Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(4)

前回までで川村純義、足立たか、乃木希典、東郷平八郎、鈴木貫太郎の名前を出しましたが、『陛下、お尋ね申し上げます』で少し語られていたのはこの人々位。

昭和天皇は日露戦争以前の明治34年のお生まれで、維新を生きた人々と生きた時代が若干被っており、教科書に名前が載るあの人やこの人ともお会いしているのですね。
なんちゅう羨ましさ…
あの人どんな人でしたかとか、そらー聞いてみたい気持ちに駆られるわ。笑

昭和天皇に質問した記者たちも同じように思う人がいたのか、折に触れて関わった人の事が聞かれている。
引用は上記書籍より。


★★昭和46年4月20日の記者会見

昭和天皇が幼少期に教育を受けた川村伯爵、乃木学習院長、東郷御学問所総裁、杉浦重剛のエピソードがあれば聞かせて頂きたいという問いに対して。


*****
**川村純義について


天皇:
川村純義大将のことだと思うが、赤ん坊の時で、なにぶん小さく、それに短い間だったのでよく覚えていません。


でしょうね。^^;
川村純義については、まあそうだろうなあと思います。
3つ4つだと記憶があってもかなり遠いよな…
昭和天皇と1歳違いで、川村に預けられていた時は2・3歳であった弟宮(秩父宮)にしても、川村家の事は何一つとして記憶にないと回顧されています。

川村家での話は、イヤイヤ期(笑)の話を書きました。
ただ厳しくしても迪宮が風邪なんかひこうものなら、川村は袴に着替えた上で、小さい手を握って夜通し看病をしていたそうです。
簡単な風邪でもすぐに袴が出されるので、侍医は否が応でも真剣の上に真剣にならざるを得なかったそうで。
厳しかったけれど、当然ながら、そらーもーそらーもーめちゃくちゃ大事にされていた。

先日まずは大山巌に里親の話が降りたという件を書きましたが、これってどういう選考がされていたのだろうと思うのですよ。
条件はあることはあったのですね。以下4点。

 ①武勲明らかなる老臣であること
 ②夫婦とも壮健である事
 ③子女を養育した経験があること
 ④家庭の和楽が豊かなこと

その上で、父君である大正天皇もさることながら、明治天皇の意向が強く働いていたというのがね…
選ばれたのが大山、次いで川村か、と思うのよ。
ふたりとも西郷隆盛の親戚である。


西郷隆盛 川村純義


若い頃に短期間であれ接した西郷隆盛に、明治天皇はとても大きな影響を受けています。
それ故に、明治天皇は明治10年の西南戦争の鎮圧は喜んだものの、西郷を逆賊とし、その上生命を奪った政府と軍の主脳からは心がやや離れてしまったのですね。
それが政務軍務のサボタージュとなって現れます。
これは大分前に「Relationship」という話で書きました。

見ているとその心の傷は時間が解決していった様なのですが、それも10年ほどという結構な時間が掛かっている。
迪宮が生まれたのはその更に10年後のことですが、うん。
西郷隆盛の関係者であったからなのかなあ…


*****
**乃木希典について


天皇:
学習院の乃木大将については、私が学習院から帰る時、途中で偶然、乃木大将に会って、その時乃木大将から
「殿下はどういう方法で通学していますか」
と聞かれたのです。

私は漫然と
「晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います」
と答えた。
すると大将は
「雨の日も外套を着て歩いて通うように」
といわれ、私はその時ぜいたくはいけない、質実剛健というか、質素にしなければならないと教えられ、質実剛健ということを学びました。<略>


乃木希典 東郷平八郎 


乃木に関しては昭和57年9月7日にも聞かれていて、その時は強い影響を受けた本は?という内容。
記者が、「例えば乃木が『中朝事実』を差上げたことは吾々も知っているのですが」と問えば、


天皇:
『中朝事実』のことは、これは事実でありますが、まだ初等科の時代ですから、よく読んではいませんけれども、そのあとで乃木院長は殉死したのですが、どうもその気持ちがあって、そういう本を私にくれたかと思ってます。


昭和天皇はそうは言うけれど、大正6年9月13日(乃木の命日)、東宮御学問所にご進講に上がった杉浦重剛が、
「乃木将軍が献じた本がある筈だが、」
と皇太子に話を向け、また本について質問するとそれにもきちんとした答えが返ってきたそうです。
杉浦は退出するとそのまま乃木の墓所に報告に向かったとのこと。

