Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

青森と盛岡つながり

借りてきた本に絡めてつれづれ。


20170708_2


上写真はダイバーシティ関係で借りている外交官関係の本(内一冊はまったく関係ない)。
欲しい情報があまりないのでそのまま返すつもり。
そして珍田捨巳の本は早々に返却の憂き目にあったのであった…
ごめんねすてみん。


珍田捨巳は青森は弘前の人。クリスチャン。
肝の据わった外交官として知られた人物で、後に侍従長を勤めている。
山本権兵衛が内閣を組織した時に外相としての入閣を何度も依頼したけれども断られておる。
近代史では和初期では割と名前を聞く人物。
既出で、竹下勇関連で一度名前を出しております。

東奥義塾の出身。
東奥義塾の話って書いたことあったっけ?記憶が遠すぎて覚えていない。
同窓に陸羯南(ジャーナリスト)、一戸兵衛(陸軍)、佐藤愛麿(外交官)といった人々がおります。

陸羯南は今迄何度も触れている日本三大ジャーナリストのひとり。
司法省法学校(現東大法学部)での賄征伐事件に巻き込まれて退学処分になってしまった人物です。
この時一緒に退学になった同級生に原敬と加藤拓川がおり、後も親しく交わっていたようです。


原敬、加藤拓川、陸羯南


加藤拓川は正岡子規の叔父にあたる人物で、秋山好古とは幼馴染で家族ぐるみのお付き合い。
加藤は後に原敬の斡旋で外交官となるのですが、よくよく調べると加藤・原・秋山の在巴が重なっていた時期があり、三人がパリで顔を合わせることも少なからずあったのではないかと想像します。笑
ちなみに原と秋山がワンショットで写っている写真もあるのよ。
大正中期ですが。

加藤は甥っ子正岡子規を友人陸羯南に預けますが、子規の門弟に原敬の甥っ子・原抱琴がいるなど、結構面白いつながりがあります。
原の俳句はこの甥っ子の影響があったようですね。


珍田捨巳、一戸兵衛の1年後輩に藤田潜がいます。
東奥義塾出身だったかちょっとうろ覚えですが(調べんかい)、長く攻玉社の副社長を務めていた人物。
明治期の海軍軍人は海軍の予備校的位置づけであった攻玉社の出身者が多く、広瀬武夫もそのひとり。
勿論藤田も広瀬のことを知っており、広瀬がロシアへと出発する際は攻玉社の生徒を連れて見送りに行っています。
広瀬は攻玉社を卒業しても、新設された柔道部の部長をしていましたから、結構関わりはあったと思うよ。

この藤田の息子が海軍大将藤田尚徳で、海軍兵学校29期。
同期に米内光政、八角三郎、高橋三吉、佐久間勉(佐久間艇長)らがいます。
昭和14年、米内を海軍大将として残すため、高橋三吉と語らって自分達が予備役に編入されることを願い出た。敗戦前後を挟んで侍従長を勤めています。


米内光政_紅葉館
(盛岡出身者の集まり)


米内と八角は同郷盛岡の友人で、八角の父・彪一郎と原敬がこれまた友人であったのですよ(家が近所)。
八角彪一郎は早くに亡くなるのですが、それだけに原が結構三郎のことを気に掛けていてだな、海軍に行けと応援したのが原敬おじさんであった…
そしてさぶちゃんがみっつぁんもどうかと海軍に誘ったという中である。笑


原敬、栃内元吉、八角彪一郎 盛岡の友人ショット


原敬の友人・栃内元吉は栃内曽次郎(海兵13期)の兄(最終陸軍中将)。
栃内元吉の妹(曽次郎の姉)が八角彪一郎の妻になる。つまり栃内兄弟は八角三郎のおじさん。
(長い寄り道)


東奥義塾出身者、佐藤愛麿の養子が特に敗戦時のソ連関係で有名な外交官・佐藤尚武。
日露戦争直後のロシア公使館に配属されております。
当時、当然ながらまだサンクトペテルブルグでも広瀬武夫を知っている人がいた。
佐藤の初めての下宿先が広瀬が下宿していた家であったり、街中の古本屋の親爺に
「広瀬さんは真面目でいい人だった」
とか言われてんぜ。笑
この親父さんは広瀬行きつけの古本屋さんで、広瀬がロシアを引き上げる際に持って帰れない書籍を全部タダで貰っている。
ついでに鰹節2本も貰っている。笑


