Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

品川神社(1)

先週末は東京でした。
宿泊が品川で、早朝に少し時間が取れそうだったので周辺に史跡がないか探した(ヒジハラですから。笑)
…ら、板垣退助のお墓があった。
何となく青山霊園とか多磨霊園とか、あの辺りかと思っていたので意外でした。

ということで取り敢えず品川神社まで。


品川神社


京浜急行新馬場駅の目の前。
電車の中から結構大きい神社だなあとぼんやり見ていたのですが、よく見りゃ


品川神社


<●><●> 富士塚じゃね? (覚醒)(笑


正直板垣退助の墓所よりこちらに興奮した。(どうなの…

階段を登ればちゃんと富士塚の説明がありました。
一度見てみたかったので、これは嬉しかったぞ!

富士塚とは江戸時代の人工富士山のことで、富士の山開きの時に富士講で富士登山するのですが(なんのこっちゃ)、それに行けない人々が富士塚に登った。(※品川富士は明治2年に作られています)
富士信仰は関西でも昔からあるらしいのですが、富士塚はないのです。
それやこれやでいっぺん見てみたかったのだけれど、思いの外大きくて驚きました。


富士山


帰りの新幹線から見えた富士山。
東京出てから20分くらいで見えるもんなあ。
江戸から富士山は見えていました。
見えなくなったのは高層ビルが立ち並ぶようになったこの数十年だと思う。
とういうか数年前まで山手線から見えとったはず。
まあ、日常生活している上でどう頑張っても欠片すら見えない関西と関東では、富士山に対する感じ方はちょっと違うと思うんだ…
(※三重・滋賀・奈良・和歌山の県境辺りの山頂が可視の最西らしい)


品川神社


鳥居の近くに大きな石碑があったので近づいてみる。
荏原郡長を務めた林交周という人物の顕彰碑でした。


品川神社


篆額が小松宮彰仁親王、撰書が伊藤博文。
リリー自分で書いたんか。所縁の深い人物だったのかな。

階段を上ると包丁塚等あれこれ石碑が並んでいたのですが、ゆっくり見る時間はなかったのでスルー。
富士登山(笑)する時間もちょっとなかった…
踵のあるヒールだったのでしんどかったのもある。笑


品川神社



本殿の前に忠魂碑があったのでまたもや近づいてみたら、


品川神社


「希典書」とある。
あら。


品川神社


明治43年4月に品川町の在郷軍人会が日清日露戦争の戦没者の慰霊の為に作ったもので、乃木希典に揮毫を依頼したそうです。
何度か移転の後に品川神社にやってきたとのこと。

結構色々なものがありますな。

続きます。


関連記事

海軍兵学校15期!(7)

*****

この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

*****


続き。
前回の小杉辰三程長い人はいないことなないのだけれど、さくっと行きましょう。


福田久槌

ハンモックナンバー4。
福田は兵学校の追加募集組ではない方で、真実上位及第です。
優秀だったのだと思う。
ただ体が弱かったのか、運が悪かったのか、肺結核に罹っています。
当時肺結核と診断されることは、死の宣告と同義です。
明治24年に待命になっていまして、故郷の山口県下関市長府で療養したり、呉の海軍病院に入院したりしたけれど、明治26年に亡くなっています。
墓所は長府。

広瀬武夫が福田本人と福田没後に彼の父に宛てた書簡があります。
これは『広瀬武夫全集』にはないのですが、戦前の 『軍神広瀬中佐書簡集』には所収されている。
それによると、福田が療養していた際、2・3度程広瀬が見舞いに訪れたことがあったようです。
ただ亡くなった時は海軍の春季演習の最中で、駆けつけることはおろか知る事さえできなかった。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201478.jpg


ただお墓詣りには来ていまして、その記念碑が長府の郊外にあります。
軍神広瀬中佐亡友展墓記念碑。
高杉晋作が決起した功山寺から歩いて10分かからない所。

この記念碑、建立者は福田家遺族、筆跡は海軍中将白根熊三。
誰だ…と思って調べたのですが、長府出身という事くらいしか分からなかったのですが、福田のご親族様から親類だとご連絡を頂きました。