この『中朝事実』ですが、鈴木貫太郎が侍従長になった時に随分探したのだけれど、見つからなかったそうです。


*****
**東郷平八郎について


天皇:
東郷元帥については、東郷元帥や先生たちから帝王学というものの基礎を教えてもらったが、誰がどういうことをと批評することはできないが、平等にすべて今も尊敬しています。


ほうほう。
この時東郷については特に言及がなかったのですね。
所がですよ。


★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。


天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。


東郷元帥に対してはあまり深い印象をもっていない。

そうなんだ。
これは結構意外だった。

実は昭和57年9月7日の会見でも乃木と東郷の印象に聞かれていて、その時も
東郷元帥に対しては、あまりそういう印象はなかった
とお答えになっているのですね。

ただ東郷は以前「ParaBellum」で書いたように、最晩年の、晩節を汚したと言われてもしかたない行動をしているのでなあ…
敢てあまり突っ込まなかったという見方も、もしかしたら有りかなと思います。


つづくー
関連記事

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(3)

迪宮裕仁親王が学習院初等科を修了する前年頃より、卒業後の教育をどうするかの模索を乃木希典は始めます。
小笠原長生なんかに相談しつつ陸軍士官学校と海軍兵学校を足して2で割ったような、そして文武両道の帝王教育を構想していたらしい。
ただ宮内省を説いて回るも中々理解も協力も得られなかったようで、しかもその途中で乃木が自刃してしまう。
ただ教育構想の骨子枠組みは引き継がれたようです。


乃木希典 東郷平八郎


そして大正3(1914)年4月1日に開設された東宮御学問所の総裁として就任したのが東郷平八郎になります。

この御学問所開設当初の職員は、
総裁 東郷平八郎(海軍)
副総裁 波多野敬直
幹事 小笠原長生(海軍)
評議員 大迫尚敏(陸軍)、山川健次郎、河合操(陸軍)、竹下勇(海軍)。
軍人が多いですなあ。

御学問所の学生は皇太子と御学友、合せて6人。
授業の時は東郷総裁と副総裁、小笠原に加えて評議員の誰かが、学生らの後ろに座って毎日参観していた。
御進講する先生も大変だわ。
授業の準備に何か月も前から掛かり切りになったというので、そらー大変だっただろう。

後にフランス語の御進講をすることになる山本信次郎も、1時間の授業の為に4時間を費やしていたと云います。
その為にマメにしていた諸氏との書簡のやり取りをふっつりと止めてしまったそうで、準備4時間とはいうものの、恐らくそれでは間に合わなかったのではなかろうか。

この御学問所時代に皇太子と東郷の間に何かしらのエピソード…
はあると思うのだけれど、正直影が薄い^^;
乃木程の強烈なインパクトのある話は、あまりないような感じがします。


ちなみに、東宮御学問所が開設されていた期間、海軍の軍事学の御進講を担当したのは、前半が竹下勇、後半が安保清種。
陸軍の方は3人。(端折ったー。笑

海外経験豊富な竹下が海外旅行の話なんかを交えて授業をしていたそうで、軍事学の中では一番人気であったそうです。
先日サイトで更新した大正10年の皇太子御外遊時の供奉員に竹下が加わっていますが、それはこの時の縁、御学問所で御進講をしていたということも考慮されていたようです。


鈴木貫太郎


そして更に時代は下って昭和4年。
侍従長珍田捨巳の死去に伴い、その跡を襲ったのが鈴木貫太郎でした。

鈴木は当時軍令部長を務めていたのだけれど、この時を以って現役を引退します。
侍従長を8年間勤めておりまして、細かいことは部下に任せ、要所は自分が舵を取るというスタイルで、「大侍従長」と言われていたそうです。
この侍従長在職中に2・26事件が起こったものの、先日紹介した妻・たかの助けにより九死に一生を得ている。

また昭和20年に昭和天皇たっての願いということで、総理大臣に就任しています。
当時の総理大臣職は「大命降下」といって、天皇の命令によって臣下が首相となり組閣するものでした。
天皇が”頼む”のは異例中の異例で、恐らくこの、鈴木の時だけだと思います。


全然話違うのですが、『タイムスリップ 竜馬と五十六』っつー小説があってだなー…
この本の中で東条英機が首相に立候補してたんですよ。
私電車でこの本読んでて女子にあるまじき吹き出し方をした(笑)

立  補 て。

著者w
幾らなんでもやっつけ仕事すぎるww
ファンタジーとは言えもっときちんと調べんかいwww

続くー
関連記事

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(2)

迪宮裕仁親王が学習院初等科に入学したのは明治41年4月のこと。

この約1年前に乃木希典が学習院院長となっており、皇孫入学のための準備を進めています。
乃木を望んだのは明治天皇の様で、院長就任以前、山縣有朋が乃木を参謀総長にしようと奏請した処、明治天皇に却下されております。


