Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(5)

衝撃の「東郷元帥の印象ない」発言から一夜(こらー
続きです。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。

天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。<略>
鈴木タカは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります。<略>


養育係冥利に尽きるだろう思います…
足立たか、後に鈴木貫太郎と結婚して鈴木たかになる女性で、いくらかエピソードがあるのですが、昭和31年10月の回顧(『昭和天皇の時代』文芸春秋編・出版/1989)からひとつだけしつまみ食い。

日露戦争後の論功行賞があった頃の話。
足立たかが迪宮と淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)のお供で御所に出ていた時、
「今日はおじじさまはお忙しいから、皇后さまの方に向かう様に」
とのこと、皇后に拝謁する為に人形の間という部屋で待っていたら、そこにぞろぞろと爺さん連中がやってきた。

それが金ぴかの盛装に勲章をつけた元老だったのですね。
原文には七元老とあるのだけれど、当時は5人だと思う…

伊藤博文、山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌。
黒田清隆と西郷従道はもう亡くなっているので。
もしかしたら桂太郎と西園寺公望が入っているのかな?


足立たかは、やってきたじーさんらにびっくりして場所を変えようとした。
そらーねえ…
紛れもなく当時の国を動かしていた人達(の集団)ですから、幾ら皇孫のお相手をしているとはいえ、23・4歳の女性では流石に怯む^^;
というか、そこそこ場数を踏んだおっさんでも怯むだろう。笑

これ、明治39(1906)年4月1日の話だと思います。
伊藤、山縣、大山がこの日に大勲位菊花章頸飾(内閣府/別窓)を受章していて、恐らく間違いない。


当時迪宮は満年齢で5歳、淳宮4歳、光宮は1歳とちょっと。
前年の日露戦争中は、号外を売り歩く鈴の音を聞いて、皇孫御殿で兄弟で鈴を鳴らして号外を配るごっこ遊びをしていた。
まあ、それ位の幼児である。かわいい。


伊藤博文、山縣有朋


入ってきたじーさんらを見てか、足立たかに背中を押されてか、淳宮と光宮は早々に場を変えてしまった。
けれど、迪宮だけはちょっと立ち止まって元老たちを見ていたそうです。
そうしたら伊藤博文が傍にやってきて、


「皇孫殿下にいらっしゃいますか」
といわれました。
「さようです」。
そこであいさつを遊ばしたんですよ。

殿下は「誰か?」ってお尋ねになられました。

「私は伊藤でございます。きょうはおじじさまから結構な頂戴物をいたしましたので、お礼に参りました」。
「そこにいるの誰か」
っておっしゃるので、つぎつぎに山県元帥からずっと七元老の名前を伊藤さんが申上げたんです。

殿下は「そうか」っておっしゃって、いちいちごらんになっておいでになりました。
みんな大きな方の中に水兵服を召した小さな殿下なのに、やっぱりプリンスとしての態度がご立派なものですから、伊藤さんが非常に喜ばれて、

「ああ、きょうは良い折りにお目にかかりました」
と喜んで、
「あとのお二方様も、どうぞこちらへいらしって頂きとうございます」
といわれたので、それからお二方をお連れしまして、七元老がごあいさつなさいました。
<略>

迪宮さまが、
「勲章がたくさんあるが、きょうはどれを頂いたのか」
とおっしゃる。


伊藤博文
(伊藤、明治40年の撮影。多分こんな感じだったかと)


伊藤さんが
「これを頂きました。まことに有難いことで」
と申されますと、
「そのほかに着いてる勲章は何か」
ってお尋ねになる。

たくさん着いておりましたのですよ。
「これは外国の勲章でございます」
とかいちいち申上げまして、山県さんなどはびっくりしていらっしゃるんです。<略>


山縣を驚かせたか。
確かに5歳で元老連中相手にこれは流石に凄いわ。

これから13年後の大正8(1919)年に出てきた、当時皇太子であった迪宮のヨーロッパ外遊を推進したひとりが山縣でした。
その理由のひとつが、皇太子の社交性(コミュニケーション力)の無さで、山縣が、
「拝謁しても御下問なども無く、まるで石地蔵のようだ」
なんて人に漏らす程だったのですね。

