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広瀬武夫の話、色々(6)

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パラべラム~堀悌吉(15)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


お久しぶりの続きです。
前回はこちら→ パラべラム14



一方、財部彪は元々軍令系の人です。
それが明治42(1909)年12月、いきなり海軍次官に抜擢されたことは「紐解『財部彪日記』」でも書きました。
それまで一度も海軍省での勤務経験ないんですよ、財部。
軍令部の方でさえ部課長の経験がない。

薩摩派、岳父が山本権兵衛ということで、周囲から色々と余所では聞けない話を聞いていたと思いますが、実際に実務を執るとなるとかなり大変だった。
何せ経験がないもんで、財部本人もへろっへろになった。
それでも海相斎藤実を支えながらどうにかこうにかやっていくわけです。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149172.jpg


で、仕事を覚えてスムーズに行ける、余裕も随分出てきて3年目位、という時に起きたのがシーメンス事件。
大正3(1914)年1月に浮上した海軍の収賄事件で山本権兵衛内閣が倒壊します。
大隈重信内閣で新しく海相になった八代六郎は、汚職事件の責任を取らせる形で山本権兵衛と斎藤実を予備役に編入しました(引退させた)。
財部もその煽りを食って待命となります。(巻き添え…

約1年続いた待命の後、大正4年2月に第3艦隊司令官として復帰。
それ以降は各地鎮守府・要港部で長官・司令官を歴任しており、中央官衙に帰ってきたのが大正12(1923)年。
海軍大臣としてでした。

これねー…複数の意味で大きなネックなってると思う。
これは難しかったと思うよー

まず海軍省での実務経験、下積みが全然ない。
財部は海軍大臣になるまで海軍省での勤務が実質3年しかないんですよ。
しかも仕事覚えた頃に強制終了。

次に、加藤友三郎海相の下、省部で人が育つ時期に財部は地方に出ている。
その時点で中央官衙での人の繋がり、信頼を繋ぐ機会が激減する訳です。


そもそもね、財部は海軍部内では評判が悪い訳ですよ。

一番の原因は昇進が異常に早かった点にあると思います。
若い頃から本当に早くて、日露戦争の中盤には既に大佐です。
2期上、3期上のクラスヘッドと同じくらいのスピードで昇進していて、親王並みだということで「財部親王」なんて影口を言われていた程。

次官就任に際しても、前任が海兵7期の加藤友三郎で、間7期をすっ飛ばして実務経験のない15期の財部彪です。
8期から14期にはすごい人、沢山いますよ。
山下源太郎(10)、村上格一(11)、山屋他人(12)、江頭安太郎(12)、栃内曽次郎(13)、野間口兼雄(13)、鈴木貫太郎(14)、佐藤鉄太郎(14)、その他。
特に江頭を飛ばしているということに誰が納得するだろうか。
私もできん。

3期飛ばして軍務局長になった堀悌吉でも嫉妬されたり憎悪されたりです。
しかも財部の場合は薩派、岳父山本権兵衛。
外からどう思われるかは推して知るべしと言うべきか。

だからね、回顧録なんかでみんな言うんだよ。
財部は苦労が足りてないって。苦労してないからって。
経験が足りてないってみんなが見てる。

そもそもそんな状態なのに大正の核になる時期に中央での勤務がないというのは、色んな意味でやっぱり厳しかったと思う。
その上地方に出ていることで大正10年ワシントン会議の際の加藤のやり方を間近で学べなかったというのも、財部の為には残念だっただろう。


後ね、時代の制約と言うか、時代の流れと言うものあってだな。
大正10年にワシントン条約が成立して、ネイバル・ホリデイ、軍縮時代となります。
この条約に沿って日本は既存の軍艦、建造計画のあった軍艦が廃棄されました。

