Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

(16)紅葉館

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門に雑輩入るべからずという表示を掲げた高級料亭(社交場)、芝・紅葉館。
10円(明治30年で15万円程)というかなり高い会員費で、貴顕紳士の社交場、本当に庶民お呼びでない感じ^^;
会員数は300人に限られ、会員になりたくてもなれないという感じだったみたい。

ただ会員証を人に貸すのはアウトだけれど、友人家族を本人が同伴するのは問題なしという点で、仲間内の誰かが持っていれば遊びに来ることはできる。
なので割と色んな著名人が来ていたのかなーという感じはしますな。

大槻玄沢(岩手・一関)の孫、大槻文彦が『言海』を完成させた際の祝賀パーティが行われたのはこちらでした。

大槻三賢人

その際の出席者は30数人だったそうですが、伊藤博文、勝海舟、山田顕義、榎本武揚、谷干城をはじめとする早々たるメンバー。
祝辞を読み上げたのは伊藤博文だったそうです。


また創始者のひとりに読売新聞の子安峻がいた所から、読売新聞の関係者が結構使っていたようです。
尾崎紅葉はこちらの常連だったそうですが、それならさもありなんという感じ。
硯友社の人々と結構通っていたようで、何より尾崎のペンネームは紅葉館から来ている。笑
明治30年の大ヒット『金色夜叉』の貫一のモデルは巌谷小波といわれていますが、そのお宮のモデルは紅葉館の仲居だったらしいし。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140330_03.jpg (※これは小説を盛り上げるための演出です)


政治家だけでなく軍人も使っていまして、実は以前紹介したことがある騒動の舞台にもなっていた。


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この人なー。
海軍に関していうと、紅葉館の隣地が水交社で海軍軍人の出入りが割とあったらしい。懇親会とかね。
上泉徳弥(山形・米沢)の名前が出た辺りで心当たりがある方もおられるかも^^;

ここで行われた海軍士官の懇親会の最中、
海軍大臣の息子が酔っぱらって上官を呼び捨てにした上呼びつける → 上泉薩摩風を吹かせやがってとカッチーン! → 相手の頭上に放尿(…)

い、いやあ…
なんちゅうかエキセントリックの域超えてますがな兄さん…
ちなみに海軍大臣の息子というのは仁礼景一です。
海軍大臣・仁礼景範(薩摩)の長男で、広瀬武夫と同じ職場にいたことがある。

明治24年~25年の遠洋航海(『航南私記』の時の航海)で同僚だったんですな。
この仁礼さん、さらっと調べただけではよく分からない点がありまして、以前ちょっと調べたんだ。
元から海軍軍人になろうとしていた訳ではないらしく医学を修めるべく米国留学していたんですが、途中でアナポリスに私費留学してるのね。
方向転換の理由は分からん。
で、アナポリスを卒業して帰国、18期卒業相当という扱いで、18期の遠洋航海に参加している。

18期といえば加藤寛治とか安保清種のクラスですが、仁礼は彼らと同じ扱いでなく、分隊士になっています。
当時広瀬も分隊士として乗り組んでいるので、広瀬とは正に同僚ということになります。
ちなみにこの方も日露戦争で戦死されてます。


明治24・5年ごろの話のようですが、当然ながら藩閥の長い春の真っ最中…
当然ながらその場にいた薩摩系の士官は騒然、上泉も殺されんばかりの空気になったものの、それを止めたのが斎藤実でした。


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実は斎藤実(岩手・水沢)、妻が仁礼景範の娘でした。
景一は斎藤の義兄になる。
止めに入ったというのはそういうこともあるんだろうなーと。


上泉は紅葉館と割と縁があるのか、もう一つ話があります。
明治36(1903)年に軍令部付き副官になった際、参謀本部の副官堀内文次郎と計らって陸海軍首脳部の懇親を図ろうということで会合を持っています。
その場になったのが紅葉館だった。
この話は上泉自身があちこちで回想を残しているので、ご存知の方も多いかと思います。
陸軍の大山巌(参謀総長)、海軍の伊東祐亨(軍令部長)をはじめとして、陸軍の方では田中義一や松川敏胤なんかも出てたみたい。


野辺地尚義は明治42(1909)年に亡くなりますが、そのぎりぎりまで支配人であったようですので、多くの名士の色々な場面に遭遇していたと思います。
明治14年から42年までだと28年。
随分長い間支配人をしていたことになりますが、その随分初期…というか、まだ紅葉館立ち上げの準備をしていただろう時期に野辺地を頼って地元・盛岡から出てきた少年がいます。
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