Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

パラべラム~堀悌吉(18)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
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続き。

昭和5(1930)年、ロンドン海軍軍縮会議の影響で、喧嘩両成敗的に海軍省と軍令部の首脳が更迭となりました。
しかし当時軍務局長であった堀悌吉はすぐには更迭されず、暫くその職にとどまっています。
海軍大臣も次官も変わってしまって、軍務局長まで変わると、海軍省の中枢ラインが短期間に全員交代となってしまうので、業務に支障が出ると見られたんじゃないかな。
まあ軍務局長級では直接動いてどうこう、という地位ではないので、それも大きかっただろう。


堀が異動となったのは翌昭和6(1931)年12月1日。
12月1日かー。これは定例の人事異動かな。
転出先は第3戦隊、その司令官(旗艦那珂に坐乗、旗下に阿武隈と由良)。
異動直後の昭和7(1932)年1月には上海事件が起こっており、その関係で編成された第3艦隊(司令官は野村吉三郎)に編入、上海に派遣されています。
同年11月には第1戦隊の司令官に転補。
比較的閑職であったそうで、この時は病気で入院といったこともあり激務回避の意味もあったのでは、というのが堀の推測。


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そして翌昭和8(1933)年11月15日、中将に進級した後軍令部出仕。
そこで8か月ほったらかしにされた後、昭和9年7月に鎮海要港部司令官代理として朝鮮に赴任しています。


普通に見てかなり異常な異動です。
異動の間の軍令部出仕というのは大体1ヶ月になります。
準備だったり調整だったりの期間で、8か月という期間は本人からすると待命に等しかったと推察します。
しかも異動先が鎮海要港部。
その上司令官代理…
新任中将を持ってくる場所ではありません。

鎮海要港部司令官は一般的には馘首一歩手前、ここを最後に予備役に編入されるという役職です(米内光政はクビにはならんかったけど、この人はまあ特殊なので)。
日露戦争頃の舞鶴鎮守府長官みたいな感じ。
こんなんね、海軍としてもう堀を使う気はないって言ってるのとおんなじです。


この頃になると、堀も大体自分の運命を分かっていたようです。
本人でなくても海軍にいる人や海軍の事をある程度知っている人なら分かるわな。

しかもこの頃、もう大角人事が始まっています。
昭和8(1933)年3月に山梨勝之進、9月に谷口尚真、小林躋造が予備役入り。
昭和9(1934)年3月に左近司政三、寺島健が予備役入り。


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いずれも軍縮に貢献したり、軍政畑と関わりが深かったり、満州事変の際に軍拡に反対したり、軍令部の権限拡大に反対したり、の方々になります。
要するに軍令部とは相対していた人たちで、所謂条約派と言われる将官。
彼等が次々と予備役入りしていく中での、クビ一歩手前のポストへの堀の転出。


この時堀の事を一番心配したのが山本五十六だと思われます。
山本は第2次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉のために日本を発ちますが、その直前に伏見宮軍令部総長に直訴している。(昭和9年9月)
大角海相、軍令部第1部長・嶋田繁太郎(同期)にも同様の話をしていたようです。
曰く、

同期の堀と塩沢幸一についてはとかく誤伝が多い、それに惑わされず人事の公正を求める、

というもの。
山本は伏見宮から了解の言質を取り安心して出発したのですが、結果として反故にされた。


第3戦隊司令官に転補されて以降、堀に対する非難・批判・誹謗は酷かったようです。
軍艦を動かせば”その動かし方が弱腰だ”。
トラブルを避ける為に取った処置は”周章狼狽倉皇として逃亡した”。
”海軍軍人にあるまじき卑怯の振る舞いだ”。
事あるごとに、事がなくても所謂艦隊派とされる人物が堀をいちいち論って非難する。

終いには軍令部総長伏見宮が、
「堀は実施部隊の指揮官には不適当」
なんてことを言い出すようになった。
余りに酷い中傷は家庭にまで届き、堀の妻が神経衰弱になっています。
堀が大分杵築に帰省した折に地元の子供にも悪いことを言われる程で、相当すごかったのだと思う。