山縣ほどの地位にあれば、皇太子に拝謁する機会は度々あったと思いますが、13年前とは違う意味でびっくりしていたんじゃないかと思います…


つづくー
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品川神社(1)

先週末は東京でした。
宿泊が品川で、早朝に少し時間が取れそうだったので周辺に史跡がないか探した(ヒジハラですから。笑)
…ら、板垣退助のお墓があった。
何となく青山霊園とか多磨霊園とか、あの辺りかと思っていたので意外でした。

ということで取り敢えず品川神社まで。


品川神社


京浜急行新馬場駅の目の前。
電車の中から結構大きい神社だなあとぼんやり見ていたのですが、よく見りゃ


品川神社


<●><●> 富士塚じゃね? (覚醒)(笑


正直板垣退助の墓所よりこちらに興奮した。(どうなの…

階段を登ればちゃんと富士塚の説明がありました。
一度見てみたかったので、これは嬉しかったぞ!

富士塚とは江戸時代の人工富士山のことで、富士の山開きの時に富士講で富士登山するのですが(なんのこっちゃ)、それに行けない人々が富士塚に登った。(※品川富士は明治2年に作られています)
富士信仰は関西でも昔からあるらしいのですが、富士塚はないのです。
それやこれやでいっぺん見てみたかったのだけれど、思いの外大きくて驚きました。


富士山


帰りの新幹線から見えた富士山。
東京出てから20分くらいで見えるもんなあ。
江戸から富士山は見えていました。
見えなくなったのは高層ビルが立ち並ぶようになったこの数十年だと思う。
とういうか数年前まで山手線から見えとったはず。
まあ、日常生活している上でどう頑張っても欠片すら見えない関西と関東では、富士山に対する感じ方はちょっと違うと思うんだ…
(※三重・滋賀・奈良・和歌山の県境辺りの山頂が可視の最西らしい)


品川神社


鳥居の近くに大きな石碑があったので近づいてみる。
荏原郡長を務めた林交周という人物の顕彰碑でした。


品川神社


篆額が小松宮彰仁親王、撰書が伊藤博文。
リリー自分で書いたんか。所縁の深い人物だったのかな。

階段を上ると包丁塚等あれこれ石碑が並んでいたのですが、ゆっくり見る時間はなかったのでスルー。
富士登山(笑)する時間もちょっとなかった…
踵のあるヒールだったのでしんどかったのもある。笑


品川神社



本殿の前に忠魂碑があったのでまたもや近づいてみたら、


品川神社


「希典書」とある。
あら。


品川神社


明治43年4月に品川町の在郷軍人会が日清日露戦争の戦没者の慰霊の為に作ったもので、乃木希典に揮毫を依頼したそうです。
何度か移転の後に品川神社にやってきたとのこと。

結構色々なものがありますな。

続きます。


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「明治時代県政の記録」展@兵庫県公館(2)

兵庫県公館、伊藤博文


明治元(1868)年5月26日、東条慶次宛伊藤博文書簡。
読んでいてへえと思ったのですが、兵庫県、もしかしたら大阪の一部だったかも。

書簡の初めに、兵庫は県になり大坂の支配を免れ、太政官から直命を受けることになったとある。
現在の兵庫県域はかなり広いですが、当時の兵庫県は摂津と播磨のごく一部でした。
というのも当時はまだ藩が存在しております。
明治4(1872)年の廃藩置県までは各地の大名が各所領を治めておりますからね。

ですので、大阪府であったかもしれない”兵庫県”というのは、大名の所領以外の土地、つまり幕領であった土地になります。
それが廃藩置県で現在の兵庫県域は4県(兵庫県、飾磨県、豊岡県、名東県)になり、明治9年にこの4県が統合されて現域の兵庫県になった。
そして何故兵庫が大阪の支配に?ということですが、この辺りは大坂町奉行所の管轄であったため。