福田の妻が白根の従姉妹だそうで。
教えて頂いて更にびっくりしたんだけど、福田の妻の母方のおばの妹が乃木大将の弟(大舘集作)の妻になる。
ややこしいけど、乃木将軍とも親戚でした…
乃木希典も長府の人ですので、狭い城下町、色々ありますな。
(父が長府藩士。乃木は江戸生まれだけど、少年期は長府で過ごす)


木村剛

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07080146.jpg

次兄に木村匡がいる。
木村匡は台湾総督府民政局文書課長兼経理課長を勤めた人物。
日本領になった台湾に内地と同じように義務教育を施せと主張した人物として私は知ってる。
兄弟だったのかー…
仙台出身の海軍軍人の出世頭だったそうです。
仙台出身という人も結構多いな…斎藤七五郎も井上成美も仙台出身ですな。
山梨勝之進もだわ。


志摩猛

宮崎、都城の出身。
財部と同郷で、仲良かったんじゃないかな~と想像。

海軍一家で子の岑も海軍(52期、同期に高松宮、源田実)。
兄が志摩清直で、その子が志摩清英。
兄の家の方が有名だと思う。
志摩猛は少将にまでなった人だけど、なにした人かはよく分からんorz

兄の志摩清直は海兵8期、八代六郎と同期です。
日清戦争時は旗艦松島乗組みで、黄海海戦の際に戦死している。
松島では同じく黄海海戦時に15期の伊藤満嘉記(分隊士)も戦死しています。

先日紹介した小柳資料に志摩清英の遺稿も収録されていまして、それによると海軍がかなり立派な海軍葬を出したそうで。
八代六郎ら同期や海軍の偉い人が来ていたのを覚えているということが書かれていた。
志摩清英が海軍に入ったのは父の遺言であったそうです。

志摩清英は海兵39期。
15期の他では唯一大将4人を輩出しているクラス。
広瀬武夫の姪の旦那さんだった広瀬末人の親友だった山縣正郷がいるよ!てゆーか末人さんも同期だよ!(笑)
レイテ沖海戦で名前が出てくる方です。

松島には木村摂津守の次男、木村浩吉が水雷長として乗り組んでいまして、当時の松島の状況について実見録を出版しています。
絵がメイン。
あるサイトさんが読みやすい形で文章を編集・掲載されていましたのでリンクを張っておきます。
お世話になります。(リンクフリーでした)
 → 黄海の海戦における松島 艦内の状況  ※中盤~ グロ注意

ちなみに木村浩吉の弟が木村駿吉といって、海軍の為に無線電信を開発した技術者になります。
日露戦争後秋山真之が木村に感謝を記した書簡を送っている。


金子満喜

弟に金子養三、海兵30期(同期に百武源吾)
戦闘機乗りの先駆けである!
第1次世界大戦時、青島攻略戦で初めて海軍機で戦争に参加したのが金子養三。
伊藤正徳『大海軍を想う』に色々話が載っていました。


続く!
あと1回で終わりかな~ 
関連記事

寺内正毅の書簡発見!860点!

寺内元首相の資料860点発見 乃木大将からの私信など  
(ソース:共同通信 2014/1/16)  

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117.jpg

乃木希典…!
話題にすると向こうから話題がやって来る人だ…(笑)
大磯の寺内家から書簡類が見つかったとのこと。その数約860点!
860点!
うわあ…
近代では2010年に岩倉具視関係文書が1700点ほどばばーんと出てきていましたが、これはそれに次ぐなあ…
上記ニュースを見ると、名前が出ているのが伊藤博文、森鴎外、桂太郎、乃木希典。
バリバリ長州閥の人だけに長州出身者が多そうだけど、これだけのニュースでは判断がつきませんな。
他にどういった情報が流れているのかググってみたのですが、どこの新聞社も共同通信が配信している記事をそのまま出していたので、詳細は待て後日という感じなんでしょうか。

常識的に考えて、陸軍関係者の名前はものすっごく上がると思います。
山縣有朋とか山縣有朋とか山縣有朋とか。笑。
児玉源太郎のも多いだろうし、原敬もあるだろうなー
秋山好古とか井口省吾とか、あの辺りの名前も結構出てくると思う。
ただ寺内に関しては山本四郎さん編纂の『寺内正毅関係文書』(首相以前)があって、そこに出ている史料とかも含まれるんだろうか。
どのぐらいの資料が新発見なんだろう。
記事では乃木希典の名前が出ていますが、なんでも乃木大将が自害する直前に和歌を認めて寺内に贈っていたとのこと。
ニュースに出ていた写真はその和歌でした。