大角人事の様相を中沢祐(海兵43期)が山梨勝之進より聞いています。
それが以下。
時期は昭和9(1934)年の初めごろだと思う。


大角海相のうしろから、いろいろ強い示唆や圧力がかかっているんだよ。
具体的にいえば、伏見宮殿下と東郷さんなのだ。
東郷元帥が海軍の最高人事に口出ししたことを、私は東郷さんの晩節のために惜しむ

(『四人の軍令部総長』より)


海軍の人事は海相の専任事項なのですが、昭和8(1933)年の省部事務互渉規定改定以降それが変わってきます。
軍令部総長への相談・了解が慣例となってしまった(明文化はされず)。

省部事務互渉規定というのはあれだ。
実は既に話が出てきている。
大正4(1915)年、佐藤鉄太郎が軍令部次長であった時、部長島村速雄の留守中に軍令部の権限強化を画策して左遷された話を書きました。
この話なんですよ。
この話の続きなんです。
佐藤が実現しようとして失敗したことが、昭和8年に実現した。

互渉規定改定を高橋三吉軍令部次長が推し進めたのはよく知られていますが、
「自分がいるうちでないとできないだろうから、どんどんやれ」
と督励したのが、当時軍令部長であった伏見宮になります。

皇族の権威を背景に海軍省を圧迫して改正させた。(井上成美が南雲忠一に脅されたのはこの時の事)
そして海軍軍令部が軍令部、軍令部長が軍令部総長と改まったのも互渉規定改定以降になります。
(軍令部軍令部と書いていますが、昭和8年迄軍令部の正式名称は海軍軍令部です)

堀本人の話によると加藤寛治も非道い中傷をし、また伏見宮に吹き込んでいたようです。
一例に曰く、

山下源太郎未亡人が某海軍軍人と怪しい仲という怪投書があったがその犯人は堀だろう。
(仲人四竈孝輔からの直話による)

加藤……(;△;
私ね、加藤は日露戦争頃までは結構好きなんです。
ひとえに広瀬武夫との関係で(というかそれしかねえ)。
良い所も結構ある人物だけれど、でもこれはあかん…

ただ加藤とみていると、末次信正に上手く利用されただけの側面が強く(それだけでもないようだけど)、
加藤の四天王といわれた加藤三吉らにしても上にいたのが偶々加藤だっただけ、という感じの様で、
事終わってしまうと人が寄りつかず、晩年は寂しい感じだったという話があります。


堀が書き記したこの頃の海軍の内情を見ると、本当に心が暗澹とします。(『堀悌吉』所収「海軍現役ヲ離ルル迄」)
明治期でも人間絡みの暗い話は色々あったと思うけど、ちょっと次元が違ってきてる感がある。
これが私の好きな海軍だとは思いたくないorz


堀が予備役入りとなったのは昭和9(1934)年12月。
当時ロンドンにいた山本五十六が、書記官榎本重治より夢に堀悌吉が出てきたと聞かされて、

「堀がやられた」

と直感したという有名なエピソードがあります。
また山本は『大海軍を想う』の伊藤正徳(当時時事通信の特派員)に

「堀を失ったのと大型巡洋艦の1割と、どちらが大切なのか」
「海軍の大馬鹿人事だ」

という事も述べている。


出発前相当の直言を総長にも大臣にも申し述べ
大体安心して出発せるに事茲に至りしは誠に心外に不堪、
坂野の件等を併せ考ふるに海軍の前途は真に寒心の至なり

如此人事が行はるゝ今日の海軍に対し之が救済の為め努力するも到底六かしと思はる、
矢張山梨さんがいはれし如く
海軍自体の慢心に斃るゝの悲境に一旦陥りたる後、
立直すの外なきにあらざるやを思はしむ

爾来会商に対する張り合いも抜け身を殺しても海軍の為なとと云ふ意気込はなくなってしまった
<以下略>

(昭和9年12月9日 堀悌吉宛山本五十六書簡 『堀悌吉』「海軍現役ヲ離ルル迄」より)