20170708_2


沢田節蔵。外交官。
大正10年の皇太子外遊に供奉員として参加した人物としてしか知らん。
ごめん。笑
ぺらぺら見ていたらこの方もクリスチャンだったわ…

よくよく考えると、昭和天皇は
幼少期の養育掛に足立たか(鈴木貫太郎の後妻)
青年期~の御用掛に山本信次郎
侍従長として珍田捨巳
で、周囲にずっとクリスチャンがいるのね。
こういうのって、特に取り沙汰とかはされなかったのかしら。
まあ、人物を見ての選定だったと思いますけれども。

沢田は『皇太子殿下御外遊記』を二荒芳徳と共著で出版した人物で、回顧録を見ると背表紙の文字は、専門家に依頼して聖武天皇の文字から探してもらったとありました。
まさかそんな所から引っ張ってきているとは思わなかったので、少し驚いた。笑

(沢田は鳥取の人です…)
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積読消化

頑張って積読消化してるよー
なんかね、なんかね、嫂の話によると姪っ子ちゃんと一緒に庭を散歩しながら唱歌を教えたりダンスを教えたりしてたらしいよ!やだ…どうしよう…2828が止まらない…もはや床を転げまわってコピーを読んでます。(生あたたか~い目で見守ってやって下さい…
姪っ子ちゃんを滅茶苦茶滅茶苦茶可愛がってたからそんなこともあっただろうと思うけど実際家族からそんな話が出てくるなんて鼻血しか出ないよ私!
何の話って広瀬武夫の話だよ!(笑)

あーもう!めっちゃ妄想が広がるー!(え)(←ハイ

色々ほったらかしにしていたものを今更読んでるわけですが、八角三郎の原敬の追想記出てきたわ。
Sringsの岩手人脈を書いた後で見つけた文献。
八角の父が原の親友八角彪一郎。
ふたりとも岩手出身で家の付き合いがあって(近所)お互いよく知っている。
八角三郎に海軍行きを進めたのが原敬。

原さんね、司法学校受ける前に海軍兵学校を受験してるのよ。
落ちたんだけどね。
その話を八角三郎にしていた事が判明。笑
伝聞ではなくて本人から聞いてたんだ…へえ…
原が話した所によると試験をなめてかかっていたそうですよ。
ただ落第しまして、それで心を入れ替えたらしい。
受かっていたら何期だったのか、以前調べたことがあるのだけれどイマイチよく分からなかった。
中々表に出てこないプライベートの話は読んでいて面白いです。

八角が「お前も海軍はどうか」と誘ったのが米内光政。
その米内しゃま、おからが好きだったそうで。
学生時代、米内光政大好きな友人がいてねー専攻は室町だったけど。
文献調査関係の授業で片っ端から米内光政の文献調べていた(※感心した先生が一緒になって調べ出すという展開を迎える)。
一緒に盛岡も行ったぜ。お墓参りもしたぜー
で、米内さんがおから好きだったからおからのお菓子作ってよと言われておからのケーキを作ったことがあるのだけれど、そのレシピが出てきてさあ。(※おいしい)
久しぶりに作った訳よ。





結構材料が余ったのでもう1度作ったのだけれど、オーブンにタネ入れた後になんか…
まだ小麦粉の入ったボールが…ある……
偶にあるね、こういう事…orz

そして月末にちょっと呉行ってくるわ呉。
大変久しぶりです。
2泊位したかったけど、諸藩の事情…諸般の事情で1泊になった。
またちょっと慌ただしい感じの旅程になりそうだけど、今回は第六潜水艇の慰霊碑にも行きたいなあと。
そして何か美味しいものが食べたいなあ。

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(18)岩手人脈 2

東條英機の父は東條英教といいまして、南部藩の出身になります。
安政2(1855)年生まれ、小村寿太郎、犬養毅、出羽重遠、井口省吾らと同年になります。
同じく南部藩出身の原敬はその翌年生まれで、彼らが12・3歳の頃に明治維新を迎えた。

