Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

固め修めし大八洲(9)

戦艦八島の話、続き。

八島と初瀬が沈んだのは明治37年5月15日。
実はこの日、この2艦に先だって春日に衝突された巡洋艦吉野が沈んでいる。

前日14日には通報艦宮古が触雷で、翌日16日には赤城に衝突された砲艦大島が沈没。
翌々日17日には駆逐艦暁が触雷で沈没。
顔色を失うどころの騒ぎではなく、連合艦隊にとっては文字通り魔の5月、呪われた5月でした。


根拠地に着くと第1戦隊司令官であった梨羽時起、初瀬艦長中尾雄、八島艦長坂本一、敷島艦長寺垣猪三、龍田艦長釜屋忠道、笠置艦長井出麟六ら各艦長が東郷平八郎司令長官に報告をしに行っている。

三笠に行ったら舷門まで東郷長官が迎えに来てくれて、坂本は互いに手を握ってただ涙が出るばかりだったと回想しています。
長官室で報告に向かった艦長全員が号泣した。
泣くよりほか何も言葉がなかったと寺内猪三が言っていたけれど、本当にそうだったのだと思います。
連合艦隊は 5月15日だけで戦力の33%を失った。


全戦力の3割って。
こんなことになってしまって、これからどう戦えばいいのか。
そう思って泣く艦長たちに東郷は、御苦労だったねと一言、お茶を勧めたといいます。
すごいなこの人。素直にそう思う。
流石に薩英戦争からの猛者は違う。


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この東郷の態度が虚勢でも何でもなかったというのは、朝日に観戦武官として乗っていたイギリス海軍のペケナム大佐の言葉からもよく分かる。
全く平素のまま。
それを見た将卒たちがどれほど心を安んじたか。

伊藤正徳が「日本海軍は良い司令長官をもった」と書いているけれど、本当にそうだったのだと思います。
肝っ玉座り過ぎ。
総大将というのは本当に全軍の要なんですね…



初瀬は乗員の半数以上が亡くなりましたが、八島は幸いにもひとりの死者も怪我人もいなかった。
不要人員の退艦処置が早かったのと、艦の沈み方がゆっくりであったため。
ロシア海軍にも八島の沈没は認識されていなかったようで、とりあえず八島喪失は隠匿された。

日本国内の士気の事もあるし、公表して敵の士気を上げることもない。
それに公表は外債の募集にも大きく影響するだろうし。
3割減はやっぱり大きいわー 


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ただそれで困ったのが八島の乗組員でした。
沈没が公表されたのが翌明治38(1905)年。
日本海海戦直後の5月31日だったので、その時まで八島は存在していることになっている。
勿論八島沈没は極秘事項なので、”八島”乗員は士官も兵員も全員内地との連絡を完全にシャットアウト。

そんな状態なので、内地から何にも取り寄せることもできない。
誰彼の私物もほぼ全部が海の藻屑になっており、必要なものは友人から分けてもらうとか、そういう事をしていたそうです。
兵員達が特に不便をしたそうで、誠に気の毒だったと坂本が話していた。



八島最後の艦長であった坂本一が八島の副長をしていた頃の話をこの連載の一番初めに書きました。
その次の次の副長が八代六郎。
山梨勝之進が八島で甲板士官をしていた頃、ハンモックから落ちたことがあったそうです。


八代六郎  山梨勝之進


その時に真っ先に駆けつけてきたのが八代副長。
そうして自分の子供を抱きかかえるようにして「大丈夫か」と気遣ってくれた。

ある時は買ってきた長靴を、
「履いたらサイズが合わないので君に上げるよ。捨てることもできないから」
初めから山梨に上げるつもりで買ってきている。
八代六郎はそういう人だったそうです。
情熱い、部下を可愛がる人だったみたい。
(ロシアであれだけ広瀬武夫の親身になって世話をしてやった様子が分かる気がします)


坂本と次の副長はやかまし型、八代は全幅の信頼を置いて何も聞かない副長。
八島の副長をひいて、人には色々ないき方がある、と山梨の漏らした感想が非常に印象に残っています。

八島と聞くと、雑多ながらばらばらっとこういう事を思い出す。


基本的に沈没した艦の名は縁起が悪いということで継承されません。
八島も初代艦のみ。
多くの人の思いと、多くの人の思い出と共に八島の名前も海に沈んでいった。



これにておしまい。

と書きたいところですが余滴があります。
(びっくりするほどいつも通りだな) 
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固め修めし大八洲(3)

戦艦八島の続き。

山梨勝之進が乗り組んでいた頃、八島の副長に坂本一がおり、また航海長に石橋甫がおり…という話でした。
坂本の次の次に副長として赴任してきたのが八代六郎だった。
おー八代さん!