今回発見の史料は山口県立大学に寄贈されるそうです。
ちょっと調べてみたんですが、寺内正毅・寿一の父子2代で私設文庫ができる程の書物を蔵したようで、現在それを管理しているのが山口県立大。
同大のHPによると近世以来の寺内家の蔵書、正毅個人の蔵書および収集図書・資料・受贈図書などの和漢書、洋書、文書があるとのこと。
資料点数は約2万(!)。
それを思うと一番良さ気な所に移るのかな?
大学なら散逸しないだろうし…
どんなものがあるのかと思うけど、目録作るだけでも結構大変そう^^;


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014017_4.jpg

寺内正毅は原敬の1代前の総理大臣になります。
大正7(1918)年の米騒動で内閣交代したのね。
長州閥、バリバリの山縣閥で、山縣閥と言えば桂太郎と寺内正毅。
山縣が後継者視していたのは桂ですが、桂は明治後期~大正初期に山縣と袂を分かちます。
政権運営の必要から桂自身が政党を作ろうとしたのが原因で、政党を敵視する山縣はこれに激怒した。
ちなみに桂が組織しようとした政党は立憲同志会となり、民政党の前々身になります。

同志会は桂の死後に立ち上がった政党ですが、この時の同党のトップに立ったのが加藤高明です。
加藤は元々政友会寄りの政治家でしたが、桂とも加藤とも仲の良かった山本権兵衛が「ちょっと手伝ってやってよ」と両者を仲介。
そうしたら紹介した山本が驚くほど桂と加藤は意気投合してしまった。
そういう話がある。

桂の死後は寺内正毅が後継者的な位置に立つ訳ですが、まあ…
この方は一介の武弁ってやつですな。長いこと陸相も務めていますが、そんな感じ。
えー、おいおい…というような話も随分…うん。随分ありますが、個人としては生真面目ないい人だったらしい。…らしい…


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140117_5.jpg


内閣が成立した際につけられた内閣のあだ名?は「ビリケン内閣」。
寺内の顔かたちがビリケンさん(通天閣のあいつ)に似ていたからで、「非立憲」にもかけている。誰うま。
ついでに言えば加藤友三郎内閣は「残燭内閣」、米内光政内閣は「こめない内閣」と呼ばれた。
こっちは中々手酷い。

山口市のお土産に「銘菓舌鼓」というお菓子がありますが、寺内がちょっと関係しています。

http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014017_3.jpg

写真横になっててごめん…^^;
元々『舌鼓』だったけれど、食べた寺内があまりのおいしさに「銘菓にしたらいいのに」と言った所名前が『銘菓舌鼓』になった。
これ、山口市でしか買えなかったんだよなー
新幹線でも買えたらしいんだけど、今はどうなんだろう。
おいしくて、家へのお土産用と自分用を購入。毎日旅館で食べてた。笑。

***

立寄ったセブンイレブンで巻き寿司の試食を渡されてびっくりしました。
お金払う時にレジでお寿司と割り箸を渡された。ここで食べるの?今ここで?^^;
クリスマス前にはケーキの試食も渡されたんですが、なんか最近のコンビニ色々とすごいよね…
クリスマスケーキとかお節の予約どうですかーって近所の家を一軒一軒店員さんが回っててちょっとびっくりしました。
でもクリスマスのケーキはケーキ屋で買いたい。
お節もお寿司も家で作るし。
関連記事

乃木希典殉死の検案書発見(青森)

久々に歴史関連のニュースです。近代。
ビックネームの中でも乃木希典はコンスタントに話題を提供してくれますな…
「○○発見」というネタでは定期的とも言っていい程だよ^^; 


平内で乃木大将殉死の検案書発見 (東奥日報 2014/1/5) 別窓


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140114.jpg


乃木希典の遺体を検視した警察医の報告書「乃木将軍及同夫人死体検案始末」の写しとみられる文書が、佐々木多門(平内出身の銀行家・経済学者)の生家に残されていたことが判明。

乃木の検視報告書は当時の政府・軍部が伏せてしまい、原本の存在は今も明らかになっていないそうです。
原本の写しや出版物が国会図書館や東京の乃木神社に数点現存しているのみ。
今回発見の文書には従来の写しにはなかった内容が含まれていて、乃木希典の研究者ら曰く、
「状況をより正確に記録した貴重な資料」
とのこと。