野辺地尚義の件で触れましたが、維新の際、南部藩ははからずも”朝敵”となってしまいまして、その藩の子弟であった彼らも苦難の道を歩むことになります。
東北諸藩出身者は、総じてその藩と維新の経緯から大した出世が見込めない風があった。
日露戦争後の明治39年に海軍兵学校に入った井上成美(宮城・仙台)でさえ、宮城出身だから出世はできないと人から言われている。
その30年前、35年前はどうであったかなんて、まあ書かなくても想像に難くない。


ただ盛岡の子弟は大変ながらもまだラッキーだったんじゃないかと。
南部藩には作人館という藩校がありまして、維新時に一旦休校になったか廃校になっていたものの、明治3年に再校したようです。
そこに入って勉強したのが東條英教であり、原敬であった。
作人館にしても旧制盛岡中学にしても、近代史において盛岡出身の人材輩出が多かったのは教育が充実していたからじゃないかと密かに思ってます。


http://blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0138.jpg http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_04010337.jpg


東條と原、同年代の事もあり、上京までのステップはほぼ同時期。
東條はストレートに陸軍の方に進んだようですが、原は海兵を受験して落ちたり、司法学校を賄い征伐で辞めざるを得なくなったり。
若い頃は苦難苦学の道を歩んでいただけに、躓きなく陸軍で歩んでいる東條は原にとっても眩しい存在だったみたい。
郷里の後輩に陸海軍への進路を進めるような書簡を郷里の友人(八角彪一郎)に出しています。
東條は盛岡出身者の期待の星だったようですな。


ただ原もその後は井上馨、陸奥宗光らに見出されて政府高官になり、そして伊藤博文に誘われて立憲政友会に入ることになり、岩手県出身の出世頭といえば東條英教と原敬になっていた。
そういうこともあって、旧主家の世話係というか教育係というか、ふたりはそんなものを務めるような立場になっていました。

南部家が旧藩に縁のある有識者に顧問を頼むようになったのが明治38年で、東條を通して原が依頼された。
明治38年といえば忙しい時期でんがな~^^;
原は既に政友会の重鎮になっていまして、日露戦争後の戦後経営を巡って桂太郎と取引したり…
多忙であまり気乗りしなかったようですが、結局は引き受けている。
で、その時に岩手出身の有力者に協力を依頼して、顧問団を作ったみたいです。

その当時のメンバーにどういう人がいたのかというのは私には分かりませんが、多分前回紅葉館関係で名前を出した人たちとほぼ重なると思われます^^;
大正10(1911)年に原敬が東京駅で暗殺された後は、田舎館愛橘、鹿島精一が中心になっていたようです。(東條は大正2年没)
で、現役を退いた後らしいけど、山屋他人もそれに加わっている。


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上はその関係者が写っている写真。鹿島以外は海軍軍人。

栃内曽次郎には兄・栃内元吉がいまして、この方は陸軍中将にまでなっています。
15歳離れており、兄というよりは実質父親のようだった模様。
この兄は明治3年に作人館に入り、そこで原敬と同室であった縁から終生の親友でした。
開拓使として北海道にいたものの、西南戦争の際は屯田兵として従軍しています。
栃内曽次郎が札幌農学校から攻玉社、海兵に進んだというのは、この兄について行っていたから。


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また原が作人館にいた際に得た友人には八角彪一郎がおり、この八角の妻・きよが栃内元吉の妹(曽次郎の姉)になる。
その八角の子供が八角三郎。
栃内から見たら八角三郎は甥っ子になります。
山屋他人も八角の叔父にあたるそうです。
山屋との関係は色々確認できるところはしたんだけど、どの線で繋がるのかはトレースできなかった…
単に私が情報不足なだけで、緒方竹虎と高橋文彦さんの本に書かれているので嘘ではないと思う。


この八角三郎に海軍に行け!と勧めたのが父の親友・原敬でして、それでお前もどうだと誘った親友が米内光政になります。
八角と米内は盛岡中学の同級生でした。
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