藤友三郎海相の下、省部で人が育つ時期に財部は地方に出ている。
その時点で中央官衙での人の繋がり、信頼を繋ぐ機会が激減する訳です。


そもそもね、財部は海軍部内では評判が悪い訳ですよ。

一番の原因は昇進が異常に早かった点にあると思います。
若い頃から本当に早くて、日露戦争の中盤には既に大佐です。
2期上、3期上のクラスヘッドと同じくらいのスピードで昇進していて、親王並みだということで「財部親王」なんて影口を言われていた程。

次官就任に際しても、前任が海兵7期の加藤友三郎で、間7期をすっ飛ばして実務経験のない15期の財部彪です。
8期から14期にはすごい人、沢山いますよ。
山下源太郎(10)、村上格一(11)、山屋他人(12)、江頭安太郎(12)、栃内曽次郎(13)、野間口兼雄(13)、鈴木貫太郎(14)、佐藤鉄太郎(14)、その他。
特に江頭を飛ばしているということに誰が納得するだろうか。
私もできん。

3期飛ばして軍務局長になった堀悌吉でも嫉妬されたり憎悪されたりです。
しかも財部の場合は薩派、岳父山本権兵衛。
外からどう思われるかは推して知るべしと言うべきか。

だからね、回顧録なんかでみんな言うんだよ。
財部は苦労が足りてないって。苦労してないからって。
経験が足りてないってみんなが見てる。

そもそもそんな状態なのに大正の核になる時期に中央での勤務がないというのは、色んな意味でやっぱり厳しかったと思う。
その上地方に出ていることで大正10年ワシントン会議の際の加藤のやり方を間近で学べなかったというのも、財部の為には残念だっただろう。


後ね、時代の制約と言うか、時代の流れと言うものあってだな。
大正10年にワシントン条約が成立して、ネイバル・ホリデイ、軍縮時代となります。
この条約に沿って日本は既存の軍艦、建造計画のあった軍艦が廃棄されました。

その時に海軍士官のリストラも行われているのね。
そりゃそうだよね。
軍艦の数が減るのだから、それに乗り組む人数だって減る。
対米比率やその後の軍艦の廃棄の話にはなるのに、この話はあまり出てこない気がします。

ではどういう層が首切りにあったか。
【6】で紹介した「加藤全権伝言」(大正10年)で、加藤友三郎自身がそのことを井出謙治次官に伝えています。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_09190015.jpg


淘汰スルニシテモ配員上多少ノ困難アリトスルモ
成ルヘク上級者ヲ多ク淘汰シ下級者ヲ多ク残シタシ



士官の中で対象になったのは将官クラス、佐官クラスです。
この時期に将官になっているのは、日露戦争時代の中堅層、日露戦争を支えた世代。
あれ、と思われる方も多いと思います。
そうなんですよ。
『坂の上の雲』に出てくるあんな人やこんな人がオン・ザ・リザーブ・リスト!引退!

クラスで言うと13~22・3期が核で、25・6期位迄かなー…
具体的に名前を挙げれば、こんな人たち。

栃内曽次郎(13)、佐藤鉄太郎(14)、千坂智次郎(14)
小栗孝三郎(15)、中野直枝(15)、布目満造(15)
舟越楫四郎(16)、森山慶三郎(17)、山路一善(17)
佐藤皐蔵(18) 、下村延太郎(18)


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


やだー!
なんか聞いたことがある人ばっかりなんだけど!
聞いたことある人ばっかり挙げたからなんだけど!(笑)
大正11年中旬~12年に待命になっている人は大抵そうだと思う。

佐藤鉄太郎の名前があることに意外感を持つ方も多いかと思います。
個人的には、生きていたら秋山真之もこの時の整理の対象になっていたと思う。
ふたりとも加藤友三郎に左遷されてます。
佐藤は軍令部の権力を拡大しようとして加藤の逆鱗に触れ、軍令部次長から海大校長へ。
秋山は大陸政策に深入りしすぎて軍務局長から欧州視察旅行に飛ばされた。
ハイ。
あっきーの視察旅行、慧眼を讃える話しかほぼ聞かないわけですが、これは事実上の左遷です。


軍人恩給はそんなに手厚くなかったようで、大将と言えど現役を退いてしまうと大変だったようです。
それまでについていた特典的待遇も無くなるし。

『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)には、26期の南郷次郎が、自分は経済的には困らないからと整理対象であった同期の代わりに予備役になったという話があります。(※)
それだけ大変なことだし、人員整理は好む好まざるに関わらず人の恨みを買う。
加藤友三郎がいくらカリスマ的であったといっても、そしてどんな理由があったとしても、首を切られた側からはやっぱり恨まれる。

ただ山梨勝之進の話によると、この時はその怨嗟の矛先は加藤ではなく次官であった井出謙治に向いている。(加藤には怖くて…^^;)
加藤は井出を自分の後継者に考えていた節があるのですが、結局それは実現せずに終わっています。
ワシントン会議の処理が傷となり、結局は最後に山本五十六を付けて欧州に視察旅行をさせるだけで終わってしまった。
ロンドンの時でも、山梨勝之進次官が犠牲となった訳ですが、ワシントンの時も同じだった…
こうなってくると、加藤のワンマンは良かったのか悪かったのか。
評価が分かれるところだと思います。


続く!
変な所で話途切れるけど

******

(※)

南郷次郎は嘉納治五郎の甥で、講道館2代目館長。関西の嘉納財閥の一族。
嘉納治五郎の生家(=南郷の母の実家)は神戸御影の現菊正宗酒造・白鶴酒造で、幕府の御用聞きを勤めるような大変な名家でした。
嘉納治五郎自身も学校を経営していたり、講道館を経営していたりで、つまり家が大変なお金持ちだったので海軍辞めても困らない。

広瀬武夫は柔道繋がりで南郷とは仲が良く、というか南郷の母とも仲がよく、息子が世話になっているからとお菓子やなんやをよく持たされていた。
南郷の方が9歳年下で、広瀬は弟を見るような感じで南郷を可愛がっていたみたい。
南郷が海兵を受験する前、造船所を見に行きたいと広瀬に依頼したことがあり、それに対する広瀬の返事が残っています。
横須賀水雷隊攻撃部第2水雷隊時代。明治28年だと思う。
一般には知られていないもので、一応内容は未公開になるのか。私も写真でしか見たことがない。



≫続き に拍手の御返事があります~ 
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