堀悌吉
(下部の写真が引用書簡)


堀の運命を聞いた山本は酷く気落ちして、海軍を辞めてしまおうとまで思ったようです。
しかしそんな山本を励まし、
「貴様まで海軍を辞めてどうする」
と強く慰留したのが堀でした。



現役を退いて後、堀は山本や古賀峯一といった海軍関係者たち(というか実質海軍)の斡旋で、海軍関連の軍事産業の会社に就職します。
日本飛行機や浦賀船渠(浦賀ドッグ)の社長を務め、他にも幾らかの企業に関わっている。

そして実業界に身を置いたまま、昭和12年日中戦争、15年日独伊三国軍事同盟、16年日米開戦。
昭和18年には山本と古賀のふたりの親友の戦死を立て続けに見、昭和20年の敗戦を迎えることになりました。

自分を疎んで追い出した海軍。
その古巣を複雑な思いを抱いて支えながら、国が急速に戦争に傾斜し、また敗戦に向かっていく様を見て、堀はどう感じていたんでしょうねえ…


開戦時の海相であった嶋田繁太郎(同期)の回想があります。
(『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(1)』、昭和42年の言)


開戦前の時期に堀などが海軍大臣として在任したとすれば、もっと適切に時局を処理したのではないかと思う


言っても詮無きことですが、戦前の昭和はあの時ああなら、この時こうならと思うポイントが多すぎる。
ロンドン海軍軍縮会議とそれを巡って起こった紛糾は、戦前期のひとつの大きな転換点だと思います。
海軍にとっても、国家全体にとっても。


最後に堀自身の言葉を。


今日から遡って当時を追憶し

「若しあの時、自分が尚、責任を頒ち得る立場に居たとしたならば、
或いは身命の危険に曝される様な場面があったかもしれないが、
三国同盟反対でも、時局収拾に関してでも、何かもっとしっかりした貢献が出来たのではなからうか、
たとへ天下の大勢既に決し、如何ともする事が出来なかった事由があったとするも、
何等かの形に於て、何等かの方向に自分の力を致す事が出来なかったものであらうか」

との様な考が浮ぶのを禁ずる事が出来ない。
是等の点は悔恨の念が永久に消え去らずに、何処にか心の奥底に潜む所以である。

「あなたは早く海軍をやめて置いてよかったな」

と云はれる時、それが全く善意の慰安の言葉である事は分かり切って居ても、
吾が心の奥底に存在する過去の恨が蘇へり動き出して、

「それはそうだとも」

と自分が合槌を打って謝辞を述ぶる時に、自ら自己を詐って居る様な気がしてならないのは、
以上に述べた様な所のものが、脳裏に存在するからであらう。

しかしこれは過去に対する未練でもなく、又勿論現在に対する自己満足でもない。
唯だ過ぎ去った時代に対する淡い思ひ出の副産物にすぎないとも云へよう。


(『堀悌吉』 「自伝」より)


この連載の初めの頃、堀の海軍軍人としての志がどんなものであったかを何度か書きました。
曰く、


身を海軍において、国家を外敵より防衛し、
国内安泰維持、民族平和的発展及び人文増進に貢献出来得る様に
努力する事を天職として心得て行かうと決心したのである。 
(同上)


本当にこの人が海軍の要路に残っていたらと思わざるを得ない。


***


ということで、半分以上が軍縮会議で占められた(ごめん)堀悌吉の話はこれでおしまいです。
18回という自分でもちょっとびっくりの長さになってしまいましたが、ここまで読んで下さった方には(そんなにいる様に思えない…笑)、お礼申し上げます。
というか、間が空き過ぎて「何の話だったっけ?」になってしまって申し訳ない。
書いてる人間でさえ忘れかけてるっちゅうね。どうなのよそれっちゅうね…orz