乃木希典


乃木の迪宮に対する教育方針は質実剛健と忍耐、厳しく自己を律すること、正直、といったもので、それに沿ったエピソードが散見されます。
昭和天皇も乃木には感化されたようで、戦後の記者会見でご自身でそう語られている。


迪宮が乃木と接した期間は4年程、そう長くない期間です。
言うまでもなく明治45年7月29日の明治天皇の崩御によって終わりを告げた。
明治天皇の大喪はその1か月半後の9月13日に行われましたが、この日は乃木希典夫妻が自決をした日でもあります。


この2日前の11日、乃木は青山の皇孫御殿に迪宮(12歳)、淳宮(秩父宮/11歳)、光宮(高松宮/7歳)の3親王を訪ねます。
秩父宮の回顧によると、この日の乃木の様子は頬髯と顎髭が伸びたまんま。
普段の面影が無く、そのあまりの変り様に秩父宮は唖然としてしまった。
11歳の子供がそう思うほど、異様な窶れ方だった。

この時乃木は山鹿素行の『中朝事実』に自らが朱筆を加えたものを持参していました。
いつも兄弟3人一緒に会っていたそうですが、この時乃木はまず迪宮だけに会い、その後その内容を長時間にわたって説明したそうです。
そして、

「ゆくゆくご成長されたら、よくお読みになって頂きたい」

そう迪宮に諄々と懇請した。
幾ら聡明とはいえ、12歳の子供には乃木の解説する内容は恐らく分からなかったと思います。
しかし乃木のいつもとは違う、尋常ではない雰囲気に、

「院長閣下はどこかへ行かれるのか」

迪宮はそう尋ねています。

言うまでもなく乃木は親王たちに最期の別れを告げに来ていたのですが、それに気付いていたのは迪宮だけであったようです(1歳違いの秩父宮でも気付いていなかった)。


続く。
短くてごめん…orz
関連記事

品川神社(1)

先週末は東京でした。
宿泊が品川で、早朝に少し時間が取れそうだったので周辺に史跡がないか探した(ヒジハラですから。笑)
…ら、板垣退助のお墓があった。
何となく青山霊園とか多磨霊園とか、あの辺りかと思っていたので意外でした。

ということで取り敢えず品川神社まで。


品川神社


京浜急行新馬場駅の目の前。
電車の中から結構大きい神社だなあとぼんやり見ていたのですが、よく見りゃ


品川神社


<●><●> 富士塚じゃね? (覚醒)(笑


正直板垣退助の墓所よりこちらに興奮した。(どうなの…

階段を登ればちゃんと富士塚の説明がありました。
一度見てみたかったので、これは嬉しかったぞ!

富士塚とは江戸時代の人工富士山のことで、富士の山開きの時に富士講で富士登山するのですが(なんのこっちゃ)、それに行けない人々が富士塚に登った。(※品川富士は明治2年に作られています)
富士信仰は関西でも昔からあるらしいのですが、富士塚はないのです。
それやこれやでいっぺん見てみたかったのだけれど、思いの外大きくて驚きました。


富士山


帰りの新幹線から見えた富士山。
東京出てから20分くらいで見えるもんなあ。
江戸から富士山は見えていました。
見えなくなったのは高層ビルが立ち並ぶようになったこの数十年だと思う。
とういうか数年前まで山手線から見えとったはず。
まあ、日常生活している上でどう頑張っても欠片すら見えない関西と関東では、富士山に対する感じ方はちょっと違うと思うんだ…
(※三重・滋賀・奈良・和歌山の県境辺りの山頂が可視の最西らしい)


品川神社


鳥居の近くに大きな石碑があったので近づいてみる。
荏原郡長を務めた林交周という人物の顕彰碑でした。


品川神社


篆額が小松宮彰仁親王、撰書が伊藤博文。
リリー自分で書いたんか。所縁の深い人物だったのかな。

階段を上ると包丁塚等あれこれ石碑が並んでいたのですが、ゆっくり見る時間はなかったのでスルー。
富士登山(笑)する時間もちょっとなかった…
踵のあるヒールだったのでしんどかったのもある。笑


品川神社



本殿の前に忠魂碑があったのでまたもや近づいてみたら、


品川神社


「希典書」とある。
あら。


品川神社


明治43年4月に品川町の在郷軍人会が日清日露戦争の戦没者の慰霊の為に作ったもので、乃木希典に揮毫を依頼したそうです。
何度か移転の後に品川神社にやってきたとのこと。