結構長い文です。上記リンクからどうぞ。
発表媒体が新聞社で発表から既に10日経っているので、興味がある人は早めに確認した方がいいと思います。

***

平内って青森県だよなあ。東京からこれまた随分遠い所で見つかったもんだ。
で、佐々木多門って誰なんだろう…
このニュースを読むと床次竹二郎の顧問だったり、一戸兵衛(青森出身)と親しかったらしく、そうなら結構社会的地位があった人なんだろう。
…と思って手元にある辞典を捲ってみたのだけれど載っていない。
本の返却ついでに図書館で近現代人名事典と国史大辞典を捲ってみたのですが載ってない。
ウィキペディアを見たら載ってた。

その情報によるとこの方、高橋是清と床次竹二郎の懐刀であったようです。
え?
何言ってんのかよく分かんないwww (※高橋と床次は政敵)
生年は慶応2(1866)年で、広瀬武夫や秋山真之より2歳年上。
明治14(1881)年頃は東京の共立(きょうりゅう)学校に通っていたとのこと。へー。
共立学校は『坂の上の雲』でも出ていましたが、秋山真之や正岡子規が高橋是清から英語を学んだ学校です。
もう2・3年遅かったら同窓だった訳だ。
どうやら英語の達人だったようで、そこからつらつら書かれていた経歴はすごかった。

とはいえ、ウィキなので、他に何か紙ベースでの確認がしたい所である。
今まで何度か書いてきましたが、ウィキを鵜呑みにしてはなりませぬ。正しい項目も沢山あるだろうけど。
最近では原敬の項目で間違いを見つけたよ…
原の養嗣子の貢さんが原の「実の甥」になってた。
試しにリンクが張ってあった貢さんの項目を見たら、こっちもやっぱり「甥」、そしてご丁寧にも「姉妹の子」という表記が。
いやいやいやいや…どこから出て来たんだよそれ(笑)
兄の娘の次男だよ!(笑) 
つまり姪の子だ。
だから貢さんから見たら原敬は叔父じゃなくて、大叔父(じいちゃんの弟)になる。
貢さん、養嗣子になる前は原の事を「おじさん」って呼んでいたから、紛らわしかったんだろうとは思うけど…

そう言えば、加藤高明の項目でもそういうのがあった。
加藤は元々「総吉(ふさきち)」と言ったんですが、「そうきち」って振り仮名が振ってあった。
別に書く必要ないのに書いた上間違ってるって一体……^^; 
先入観だろうなあ…
今はどうなってるのか知らんけど。
ついでに言えば加藤総吉君のあだ名は「ふーさん」でした。

加藤高明は広瀬武夫の嫂春江の従兄だということは以前書きました。
この春江の父が加藤の優秀さに目を付けて、愛知から東京へと引っ張り出した。
特に英語は愛知で教えられる人がいない位よく出来たみたい。
加藤は当時祖父母と暮らしていましたが、その祖父母と実父を春江の父は随分説得したらしい。
勿体ないって。東京で勉強させてやれって。
上京してからは安井家(春江の実家)に下宿したり、家を出ても休み毎に遊びに行ったりしていたそうで、若い時分は恐らく春江女子とも随分交流があったはずです。
年が離れているので、「お兄様」的ポジションだったと思うけど。
加藤に改名を勧めたのもこの春江の父で、恐らく加藤はこの安井氏には足を向けて寝られなかったと思う。

ウィキぺディア、本当に便利だけど、自分での確認は怠れない。

***

カテゴリーに新しく「スクラップノート」を追加しました。
前ブログで「管理」としていたカテゴリーですが、名称を変えてみた。
歴史関連の新聞記事・ニュース、自分用ウェブ上スクラップノートということで非公開にしています。
タイトルは全員が閲覧可ですが、内容は管理人オンリーですので悪しからず。
fc2は前ブログみたいにカテゴリーそのものを隠すということが出来ないみたい。
不格好だ…orz
この記事読みたいパスワード教えて、というご要望には応えかねますのでご了承ください。
ごめんね。
ネットで見られる記事にはリンクを張りますが、早ければ数日で元記事は消えていきます。
気になる内容は早めの確認が大事。

もうひとつ、(私的に)めっちゃすごいニュースをついさっき見つけたよ!
これは明日書きます!
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)