山梨によると、坂本とその次の副長は細かい所までを見ているうるさ型、やかまし型の副長。
部下からするとちょっと参ってしまうようなところがあった。
しかしながら八代はその前任者ふたりとは全っ然違う毛色の副長だった。


八代六郎


その、総員を集めての一声。


「八島は日本一の艦である。従ってこれに乗っている人も日本一の人ばかり。
艦長も日本一、砲術長も、掌帆長、掌砲長も日本一だ」


総員なので、みーんな聞いているんですよ、この言葉。
砲術長も掌帆長も掌砲長も。みんな目を丸くして照れている。笑

「唯一例外なのが自分で、日本一まずい副長だ」

おお?

「だが取柄は自分は艦に来るとき墓場を作り、墓に入る用意をして乗込んできたことだ。
他に何も取柄はない。だから自分は全力で諸君に頼る。
そしてそのお陰で日本一の艦が日本一の成績を上げるんだ」


全力で頼るってそれどうなの?(笑)
…と思わんでもないけれど、多分中々言えることではないし、できることでもない。
で、本当に全力で頼るんですよ。
頼るというより全力で信頼するという方が合っている気がします。


「掌帆長、よかったらね、何も言わずに『よろしい』とさえ言えばいいのだ」

そう言って、八代は何も細かいことは言わずに掌帆長が「よろしい」というのを待っている。
そうすると掌帆長は”日本一の掌帆長”ということになっているので、副長に「よろしい」と言うまで一生懸命やる。
掌帆長がよろしいと言うと、それを受けた八代副長はそのまま艦長に、「艦長よろしい」。

こうなったらそらーみんな一生懸命するわ!
頑張るわ!^^;
山梨は「それだから艦の成績が上がる」と書いているけれど、本当にそうだっただろう。
これはもう責任感が違ってくると思う。

夕方、上陸するに際しても、
「自分ひとりが残るから、みんな上陸して自由にしていいよ^^」
ただ副長だけを置いてそんなことはできないと、2・3人差し支えない人をおいて残りは上陸していいようになったそうです。

前任者ふたりの次にこの八代で、山梨らは谷底から急に山の上に上がったような気がしたと書いているけれど、本当にそうだっただろうと思います。笑
これは全体の雰囲気も良くなるし、士気が上がっただろう。
ちなみに当時の八島艦長は瓜生外吉でした。
アナポリス出!


もう少し続きます。
思いの外引っ張るね^^; 
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栴檀(3)

サイト移行の為下ろします。
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『逍遥選集』より

今借りてる『逍遥選集』に森鴎外が出てきてさ…
別に探しているわけでもないのに、続く時は本当に続くのだ。なぜだか。


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森鴎外は坪内逍遥にケンカを売ったことがある。(没理想論争)
ケンカを売られたのは坪内だけではないのだけど、鴎外のやり方はコスい上にしつこい…
なんというか、溝に落ちた犬を更に棒で滅多打ちにするような印象を受けますわー
要するに相手が立ち上がれなくなるまで完膚なきまで叩きのめす感じ。

坪内逍遥も途中で森と論争するのが嫌になってね、最後は「もういーよ」という感じになった。
大御所大人の対応である。

そんな感じなので、『逍遥選集』(12巻/春陽堂/S2)に森鴎外が亡くなった時の文章が載っていたのが意外だった。
鴎外が亡くなった直後の文章でもあり公表されているものでもあるので、悪い事にはあまり触れず、褒め言葉の方が多いだろうとは思うけど…
森鴎外に対する評価は結構高かったみたいだ。
でもやっぱりこういうことが書いてある。


壮年時代には、随分よく怒りもし邪推もし、誤つて間の者のいつた事をも信じたりして、
それがため偏屈な人のやうに思われた事もあつた。
又非常に勝気であつた結果、我が強く、場合によつては非常に傲慢である如く思われたこともあつた。
<略>
其相接する誰れをも、先づ少なくとも知識の上に於て、征服せなければやまないといふ態度が(※土原註:大隈重信と)似てゐる。