その時に海軍士官のリストラも行われているのね。
そりゃそうだよね。
軍艦の数が減るのだから、それに乗り組む人数だって減る。
対米比率やその後の軍艦の廃棄の話にはなるのに、この話はあまり出てこない気がします。

ではどういう層が首切りにあったか。
【6】で紹介した「加藤全権伝言」(大正10年)で、加藤友三郎自身がそのことを井出謙治次官に伝えています。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_09190015.jpg


淘汰スルニシテモ配員上多少ノ困難アリトスルモ
成ルヘク上級者ヲ多ク淘汰シ下級者ヲ多ク残シタシ



士官の中で対象になったのは将官クラス、佐官クラスです。
この時期に将官になっているのは、日露戦争時代の中堅層、日露戦争を支えた世代。
あれ、と思われる方も多いと思います。
そうなんですよ。
『坂の上の雲』に出てくるあんな人やこんな人がオン・ザ・リザーブ・リスト!引退!

クラスで言うと13~22・3期が核で、25・6期位迄かなー…
具体的に名前を挙げれば、こんな人たち。

栃内曽次郎(13)、佐藤鉄太郎(14)、千坂智次郎(14)
小栗孝三郎(15)、中野直枝(15)、布目満造(15)
舟越楫四郎(16)、森山慶三郎(17)、山路一善(17)
佐藤皐蔵(18) 、下村延太郎(18)


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


やだー!
なんか聞いたことがある人ばっかりなんだけど!
聞いたことある人ばっかり挙げたからなんだけど!(笑)
大正11年中旬~12年に待命になっている人は大抵そうだと思う。

佐藤鉄太郎の名前があることに意外感を持つ方も多いかと思います。
個人的には、生きていたら秋山真之もこの時の整理の対象になっていたと思う。
ふたりとも加藤友三郎に左遷されてます。
佐藤は軍令部の権力を拡大しようとして加藤の逆鱗に触れ、軍令部次長から海大校長へ。
秋山は大陸政策に深入りしすぎて軍務局長から欧州視察旅行に飛ばされた。
ハイ。
あっきーの視察旅行、慧眼を讃える話しかほぼ聞かないわけですが、これは事実上の左遷です。


軍人恩給はそんなに手厚くなかったようで、大将と言えど現役を退いてしまうと大変だったようです。
それまでについていた特典的待遇も無くなるし。

『東郷平八郎』(田中宏巳/ちくま新書/1999)には、26期の南郷次郎が、自分は経済的には困らないからと整理対象であった同期の代わりに予備役になったという話があります。(※)
それだけ大変なことだし、人員整理は好む好まざるに関わらず人の恨みを買う。
加藤友三郎がいくらカリスマ的であったといっても、そしてどんな理由があったとしても、首を切られた側からはやっぱり恨まれる。

ただ山梨勝之進の話によると、この時はその怨嗟の矛先は加藤ではなく次官であった井出謙治に向いている。(加藤には怖くて…^^;)
加藤は井出を自分の後継者に考えていた節があるのですが、結局それは実現せずに終わっています。
ワシントン会議の処理が傷となり、結局は最後に山本五十六を付けて欧州に視察旅行をさせるだけで終わってしまった。
ロンドンの時でも、山梨勝之進次官が犠牲となった訳ですが、ワシントンの時も同じだった…
こうなってくると、加藤のワンマンは良かったのか悪かったのか。
評価が分かれるところだと思います。


続く!
変な所で話途切れるけど

******

(※)

南郷次郎は嘉納治五郎の甥で、講道館2代目館長。関西の嘉納財閥の一族。
嘉納治五郎の生家(=南郷の母の実家)は神戸御影の現菊正宗酒造・白鶴酒造で、幕府の御用聞きを勤めるような大変な名家でした。
嘉納治五郎自身も学校を経営していたり、講道館を経営していたりで、つまり家が大変なお金持ちだったので海軍辞めても困らない。