名東は淡路島(南側)です。
飾磨(しかま/西側)、豊岡(北側)だけでもかなり広域で、よくこの4県を統合しようと思ったな…
兵庫(東側)の辺りは今の阪神間に相当しますが、気候風土、言葉も随分違う。

まあそれはとにかく私明治初年の伊藤の書簡を見たのは初めてだわー。
署名が「俊介」になっている。
そしてもう少し伊藤関連のものを見たかったです…
以前来た時は伊藤直筆の入った杯などもあったのだが。笑

目的は伊藤の書簡だったので、余りにもあっさり終了。
寂しい。


兵庫県公館、伊能図 


別室の伊能図(大図の縮小版の兵庫県全域)見て退散致しました。
天ぷら定食まきのでお昼ごはん食べて早々に帰ってきた(揚げたて美味しかった…


兵庫県公館
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「明治時代県政の記録」展@兵庫県公館

変な所で途切れた前回の続き。


兵庫県公館


初代兵庫県知事が伊藤博文なのですね。
そういう関連もあり、神戸には伊藤に関する史跡が少数ですが存在しています。
兵庫県公館もそのひとつ…
と言っていいのかという気がしますが、そういうことにしておこう。笑
関連の遺品が幾らかあります(どれ位あるのかは知らない)。

今回の展示会で出ていた伊藤関連は書簡1通。
しょかんいっつう。
もう少し点数出して欲しかったー(心の声)


内部の写真撮影可。
下写真に写っている3人のうち、左側の人物が伊藤博文、中心の人物が中島信行。
明治元年かな?場所は花隈だそうです。


兵庫県公館、伊藤博文


中島は通称作太郎、土佐の人。
土佐勤王党、海援隊、陸援隊を経て新政府に出仕。
板垣退助の自由党に参加して副総理、あと衆議院の初代議長を務めている。
割と有名な人ですな。
明治元年5月…というか、まだ当時は慶応4年だけど、1868年に伊藤博文が兵庫県知事となった際には、中島は兵庫県判事となり伊藤の補佐していたそうです。
そうなんだ。

扁額が掛かっていますが、左側は東久世通禧、右側は伊藤博文のもの。
東久世は四卿落ちの東久世になります。
1868年年明けすぐに外国事務総督(今でいう外務大臣)に就任、神戸事件の折衝に伊藤と共に当たっている。

神戸は前年慶応3年12月7日に開港されておりまして(兵庫開港)、以降外国人が逗留しております。
その外国人と日本人の間で起きた諍いが神戸事件。
明治政府初めての国際事件になります。

こちら、現在の神戸の繁華街のど真ん中で起こった事件で、所縁の神社が残っている。
街に馴染み過ぎて気に留める人は少ない。


三宮神社


伊藤が兵庫県の初代知事となった理由は、この事件に関わっていた為であると思われます。
イギリス側とは面識があるし、英語もできただろうし。

そして今回展示されていた書簡はその神戸事件が解決した3か月後のもの。


兵庫県公館、伊藤博文


神戸事件とは何の関係もありません。(おい

続く!
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兵庫県公館

兵庫県公館


兵庫県公館に行ってきました。
今月17日まで「明治時代憲政の記録」という展示会が開かれている。
伊藤博文の書簡が出ていると聞いたのですね。
それが目的。

兵庫県公館は明治35(1902)年に落成した兵庫県庁。
昭和20(1945)年の神戸大空襲で外壁しか残らなかったらしい…
復旧工事、保存再生工事を経て昭和60(1985)年に兵庫県公館として生まれ変わりました。
建設当時の姿が復元されている兵庫県の迎賓館であり、県政資料館。

そして我が兵庫県の初代県知事が伊藤博文なのですよ!
伊藤博文!
とはいえ県知事であったのは1年足らずですけれども。
ついでに言えば4代県知事は陸奥宗光。
税所敦、林董、周布公平(周布政之助の嫡子)という名前も見られます。

すいません、ここで一旦区切ります…
22:30にして眠たくて起きてられない。笑


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