個人的には、いつかは話の展開から書かないといけないハメに陥るんだろうなあと思いつつかすりながらも何年も巧妙に避け続けてきたロンドン海軍軍縮会議の話(長い)を書けて良かったです。
これから「以前書いたからそれ読んで」って言える。笑

あとこれもいつかはと思っていた私涙目(…)の財部彪の話、軍縮の後で進んでいたリストラの話が書けて満足です。
財部に関しては批判はされるけれどその背景に触れられることはほぼないし(まず批判ありきっぽい)、日露戦争時代に活躍した将官たちがリストラにあっていたこともまず言われない。 
このふたつの話は、あんまり触れられることがないように思うんです。
というか一般書レベルでは私は見たことないわー
寄り道の多い連載でしたが、そういう話も書けて良かったかなと思う。

堀の話はこれで終わりですが、あと1回だけ余滴として。
まあおまけです、おまけ。

という訳で続きます。笑




今日は滅茶苦茶寒かったですね。
私の住むあたりでも明日の天気予報で雪マークが出てるー(棒)
…。……。…………。
12月に雪(マーク)とか。
いやあ1月2月でも雪降るとか、特に近年は滅多にないのでちょっと驚き。
明日は雪の進軍なのか。
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パラべラム~堀悌吉(12)

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この話は19回シリーズです。
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大好きな岩手県の雄安倍貞任の御命日です。
今日は前九年の役が終了した日ですな。(1062年)
そういえばこちらのブログに移ってから平安時代の話を書いた覚えがないなあと…^^;
気が向いた時にでもぼちぼち書いて行けたらという感じですか。
ちなみに安倍晋三首相は安倍貞任の弟宗任の子孫になります。すげー。

パラべラム、沢山の方に読んでいただいているようでありがとうございます。
いやー何だか怖くなってきた。笑。
言っときますけど学術研究等の参考にはなりませんぞ。
ここは個人の趣味のサイトですからな。為念。
拍手して頂いた方、またランキングクリックしてくださった方もありがとうございます。
この話冗談抜きで結構大変なので嬉しいです^^;


***


ロンドンからやって来た請訓に大反対!の軍令部。
そんな事は関係なく妥協案を受け入れるつもりの政府。
その間に挟まれる海軍省。

山梨勝之進次官が非公式軍事参議官会議の後、海軍の意見として「米国案の妥協は受諾できない」と浜口雄幸首相に伝えたのが昭和5(1930)3月24日。
浜口がそれに「政府は会議の成功を望んでおり、決裂させるようなことは無理」と返したのも同日です。

翌25日、海軍ではもう一度集まって会議したものの(岡田啓介軍事参議官、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長、小林躋造艦政本部長、山梨勝之進海軍次官、堀悌吉軍務局長)、纏まりがつかない。
その報告を山梨次官より受けた浜口首相の返事は、
「妥協はする、不退転の決意である」
やっぱり意見は変わらない。

更に3月27日に浜口は昭和天皇に拝謁していて、妥協に関する同意を得ているんですね。
天皇のゴーサインに勝る支援はなかったでしょう。


浜口雄幸 岡田啓介


浜口は拝謁後、加藤軍令部長と岡田と会見しています。
この頃には財部彪海相の意志が岡田や山梨次官にはっきり伝わっていたようで、岡田自身が堀軍務局長、古賀峯一高級副官に対して
「大臣の意志がはっきりした以上、省部協力して大臣の意のある所に動かざるを得ない」
と述べている。

その上浜口と会談し、昭和天皇に拝謁して浜口がその決意を更に固めたのを見ている訳です。
分かってはいたけど、妥協以外の道がないということは、一段とはっきり悟ったことでしょう。
その中で浜口に更に三大原則を説明し(7割必要)、更に閣議に出させろとゆする寛治。
なんたるつわもの(一蹴された)。


この頃、侍従長であった鈴木貫太郎も動いていました。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/suzuki.jpg


「何割ないと国を守れない」じゃなくて、「与えられた兵力で国防を考えるのが軍令部の役目」、そうした事を言っている。
実は鈴木、前職が軍令部長でした。
つまり加藤寛治の前任者で、余計に思う所があったのだと思う。
ただ、
「侍従長でなければ諫めることもできるのだけど」
との本人の言葉通り、天皇の側近という立場上何かしら目立って動くということはできません。