広瀬武夫は柔道繋がりで南郷とは仲が良く、というか南郷の母とも仲がよく、息子が世話になっているからとお菓子やなんやをよく持たされていた。
南郷の方が9歳年下で、広瀬は弟を見るような感じで南郷を可愛がっていたみたい。
南郷が海兵を受験する前、造船所を見に行きたいと広瀬に依頼したことがあり、それに対する広瀬の返事が残っています。
横須賀水雷隊攻撃部第2水雷隊時代。明治28年だと思う。
一般には知られていないもので、一応内容は未公開になるのか。私も写真でしか見たことがない。



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パラべラム ~ 堀悌吉(5)

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この話は19回シリーズです。
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海軍軍縮会議の詳細は私如きが書くのは無理です(きっぱり
なので大雑把に教科書通りに。

ワシントン海軍軍縮会議での主要事項は、

1)今後10年の主力艦(戦艦・巡洋戦艦・航空母艦)の建造禁止
2)主要参加国である英米日の主力艦保有量を5:5:3とする
  (引き換えに米国の太平洋防備の制限)

対米7割を切る保有量が少壮士官の猛烈な反対を呼んだのは周知です。
その中心になったのが全権委員加藤寛治中将、そして随員の末次信正大佐になります。

この辺りの話は先日サイトで更新した「加藤友三郎の話」とかぶりますので、詳しくはそちらをどうぞ。


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312231245042af.jpg 加藤寛治 大加藤と小加藤


明治40年策定の帝国国防方針で、海軍はアメリカを仮想敵国としました。
陸軍はロシアね。

米国艦隊が太平洋を越えて来て、「すわ決戦」となった際、彼の兵力(主力艦の総トン数)の7割があればとりあえずは負けない、というのが対米7割の考え方。(超大雑把)
その為対米7割を切ると国防が危うい、絶対に譲れない、というのが反対の趣旨。


全権大使である加藤友三郎はその主張を押さえつけています。
とは言え加藤は海相として8・8艦隊計画、つまり対米7割の政策を推進してきた人物。
それを自分の手で廃棄するというのは、立場からして非常に苦しかったと思います。


ただね、分かってるんですよ、加藤も。
日本の国力からいって8・8艦隊なんて無理だって。
共に全権を務めた幣原喜重郎(当時駐米大使)に、

「8・8艦隊なんて無理無理。何か機会があったら止めたいと思ってた」

そういうことを言っている。

加藤はこの軍縮会議に参加して話を纏めなければ、海軍どころか日本国家が危うくなるという判断をしており、
「絶対7割!」
と主張して枉げない加藤(寛)を随分窘めています。


ひとつ見ておきたいのは、加藤(友)としては大局的見地から6割受諾止む無しとしながら、一方で直下の加藤寛治随員首席が第1回目の専門会議で、
「7割を堅持する」
と言い放っている点。

これは内政の問題、国内・部内に向けての加藤(友)のパフォーマンスです。
実はね、加藤(友)も外交委員会で「7割が国防上必要」と言明してしまったことがあり、それを国内の反対勢力から攻撃されていた。
あと、もうひとつは加藤寛治に代表される強硬な反対派の顔を立てるという意味もあったと思われます。

そして
「本当は7割欲しいんだ、それを譲ったのだから」
という形にすることで、アメリカ側の太平洋防備の削減を要求するという2段構えの手でもあった…
実に策士である。
(ただそんな事を言っても日本の暗号は筒抜け、6割迄なら譲歩可という本国とのやり取りが筒抜けで(ブラックチェンバー)、それを知っている米英が日本7割を認める訳がなかった)

そもそもこういう会議のこういう位置に加藤寛治のようなわっかりやすい強硬派を持ってくること自体に、加藤友三郎の意図を感じます。
ガス抜きと言うか、そうした面があったんじゃないかな~と思う。