(「森鴎外」)


^^;
偏屈で我が強く時により非常に傲慢…
周囲からそう思われたという書き方だけど、逍遥自身も(も、というか、が、か)そう思ってたんだと思う^^;

私が中高生の頃に持っていた”文豪”のイメージって、もっとこう…
人格者的なイメージだったわ~
ただ高校の国語で習った『舞姫』がほぼ自伝というのを見てドン引きはしたのだけど、脚気論争の話を知った時の驚きはそれ以上だった。
というかその頃は森鴎外の本職が軍医ということさえ知らんかったのだよ明智君(誰)

森鴎外だけではないけど、色んな人がいるな、とは思う。そらそうか。
想像するよりも普通の人だったり、驚くほどのクズだったり。
純粋にすごいなと思う人は多いけど。





『逍遥選集』、態々お取り寄せで借りたんだけど見たい情報は全くなかった。
というか、本が違ってたみたい。
そりゃあかんわ…(笑)
ただ思い出話というか、追想記があったのでそれがまだ救い。


坪内逍遥は私のサイトでも既に2度程名前が出てきています。
直接坪内を扱ったのではなく、交流関係の中でかする程度という感じですが。
ひとつは「広瀬武夫と愛知人脈」、もう一つは「などでたゆとう」です。

後者は山田美妙の話ですが、当時文壇の大御所であった坪内にその品行をぼろっかすに非難され、美妙は明治初期の文壇スターダムから転落してしまった。

前者は八代六郎と加藤高明との関係で、この人たち、同郷で同じ学校(尾張藩が作った名古屋洋学校(英語教育中心))に通っていました。
一番の兄貴分は加藤高明で、八代は海軍に進むかどうかを加藤に相談している。
加藤は海軍はマッスルジョブみたいだから止めとけば?と止めたんだけどね、結局は海軍に進んだ。
また同窓にはジャーナリストであった三宅雪嶺もいます。

八代も加藤も三宅もそれぞれ広瀬武夫と関係がある人物で、これはまた面白いな~と思うのよ…
ちなみに前者から先輩、親戚、遠洋航海の同乗者となります。

『逍遥選集』、 折角なのでちょっと引用してみます。
この本を借りることはもう二度とないだろうと思うけど、コピー迄は必要ないっちゅうこともある。笑

書かれたのは内容からみて大正13年か14年です。


其頃の同窓で、今でも逢ふ機会さへあれば、昔ながらの心持で話のできるのは、八代大将だけだらう。
八代君は私より齢は一つ下だが、世間知らずの凡槍(ぼんやり)の私とは違つて、其時分から級中で独り嶄然としてゐた。
率直で磊落で闊達で、文豪趣味もあつたが、武張つた事にも深い同情を寄せて、柔術なぞをも習つてゐたやうだ。

雪嶺君も其時分から知り合ひだが、級が違つてゐたのと、君が寡黙であるのとで、親しく物を言ふやうになつたのは、
むしろ東京大学を出てからであつたやうに思ふ。

県の選抜生の中に加はつて帝国大学の前々身一つ橋の開成学校の試験を受くべく、
明治九年の秋に、東京に出た際には、
<略>
其時、現首相の加藤高明君も、先輩ではあるが、やはり同県出身の開成学校生であつたので、乗込んでおられた。

同君は、やはり齢は私より一つ若いのだが、十七八歳で以て立派に二十五とも見られた程の老成振であつたから、
乗船の際も、其夏期の休暇の毎に名古屋へ帰省し、一同が又東上する折々も、いつも君が宰領役をしてくれられたものだ。
さういふ関係上、同窓ではないのだが、何かと君のお世話になつたのであつた。
<略>


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0088.jpg


八代君は海軍へ、私は開成学校へ行く先きが違つてゐたので、出京と共に疎遠になつたが、
出京の初めには最も君と親しくした。

君の知友で岐阜県の後藤斎吉といふ人が、<略> 此人にも八代君の紹介で親しくなり、
一しょに写真を撮つたり何かしたが、
其頃の記憶は、其写真の朦朧となつたと同じに、
今は薄れて、容易くは思ひ出せない。


(「学生時代の追憶」) 
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