加藤寛治が会いに来て妥協不可を力説しても冷静にあしらって加藤を落胆させたり。
伏見宮に面会して、海軍巨頭会議での発言は余程注意を要す、皇族と言う立場と影響力を考えて欲しい、会議決裂の及ぼす影響は大きい、そういった事を言上している。
言上と言うか、釘刺しに近いと思う…


そういうことがあったからなのか、どうなのか。
岡田と山梨が「請訓を丸飲みする、但し政府には条件を付ける」と決め、
加藤は激しく元帥・軍事参議官会議(ほぼ妥協反対)を開くべき!上奏する!と主張していた頃(岡田に一蹴される)、
面会にやって来た岡田に伏見宮はこう言った。(3月28日)


①海軍の主張(7割)は正当なもの、回訓が出る迄は押すべし
②しかし政府が決めたら従うより他なし。2個師団増設問題のようにしてはならぬ。軍事参議官会議は開かぬ方がいい
③請訓通りになれば加藤は軍令部長を辞めるか?辞めさせぬ方がいい
出張で当分不在になるが、その間にもし参議官会議が開かれたら、適当な時期に発表してくれ
 (『岡田啓介』岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)

岡田と山梨大喜び。

もーそらー宮様のお墨付きですよ。
本当にホッとしたと思います。


 ※2個師団増設問題
  大正元年。陸相が帷幄上奏で単独辞任、陸軍が後任を出さなかった為内閣が成立せず倒壊した。
  陸軍が我が都合で倒閣させたと大問題に



岡田は加藤寛治を相手にする一方で、閣議に提出する兵力拡充案を山梨らに考えろ、としています。
これが上の「条件」で、米案の兵力量では配備に不足を感じるのでその補充が必要、軍縮で制限される分野と違う分野を補充してくれ、ということ。
その拡充案が閣議で承認され、その後に回訓案が出来上がります。
それが4月1日。

閣議に案を上程する前、浜口首相は岡田、加藤を呼び、回訓案の説明しています。
それに対し、
 岡田 政府が決定した以上、海軍は最高の方法を考えたい
 加藤 不満であり同意できない 
 山梨 案を海軍首脳に図る。閣議上程はそれから願います

海軍に回訓案を持ち帰り、上の3人、小林艦政本部長、野村吉三郎練習艦隊司令官、大角岑生横鎮長官、末次信正次長、堀悌吉軍務局長で会議。
幾らか修正した後閣議に回しました。
はい。この時加藤も末次もいるわけですが、異論は唱えていません。
軍令部も回訓案を了承した、とみなされた。

閣議においては外相が幾らか訂正を加えた後、問題なしと言うことで、浜口首相、幣原喜重郎外相、山梨次官の発言や説明の後、閣議は満場一致で回訓原案可決。

その日の内にロンドンに打電されました。
はー…ひと段落。


加藤寛治、東郷平八郎、岡田啓介


伏見宮は最終的には政府の決定従えとのことでしたが、もうひとりの海軍の大御所、東郷平八郎はどうだったのでしょう。
回訓が打電された日、山梨次官が経過・結果説明のために東郷元帥の元を訪れています。

山梨に向かって、東郷曰く


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず、
今更彼是申す筋合にあらず、
此の上は部内の統一に力め愉快なる気分にて上下和衷協同
内容の整備は勿論士気の振作訓練本来の使命に精進すること肝要
 (『岡田啓介』)


一旦決定せられた以上はそれでやらざるべからず
今更彼是申す筋合にあらず



政府が回訓を決定した以上は、それでやらざるを得ない。
今更あれこれと言う筋合いのものではない。

これですよ。
宮様も東郷元帥も、政府が決めた以上は仕方ないと言ってるんです。
回訓案を承認した。

これがどうして大騒ぎになるのか。


続く


上の写真の解説。

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