加藤友三郎


ただ加藤寛治は思ったよりも頑固で空気読めなかった…
反対は反対でいいんですけどね(良くねえよ)、弁えがなさ過ぎる。

加藤友三郎に内緒で本国、井出謙治次官や安保清種軍令部次長宛てに大反対の電報は打つ。
記者会見で「7割が無理なら日本は会議を脱退する!」と勝手にぶちまける。

記者に「あんたのとこの部下こう言ってるけど?」と聞かれて、加藤友三郎は「あれは加藤個人の意見」。
あれは日本の意見ではないとしれっと返しつつ、内心真っ青である。
ポーカーフェイスの友さんが寛治を怒鳴りつけた…

加藤寛治のネジを巻いていたのが末次信正でして、加藤(友)もそれは分かっていたようです。
「君ももう中将なのだから、少しは下の者を抑えることを覚えたらどうか」
それがこの言葉に表れている。


会議が休会になるに際して、随員であった堀悌吉は本国へ報告の為に帰国しています。
その際加藤友三郎が加藤寛治立会いの下口述、堀に筆記させたのが有名な「加藤全権伝言」になります。


続きます。


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海軍兵学校15期!(2)

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話> FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

*****


続き

明治20年代前後だとまだまだ草創時期で、制度を含めた様々な点が目まぐるしく変わっていくというのがよく解ります。
広瀬武夫が海軍兵学校に在籍していた当時には大きく2つの変化がありました。

1.明治20年7月 海軍機関学校廃校、兵学校と統合(26年に再度独立)
2.明治21年8月 海軍兵学校、東京築地から広島県の江田島に移転

機関学校生徒が兵学校に編入というか、転入というか、してきた。
総勢95人。
兵学校では上級生から1号、2号、3号、4号と学年を称していましたが、転入してきた機関学校生徒はこれと区別して、甲号、乙号、丙号と称しています。
機関学校の学年で分けているようです。

1号と甲号が一緒に、乙号は単独で、2号と丙号が一緒に卒業。
1号(64人)と甲号(16人)を纏めて80人が15期生となる。
ちなみに15期の卒業写真は1号と甲号別々で撮影しています。
また卒業年(明治22/1889年)が巳丑の年であったことから、巳丑会というクラス会を作っている。


15期は財部彪クラスですが、機関学校からの生徒のみで構成される16期には井出謙治や田中耕太郎、船越楫四郎といった方々がいます。
17期は秋山真之のクラス。
秋山クラスの入学年度は15期、広瀬たちの翌年ですが、間に挟まった乙号が先に卒業したため、17期として卒業しています。

ちなみに財部彪ですが、彼は広瀬らの前年度の入学者です。
順当にいけば14期として卒業するはずでしたが、病気で休学し1学年下に降りてきた。
広瀬らが2号生徒の時らしい。
財部が降りてくる前の首席、次席は小栗孝三郎と中野直枝だったそうで。
小栗は大将、中野は中将にまで昇進していますが、賢い人は流石に賢いらしい…
卒業の席次も5番と4番である。


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


幾ばくかの広瀬の家信から察するに、兵学校と機関学校、校風が結構違ったのではないかと思います。
明治20年9月25日付の書簡で、

機関科ヨリ来リシ者ハ、一体元気者少ナキ風ニテ、甚ダ不都合ナルコト有之。
先日ノ如キ、人ノ帽子ヲ換ハリシヲ幸ヒ、之ヲ纏ヒテ誤魔カシ候モ有之故、
懲戒ノ為、小生之ヲ撲チ候事有之候程ノ事ニテ、実ニ慨嘆ニ堪ヘザルコト共多ク候。



こういったことが書かれている。
殴りつけたかー


海軍兵学校


前々から思っていたのですけど、海軍兵学校の鉄拳制裁(兵学校では修正と言った)っていつ頃からなんでしょうねえ…
山本権兵衛がいた頃のあれは、ちょっと違うと思うし…^^;
大正7年に鈴木貫太郎が海兵の校長になった際に鉄拳制裁を禁止しています。
昭和17年に同じく校長になった井上成美も禁止している。