結構色々なものがありますな。

続きます。


関連記事

海軍兵学校15期!(7)

*****

この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

*****


続き。
前回の小杉辰三程長い人はいないことなないのだけれど、さくっと行きましょう。


福田久槌

ハンモックナンバー4。
福田は兵学校の追加募集組ではない方で、真実上位及第です。
優秀だったのだと思う。
ただ体が弱かったのか、運が悪かったのか、肺結核に罹っています。
当時肺結核と診断されることは、死の宣告と同義です。
明治24年に待命になっていまして、故郷の山口県下関市長府で療養したり、呉の海軍病院に入院したりしたけれど、明治26年に亡くなっています。
墓所は長府。

広瀬武夫が福田本人と福田没後に彼の父に宛てた書簡があります。
これは『広瀬武夫全集』にはないのですが、戦前の 『軍神広瀬中佐書簡集』には所収されている。
それによると、福田が療養していた際、2・3度程広瀬が見舞いに訪れたことがあったようです。
ただ亡くなった時は海軍の春季演習の最中で、駆けつけることはおろか知る事さえできなかった。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201478.jpg


ただお墓詣りには来ていまして、その記念碑が長府の郊外にあります。
軍神広瀬中佐亡友展墓記念碑。
高杉晋作が決起した功山寺から歩いて10分かからない所。

この記念碑、建立者は福田家遺族、筆跡は海軍中将白根熊三。
誰だ…と思って調べたのですが、長府出身という事くらいしか分からなかったのですが、福田のご親族様から親類だとご連絡を頂きました。

福田の妻が白根の従姉妹だそうで。
教えて頂いて更にびっくりしたんだけど、福田の妻の母方のおばの妹が乃木大将の弟(大舘集作)の妻になる。
ややこしいけど、乃木将軍とも親戚でした…
乃木希典も長府の人ですので、狭い城下町、色々ありますな。
(父が長府藩士。乃木は江戸生まれだけど、少年期は長府で過ごす)


木村剛

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07080146.jpg

次兄に木村匡がいる。
木村匡は台湾総督府民政局文書課長兼経理課長を勤めた人物。
日本領になった台湾に内地と同じように義務教育を施せと主張した人物として私は知ってる。
兄弟だったのかー…
仙台出身の海軍軍人の出世頭だったそうです。
仙台出身という人も結構多いな…斎藤七五郎も井上成美も仙台出身ですな。
山梨勝之進もだわ。


志摩猛

宮崎、都城の出身。
財部と同郷で、仲良かったんじゃないかな~と想像。

海軍一家で子の岑も海軍(52期、同期に高松宮、源田実)。
兄が志摩清直で、その子が志摩清英。
兄の家の方が有名だと思う。
志摩猛は少将にまでなった人だけど、なにした人かはよく分からんorz

兄の志摩清直は海兵8期、八代六郎と同期です。
日清戦争時は旗艦松島乗組みで、黄海海戦の際に戦死している。
松島では同じく黄海海戦時に15期の伊藤満嘉記(分隊士)も戦死しています。

先日紹介した小柳資料に志摩清英の遺稿も収録されていまして、それによると海軍がかなり立派な海軍葬を出したそうで。
八代六郎ら同期や海軍の偉い人が来ていたのを覚えているということが書かれていた。
志摩清英が海軍に入ったのは父の遺言であったそうです。

志摩清英は海兵39期。
15期の他では唯一大将4人を輩出しているクラス。
広瀬武夫の姪の旦那さんだった広瀬末人の親友だった山縣正郷がいるよ!てゆーか末人さんも同期だよ!(笑)
レイテ沖海戦で名前が出てくる方です。

松島には木村摂津守の次男、木村浩吉が水雷長として乗り組んでいまして、当時の松島の状況について実見録を出版しています。
絵がメイン。
あるサイトさんが読みやすい形で文章を編集・掲載されていましたのでリンクを張っておきます。
お世話になります。(リンクフリーでした)
 → 黄海の海戦における松島 艦内の状況  ※中盤~ グロ注意

ちなみに木村浩吉の弟が木村駿吉といって、海軍の為に無線電信を開発した技術者になります。
日露戦争後秋山真之が木村に感謝を記した書簡を送っている。


金子満喜

弟に金子養三、海兵30期(同期に百武源吾)
戦闘機乗りの先駆けである!
第1次世界大戦時、青島攻略戦で初めて海軍機で戦争に参加したのが金子養三。
伊藤正徳『大海軍を想う』に色々話が載っていました。


続く!
あと1回で終わりかな~ 
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)