この頃の話を見るとかなり結構引いてしまうような話が残ってますが。
後腐れがないので殴られた下級生にもしこりは残らなかったというけれど、そんなこともなかっただろうと思うよ…
実際に殴られるのが嫌で退学した人だっていたみたいだし。


鈴木貫太郎は自分が兵学校生徒であった時を回顧して、
「自分のいた時には生徒同志で私刑的に殴るということはなかった」
と言っています。
鈴木は14期でして、広瀬らの1期上、同じ時期に兵学校生徒でした。
皆無ではなかったのだろうけど、当時の兵学校はそういう雰囲気だったのだと思います。


鈴木貫太郎


兵学校が兵学寮であった頃、お雇い外国人であったダグラス少佐が生徒への鉄拳制裁の必要を主張した際、それを断固として撥ね退けたのが中牟田倉之助兵学頭(校長)になります。
明治6年とか7年の話ですが、当時兵学寮に入っていたのはほぼ武士の子弟です。
武士に手を上げて教育するというのは、確かに馴染まない。
その上名誉に関わる話だった。
そもそもはそうした美風があったはずなんですけどね。

日露戦争後、旅順閉塞隊の生き残りの人々なんかが江田島に帰り、スパルタ教育が強化されて鉄拳制裁が盛んに行われるようになったと平間洋一さんの文章で昔読んだ。
表向きは鉄拳制裁禁止の筈なのだけれど、余りに酷くなければ教官も見て見ぬふりだったみたい。


上記の鈴木の回顧には続きがありまして、


少し酒でも呑んで来たものがあったりすると、生徒全体を立たせておいて、
大叱られに叱られたまま、長いこと立たせられたものである。
酒は一切呑んではならぬことになっていたので、日曜日などには、よく立たされ、
上陸止めを喰らわされることがあったものでした。

(『鈴木貫太郎自伝』)


思い浮かぶ人がいるんだけど…^^;


岡田啓介


明治21年1月、松平春嶽の養嗣子が公爵になった際のお祝いに呼ばれた岡田啓介(15期)。
祝宴が終わる頃に松平春嶽に手招きされてしっかりやれと激励され、手ずから酒を、何度か酌んでくれた。
旧藩のお殿様がしてくれたことなので、さすがに放っておくのも失礼だとぐっと飲み干した。
…のだけれど、お殿様の家から歩かんとならんのですよ。築地まで。


海軍兵学校


お殿様の家=小石川水道町
海軍兵学校=築地

結構遠い。
頑張って歩き、兵学校が見えてくる辺りになるとホッとして、急に覚えが無くなって道端で寝転んでしまった(笑)


ちょうど生徒が帰る時間だったから、みんなにかつぎこまれ、いすの上に寝かされ、ゆさぶったり頭を冷やしたり、
いろいろやられたようだが、さらにわからない。
そのうちに夕食の時間が迫ってきた。

夕食は生徒がみな食卓について立っていると、そこへ当直将校が出てきて号令をかけ、いすにつかせ、
当直将校といっしょに食事をし、終わるとまた号令がかかって立ち上がることになっている。
食事の時間になったからみんなでわたしを食堂へかつぎこんだらしい。

そこで大いびきをかいて寝ているかと思うとときどき大声を出して騒ぐ。
とうとう見つかってしまった。
翌日玄関の前に総員整列をさせ、そこへわたしは呼び出された。
(『岡田啓介回顧録』)


あーあ(笑)
これが鈴貫が生徒全体を立たせておいてってやつなのね~^^;
てゆーかここまでしてくれるなんて親切なクラスメートたちだな~位に思ってたのだけど、それはもしかして連帯責任だったからか~?(笑)
ちなみにこれで岡田は懲罰を食らってます。


続く
需要あるんかこの話…


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